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歯科技工士・岩澤 毅

半藤一利 (著) 戦争というもの

2021年08月26日 | amazon.co.jp・リストマニア


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歯職人
5つ星のうち5.0
歴史探偵・半藤一利氏の最後の雑誌連載の孫娘さんによる書籍化
2021年8月26日
太平洋戦争を中心に歴史の失敗、失敗の背景を追い続けた歴史探偵・半藤一利氏の遺作です。
編集担当は、半藤一利氏の孫娘であるPHP研究所北村淳子さん。
半藤さんが自らの老いや病状を考慮し、最後の雑誌連載と書籍化を孫娘に託す形で、出来上がった形です。
半藤さんの東京の空襲下で逃げ回り、生き延びた原体験をあくまで持ち続け、歴史を見続けた半藤さんの生き方が結晶した様な一冊です。

戦争というもの 単行本 – 2021/5/13
半藤 一利 (著)
『昭和史』や『日本のいちばん長い日』など、数々のベストセラーを遺した昭和史研究の第一人者・半藤一利が、最後に日本人に伝え残したかったこととは――。

本書では、太平洋戦争下で発せられた軍人たちの言葉や、流行したスローガンなど、あの戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を、著者ならではの平易な文体で解説する。
開戦から80年の節目の年に、「戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした、後世に語り継ぎたい珠玉の一冊。

「戦争の残虐さ、空しさに、どんな衝撃を受けたとしても、受けすぎるということはありません。破壊力の無制限の大きさ、非情さについて、いくらでも語りつづけたほうがいい。いまはそう思うのです。
九十歳の爺さんがこれから語ろうとするのは、そんな非人間的な戦争下においてわずかに発せられた人間的ないい言葉ということになります。いや、全部が全部そうではなく、名言とはいえないものもまじりますが、それでもそこから将来のための教訓を読みとることができるでありましょう。むしろ許しがたい言葉にこそ日本人にとって教訓がつまっている。そういう意味で〈戦時下の名言〉と裏返していえるのではないかと思うのです」――本書「まえがき」より抜粋

出版社からのコメント
<目次>
まえがき
一に平和を守らんがためである(山本五十六)
バスに乗り遅れるな(大流行のスローガン)
理想のために国を滅ぼしてはならない(若槻礼次郎)
大日本は神国なり(北畠親房)
アジアは一つ(岡倉天心)
タコの遺骨はいつ還かえる(流行歌「湖畔の宿」の替え歌)
敗因は驕慢の一語に尽きる(草鹿龍之介)
欲しがりません勝つまでは(国民学校五年生の女子)
太平洋の防波堤となるのである(栗林忠道)
武士道というは死ぬ事と見付けたり(山本常朝)
特攻作戦中止、帰投せよ(伊藤整一)
沖縄県民斯かく戦へり(大田 実)
しかし――捕虜にはなるな(西平英夫)
予の判断は外れたり(河辺虎四郎)
あとがき
解説 半藤末利子
編集後記 編集担当 PHP研究所 北村淳子
著者について
1930(昭和5)年、東京生まれ。東京大学卒業後、文藝春秋に入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役などを経て、作家となる。1993(平成5)年、『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞、1998年、『ノモンハンの夏』で山本七平賞を受賞する。2006年、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』で、毎日出版文化賞特別賞を受賞。『決定版 日本のいちばん長い日』『聖断―昭和天皇と鈴木貫太郎―』『山本五十六』『ソ連が満洲に侵攻した夏』『清張さんと司馬さん』『隅田川の向う側』『あの戦争と日本人』『日露戦争史』など多数の著書がある。

https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/8519
「俺、書こうかな」。祖父・半藤一利から孫娘の編集者に託された一枚の企画書
2021年05月05日 公開
北村淳子(編集者)

半藤一利  『戦争というもの』
2021年1⽉に逝去した昭和史の語り部、半藤⼀利⽒。⽣前最後の連載原稿を書籍化した『戦争というもの』が刊⾏される。

その本では、太平洋戦争下で発せられた軍人たちの言葉や、流行したスローガンなど、あの戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を解説している。戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした、後世に語り継ぎたい珠玉の一冊である。

本稿は、半藤氏の孫であり、本書の編集を担当した北村淳子氏の編集後記から、出版にまつわる祖父とのエピソードを紹介する。

※本稿は、半藤一利 著『戦争というもの』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

“普通のおじいちゃん”だった
この本の原稿が私の手元に届いた時、まさかこれが「歴史探偵」半藤一利 の遺作になるとは思いもよりませんでした。半藤は、私の実の祖父にあたります。

私が半藤一利の孫だと言うと、皆さん決まって「半藤先生ってどんなおじい様なのですか」と興味津々に聞いてきます。そして私も決まって、「普通のおじいちゃんですよ」と答えてきました。

孫には甘く、私が成人して晴れ姿を見せれば、ちょっと恥ずかしそうに目 じりを下げる。お酒が好きで、私がお酌をすると、嬉しそうに飲んでくれ る。

私にとって祖父は、長らくそんな普通のおじいちゃんでした。 私が編集者になりたいと伝えた時も、「そんなもん、やめとけ」と、笑って言われたのをおぼえています。

それでも祖父は、本気で反対するわけでも、かといって賛成するわけでもなく、ただ応援してくれていました。 祖父が「普通のおじいちゃん」ではない、と肌で感じるようになったのは、私が編集者になってからです。

出版界に身を置いて編集の仕事をしていると、祖父の存在、そして彼が書くものの尊さが身に染みてよくわかります。祖父は時折、作家として、そして編集者としての顔も見せてくれるようになりました。

それでも、私はまだ、本当の意味で祖父をわかっていなかった。この『戦争というもの』の原稿を読んだ時、それを思い知らされました。 この本は、半藤一利自身の手で企画されたものです。

入院を繰り返す半藤氏から託された「一枚の紙」
半藤一利 『戦争というもの』
半藤一利氏直筆の企画書

事の発端は、祖父の骨折。2019年8月、未知のウイルスによる混乱がまだ起きていない頃、 祖父は酒に酔い、すっ転んで脚の骨を折りました。救急車で搬送されて、そのまま入院。

心配しながら苦言を呈しているであろう、祖母の渋い顔が目に浮かびました。 手術を受け、治療やリハビリを続けたのですが、状況は芳しくなく、むしろ悪化していきました。

祖父もその時、89歳でしたので、体力の消耗に勝てなかったのかもしれません。入院したばかりの頃は欠かさず読書もしていましたが、入院やリハビリを繰り返す半年間のうちに、本を読む気力もなくなってしまったようでした。

そうこうしているうちに、謎の感染症が流行していき、もしかすると簡単 に会えなくなるかもしれないと思った私は、急いでお見舞いに行くことにしました。

私が病室に行くと、祖父は少し痩せてはいましたが、「おう、よく来た な」と、起き上がって話をしてくれました。母からは「最近はベッドで寝てばかりいる」と聞いていましたが、思いの外元気な様子でした。

正直に言うと、この時何を話したかはあまりおぼえていません。今になるとそれも悔やまれますが、きっと他愛もない話だったのだと思います。 私が帰った後、祖父は母に、「俺、書こうかな」と、ぽつりと言ったそうです。

その後、母を通じて私に一枚の紙が渡されました。そこには太平洋戦争下で軍人が発した言葉や流 行したスローガンなど、「戦時下の名言」と称された言葉が隙間なく、びっちりと書かれていました。

それは祖父が書いた「企画書」だったのです。そこに書かれていたタイトル案は、〈「太平洋戦争記憶してほしい37の名言」、あるいは「孫に知ってほしい太平洋戦争の名言37」〉 ――。

母から、祖父がこれを書く条件は、私が編集することだと聞かされま した。 喜びよりも、戸惑いが先に立ちました。その頃には、私も編集者になって数年が経っていましたが、普段担当しているのは主に小説の編集で、完全に畑違いなのです。

そんな私が扱っていい原稿なのか自信がありません。そのくらいには祖父の大きさを理解していました。しかも「孫に知ってほしい」 なんて、完全に身内ネタです。本に書いて世に出さずとも、直接語ってくれれば良いのに。

そんな企画があって良いのか、生意気にも編集者としても悩みました。 けれど、本も読めないほど気持ちが落ち込んでいた祖父が、再び本を書くために動きだした。

何十冊も書いてきた祖父が、病院のベッドの上にいてもなお、書きたいことがある。それならば、と覚悟を決めました。 改めて話を聞きに行くと、私が病院につくなり祖父は、「今年は数え年でいうと、太平洋戦争開戦80年で」と、企画主旨を滔々とプレゼンし始めました。

その時の声は、とても力強く聞こえました。そして雑誌『歴史街道』 での一部連載の後、加筆して書籍にするという算段がつき、祖父の企画は本格的に動きだしたのです。

祖父と孫が本に込めた“願い”
2020年7月には連載が始まり、11月に終わり、そして今年の一月に祖父は亡くなりました。企画段階では37あった「名言」ですが、実際に綴られたのは雑誌に掲載された14のみ。

すべて書き切れなかったことだけ は無念であったろうと、少し胸が痛みます。 きっと祖父は、これを最後の仕事にするつもりはなく、復帰後最初の仕事にしようと考えていたのではないかと思います。

ただ、祖父も高齢でしたし、先があまり長くないことを意識してはいたのでしょう。だからこそ、いつなにがあっても良いように、戦争を知らない世代のために、これだけは今 書き残しておかなければならないと、私にこの原稿を託してくれた。そう思います。

直接語ってくれれば良いのに、と思っていたこの企画ですが、結局コロナ 禍で祖父とは自由に会うこともできなくなり、この原稿だけが私と祖父を繫ぐ「手紙」となりました。

連載原稿が送られてきてそれを読むたびに、祖父の経験した戦争というものの壮絶さに胸が詰まりました。見たこともない戦火が、目の前に迫ってくるようでした。日常とはこのように壊されていくの かと、恐ろしくなります。

この本は、祖父が最後に私に手渡してくれた平和への願いそのものでし た。本書が、祖父母から孫へ、戦争を知る世代から知らない世代へ受け継が れる、そんな一冊になることを、祖父とともに心から願っています。

2018.11.21
【卒業生の今を紹介】株式会社PHP研究所で活躍!北村淳子さん
https://meijinow.jp/senior/obog/34935



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