ビジョンなき復興計画にどうにも道筋が見えないままに
ただただ時間だけがダラダラと流れているように感じます。
困窮する被災者への義援金の大半は、未だ銀行の金庫に
静かに眠ったままの状態だとか …
伝えられる震災のニュースは、極々あたりまえに平々凡々
と生活することが出来る普通の暮らしが如何に有難く幸せな
ことなのか、をあらためて教示してくれているようです。
さて、
東日本大震災と連動して起こった福島第一原発の大事故
以来、「オオカミ少年」 という言葉や文字(活字)など
が巷に氾濫してしているようですが原発事故に限って言えば
、その使われ方は、概(おおむ)ね、<嘘をつく> こと
の 代名詞 とされているようです。
その福島第一原発での1号機への海水注入の問題では、
政府と斑目(まだらめ)春樹原子力安全委員長とのあいだで
「言った」「言わない」 の助言に関するアホらしい
騒動が繰り広げられたわけで、もう、いい加減にうんざりを
通り越して悲しい限りのお粗末さに言葉もありません。
「再臨界の危険性がある」 との原子力委員長の意見は
「可能性はゼロではない」 であったと訂正されて …
結局は、双方の顔を立てるかたちでの手打ち となった
わけだけど、それじゃ、一体、被災者たちの顔はどう立てて
くれるというのでしょうか
同じ 手打ち でも被災者は、平手打ち を食らった
ままの熱く痛い頬にそっと手をあてることさえも出来ないで
いるというのに …
ところで、最近、よく目や耳にする
SPEEDI (緊急時迅速放射能影響予測ネットワーク
システム) の試算結果は、なな、何と、「発表するとかえって
社会的混乱を引き起こすのでは … という躊躇(ためら)いが
あった」 との理由から事故発生後から2週間近くも経過した
3月23日になってやっと公表されることになったのです。
そもそも SPEEDI は、今回のような事態を 想定 して
総額128億円もの巨費(公費)を投じて 開発 したシステム
のはずだったのに非常時の住民避難の際の判断材料には
終(つい)ぞ活用されることはなかったのです。
このシステムの開発そのものが、原子力発電の安全神話
とは矛盾するリスク管理(避難及び安全防護回避策)だけど
これじゃあ、せっかくのネーミングも、ちっともスピーディでは
ありません。
こうした、「パニックを防ぐため」 との大義名分に毒されて
<情報操作> している事実が次々に暴露されている
現状は、うわべだけを飾り繕った誠意の無い美辞麗句よりも
はるかに 醜く かつ劣るもので 事実 も 嘘 であるとする
意味での 「オオカミ少年の物語」 をそれこそ地で
ゆくことになってしまうでしょう。
政府や原発関連の組織・団体、東京電力あるいは一部の
報道機関(マスメディア)は明らかに情報を操作しています。
操作(コントロール)とは、この場合、情報の隠蔽に始まり、
公式発表や発言の自粛に制限、意図的な遅延策や矮小化、
不明確を盾にした否認・否定的見解、そして、地すべり的な
容認・要請のすべてと恣意的な捏造までを包含しています。
耳障りのいい情報だけが心を安らかにするものではない
ように、耳障りの悪い情報が必ずしも深刻で重大なパニック
を引き起こすというものでもないのです。
むしろ危険であるということを認識することの方がパニック
を起こさないための動機付けになるでしょう。
パニックの発生には、いくつかの条件が必要です。
まずは、 絶対的な危険状態(危機意識)の認識
危機回避不能(逃げ道の不足)の認識
不確実情報の氾濫あるいは情報の不足
、、、のそれぞれは 必要条件 ではあるけれど
十分条件 であるとは言えず、単独では 絶対的 な
意味での 必要十分条件 にはなりえません。
つまりは、この3つの条件のすべてが揃わないとパニック
は発生しないのです。
逆に、この中のひとつでも欠ければパニックは未然のうち
に防げるのです。
今回で言えば、危機的状況として は当然のことですが、
も放射線という目に見えない恐怖においては当然のこと
に逃げ道がわかりません。
しかしながら、
必要な情報を迅速かつ的確に伝えることで に対応する
発生条件である「情報不足」の解消と「不確実情報の氾濫」
を抑えられれば、心配されるパニックは起こりえません。
情報操作の弊害は、明々白々 です。
情報不足は被災住民のみならず我々、国民に不安や疑心
を植え付けて混乱させます。
根も葉もないさまざまな噂の発生を招き、噂が噂を読んで
乱立・氾濫して不足した情報の穴埋めを始めます。
こうして、いかにも尤(もっと)もらしい フィクション が
危険にも創作されていくというわけです。
ましてや、情報操作の事実が次から次へと公然と明るみに
出てきてしまったのでは、情報の信憑性は皆無に等しくなり、
発信者と受け手との信頼関係は大きく崩れて、もはや、誰も
国家・政府・行政の担当者などの出す情報を俄(にわ)かに
は信用できなくなってしまいます。
いたずらに安心安全を強調する政府関係者や行政担当官
に専門家たちの言質、そして、それを無批判に伝えるだけの
マスメディアには、失望を禁じえません。
しかるに、いま、日本では …
「オオカミ少年」 の住む村で起こった出来事と同じ
ようなことが起ころうとしているのです
本当のことを言っても嘘になり、嘘をついても事実として
公表されるというわけなのです。
早速にも、
本日の午後なって、事故翌日の初期段階での海水注入が
55分間に渡って、中断していたという事態から、首相の関与
が問題となっていたこの出来事の新事実として、実のところ
は、<福島第一原発の所長の自主判断で海水の注入は
継続していた> との修正報告がなされたのです。
一体全体、
この国の 真実 とやらはどうなっているのでしょうか
たとえ、不完全なデータや希薄な根拠に基づく情報であれ
現時点での具体的なリスクを包み隠さず公表して、それらを
誠実に解説するのが本筋であり、希望的観測からの勝手な
解釈や辻褄合わせを押しつけられたのではたまりません。
被災住民の方々も国民のひとりひとりも正しい情報のもと
に安全か否かを判断し、果たしてどこまでのリスクの範囲
なら許容出来るのかを決めるのは、あくまでも各個人個人
の最終的な判断にあるです。
グローバル化により、複雑で多岐に渡る目配せや配慮が
必要となった社会では秘匿性や隠蔽体質が蔓延(はびこ)る
のかもしれませんが、いまは人の命に関わる非常事態です。
現代社会における処世の複雑さに加えて、相互依存から
派生する「新たな脆弱性」としての隠蔽社会は、
『オオカミ少年』 の物語につながる悲しい 結末 を
連想 させてしまいます。
オオカミ(放射能)が襲って来たという(危機的な事実)
を知らせても、相当数の被害が出ますが、知らせなければ
経済的な被害と犠牲者の数ははかりしれないものになるで
しょう。
広範囲に撒き散らされた放射性物質が現実に残っている
だけではなく、いまもなお、放射性物質を放出しつづけている
という厳然たる事実のまえには、ただ空しくコダマするだけの
「オオカミ少年」 の叫び声は聞こえないのも同然の
憐れな警告でしかないのでしょうか
こうして …、
「オオカミ少年」 の 謎 はさらに深まり、推理 は
いつまでも尽きることがないのです
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