いかにそうするかが問題 なんだ
How To 本やビジネス書、TVドラマや映画のセリフにも
よく登場するフレーズですね。
そして、なにより 1号 さんの決まり文句のひとつです。
この場合に、「理屈」 は 「屁理屈」 と同等か、あるいは、
それ以下の扱いになります。
論理的に説明すれば通常は納得させることができますが
理屈はいくら並べ立てても納得させる保証はありません。
その意味からも 「理屈」 と 「屁理屈」 は大差ありません。
「理屈」 とは 「論理」 を一般化した世俗的な表現のように
も感じますが、シンプルではなくどこか屈折した論理構成で
粘着質的なくどさをイメージさせます。
それでは 「論理」 とは、いかなるものなのでしょう。
「論理」 は、いかに複雑な内容であっても、煎じ詰めたり、
整理・分類してゆけば簡潔なラインに集約されてゆきます。
論理学に代表される三段論法は、最初の前提を大前提、
次の前提を小前提といって、最後の第三段にあたる部分
( 「ゆえに」 以下の )主張を結論というそうです。
AはBである あるいは BならばAである
BはCである あるいは CならばBである
ゆえにAはCである ゆえにCならばAである
… と推論される。
つまり、、 がともに真である場合に限り、AはCである
あるいは CならばAであると推論してもよい。 ということに
なるわけです。
三段論法には、主語の入れ替えの他にも肯定か否定か、
全体か部分か、など、いろいろなバリエーションがあって、
その組み合わせは256通りにもなります。
しかも、そのうち正しいものは24通りしかなく、ほとんどは
間違った推論となるのです。
これを巧みに利用しているのが 詭弁家と称する連中たち
で人を煙に巻く怪しい話術の中身は複雑に組み替えられた
変形の三段論法的手法がもっともポピュラーのようです。
「論理」 は 普遍的な整合性がベースに備わっていますが
「理屈」 は 我田引水や牽強付会を目的に生まれる場合も
多く、世間ではそれを 「屁理屈」 と称しているようです。
「論理」 は 決して尻を見せないが 「理屈」 は 屁を垂れる
こともあるわけです。
どこかのプレイボーイの 「不倫は文化だ!」 という発言も
立派な屁理屈です。
「(一般的な意味合いでの)浮気をした覚えは断じてない、
愛しているのはお前ひとりだけだ」
(浮ついた気持で)浮気をしたのは事実だけど、本気では
ないし不倫がなければ古今東西の名作は生まれない。
そうなれば、日本に『源氏物語』は存在していない。
ゆえに、「不倫は文化であり、文化継承の行為なのだ!」
… って、前提も共通概念も比喩もメチャクチャですよね。
いまさら、説明の必要もないでしょうが、論点のすり替えと
こじつけの典型例です。
《ああ言えば、こう言う》ようなタイプの人間にかかると…
論理的に正しく(正論)であるにもかかわらず論破された
わけでもないのに、強弁や詭弁的理屈(屁理屈)に屈する
場合が多々あります。
理論に屈する=「理屈」 とは存外にそうしたものなのかも
しれません。
生き物を殺してはいけないは 《正論》です。 しかし人間の
生存(食糧としての犠牲)のためなら、その限りではない。
いやはや、なんとも、都合 のいいものです。
「論理」そのものは汎用度も高く応用範囲も広いけど、
「理屈」はその場かぎりのものが多いような気がします。
視覚的には、「論理」 は直線で、「理屈」 は曲線でしょう。
AがBで 、BはCだから 、Aは Cである。
AはBだけど 、たとえBがCであるとしても 、
Aは C とは限らない 。
「論理」と「理屈」は、第一義的な意味からは同等で混同
しがちですが、使用されるケースやステージから判断する
と「論理」はフォーマルで、「理屈」はカジュアルに分類され
るべきものと考えます。
その点では、先ほどの汎用度や応用の範囲は逆転して
日常的に使われる「理屈」に対して、「論理」は限定された
場面での形式的な表現やオフィシャルなものとなります。
つまり、「論理」 を 論理的 に考察すれば …、
「論理を研究して体系化した学問が論理学であり、哲学、
倫理学、数学、科学、物理学と同様に基本的な学問です」
「いずれの学問も、言葉を基調として理論を構成している
以上、論理は学問の土台となるべきもので、母なる学問で
あるといっても過言ではない」
「言葉と数は無限に存在しうるもので、いずれも一種独特
の美を構成する。 数式しかり論理式しかりである」
「従って、科学的に体系づけられた論理的構成は黄金率
の如き論理美を構築するものである」
「これに対して理屈というものは、美醜の点ではその比較
にならず論理をすり替え、こじつけ、ごまかし、翻弄させる
のに十分なる屁理屈と詭弁を獅子身中の虫の如くに内在
させる」 … と、いうことになります。
言わば、「論理は科学であり、理屈は似非科学である」 と
も言い換えられるわけです。
「ちょっと、待ったぁ~!」
そうなると、どっこい 2号 は燃えるのです。
理屈屋の魂に火がついてメラメラと燃え上がります。
似非 とは 言語道断 !
「論理」が地球とすれば、「理屈」は宇宙のように広大だ!
ニュートンの力学が 「論理」 だとしたら、アインシュタインの
相対性理論が 「理屈」 に相当する。
つまり、
閉じられた系(限られた領域)だけで運用される「論理」と
開かれた系(無限の領域)でも通用する「理屈」の違いだ!
端的に表現すれば、絶対的な「論理」に対する
相対的な「理屈」ということになる。
【絶対】 だけが、絶対に正しいというわけではない!
(ん どこかで聞き覚えのあるようなフレーズ)
う~ん 、ちょっと違いますけど 2号 さんをモデルにして
ボクが書いたブログ 「煙に巻く人たち」 のなかで
【絶対】 を何度も連呼したときのことじゃないですか
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/148.html(参照)
おっ、そうかもな、5号 … って、俺は、人を煙に巻く
ペテン師 か 」
そうじゃありませんけど …
まあ、いい。 とにかく 「理屈」 のほうがデカイわけ …
「論理」を包含して自家薬籠中のものとするのが
理屈屋の理屈屋たる所以(ゆえん)なのだ。
まっ、俺は1号 さんによれば屁理屈屋らしいけど。
「論理」は正しいか否かが問われるだけだけど 「理屈」は
通るか通らないかというギリギリのところでの勝負なんだ。
「論理」 は 「論理的な主張(その通りの道)である」 とか、
「論理的(実際)にも正しい」 というような道が描かれている
地図です。
「理屈」 は実践的ですから地図のほかにも実際に辿る際
のコンパスも必要です。
理屈に従えば(コンパスによれば)、そうなるわけですし、
理屈が通っている(コンパスが指す)方向を辿るわけです。
あるいは海図が「論理」で、羅針盤が「理屈」なのかも …
『屁理屈の論理学』 という タイトル
だから、学者(学問=論理)と商人(実業=理屈)という
分類でも面白い
道筋を辿れば、つまり 1+1=2 になるのが「論理」で
5-3 でも 2×1 でも 6÷3 でも 答えが <2> になる
のが 「理屈」 です。
地球 は丸い。 だから、いつかは必ずもとの位置まで
戻って来るのも 「理屈」 です。
もう、分かった!
理屈はいい 何故そうなるかは問題 じゃない
いかにそうするかが問題 なんだ !!
1号 さんの決まり文句が出て、また最初に戻っちゃた。
やっぱり、地球 は丸く、そして、青かったのだ
なぜか
2号の顔 も 真っ青 ですが …
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