「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」
『ダニエル書』9:26
この言葉を指して、
洗礼者ヨハネによる洗礼を受けて、
膏(あぶら)そそがれし者(メシア)となった
イエスが、およそ三年半にわたる宣教を
経て、十字架上の死による贖(あがな)い
で、この世の罪を清算(完済)したとする
考え方が一般的で、それをもって、
『Christ of Saint John of the Cross』
十字架の聖ヨハネのキリスト ダリ画
注 洗礼者ヨハネと十字架のヨハネは
それぞれ別の人物です。
また、ひとつ、『旧約聖書』における
預言が成就されたと見るようですが、
ダ・ヴィンチの解釈によれば、
イエスはキリスト(救世主=メシア)で
はなく 洗礼者ヨハネの後継者であり、
『ダニエル書』にある膏そそがれた者
とはアロンのメシアとなるはずであった
洗礼者ヨハネのことであって、ナザレ
のイエスではないと言うのです。
真の救世主(キリスト)は志半ばにして
「斬首刑」の罠に陥ってしまったアロン
の末裔である洗礼者ヨハネであると、
ダ・ヴィンチはそう考えていたようですが、
ポイントはAD27年という年にあります。
過去記事の繰り返しになりますが、
イエスの伝承には「謎」として残る
大きな空白期間が2つあります。
第1に、預言されていたメシア(救世主)
の誕生があったとして、イエスが生まれた
当時のユダヤの王、ヘロデ大王から命を
狙われますが、その難を逃れるために養父
ヨセフと母マリアとともにエジプトに逃避
していたとされている 0~12歳ぐらいまでの
消息はまったくの不明で、
『エジプトへの逃避行』カルロ・マラッタ
これが第1の空白期間です。
12歳の頃に、イスラエルに戻ったイエス
は、神殿でユダヤ教のラビ(律法学者)たち
を相手に議論を戦わせ、一歩も引くことなく
老成したラビたちと渡り合ったそうですが、
彼らが舌を巻くほどの知識をすでに会得
していたイエスはその後 なぜかぷっつり
と姿を消してしまいます。
これが第2の空白期間です。
そして、
『イエスの洗礼』www.daiwanmsr.com
再び人々の前に現れるのが30歳になった
頃で、それが洗礼者ヨハネから洗礼を
受ける有名なシーンであり、
イエスの洗礼 出典:blogs.yahoo.co.jp
かくして、
『キリストの洗礼』ヴェロッキオ工房作
イエスの公生涯がいよいよ始まるという
わけなのですが、
『ルカの福音書』では、
「イエスが宣教をはじめられたのは、年、
およそ30歳のときであって、人々の考え
によれば、ヨセフの子であった」
(ルカの福音書3:23)とありますが、
それがAD27年だとされているわけです。
ナザレのイエスがメシアであるという
根拠は、イエスの死が、『旧約聖書』
の預言と結びつくことで証しとされています。
十字架上での死は「神」の意志による
もので必然の結果であると、
曰く、『イザヤ書』53章に述べられる
https://www.wordproject.org/bibles//jp/23/53.htm
預言者イザヤ wikipedia
「無実なる神の僕」の苦難の姿を
して、約束されていた旧約のメシア預言
が、イエスにおいて成就したと ・・・
しかし、
イエスは洗礼者ヨハネの異母弟で
父親は「神」ではなく下級祭司であった
ザカリヤであるとする独自のシナリオ
を構築していたダ・ヴィンチは、
洗礼者ヨハネの斬首についても、
独特の推理を展開します。
さて、
洗礼者ヨハネについて 直接言及して
いる資料は『福音書』と『使徒言行録』
を除けば、ヨセフスの『ユダヤ古代史』
にみられるだけで、他には二次的な記録が
あるだけです。
しかも、『福音書』や『使徒言行録』で
は、ヨハネをイエスのまえの先駆者と
して位置づけ、その視点でのみ語っている
ので、それがヨハネの実像として正確な
ものかどうかどうかはわかりません
ところで、
『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ1608年
洗礼者ヨハネが、ガリラヤの領主で
あったヘロデ・アンティパスの手中に
嵌まり、「斬首」されることになったのは、
AD28~29年頃のことと思われますが、
これより先に、洗礼者ヨハネは ・・・
異母兄弟フィリポの妻であるヘロディア
とガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス
の婚姻に際し、それを非難したとして捕縛
されマケラス城(砦)の牢に投獄されますが、
これは『福音書』の記述によるものです。
洗礼者ヨハネの生い立ちについては、
『ルカの福音書』1章において彼の誕生
の次第が語られています。
ここから彼が下級祭司の家の出身である
ことが推察できます。
祭司職は当時 エルサレム宮殿を中心と
する貴族的祭司階級と地方に暮らす下層
の祭司階級とに分かれ、両者の間の格差
は大きく、それは パレスチナ(イスラエル)
地方の支配層と被支配層との関係を反映
するものでもありました。
それは、洗礼者ヨハネの属する階層
がそのままクムラン宗団に属する人たちの
層と重なりますが、
出典:plaza.rakuten.co.jp
エッセネ派が 母体であったクムラン宗団
と洗礼者ヨハネとの関連性を直接示す
資料が存在しているわけではありません。
しかしながら、エルサレム宮殿の祭司や
ファリサイ派と対立する彼の姿はクムラン
のそれを思わせるだけではなく その名が
示すように、ヨハネの最大の特徴である
「洗礼」はクムランのそれを踏襲している
ように見えます。
そして、イエスの「謎」の空白期間
を埋めるのに格好の規則がクムラン宗団
にはあったのです。
12歳までは宗団の規則に従い暮らす。
21歳までは見習いとして修業を積み、
入会資格を得たのちに試験を受けて
30歳までに一人前の宗団員になる。
つまり、ヨハネのみならずイエスまで
もが幼少期より、クムラン宗団に所属して
いて修業を積んでいたことが推測される
のです。
ダ・ヴィンチの推理はこうです。
『幼児イエスと洗礼者聖ヨハネ』(貝殻の子供たち)ムリーニョ画
ヨハネとイエスは、祭司ザカリヤを
父に、従姉妹同士のエリサベツとマリアを
それぞれの母として生まれるも 腹違いの
兄弟であることを知らないままにクムラン
の共同体で生活を共にします。
『幼児イエスと洗礼者聖ヨハネ』(貝殻の子供たち)部分
修業成績の優秀なヨハネは早々に卒業
したか、考え方の相違から集団と袂を
分かつことになったかで、
『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ
独り荒野での宣教活動に入るわけです。
ヨハネが行う「洗礼」の目的のひとつ
は「裁き」と「浄め」であって それ自体は
クムラン宗団の教えに基づいていますが、
クムラン宗団の用いる「洗礼」のあり方
とヨハネの「洗礼」には決定的な違い
がありました。
まず第一に、ヨハネの授ける「洗礼」
は、一回限りのもので、祭儀も宗団の名に
よるのではなく、ヨハネひとりが授与者で
あって、そのことを「洗礼者」という彼の
呼び名が如実にあらわしているわけです。
第二には、「洗礼」を授ける受洗者に
対して 何らの条件も求めていない点です。
クムラン宗団の場合には一定の条件が
あって、身障者や年老いた人々は「会衆」
に参加できずに、当然、「洗礼」に与かる
こともありませんが、そうした制限を一切
もうけてはいないのです。
第三に、ヨハネのもとに集まったのは、
一般庶民や下層の人たちばかりではなく、
比較的上層の人々や知識階級、さらには
社会的にも影響力のあった人たちが混在
していた可能性が高いと思われるのです。
『洗礼者ヨハネの証(説教)』ピーテル・ブリューゲル(子)
クムラン宗団の人々と同様に ヨハネも、
エルサレムの指導者たちやファリサイ派を
非難しましたが、彼らを「蝮の子らよ」
と呼んで罵っていたとしても、クムラン宗団
のように彼らを差別することはなく、平等に
「悔い改める」ことを説いていたのです。
『洗礼者ヨハネの証(説教)』部分 www.senzoku.org
否(いや)、平等に、と言うよりは、
むしろ、彼ら(蝮の子悪魔の僕)にこそ、
積極的に「悔い改め」を説いたわけで、
差し迫る終末の裁きを前にして、
ゴグとマゴクの戦い ameblo.jp
なお「神」による「罪の赦し」の恵み
があることを彼らに向かって伝えようとしていた
わけです
つまり、
ダ・ヴィンチに言わせれば、こうした行為
こそが「救世主」の「救世主」たる
所以(ゆえん)であって、
『荒野で説教をする洗礼者ヨハネ』サルヴァトル・ローザ
ここにヨハネが「斬首」されるに至る
淵源が見つかるわけです。
ヨハネは あらゆるユダヤの民は正しい
生活を送り、人々には公正に「神」には
敬虔であるよう求めたわけで、
「洗礼」が、「神」に受け入れられる
には、こうした準備が必要で、犯した罪を
赦してもらおうとして「洗礼」を受けるの
ではなく、正しい行いによって魂が浄化
されたことに基づいて、体を「聖別」する
ために「洗礼」を受けなければならない
としたわけです。
そして、
悔い改めたあらゆる階層の人たちは、
それぞれに付与された社会的な身分や
職業に応じて「悔い改めにふさわしい
実を結ぶ」ように説いて回った。
つまり、それは自己の仕事(職務)を
「神」の前に、正しく実行することで、
ローマに虐げられる属国の軛(くびき)
からユダヤを解放する体制の変革
(転覆)を意図していたのです。
だからこそ、
ヘロデ・アンティパスは、ヨハネ
を指導者(救世主)として、民衆が蜂起し、
大暴動となることに恐怖したわけで、
ジョヴァンニ・ファットーリ画
それ故に、
ヨハネを捕縛して投獄し、折を見て
「斬首刑」に処したのであって、
『サロメ』フランツ・フォン・シュトゥック1906年
ヘロディアとの結婚を非難された
からでも妖艶なるサロメの舞いの褒美
としての無粋な要求(おねだり)に応じた
わけでも、「断じてない」というのが、
ダ・ヴィンチの導き出した結論です。
さて、
洗礼者ヨハネが目指したのは、自身
の宣べ伝える「悔い改め」とそれに伴う
「洗礼」であって 何らかの規律や戒律に
基づく宗団の形成や後の「キリスト教」
のような教団の創設ではなく、
自分のもとに集まる人たちを他の宗団や
世俗の枠や家族から分離することなしに、
ユダヤ(ガリラヤ地方)の民衆の全体に
別け隔てなく「悔い改め」を呼びかけた
わけで そこには些かのポーズもなければ、
『福音書』に記されるイエスような
わざとらしさは微塵も感じないわけです。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何を
しているのか自分でわからないのです」
(ルカの福音書23:34)
『キリストの磔刑』ルーベンス
自から十字架に架かっておきながら、
ホント「よく言うよ !!」
ダ・ヴィンチはそう思ったはずです。
十字架上での死の間際につぶやく
「わたしは渇く」にしても、
出典:jcfa,,exblog.jp
『詩篇』 9:21にみられるメシア預言
「彼らは私の食物の代わりに苦みを与え、
私が渇いたときには酢を飲ませました」
が成就したと『福音書』は讃えますが、
「イエスは、今や万事が終わったことを
知って、『わたしは、渇く』と言われた。
それは聖書が全うされるためであった」
(ヨハネの福音書19:28)
出典:blog.goo.ne.jp
要は、
『旧約聖書』の記述が成就するため
に「わたしは、渇く」と わざわざ言った
ということであって、
出典:blog.goo.ne.jp
最後にイエスは人々が差し出す酸い
ぶどう酒を含ませた海綿を口に受けて、
出典:blog.goo.ne.jp
「すべてが終わった(完了した)」
と言って、首を垂れて息を引き取ります。
(ヨハネの福音書19:30)
「完了した」
この言葉こそが、最大の偽りであると
ダ・ヴィンチには思えたのですが、
それはまた次回以降での話としましょう。
洗礼者ヨハネが「斬首刑」となった
時期はAD28~29年頃のことと思われます
ので、イエスが「洗礼」を受けて宣教を
開始したAD27年からは、すでに1年近くは
経過しています。
その間に 何度も奇跡を起こして見せた
イエスに対して、ただの一度として奇跡
を起こしたことさえない洗礼者ヨハネを
ヘロデ・アンティパスは恐れていたの
に 凄まじいばかりの奇跡を演じてみせる
イエスを恐れなかった理由とはいったい
何なのでしょうか
この辺りに、隠されているもうひとつの
真実があるのかもしれませんね
小生は単純に 洗礼者ヨハネによって
始められた宣教がイエスに受け継がれ、
さらにパウロという天才的ペテン師が
打ち立てたドグマ(教義)によって、
『聖パウロ』
旧約の時代は終焉を迎え、新約の時代が
始まったと思っていました。
従って、
旧約と新約との間には明確なる断絶が
あって、それが「福音」という言葉に代表
される「まやかし」によって、より強固に
隔絶されるものになったと思っていました。
つまり、どこまでが旧約のユダヤ教で、
どこからが新約のキリスト教なのか
の境界線の問題です。
『新約聖書』では ファリサイ派(学者)
も、ユダヤ人も悪者扱いで、エッセネ派に
至っては文字面にさえも現れません
新約への道を切り開いたパウロたちは
エッセネ派の何を隠したかったのでしょう
まあまあ、
なにやら臭うことはニオイますが・・・
「イエスの出自」じゃな
まあ、それはそれとしても、
「腑に落ちないのは、新約聖書の行き着く
先には常に『十字架』があることじゃ」
さらに、
『十字架』ありきに文言が貫かれている
のは「ハーケンクロイツ(鉤十字)の旗のもと
に民衆を煽動したナチスと同じじゃ」
でも、ペテロ役が
「そんなこと言って大丈夫」
な~に、「アンタも同罪じゃ」
「そ、そんな濡れ衣です」
(ホンマかいな)
それ、
『濡れ衣』でのオチ(未使用)だろ。
よって、
盗みの罪で『斬首刑』に処す !!
・・・ って、おいおい、
出典:www.jizai.org
… to be continue !!
(… to be continued !!)
『洗礼者ヨハネの頭を持つサロメ』チェザーレ・ダ・セスト
舞台はまわり、歴史は踊るのである。
(なんのこっちゃ・・・)
「え~、やだぁ、わたし妊娠するの」
「裏切ったのはユダではない」