ドイツ統一の中心人物で「鉄血宰相」の異名をとる
オットー・フォン・ビスマルク に、
「愚者は経験に学び、
賢者は歴史に学ぶ」
という言葉がありますが、さらに
「智者は経験から悟り、
聖者(聖人)は歴史から悟る」
を、それに付け加える言葉として献上したいと思います。
もちろん、この場合の聖者(聖人)とは『黙示録』を
著したとされる使途ヨハネのことを指しているのですが …
彼は流刑の地であるパトモス島で、人間の業には限界が
あり、大小の差こそあれど、歴史は常に繰り返されるもの、
ならば過去の出来事を十二分に知り得れば、未来に起こる
出来事もまた十分に予測の範囲内にあると悟ったのです。
エル・グレコ 作 『使徒ヨハネ』
そこで、その普遍性を預言として神託のかたちで
オブラートに包み込み、目の前に展開される出来事(事象)
をできるだけ大袈裟にオドロオドロしい恐怖の世界が襲来
する未来劇に仕立て上げ、最後にはイエスの再臨によって
救済されるという最大のクライマックスをお膳立て
したのが『黙示録』の骨子であって …
そうした一連のストーリーは弾圧され続け、増加の一途に
ある殉教者の悲劇に失望し、夢も未来も持てない信徒たち
の一縷の望みとなるべき救いがキリストの再臨である
とする初期キリスト教団の信者に対する「希望の書」
となるもので、それは天才パウロの戦略からブレイクダウン
された使徒ヨハネによる布教戦術でもあったのです。
今日、キリスト教が世界の各地域で支配的な世界宗教に
なり得ているのは一握りの天才たちの存在と多くの信徒の
努力と情熱によるものではあるのですが、
『ダ・ヴィンチの罠 神と神』で解説したように
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/412.html
キリスト教とは「イエスが説く宗教」ではなく、
「待ち望んだメシアキリスト(救世主)
がイエスであると告げ知らせる宗教」
であり、ダ・ヴィンチの時代までには、さらに聖母マリアを
崇拝する「マリア教」にまで変貌するわけです。
磔刑(たっけい)となる以前には、小規模なユダヤ教の
一派(ナザレ派)のラビ(指導者)に過ぎなかったイエスを
世界的な宗教の開祖、否、「神」に準ずる者としたのは
初期キリスト教団で指導的な役割を担ったパウロで、彼は
ユダヤ教からの脱出を計るべく、その支柱となるべき根本
教義を打ち立てます。
その核となる教義とは、人類が背負ったとされる原罪を
その身を犠牲とすることで贖(あがな)ったイエスは神の子
であり、旧約聖書で預言されていたメシア(キリスト)=「膏
(あぶら)を注がれた者」であるとする教えです。
さらにパウロを中心とする初期のキリスト教団はユダヤ教
の戒律のほどんどを捨て去ることで、一般大衆化する戦略
を構築して世界宗教の道を選択するわけですが、十二使徒
たちの原始キリスト教団(ユダヤ教ナザレ派)の流れを汲む
面々もそれに倣ったものと考えます。
前述したように、
そうした戦略をベースにして、ヨハネの『黙示録』や
『福音書』が記されたと考えるのが妥当であり、
その本質を見抜いていたダ・ヴィンチは、
「二つがひとつになる」というプラトニズム的な
思想から「すべてはひとつ(に統合される)」という
信念を表現するモチーフ として『黙示録』の幻を
採用し、それを『モナ・リザ』の背景に隠したうえで、
「ひとつに統合」 されたすべてを知る存在として
のサムシング・グレート を 『モナ・リザ』 の
モデルとして描いたわけです。
さて、それでは、
前回の『ダ・ヴィンチの罠 直観力』の最後で
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/430.html
予告した、ダ・ヴィンチが見つけたという『黙示録』の中
にある真実らしきものに迫ってみたいと思いますが、
『黙示録』が、迫害に苦しむ信者たちの希望をつなぐ
内容であり、布教のための書でもあるとするならば、
その中身があまりにも遠い未来の出来事では意味がなく
、そこそこに知りうる範囲での近未来に起こる話でなければ
希望はおろか、布教のための効果も効用もないわけです。
「イエス・キリストによる啓示、これはほどなく
して必ず起きる事柄をご自分の奴隷たちに
示すため、神が彼にお与えになったもので
ある」 『黙示録 1:1』
「この預言の言葉を朗読する者、またそれを
聞き、その中に書かれている事柄を守り行
なう者たちは幸いである。定められた時が
近いからである」 『黙示録 1:3』
だからこそ、ヨハネは …
ほどなくして必ず起こる事柄、であるとか、定められた時
(キリストの再臨)が近いという希望を、まずは最初の最初
、イの一番に記したわけです。
その定められた臨在の時が常に現代か、若しくは近未来
に到来するかのような時代的臨場感を刺激する文章表現
に、ヨハネの天才性が垣間見られるわけですが、
彼は、どうとでも受け取れる幻の数々が自分たちを迫害し
、苦しめる元凶であるかのような状況を設定することで、
その忌まわしさが龍や野獣や怪物たちに投影されて
躍動する世界と それぞれの時代のその瞬間、瞬間に自分
が居合わせているという高揚感と期待感に心酔し、いまや
遅しとキリストの再臨を待ち望む自分の姿が自然に物語の
なかに反映されるように工夫することに腐心したのです。
この辺りのシナリオは、さすがに天才ヨハネの独壇場
ですが、それを逆手にとって『モナ・リザ』のなかに
視覚的寓意を挿入したダ・ヴィンチの面目躍如
にも甚だしいものがあると思いますが ・・・
ところで、
『黙示録』の中にある真実らしきものですが …
「そして、その方はわたしに言われた、
『事は成った! わたしはアルファであり
オメガであり、初めであり終わりである』」
『黙示録21:6』
つまり、
「初め(始まり)はひとつであり、終わりもひとつである」
「すべてはすべてに包まれ、
すべてはひとつに統合される」
… というダ・ヴィンチの信条とも合致する文言であり
『モナ・リザ』 のモデルとして描いたすべてを知り得る
サムシング・グレートの存在そのものを表現
していると思われるのがこの一節です。
それは、ひとつの細胞が分裂を繰り返して複雑な生命体
へと成長し、やがては死んで土に還る(誕生成長死
腐食誕生)という生命の循環であり、食物連鎖から生命
生態系循環や水や陸地や大気といった無生物的なものも
循環経路に含まれる地球化学的な自然の循環、さらには
宇宙規模的な循環までを意味する壮大な言葉です。
地球上に限定すれば、
単細胞生物に始まり、徐々に枝分れして、複雑な生物へ
と変化・発展していったとする、後の『進化論』を説明
する系統樹や宇宙開闢の「ビッグバン理論」にも
つながるものであり、その先に待っている宇宙の終焉
とも言うべきエントロピーの極大状態(無限大)、
すなわち「情報的な死」までが連想されるわけです。
だからと言って、
ダ・ヴィンチは「神」の存在を否定しているわけ
ではありませんし、「サムシング・グレート」 なる
ものが「神」であるなどと言うつもりもないでしょう
ただ、ここに存在し、すべてを包み込むもの … それが
「サムシング・グレート」であって、それ以上でも
それ以下でもないのです。
「自然」とは「循環」を指す言葉で、「進化」とは
一時的な「変化」に過ぎません。
ダ・ヴィンチの言うように生命体内のあらゆる元素は自然
の一部であり、全部なのです。
しかし、『黙示録』は、このように語ります。
「それからわたしは、新しい天と新しい
地を見た。 以前の天と以前の地は
過ぎ去っており、海はもはやない」
『黙示録21:1』
つまり、
海がないとは、「水の循環」が途絶えるということで、
それは川や山や大地も大気も変質してしまい自然が生み
出していた循環システムそのものが地球上から
消えてなくなることを意味しているわけです。
ダ・ヴィンチが『黙示録』の中に見つけた真実らしき
ものとは、このまま手を拱(こまね)いていると自然破壊
が進み、循環システムが維持できなくなるという未来での
危機や終末を予感させるものであって、
それを右に傾く湖と干上がりつつある川や生命の気配が
まったく感じられない鉱物だらけの無機質で音のない世界
としての未来の姿を『モナ・リザ』の右側に背景として
表現して見せたのです
これが、
皮肉と警告を込めて描いた地球の未来を示す
ダ・ヴィンチなりの『地球進化論』なのです。
「進化とは必ずしも進歩にあらず」
そんなダ・ヴィンチの嘆きが聞こえてきます
「そして、み座に座っておられる方がこう言われた。
『見よ、わたしはすべてのものを新しくする』
また、こう言われる 『書きなさい。これらの言葉
は信頼できる真実なものだからである』」
『黙示録21:5』
「見よ、わたしはすべてのものを新しくする」
「わたしはアルファでありオメガである」
而して、
「人は神に学び、神はサタンに学び、
サタンは人間に学ぶ。そして、また、
人間はサタンから学び、サタンは神
から学び、神は人からも学ぶ」
これもまた循環であって、賢者の悟りと言えるもの
なのかもしれませんが、
ヨハネが見た新しい天と新しい地には海はありません。
海の生物は絶滅して生態系は破壊されたのです
自然を拒絶し、循環を否定して、環境を破壊するものが、
誰あろう「神」であったとは、『黙示録』のオチは
ダ・ヴィンチにとっても予想外の展開(墜ちすぎる話)で …
いやはや、
齢を重ねた老人ヨハネがパトモス島で見た「神」とは、
幻とはいえ、本当の「神」だったのでしょうか
余談になりますが、70年前のきょう8月30日午後2時過ぎ、
C54輸送機「バターン号」で神奈川県の厚木飛行場
にマッカーサー米元帥が降り立ちました。
元帥一行は完全武装の日本兵が沿道で背を向けて直立
する中、横浜に向かいホテルニューグランドに入ります。
ホテルの支配人たちは、まるで「神」にひれ伏すかの
ように出迎え、夕食にはステーキが振る舞われました。
この絶対的権力者を日本人は次第に敬愛し、1951年4月
に解任されて帰国する際には20万人近い日本人が別れを
惜しんだそうですが …
詳しくは、5号の『幻のマッカーサー神社』を
参考にしてみてください。
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/353.html
鬼畜米英の親玉たるマッカーサー元帥が、日本人
にとっては「救世主」だったということでしょうか
そうなると、「神」とは、一体全体、なんぞや
ここにそのヒントのひとつがあるのかもしれませんが、
「人はサタンに学び、神には学ばず。
サタンは神に学び、神をも凌駕する」
「どうじゃ、わしの言葉は」
「けだし迷言にして名言です」
冒頭に紹介したビスマルクは、さらにこうも言っています。
「賢者は愚者に学び、
愚者は賢者に学ばず」
次回は『モナ・リザ』に隠喩された『黙示録』に
登場する生き物や人物たちの意味に迫ります。
… to be continue !!
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