透明人間たちのひとりごと

『待ちぼうけ』です

 昨夜、テレビで放映された『 300(スリーハンドレッド)
を観ました。

 古代ギリシャの時代(BC480年)、アケメネス朝ペルシャの
クセルクセス大王の率いる数十万の遠征軍をわずか300人
の兵をもってテルモピュライの地にて迎え撃つスパルタの王
レオニダスと玉砕する兵士たちの生き様を描いた映画です。

 率直な感想としては、やはりエンターテイメントだなぁ… と
いうか、戦闘シーンでの迫力はともかくとしてもペルシャ軍の
繰り出す化け物のような特殊部隊や異様に誇張された動物
(たぶんサイオオカミ)には、ファンタジー過ぎて違和感が
あり、リアリティーに欠ける気がして残念でした。

 空想物語として純粋に楽しむ分には映像的にもCGなどを
駆使した戦闘場面に、ストップモーションとスピードアップした
アクティブモーションの切り替え技術を上手く織り交ぜていて
迫真的な臨場感を感じさせたのは良かったと思います。

 ただ、妙に神秘性を訴えるかのようなシーンや幻想的
過ぎる点が気になりました。

 史実に基づく作品だけに虚像と歴史的事実の相違には
注意が必要です。  

 いわゆる「スパルタ教育」の語源となった古代ギリシャの
都市国家スパルタは、幼児の頃から厳しい教育を施します。

 映画でも、スパルタ式の厳しい教育の過程が冒頭に紹介
されていました。 

 それは、死を恐れぬ強い精神と強靭な肉体を持つ戦士を
育てあげるための 【虎の穴】 的な養成システムと精神的な
支柱となるべく配された掟(オキテ)による真の戦士の育成
に関する国家プランでした。

 その厳しい生存競争の中で真の勇者たる戦士が生まれる
のです。

 現代に生きるボクたちは子供時分からずっと甘やかされて
育った所為か、精神的に弱い人間が多いように感じます。

 大人になっても社会に適合できずにいて、少しでも嫌なこと
や壁に当たるとすぐに逃げ出すかあきらめてしまいます。

 果ては引きこもり、社会と隔絶した空間の中だけで生活を
送る者まで出現します。

 それでも、生きていけるのです。  親が引きこもる部屋の
ドア先までセッセと食事を運ぶ愚を犯しているからです。

 映画では最終的にみんな殺されてしまいますが、玉砕する
戦士たちには<死>という彼らにとって何ものにも換え難い
栄光と誇りを授かるのです。

 そこには自由のため、家族のため、スパルタという国家の
明日と栄誉のために、死を恐れずに最後のひとりになるまで
戦い抜く姿に、大いに学ぶべき何かがあると思えたのです。

 翻(ひるがえ)ってみると、何か困難にぶつかると、すぐに
親や 1号 さん、 2号 さんに頼ってしまう自分がいます。

 そして最後には、神だのみ的な 他力本願 な行動をとって
しまうのが常なのです。

 夢の中なら、いざ知らず現実の社会では、ただ苦しいから
といって必死になって神にすがっても、決して神は救いの手
をさしのべてはくれないでしょう。

 もちろん、それは 「苦しいときの神だのみ」 だけに限らず
常時、祈っていたとしても同じことです。

 結局、神さまは、何もしてはくれないのです。

 ライオンがシマウマを、オオカミがヒツジを虎が牛や鹿や兎
を捕食するときに彼らには罪の意識など存在しません。

 彼ら肉食獣が彼らの神に必死になって懇願し祈ったとして
も、彼らの面前に突如としてノコノコと獲物があらわれ出て、
「どうぞ、私を獲って食べてください」 と、自ら進んでその身を
捧げるような事態が起こり得ないことを知っているからです。

 『守株』 のような出来事はほとんど期待できないわけで
自らの足で獲物を追いかけ、鋭い爪と牙で仕留める以外に
食事にありつけることはないのです。

 exclamation 株(くいぜ)を守る (守株待兎) ― 『韓非子』 ―

 「宋の国の人が畑を耕していると、切り株があり駆けて来た
ウサギがそれに当たり、頚(くび)を折って死んでしまった。

 それからというもの男は、鋤(すき)をほうり出して切り株の
見張りをするようになり、もう一度、ウサギを手に入れようと
したが、ウサギは捕らえられず宋の国の笑い者になった」 と
いう説話です。 (昔、国語の教科書に載っていました)

 これをもとにして、北原白秋 がつくった詩に、山田耕筰
曲をつけたのが 『待ちぼうけ』 です。

 1                2
 待ちぼうけ、待ちぼうけ   待ちぼうけ、待ちぼうけ
 ある日せっせと野良稼ぎ  しめた、これから寝て待とうか
 そこへ兎が飛んで出て   待てば獲物は駆けて来る
 ころりころげた木の根っこ 兎、ぶつかれ、木の根っこ

 3                4
 待ちぼうけ、待ちぼうけ   待ちぼうけ、待ちぼうけ
 昨日、鍬とり、畑仕事    今日は今日まで待ちぼうけ
 今日は頬づえ日向ぼこ   明日は明日はで森の外
 うまい切り株、木の根っこ  兎、待ち待ち、木の根っこ

 5
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 もとは涼しい黍(きび)畑
 いまは荒野の箒(ほうき)草
 寒い北風、木の根っこ
 
 偶然の幸運をいくら期待して待ち続けても無駄なことです。

 でも、どうやらボクたちには、その愚を繰り返す悪癖がある
ようです。

 そのときその時代には、ある行為や行動がベストであった
としても、それがいつまでもベストやベターであり続けること
はありません。

 つまり 『待ちぼうけ』 でいうところの切り株の大きさや位置
畑の形状、季節や風向きや温度などの条件が、たまたま、
兎を切り株に当てるのにちょうど適した条件(環境や状況)で
あったか、兎自身の不注意による凡ミスが兎にとって不幸な
結果を招き、男にとっては偶(たま)さかのラッキーな出来事
となったにすぎないのに、そのことに をしめていつまでも
同じことを期待するような心理傾向をボクたちはもっていると
いうことです。

 いまどきの若いもんは 〇〇〇 … も、そのひとつです。

 ここではその点には触れませんが、韓の国の王族(王子)
であった《韓非》は、自国の置かれた危機的な状況と衰退の
兆し(なんだかどこかの国みたい)に、国を救うには旧来の
やり方を変えて、君主による独裁法治国家体制を実行する
以外にないと訴えていた。

 しかし、古来からの氏姓制度に固執して、古の聖人たちの
政治手法が正統だと称する旧家名門の貴族たちは、《韓非》
の言う庶政一新(改革刷新)を頑(かたく)なに拒み否定して、
その実行を阻(はば)んでいました。

 こうした貴族たちに対して《韓非》が喩えた話が「守株待兎」
の説話です。

 旧習や伝統にこだわって融通がきかずに進取の機運にも
欠ける様子を喩え憂いているのです。

 その時どきの変化に対応することは、当然のこととしても、
事態を一変させるようなまったく新しい試みにチャレンジする
には勇気が要ります。

 でも、映画 『 300(スリーハンドレッド) 』 にその勇気を
もらえたような気がします。

 神に祈ろうと仏にすがろうと事態が変わるわけじゃない。

 いついかなるときでも、結局は、自分を助けるものは自分
だけ … なのです。

 自分で獲物(仕事)を捕らえるか、種を蒔き収穫(営業)して
糧(給料)を得るかしか、いまは手段がないのです。

 静岡県に唯一となる無料の中古車情報誌 「カーゲット」 の
創刊に向けて、東部エリアでの広告営業の任まで委託されて
しまった 5号 としては頑張るしかないのです。

 当時の超大国ペルシャの軍門に降ることなく自由と誇りに
生きる(死ぬ)ことを選択したスパルタの王 レオニダスに
アヤかって …

 そして、超巨人であるカーセンサーやGooに臆せず挑む、
生まれたての 「カーゲット(CarGet)」 をそこにダブらせて
いるのです。

 映画の中でスパルタの王妃がとして言い放ったセリフ
「スパルタを生んだのはです」 の言葉は意味深いです。

 戦いに出て栄光と誇りにまみえるのはいつもたちです。

 でも、その勇者たちを産んだのはまぎれもなくスパルタの
たちなのです。

 これ以上は、ジェンダー問題にも発展しかねないので踏み
込みませんが、とても印象的な言葉でした。

 そうですよネッ 2号 さんeq

 ま、そうだけど、そう張り切るな 5号exclamation2 息切れするぞ !!
 
 「慌てる乞食は貰いが少ない」 って言うだろう。
 「でも、先んずれば人を制す」 とも言いますし、
 「急がばまわれ」 ってことわざがある。
 「でも、早起きは三文の得」 ともいいます。
 
 ムっ!待て、待て、「果報は寝て待て」
いうことわざもあるぞ。
 
 そうだlight  5号! ひと眠りして 果報 を待つことに
するから、この配達だけど …

 300スリーハンドレッド)で、どう eq

 いいですけど、どうせ 2号 さんの

 『待ちぼうけ』 nose9ase ですよ !!
 
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