『旧約聖書』の中でも有名な預言のひとつに
して、かつ論争の絶えない『ダニエル書』
9章24-27節は「七十週預言」と呼ばれる
もので イスラエルの民とエルサレムについて
の定められた期間を告知した言葉です。
「あなたの民とあなたの聖なる都について
は、七十週が定められている」
(ダニエル書9:24)
この預言の前、9章の前半部にあるように
ダニエルはエレミヤの言葉から、エルサレム
の回復はエルサレムの荒廃から70年の後に
起こる(捕囚が終わる)ことを知るのですが、
『ダニエル書』 i.ytimg.com
「神」は御使いガブリエルを通して、真の
復活を遂げるまでには 9章24節にあるように
「七十週」が定められているとしたのです。
「70年」であったり、「七十週」だったりと
なんだか頭が混乱しそうですが、
ダニエルは、捕囚となったバビロンで読んだ
『エレミヤ書』でそれ(70年)を知るのです。
「この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。
そして、その国々は七十年の間バビロン
の王に仕える」 (エレミア書25:11)
『エレミヤ書』 Wikipedia
「主はこう言われる、バビロンで七十年が
満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、
わたしの約束を果たし、あなたがたをこの
所に導き帰る」 (エレミア書29:10)
詳しくは、
『ダ・ヴィンチの罠 受膏者』
の記事を参照してください。
要は、それ(定められた七十週)が、
ダニエル書 kyukyoku-matome.com
イスラエルの民に与えられた猶予の期間で
あって、その間に悔い改めなければ、破滅の
道を歩むことになる運命を、メシアの到来
に託して警告していたとするのが、
ダ・ヴィンチの解釈にして、推理なのです。
「七十週」とは、
『ダ・ヴィンチの罠 七十週』
に書いたように、70×7年=490年の期間を
隠喩する表現で、この間に、イスラエルの民
とその都であるエルサレムは、ペルシャから
ギリシャ、そして ローマとその支配者たちは
変われども、イスラエルの「神の御名」は
それこそ蹂躙され続けてきたわけです。
それと言うのも、当時の戦いにおける勝利
は それぞれの国の「神」の勝利であって、
敗北を喫したイスラエルの「神」の御名
は、辱められ、卑しめられ、貶められて ・・・
蔑ろにされ続けていたわけですから
したがって、
ダニエルの願いや希望や祈りの第一には、
エルサレムの都の復興もさることながら、
わが「神」の御名や名誉の回復が
まず最初にあって、メシア到来の目的
も、そのことに収斂されるべきであると、
ダ・ヴィンチはそのように考えたのです。
そこで、
「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」
『ダニエル書』9:26
ここでの彼(メシア)を、イエスではなく、
「悔い改め、神の前に立ち帰れ」
と説いては ヨルダン川で「洗礼」を施して
いた洗礼者ヨハネこそが、
『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ
ダニエルの言うところのメシアであった
とダ・ヴィンチは推理したわけです。
洗礼者ヨハネによる洗礼を受けて、
膏(あぶら)そそがれし者(メシア)となった
イエスが、およそ三年半にわたる宣教を
経て、十字架上での死の贖(あがな)いで、
『Christ of Saint John of the Cross』
十字架の聖ヨハネのキリスト ダリ画
注 洗礼者ヨハネと十字架のヨハネは
それぞれ別の人物です。
この世の「罪」を清算(完済)したとする
パウロのドグマ(教義に)、敢然として
「NO」を突き付けているわけですが、
その意思は、人知れずダ・ヴィンチの描く
絵画や壁画のなかで息づいているのです。
(んんッ !!)
「えっ !!」
同床異夢であったユダとイエス
入れ替わっているヨハネとイエス
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
さて、
洗礼者ヨハネが目指したのは、自身
の宣べ伝える「悔い改め」とそれに伴う
「洗礼」であって 何らかの規律や戒律に
基づく宗団の形成や後の「キリスト教」
のような教団(宗教団体)の創設ではなく、
自分のもとに集まる人たちを他の宗団や
世俗の枠や家族から分離することなしに、
ユダヤ(ガリラヤ地方)の民衆の全体に
別け隔てなく「悔い改め」を呼びかけた
わけで そこには些かのポーズもなければ、
『福音書』に記されるイエスの如き
『旧約聖書』の預言に沿ったいかにもな
わざとらしさは微塵も感じないわけです。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何を
しているのか自分でわからないのです」
(ルカの福音書23:34)
『キリストの磔刑』ルーベンス
自分から十字架に架かっておきながら、
ホントに、「よく言うよ !!」
ダ・ヴィンチはそう思っていたはずです。
十字架上での死の間際につぶやく
「わたしは渇く」にしても、
出典:jcfa,,exblog.jp
『詩篇』 9:21にみられるメシア預言
「彼らは私の食物の代わりに苦みを与え、
私が渇いたときには酢を飲ませました」
が成就したと『福音書』では讃えるが、
出典:blog.goo.ne.jp
「イエスは、今や万事が終わったことを
知って、『わたしは、渇く』と言われた。
それは聖書が全うされるためであった」
(ヨハネの福音書19:28)
要は、
『旧約聖書』の記述が成就するため
に「わたしは、渇く」と わざわざ言った
ということであって、
出典:blog.goo.ne.jp
最後にイエスは人々が差し出す酸い
ぶどう酒を含ませた海綿を口に受けて、
出典:blog.goo.ne.jp
「すべてが終わった(完了した)」
と言って、首を垂れて息を引き取ります。
(ヨハネの福音書19:30)
出典:ameblo.jp
レオナルド・ダ・ヴィンチの解釈によれば、
イエスはキリスト(救世主=メシア)で
はなく 洗礼者ヨハネの後継者であり、
真の救世主(キリスト)は志半ばにして
「斬首刑」の罠に陥ってしまったアロン
の末裔である洗礼者ヨハネ その人で
あって、『ダニエル書』9章26節にある
「膏そそがれた者」とは、
ヨハネによるイエスの洗礼 blogs.yahoo.co.jp
アロンのメシア 洗礼者ヨハネ
のことであり、ナザレのイエスなどでは、
断じてないと言うわけです。
ポイントはAD27年という年にあります。
聖書的な常識においては、AD27年から
イエスの公生涯が始まり、『ダニエル書』
にある「七十週預言」が、そのことに
よって成就したとするわけですが、
異論、反論、オブジェクション(objection)
するならば、
『イエスの洗礼』www.daiwanmsr.com
洗礼者ヨハネがヨルダン川において
洗礼活動を始めたのも、同じ、AD27年
であったということを蔑ろには出来ません。
それでは、
上記の記事によって、「七十週預言」
の内の六十九週までの出来事については、
一通りの理解があったものとして 最後の
一週(7年間)を見て行くことにしましょう。
六十九週の後、メシアなるひとりの君が
現れ、彼は、何も残さないまま無惨にも
命を絶たれることになるわけですが、
それがいつの出来事であって、どのような
かたちで命が断たれたかは 重要なポイント
であり、争点になり得べきもののはずです。
当然、それはAD27年からAD34年までの
7年間の内のいずれかの年であって、その
詳細についての言及はありませんが、
「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」
『ダニエル書』9:26
という文言から察するに、それほど大きな
事件として記憶されるような「出来事」
ではないような記述(表現)に思われます。
『福音書』が語るように、十字架に架る
までの一連の出来事や十字架上での死の
贖(あがな)いにおけるパフォーマンス、
出典:www.jizai.org
そして、三日後に起こったとされる復活
など、かたちとして残されていてしかるべき
イベントの数々は『ダニエル書』の預言
では何も示されてはいないのです
ただ、
「膏そそがれた者(メシア)は
断たれ、彼には何も残らない」
と、あるだけです。
その場合に、
獄中で首を刎ねられた洗礼者ヨハネ
『洗礼者ヨハネの斬首』カラヴァッジョ1608年
洗礼者ヨハネが、ガリラヤの領主で
あったヘロデ・アンティパスの手中に
嵌まり、「斬首」されることになったのは、
AD28~29年頃のことと思われます。
十字架にかけられたナザレのイエス
イエスが、ポンティオ・ピラトにより、
十字架にかかったのは、AD30~31年頃
のことと思われます。
あなたには、
の「斬首刑」と、 の「磔刑」なら、
どちらが「断たれる」という表現にピタリ
と合致すると思われるでしょうか
はてさて、
膏そそがれた者(メシア)である彼とは、
一体、誰なのか、『ダニエル書』での
続きをチェックしてみましょう
「その六十二週の後、膏そそがれた者
は断たれ、彼には何も残らない」
「また 来たるべき君の民は、町と聖所
を破壊する。 終わりは、洪水のように
起こり、その終わりまで戦いが続いて、
荒廃が定められている」
(ダニエル書9章26節)
『ダニエル書』www.mustardseedosaka.com
「来たるべき君の民」とは、
一般には、ローマ皇帝配下のローマ兵
であるとされていますが、
ダ・ヴィンチは、イエスとその僕である
キリスト教徒を指すと考えました。
「町と聖所」とは、
ユダヤ社会を統制、規制している律法
や『申命記』に定められた掟や儀式や
祭祀など ユダヤ教として成立(確立)
する前の一切合切の事柄を指すもので、
「終わり」とは、
そうした旧態(古くからあった体制)の
崩壊や変革を意味し、
エルサレムに入城するイエス
「洪水のように」とは、
洗礼者ヨハネの斬首をキッカケに
して、渇望されていた救世主(メシア)を
待ち望む声が徐々に水かさを増すように
溢れ出し、遂には民衆のうねりが怒涛と
なって堤防を破壊する。
出典:blog.goo.ne.jp
つまり、イエスのエルサレム入城から
十字架上での死に至るまでの出来事が、
「過ぎ越し祭り」を前にした、わずか数日
の間に起こったことの比喩であって、
「終わりまで」とは、
今もってなお、再建が叶わない信仰の
源にしてイスラエルの象徴であり、神
の住まいでもあるエルサレム神殿(聖所)
の炎上崩壊(AD70年)を指すわけで、
『エルサレム神殿の破壊』フランチェスコ・アイエツ(1867年)
「戦いが続いて」とは、
真の救世主である洗礼者ヨハネを
見限り、イエス側についたユダヤ教徒
(初期キリスト教徒⇒ユダヤ教ナザレ派)
と旧体制下における一般のユダヤ民衆
との確執や軋轢を意図していて、
「荒廃が定められて」とは、
字義通りであって、無用な諍いゆえに
ユダヤの民は散らされエルサレム神殿
には荒廃の2文字が定められたのです。
その次の
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約
を結び、半週の間、いけにえと捧げ物
とをやめさせる。荒らす者が忌むべき
者の翼に現れる。ついに定められた
絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」
(ダニエル書9章27節)
ゴグとマゴクの戦い ameblo.jp
この預言(9章27節)を2000年以上の
空白期間を置いた現代にあてはめて、
7年間の患難時代がやって来るとか、
ハルマゲドンの戦いがあるとか、
ハルマゲドンの戦い www.bible-jp.org
終末の最終戦争の預言であるとする
聖書解釈が一般的ですが、
ダ・ヴィンチの見方は違いました。
ダニエルの祈りも空しく、繰り返し申し
伝え、命じていたはずの『申命記』
『申命記』23章21-23 yahoo.co.jp
その他に明示されているモーセの律法
をユダヤ人が蔑ろにしていたからである。
と、ダ・ヴィンチは洗礼者ヨハネを
介して伝えているのです。
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
要するに、
この預言は、その前の9章26節を補完
したもので、「第一次ユダヤ戦争」
を実際には指し示しているのです。
イエスの磔刑の後、イスラエルでは
ローマ帝国の強圧ぶりに不満が高まり、
エルサレムでは暴徒たちによる暴動や
反乱が頻発するようになっていきます。
第一次ユダヤ戦争(AD66-73年)は、
当時のユダヤ属州総監であるフロルス
が エルサレムのインフラ整備のための
資金として、神殿の宝物を持ち出した
ことをキッカケに、エルサレムで過激派
(熱心党など)の暴動が起こったことに
端を発します。
暴動の火の手は瞬く間にユダヤ全域
に拡大し、ローマ政府は 緊急に軍隊を
派遣して暴動を鎮圧しようとしましたが、
激しい抵抗に退却を余儀なくされます。
ウェスパシアヌス
そこに登場して来たのが有能なる将軍
ウェスパシアヌスで、彼を総司令官とした
大軍勢は、まず 北方のガリラヤから兵を
進め、各地の暴動や反乱を撃破しながら
エルサレムへと駒を進めていました。
ところが、
ローマでは皇帝ネロの自殺(AD68年)
があって、その後1年間に3人の皇帝が
選出されては殺されるという後継者選出
の混乱に進軍は一時中止されます。
かの地でローマの様子を見守っていた
ウェスパシアヌスでしたが、
東方の諸軍団(シリアやユダヤ属州)の
推挙を受けた彼は、AD69年に皇帝の位
に就くために息子ティトゥスに後を托して
ローマへと赴き、第9代目のローマ皇帝
(AD69-79年)となるわけです。
第10代皇帝ティトゥス
後に、第10代皇帝(AD79-83年)となる
ティトゥスは、70年春に総勢8万の大軍で
エルサレムを包囲し、5か月に及ぶ激闘
の末に、聖都エルサレムは神殿もろとも
紅蓮の炎の中で滅亡したのでした
『エルサレムの包囲と破壊』デイビット・ロバーツ(1850年)
ここにおいてユダヤ教は、その中心で
あった神殿の崩壊とともに、宗教社会と
しての全体系が瓦解をし、神殿を基盤と
したサドカイ派、戦いを主導した熱心党、
それに同調したエッセネ派など、大多数
の宗派・宗団が消滅していったのです。
そんななか、熱心党を中心にする一団
が3年にわたり、砦に立てこもり、
マサダの砦の跡
ローマ軍と対峙して 集団自決を遂げた
地が史実に名高い「マサダ」です。
しかしながら、
これらの試練(悲劇)により、ユダヤ教
は大きな変貌を遂げることになります。
エルサレム陥落の直前に脱出に成功
したファリサイ派の一部穏健派によって、
神殿なきユダヤ教の中心はシナゴーグ
(会堂)とディアスポラ(民族離散)を
紐帯とした宗教へとその舵を切ること
で、今もなお、命脈を保っているのです。
ところで、
ヘブライ語で冒頭の語から言葉という
意味を持つ『申命記』(デバリーム)
はある意味、「ロゴス」と一緒よね。
デウテロノミウム(Deuteronomium)
第二律法とされているようじゃが、
「律法の写し」の誤訳じゃとか ・・・
今回はやけに
「アカデミカルな展開よね」
まあ、
「彼と堅い契約を結んだからな」
「えっ !!」
「彼は一週の間、多くの者と堅い契約
を結び、半週の間、いけにえと捧げ物
とをやめさせる。荒らす者が忌むべき
者の翼に現れる。ついに定められた
絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」
(ダニエル書9章27節)
(ホンマかいな)
・・・ って、おいおい、
「聖書で遊ぶなよ !!」
… to be continue !!
(… to be continued !!)
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
繰り返し命じていたのに ・・・
(ゲロゲロ ・・・)
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