東日本大震災から10年。
皆さまはあの日あの時、何処でどうされていたのでしょうか?
何年経とうとも忘れることはありません。
毎年二人で、同じことを話ます。
俺、あの時風邪で寝ていたんだ・・から始まる。
そうなんです。ある方のお見舞いに病院へ行くことになっていたのに
アンちゃんは風邪で行けない。
で、私が今は亡きOさんを乗せて病院へ向かったんです。
駐車場近くへ来たら、医師や看護師さん他大勢の人たちが
外でざわめいていました。
院内で事件でもあって、逃げてきているのかと思ったその時、
車が大きく揺れ、敷地内の大木がユッサユッサと大揺れした。
それで初めて地震だと気が付いたのです。
道中何も感じなかったし、他の車や道行く人の様子に
何も異常を感じるような動きはなかったのです。
エレベーターは当然使用禁止。
5階の病室までハアハア言いながら上がって行った。
既に携帯は通じないし、余震は続くで不気味。
主人が心配しているだろうから一刻も早く帰らねば・・と
お見舞いだけ上げて、只管家へ向かって車を走らせた。
往きの光景とはうってかわり、歩道には心配した人々が出ていたし、
小学生たちは防空頭巾を被って、集団下校していた。
友人を送り届け家の近くまで来たら、近所の奥さんが二人居た。
地震でない小さな揺れでも、とてつもない大声で怖がるYさんは
1回目の地震の時はテーブルの下、2回目はお風呂に逃げ
今は家の中が怖くて外に出て来た・・と言っていた。
話もそこそこに家に帰り車の車庫入れをしていたら、
心配していたようで、アンちゃんが玄関先に出て来た。
物凄い横揺れで、思わずテレビを押さえていた・・と、身振り手振り。
階段の窓際に飾ってあった小さな置物が落ちて、壊れたぐらいだった。
余震を心配して、鏡や額入りの写真は全て外してあった。
それからというもの、テレビに釘付け。
津波の怖さに震えながら、早く逃げて~とか叫びながら
手を合わせ無事を祈るばかりだった。
その夜はいつでも飛び出せるように、大きな袋2枚に
それぞれの洋服やコートを入れ、枕元へ置いて早めに布団に入り
不安な夜を過ごしたのでした。
震災地の皆様の事を思い、関連する新聞記事は全て読みました。
無くなられた多くの方々のご冥福、まだ見つかって無い方々が
一日も早くご家族の元へ帰られますように・・
そして今後の復興など色々なことを思いながら、合掌させて頂きました。
今日の新聞の書き写し。
津波に飲み込まれた園児の送迎バスで、お嬢さんを亡くされた
お母様のことが書かれており、涙しながら書き写しました。
明日も平穏に過ごせますように・・・