見出し画像

透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 申命記

 『旧約聖書』の中でも有名な預言のひとつに
して、かつ論争の絶えない『ダニエル書』
9章24-27節は「七十週預言」と呼ばれる
もので イスラエルの民とエルサレムについて
の定められた期間を告知した言葉です。

 「あなたの民とあなたの聖なる都について
   は、七十週が定められている」

     (ダニエル書9:24)
 
 この預言の前、9章の前半部にあるように
ダニエルはエレミヤの言葉から、エルサレム
の回復はエルサレムの荒廃から70年の後に
起こる(捕囚が終わる)ことを知るのですが、


  『ダニエル書』 i.ytimg.com

 「神」は御使いガブリエルを通して、真の
復活を遂げるまでには 9章24節にあるように
「七十週」が定められているとしたのです。

 「70年」であったり、「七十週」だったりと
なんだか頭が混乱しそうですが、

    

 ダニエルは、捕囚となったバビロンで読んだ
『エレミヤ書』でそれ(70年)を知るのです。

 「この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。
 そして、その国々は七十年の間バビロン
 の王に仕える」 (エレミア書25:11)

 
     『エレミヤ書』 Wikipedia

 「主はこう言われる、バビロンで七十年が
 満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、
 わたしの約束を果たし、あなたがたをこの
 所に導き帰る」 (エレミア書29:10)

 詳しくは、

 『ダ・ヴィンチの罠 受膏者』

 の記事を参照してください。

 要は、それ(定められた七十週)が、


 ダニエル書 kyukyoku-matome.com

 イスラエルの民に与えられた猶予の期間で
あって、その間に悔い改めなければ、破滅の
道を歩むことになる運命を、メシア到来
に託して警告していたとするのが、



 ダ・ヴィンチの解釈にして、推理なのです。

 「七十週」とは、

 『ダ・ヴィンチの罠 七十週』

 に書いたように、70×7年=490年の期間を
隠喩する表現で、この間に、イスラエルの民
とその都であるエルサレムは、ペルシャから
ギリシャ、そして ローマとその支配者たちは
変われども、イスラエルの「神の御名」
それこそ蹂躙され続けてきたわけです。

 それと言うのも、当時の戦いにおける勝利
は それぞれの国の「神」の勝利であって、
敗北を喫したイスラエルの「神」御名
は、辱められ、卑しめられ、貶められて ・・・

 蔑ろにされ続けていたわけですから

 したがって、

 ダニエルの願いや希望や祈りの第一には、
エルサレムの都の復興もさることながら、

 わが「神」御名名誉回復
まず最初にあって、メシア到来目的
も、そのことに収斂されるべきであると、



 ダ・ヴィンチはそのように考えたのです。

 そこで、

 「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」


   『ダニエル書』9:26

 ここでの(メシア)を、イエスではなく、
「悔い改め、神の前に立ち帰れ」
と説いては ヨルダン川で「洗礼」を施して
いた洗礼者ヨハネこそが、

   
 『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ

 ダニエルの言うところのメシアであった
とダ・ヴィンチは推理したわけです。

 洗礼者ヨハネによる洗礼を受けて、
膏(あぶら)そそがれし者(メシア)となった
イエスが、およそ三年半にわたる宣教を
経て、十字架上での死の贖(あがな)いで、


 『Christ of Saint John of the Cross』
 十字架の聖ヨハネのキリスト ダリ画

 exclamation 注 洗礼者ヨハネと十字架のヨハネは
  それぞれ別の人物です。

 この世の「罪」清算(完済)したとする
パウロドグマ(教義に)、敢然として

   

 「NO」を突き付けているわけですが、





 その意思は、人知れずダ・ヴィンチの描く
絵画や壁画のなかで息づいているのです。



    (ん !!

 



     「え !!


   同床異夢であったユダとイエス


  入れ替わっているヨハネとイエス

  
  『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

 さて

 洗礼者ヨハネが目指したのは、自身
の宣べ伝える「悔い改め」とそれに伴う
「洗礼」であって 何らかの規律や戒律に
基づく宗団の形成や後の「キリスト教」
のような教団(宗教団体)の創設ではなく、

 自分のもとに集まる人たちを他の宗団や
世俗の枠や家族から分離することなしに、

 ユダヤ(ガリラヤ地方)の民衆の全体に
別け隔てなく「悔い改め」を呼びかけた
わけで そこには些かのポーズもなければ、

 『福音書』に記されるイエスの如き
『旧約聖書』の預言に沿ったいかにもな
わざとらしさは微塵も感じないわけです。

 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何を
 しているのか自分でわからないのです」
    (ルカの福音書23:34)


   『キリストの磔刑』ルーベンス

 自分から十字架に架かっておきながら、

 ホントに、「よく言うよ !!

 ダ・ヴィンチはそう思っていたはずです。

 十字架上での間際につぶやく
「わたしは渇く」にしても、

  
     出典:jcfa,,exblog.jp

 『詩篇』 9:21にみられるメシア預言

 「彼らは私の食物の代わりに苦みを与え、
  私が渇いたときには酢を飲ませました」

 が成就したと『福音書』では讃えるが、


     出典:blog.goo.ne.jp

 「イエスは、今や万事が終わったことを
 知って、『わたしは、渇く』と言われた。
 それは聖書が全うされるためであった」
   (ヨハネの福音書19:28)

 要は、

 『旧約聖書』の記述が成就するため
「わたしは、渇く」と わざわざ言った
ということであって、


     出典:blog.goo.ne.jp

 最後にイエスは人々が差し出す酸い
ぶどう酒を含ませた海綿を口に受けて、


     出典:blog.goo.ne.jp

 「すべてが終わった(完了した)
と言って、首を垂れて息を引き取ります。
   (ヨハネの福音書19:30)


      出典:ameblo.jp

 レオナルド・ダ・ヴィンチの解釈によれば、

 イエスキリスト(救世主=メシア)で
はなく 洗礼者ヨハネ後継者であり、



 救世主(キリスト)は志半ばにして
「斬首刑」に陥ってしまったアロン
末裔である洗礼者ヨハネ その人で
あって、『ダニエル書』9章26節にある
「膏そそがれた者」とは、


 ヨハネによるイエスの洗礼 blogs.yahoo.co.jp

 アロンのメシア right 洗礼者ヨハネ
のことであり、ナザレイエスなどでは、
断じてないと言うわけです。

 ポイントはAD27年という年にあります。

 聖書的な常識においては、AD27年から
イエスの公生涯が始まり、『ダニエル書』
にある「七十週預言」が、そのことに
よって成就したとするわけですが、

 異論、反論、オブジェクション(objection)
するならば、


 『イエスの洗礼』www.daiwanmsr.com

 洗礼者ヨハネがヨルダン川において
洗礼活動を始めたのも、同じ、AD27年
であったということを蔑ろには出来ません。

 それでは

 上記の記事によって、「七十週預言」
の内の六十九週までの出来事については、

    

 一通りの理解があったものとして 最後の
一週(7年間)を見て行くことにしましょう。

 六十九週の後、メシアなるひとりの君が
現れ、彼は、何も残さないまま無惨にも
命を絶たれることになるわけですが、



 それがいつの出来事であって、どのような
かたちで命が断たれたかは 重要なポイント
であり、争点になり得べきもののはずです。

 当然、それはAD27年からAD34年までの
7年間の内のいずれかの年であって、その
詳細についての言及はありませんが、

 「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」


   『ダニエル書』9:26

 という文言から察するに、それほど大きな
事件として記憶されるような「出来事」
ではないような記述(表現)に思われます。

 『福音書』が語るように、十字架に架る
までの一連の出来事や十字架上での
(あがな)いにおけるパフォーマンス


    出典:www.jizai.org

 そして、三日後に起こったとされる復活
など、かたちとして残されていてしかるべき
イベントの数々は『ダニエル書』の預言
では何も示されてはいないのです

 ただ、

 「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」


 と、あるだけです。

 その場合に、

 1 獄中で首を刎ねられた洗礼者ヨハネ


 『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ1608年

 洗礼者ヨハネが、ガリラヤの領主で
あったヘロデ・アンティパスの手中に
嵌まり、「斬首」されることになったのは、



 AD28~29年頃のことと思われます。



 2 十字架にかけられたナザレのイエス

 イエスが、ポンティオ・ピラトにより、



 十字架にかかったのは、AD30~31年頃
のことと思われます。

 あなたには、

 1「斬首刑」と、2「磔刑」なら、
どちらが「断たれる」という表現にピタリ
と合致すると思われるでしょうか

 はてさて

 膏そそがれた者(メシア)であるとは、
一体、誰なのか、『ダニエル書』での
続きをチェックしてみましょうpeace

 「その六十二週の後、膏そそがれた者
 は断たれ、彼には何も残らない」

 「また 来たるべき君の民は、町と聖所
 を破壊する。 終わりは、洪水のように
 起こり、その終わりまで戦いが続いて
 荒廃が定められている」
 
   (ダニエル書9章26節)


 『ダニエル書』www.mustardseedosaka.com

  「来たるべき君の民」とは、

 一般には、ローマ皇帝配下のローマ兵
であるとされていますが、

 ダ・ヴィンチは、イエスとその僕である
キリスト教徒を指すと考えました。

  「町と聖所」とは、

 ユダヤ社会を統制、規制している律法
『申命記』に定められた掟や儀式や
祭祀など ユダヤ教として成立(確立)
する前の一切合切の事柄を指すもので、

  「終わり」とは、

 そうした旧態(古くからあった体制)の
崩壊や変革を意味し、


  エルサレムに入城するイエス

  「洪水のように」とは、

 洗礼者ヨハネ斬首をキッカケに
して、渇望されていた救世主(メシア)を
待ち望む声が徐々に水かさを増すように
溢れ出し、遂には民衆のうねりが怒涛
なって堤防を破壊する。


     出典:blog.goo.ne.jp

 つまり、イエスのエルサレム入城から
十字架上での死に至るまでの出来事が、
「過ぎ越し祭り」を前にした、わずか数日
の間に起こったことの比喩であって、

  「終わりまで」とは、

 今もってなお、再建が叶わない信仰の
源にしてイスラエルの象徴であり、
の住まいでもあるエルサレム神殿(聖所)
の炎上崩壊(AD70年)を指すわけで、


『エルサレム神殿の破壊』フランチェスコ・アイエツ(1867年)

  「戦いが続いて」とは、

 真の救世主である洗礼者ヨハネ
見限り、イエス側についたユダヤ教徒
(初期キリスト教徒⇒ユダヤ教ナザレ派)
と旧体制下における一般のユダヤ民衆
との確執や軋轢を意図していて、

  「荒廃が定められて」とは、

 字義通りであって、無用な諍いゆえに
ユダヤの民は散らされエルサレム神殿
には荒廃の2文字が定められたのです。

 その次の

 「彼は一週の間、多くの者と堅い契約
 を結び、半週の間、いけにえと捧げ物
 とをやめさせる。荒らす者が忌むべき
 者の翼に現れる。ついに定められた
 絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」

    (ダニエル書9章27節)


  ゴグとマゴクの戦い ameblo.jp

 この預言(9章27節)を2000年以上の
空白期間を置いた現代にあてはめて、

 7年間の患難時代がやって来るとか、
ハルマゲドンの戦いがあるとか、


 ハルマゲドンの戦い www.bible-jp.org

 終末の最終戦争の預言であるとする
聖書解釈が一般的ですが、

 ダ・ヴィンチの見方は違いました。

 ダニエルの祈りも空しく、繰り返し申し
伝え、命じていたはずの『申命記』


  『申命記』23章21-23 yahoo.co.jp

 その他に明示されているモーセの律法
をユダヤ人が蔑ろにしていたからである。

 と、ダ・ヴィンチは洗礼者ヨハネ
介して伝えているのです。

   
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

 要するに、

 この預言は、その前の9章26節を補完
したもので、「第一次ユダヤ戦争」
を実際には指し示しているのです。

 イエスの磔刑の後、イスラエルでは
ローマ帝国の強圧ぶりに不満が高まり、
エルサレムでは暴徒たちによる暴動や
反乱が頻発するようになっていきます。

 第一次ユダヤ戦争(AD66-73年)は、
当時のユダヤ属州総監であるフロルス
が エルサレムのインフラ整備のための
資金として、神殿の宝物を持ち出した
ことをキッカケに、エルサレムで過激派
(熱心党など)の暴動が起こったことに
端を発します。

 暴動の火の手は瞬く間にユダヤ全域
に拡大し、ローマ政府は 緊急に軍隊を
派遣して暴動を鎮圧しようとしましたが、
激しい抵抗に退却を余儀なくされます。

    
     ウェスパシアヌス

 そこに登場して来たのが有能なる将軍
ウェスパシアヌスで、彼を総司令官とした
大軍勢は、まず 北方のガリラヤから兵を
進め、各地の暴動や反乱を撃破しながら
エルサレムへと駒を進めていました。

 ところが

 ローマでは皇帝ネロの自殺(AD68年)
があって、その後1年間に3人の皇帝が
選出されては殺されるという後継者選出
の混乱に進軍は一時中止されます。

 かの地でローマの様子を見守っていた
ウェスパシアヌスでしたが、

 東方の諸軍団(シリアやユダヤ属州)の
推挙を受けた彼は、AD69年に皇帝の位
に就くために息子ティトゥスに後を托して
ローマへと赴き、第9代目のローマ皇帝
(AD69-79年)となるわけです。


    第10代皇帝ティトゥス

 後に、第10代皇帝(AD79-83年)となる
ティトゥスは、70年春に総勢8万の大軍で
エルサレムを包囲し、5か月に及ぶ激闘
の末に、聖都エルサレムは神殿もろとも
紅蓮の炎の中で滅亡したのでした


『エルサレムの包囲と破壊』デイビット・ロバーツ(1850年)

 ここにおいてユダヤ教は、その中心で
あった神殿の崩壊とともに、宗教社会と
しての全体系が瓦解をし、神殿を基盤と
したサドカイ派、戦いを主導した熱心党、
それに同調したエッセネ派など、大多数
の宗派・宗団が消滅していったのです。



 そんななか、熱心党を中心にする一団
が3年にわたり、砦に立てこもり、


     マサダの砦の跡

 ローマ軍と対峙して 集団自決を遂げた
地が史実に名高い「マサダ」です。

 しかしながら、

 これらの試練(悲劇)により、ユダヤ教
は大きな変貌を遂げることになります。

 エルサレム陥落の直前に脱出に成功
したファリサイ派の一部穏健派によって、
神殿なきユダヤ教の中心はシナゴーグ
(会堂)とディアスポラ(民族離散)を
紐帯とした宗教へとそのを切ること
で、今もなお、命脈を保っているのです。

 ところで

 ヘブライ語で冒頭の語から言葉という
意味を持つ『申命記』(デバリーム)
はある意味、「ロゴス」と一緒よね。

 

 デウテロノミウム(Deuteronomium)
第二律法とされているようじゃが、

   

 「律法の写し」の誤訳じゃとか ・・・

  

 今回はやけに

 「アカデミカルな展開よね」

 まあ、

 「彼と堅い契約を結んだからな」



     「え !!

 「彼は一週の間、多くの者と堅い契約
 を結び、半週の間、いけにえと捧げ物
 とをやめさせる。荒らす者が忌むべき
 者の翼に現れる。ついに定められた
 絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」

   (ダニエル書9章27節)

       
      (ホンマかいな)

   ・・・ っておいおい



  「聖書で遊ぶなよ !!





 

 … to be continue !!
       (… to be continued !!)

   
                   
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』



  繰り返し命じていたのに ・・・



      (ゲロゲロ ・・・)

コメント一覧

小吉
すごく不思議なんですが聖書って世界で一番読まれている書物で、キリスト教にとってすごく重要な書なのにどうしてこうも「わかりにくい」のでしょう。
そしてそれをどうしてありがたがっているのでしょう。

普通の人なら目をとおしてわけがわからなかったら「なんじゃこりゃ」と思って捨てます。

なのに多くの人がありがたがっているし、聖典ともなっている。

とても不思議。

小学生でもわかるアニメ動画とか作ったら需要があるかもしれないけれど、なんだかオウム真理教の布教アニメみたいになりそうな気がする。

それだけわけがわからない。

わけがわからないのに、これだけ注目を集めるのが本当に不思議でしょうがない。
やぶにらみ
先にパウロの勝ちが決定すると書いたのは、イエスが救世主であることを否定する材料が乏しいからで、ここで主張する「ヨハネ・キリスト説」を支持するとなれば、流れ的には、イザヤ書53章にある預言に目を付けたパウロが、その内容を利用したという筋書きにするしか手がなく、今はその布石としてのパウロ叩きに余念がないように見受けられるが、果たして、どうですかな!?
ココナン
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

この世の物質を構成する素粒子にさえ、寿命が存在するわけで、熱力学第二法則(エントロピーの法則)にしたがえば、パウロの勝ちは一時的なものにすぎないことが分かるでしょう。

なんちゃってね!
エージェント4
旧約聖書の完成形としての新約(イエス・キリスト)を発想したパウロのアイデアは歴史を見る限り大成功で、パウロの勝ちはほぼ決定したと言えるでしょう。
やぶにらみ
イエス以外の解釈が成り立たないのならば、イザヤ書53章の預言はイエスであるとするしか方法はなく、それを覆すのは至難の業である以上、これでパウロの勝ちが決定するということですかな!
江戸川ドイル
イザヤ書53章を読めば、そこに示されている人物はイエスのほかには存在しないことがわかる。

要は、そこに伏線が張られているわけだ!
きくらげ
「苦難のメシア」の預言とされる『イザヤ書』53章の文面をそのまま素直に読めば、受難のイエスを思い描かずにはいられないが、そこに落とし穴があるということかも。
ガブリアス・マーレン
70週預言の「来るべき君の民は、町と聖所を破壊する」の
部分は、やはり、ローマ皇帝(第10代ティトゥス)とその
部下であるローマ兵であると個人的には思っていますが、
イエスとその信奉者であるキリスト教徒たちのことである
とか、町と聖所がユダヤ社会の決まり事や掟などの律法や
祭祀を意味するとか、その結果、新興のユダヤ教ナザレ派
(初期のキリスト教)と本来のユダヤ教徒との無益で不毛
なる争いが続き、ローマとのユダヤ戦争でエルサレム神殿
が崩壊し、ユダヤ人たちが全世界に散らされていく様子は、
史実と見事にマッチしますので、この解釈を誤りであると
断定して切り捨てることは出来ません。

しかし、ならば、イザヤ書53章をどう説明するのか?

この先に解説があるかもしれませんが、避けては通れない
テーマになるでしょうね。

それにしても奇抜なアイデアと切り口で迫るダ・ヴィンチ
の罠は、面白い(クリスチャン以外の人なら)と思います。
ダメな便利屋
信号らしき流れにあるのは認めるが、スパンが長すぎるのは問題だし、当然コメントのチェックをしてるはずなので、変更される恐れは十分に考えられる。
江戸川ドイル
図星です。

次と次の次を見ないと何とも言えないけど、きくらげさんや
むらさきさんが言っているように「D」の出現にパターンがあるなら、一つにはシグナルなのかもしれない
と思って予行演習的に出題したのです。

2号さんから回答があったのは予想外でしたが・・・
きくらげ
今回、このようなシグナルを用いた問いを出題したのには、何かの意図があると思うのだが、

たとえば、2号さんの反応を探るための牽制球だったとか、
「D」の秘密にシグナル・パターン的な要素を見て取ってのプラクティスだったとか?

どうなんですか? ドイルさん!?
江戸川ドイル
了解です。 皆んな、もうわかってるとは思うけど、一応
説明すると、「長短長短短長長」⇒「1010011」の
「長」は数で、「短」は記号です。

つまり「長」⇒「1」は一つを意味し、「短」⇒「0」は
加える(+)という記号を意味します。

「短短」⇒「00」はイコール(=)を意図しているので、
「10100」は「1+1=」となって、

「長長」⇒「11」は、二つ、すなわち「2」となるので
「1010011」は「1+1=2」という等式になって
いるわけです。

ですから、イコール ⇒「00」を挟んだ等価式を返せば
いいので、
長さを気にしなければ無数の返信が可能です。

以上ですが、たくさんのご返信ありがとうございました。
やぶにらみ
深夜まで待ってみたが、誰も返答せんので、失礼して、
「111 0 10011」では、どうですかな?
江戸川ドイル
無数にあるというのは言い過ぎで、信号が無意味に長くなるだけで、生産的ではなく、発展性もないので、コンセンサス(共通理解)が出来たら、次に「11 0 1001」とか「11・1・1001」というように、「0」と「1」以外に三つ目の要素としての間隔(時間的な空白)を用意して、それぞれの信号の意味を確定していくわけです。

つまり、先の信号の場合は、「0」に対応する反対の意味が「・0・」になるわけですが、

誰でも結構ですので、リオーダー「11・0・1001」に答えてみてください。
やぶにらみ
解りましたぞ! なるほど算数ですな!

〇と〇で〇〇だから、「1010011」と訊いたわけで、
答え方は無数にあるということか!
江戸川ドイル
なんとなくですが、言いたいことはわかりました。

愚問でしたね(-_-;)

あと、ココナン君もクリアです。 

これだけの解答があれば、もう気付くでしょうが、ヒントを
ひとつ、「10100101」がよりベターな返答です。
ココナン
わかった! ドイルさんと2号さんのやり取りを見ていて、
やっとわかりました。

「1010011」に、「11110011011」って、
ボクなら返信します。

「1001」には、「11100111」ですね。
透明人間2号
「11001 0 10011」
江戸川ドイル
了解(''◇'')ゞです。

ところで、「D」の有無はシグナルになってるんですか?
透明人間2号
そうですね、「1001」に対してなら、「110011」でしょうか?
江戸川ドイル
どうやら、2号さんとの交信は可能なようですが、念のために「1001」と送りますので、返事を返してください。
透明人間2号
おじゃま虫さんのコメントをヒントに「1010011」との信号の返信として思いついたのは「101100111」ですが、どうでしょうか?

おじゃま虫
今日は時間もあるし、算数で解けるならと思って考えたんですが、やぶにらみさんのコメントの②で気づいたことに送信と受信で「長」=「1」の数が同じですよね。

だから、やぶにらみさんは「短短短」=「000」と送ってみようかと、10/22にコメントしたのだと思います。

そして、①と③を合わせると最初の信号になって、「10100」と「11」では「1」の数が同じです。

どうも、この辺に糸口がありそうなのですが・・・
やぶにらみ
二進数ではなく、単純に算数なら何とかなるとチャレンジしてるが、これまでに得た情報によると、

①、「1010011」に対して、間をあけて同じ信号を返したら、「10100」と戻って来た。
②、「1010101」では、「1111」と返信があった。
③、「1」とだけ返信したら、「11」と返って来た。

さて、

④、①と③の返信を合わせると、最初の信号になる。
⑤、①と③から考えられるのは、「10100」と「11」とは同類ではなく、「10100「と「1」は同類か同じ意味合いの可能性がある。
⑥、④からは、①と③との組み合わせで、一つの短い句や節が完成される可能性が考えられる。

これを数学ではなく、「算数で考えろ」と言うわけですな。
江戸川ドイル
返信が遅くなり、申し訳ありませんでした。

早速ですが、数学的解釈と同時に数を表現する方法の確認という2号さんの「記数法」のアイデアは素晴らしいと思いますが、誰もが簡単に発想(計算)できるものではないですよね。

それに、相互確認のためには、何回かの信号の往復が必要で、仮に「1010011」⇒「83」という意味だとしても、記数法なのか、元素番号的なものなのかの判断にも迷うことになります。

正直言って、出題した問題は、もっとずっと単純なもので、ココナン君の10/21のコメントが、かなりいい線をついてると言えます。

ココナン君の考え方をベースにして、2号さんの「記数法」を数学的思考ではなく、算数的に単純化してみたらいいと思いますよ!
ココナン
ボクのイメージとは違いますが、仮に、記数法の確認だと
してみると、「83」⇒「20」は筋が通ります。

2号さんのように桁上がりの意味で「1000」を返信すると
いう方法もありますが、信号が長いので同じ桁での繰上り
としては、「10」から順に「20」ですから、返信は「30」
がいいでしょう。

「85」⇒「15」も、「100」か「70」で返すのがいいと
思います。 十進法ならば、「85+15」=「100」または
「85-15」=「70」となるからです。

「1」⇒「3」も、「2」と返すべきでしょう。それで十進法での自然数の数え方が伝わるはずです。

ただ、ボクとしては記数法ではないような気がします。

なんとなくですが・・・
やぶにらみ
数学はまるで苦手でトンチンカンだが、一応 調べてみた。

仮に、二進数だとした場合、間隔をあけて同じ信号「83」
を送ったダメな便利屋さんへの返答が「20」で、「85」と
送ったやぶにらみへの返事が「15」で、おじゃま虫さんの
「1」に対しては「3」が返されたということになる。

「83」⇒「20」、「85」⇒「15」、「1」⇒「3」

これでは、何がなんだか分かりませんな!?

ただ、どの場合でも「ツーツーツー」⇒「111」⇒「7」
と送ってみるというココナンさんは、二進数とは無関係の
はずだが、きくらげさんのコメントをみると、何か通じる
ものがあるような気もする。

「なんとなく」では、ココナンさんも分からんとは思うが。
きくらげ
2号さんのヒラメキ💡に乗っかれば、

10の素因数分解は、2×5で、約数は4個、4番目の素数は7、
100の素因数分解は、2×2×5×5で、約数は9個、9番目の素数は23になる。

ちなみに、14番目(2+2+5+5)の素数は43となって、
4+3=7、つまり、2+5=7となる。

前言撤回! 何か臭う気がするが・・・
透明人間2号
「ツートンツートントンツーツー」バイナリで表示すれば、「1010011」と唐突に送られてきた信号に何と応答するのか?

面白い問題だと思います。

仮に、二進数の信号だとして、それを十進数に変換すれば、「83」になります。

「83」は素数で、順番で言えば、23番目の素数になります。

興味深いのが「8+3」=11、「2+3」=5、「8-3」=5 で、
「11」は5番目の素数になります。

さらに、「5」までの素数を加算すると、2+3+5=10、
「23」までだと、2+3+5+7+11+13+17+19+23=100
になります。

つまり、宇宙に共通する数学的な概念として、意思の疎通に欠かせない記数法の確認をしているのではないかと思われます。

そこで、「1111101000」と二進数で「1000」を意味する信号を返してみたいと思います。

さて、記事の更新ですが、更新すると新しい記事が注目されて、それまでのコメントが「おざなり」から「なおざり」にされてしまう傾向にあるのも理由のひとつですが、皆さんからのコメントの内容に関心が奪われ気味で、思うように筆が進まないというのが実情です。

しかし、そうとばかりも言っていられないので、近々には
アップしたいと考えています。
やぶにらみ
一か八かで送った「長短長短長短長」の返事が
「長長長長」であったのなら、次には「短短短」とでも送ってみようか!
きくらげ
普通、知らない者同士が出会ったら、「Who are you ?」

「アンタは誰?」でしょ!

「長短長(貴方か、誰)短短(は)長長(誰か、貴方」

「長」=私、「長短長」=貴方か誰、「長短長短長」=彼(彼女)か、それ、どれ、これ・・・

つまり、ダメな便利屋さんへの返事は「アンタは?」で、
やぶにらみさんへの返事は、「誰、アンタたち?」で、
おじゃま虫さんへの返事は、「誰、アンタ?」かもね!

ちなみに、「長長長」=皆か、仲間ということで・・・
ココナン
攻撃を受ける危険性が消えたのなら、「頭の体操」ですね。

「長短長短短長長」に対し、「長/短/長/短/短/長/長」と間をおいて区切って送ったら、「長短長短短」と返事があり、
「長」とだけ送った時には、「長長」だったとすると、

この二つを合わせると、最初に送られてきた信号と同じになります。

もし、間隔を空けた信号を「意味不明」と理解したなら、
「長長」を除いた意図は何でしょう?

また、単に「長」とだけ打った時に、その除かれた「長長」が返されたのは、偶然なのか、それとも・・・

そして「長 短 長 短長 短長」または「長短長短長短長」とした場合の返事が「長長長長」だったとすると、

なんとなくですが、ボクならば、いずれの場合においても「ツーツーツー(長長長)」と返信してみます。
江戸川ドイル
期待したほどのレスポンスじゃなかったのが残念だけど、
なかなかに面白い答えが返ってきました。

取り敢えず誰も攻撃を受けることはなく、それぞれ、

ダメな便利屋さんには、「ツートンツートントン」
やぶにらみさんには、「ツーツーツーツー」
おじゃま虫さんには、「ツーツー」

という返信が送られてきました。

どうやら、敵対する関係よりも意思疎通を求めているようです。

どのような返事を送りますか?
おじゃま虫
「運否天」って、運否天賦のことですよね?

わたしも運に任せて「ツーツーツーツー・トントントン」=「長長長長 短短短」(ワカリマセン)で送信しようかとも思いましたが、(ざけんなよ!)だったら恐いので、「ツー」とだけ打って送信完了です。
やぶにらみ
迷っている時間はない。 こうなれば、運否天ですな!

この中で複数のペアになるのは「短長」の2つしかない。

「長 短 長 短 短 長 長」⇒「長 (短長) 短 (短長) 長」

そこで、共通要素をまとめて、等価的に多項化すると、
「長・短・長・(短長)・(短長)」に分けられる。

一か八か、間隔を空けて「長 短 長 短長 短長」か、
「長短長短長短長」と送ってみる。

むろん、バリアなどの防御システムを張ってのことだが。
ダメな便利屋
意味不明の信号の解読は短すぎて不可能だ。

要は、こちらに敵意がないことをどう伝えるかだが、これも簡単ではない。

一か八かの信号を送るくらいなら、先制攻撃をしたいところだが、それではドイル氏の問題にに屈することのなるので、理解不能という意味を込めて、一定の間隔をあけて、

「長 / 短 / 長 / 短 / 短 / 長 / 長」と同じ信号を返す。
ココナン
敵味方の識別方法はあるはずなので、味方(同胞)ではないとの認識のうえで送って来た信号であると想像されます。

同じ信号を送り返すという手もありますが、「〇〇ならば、攻撃する」に近いニュアンスだと先制攻撃をされる危険性があるので、安易な返信は禁物ですし、応答しないでいるのはもっと危険です。

難しいですね、正解なんてあるんですか?
江戸川ドイル
モールス信号で思い出したのが、以下のような問題だった。

宇宙空間を航行中に正体不明の宇宙船と遭遇した時に、次のような信号が送られてきた。

「ツートンツートントンツーツー」

要は、「長短長短短長長」=「 - ・ - ・ ・ - - 」というシグナルです。

このシグナルに何と応じればいいか? という問題です。

通信内容の意味は不明で、「敵か味方か」と問うたのか?

「合言葉を言え」なのか? 「停止しなければ攻撃する」
なのか? 皆目、わからないわけです。 

さて、何と返信すればいいのでしょう?
やぶにらみ
むらさき納言さんのこれまでのコメントによる情報から推測するに、モールスやバイナリ式の信号かもしれませんな。

 ・―・―・・― とか、 0 1 0 1 0 0 1 とか!?
ダメな便利屋
次回のタイトルが楽しみになってきた。

明らかに意図し計画された「D」であり、江戸川ケイシ氏や、むらさき納言氏、きくらげ氏たちの言うシグナルである公算が高いが、パターンがイマイチよく分からない。
むらさき納言
予想した通りに、タイトルの頭文字に「D」が来ました。

デウテロノミウム(Deuteronomium)
『申命記』とは、舌がもつれそうですが・・・

でも、この次と、その次まで、待たないと想定したものか
どうかの判定はできません。

もちろん、その段階でも、まだ、そうだとは言い切れない
のですが、そのあとも想定されるパターンが続くとなると
『黄金比』に限りなく近づくことになります。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「ノンジャンル」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事