「デザインと書(グラフィックデザイナー 亀倉雄策)」を読んで。
筆者の論評によると、
「私は素直で、しかも一生懸命で、そしていい書が好きだ。いい書というのは、その素直さのなかに、
味わいや、哲学的な深さ、明快な雰囲気が、作らず構えずに自然とにじみ出たものである。
だから人間性の高さとか深さが、書では露骨に現れてしまう。
こんなに露骨にごまかせない芸術というのは、他にないのではなかろうか。
人間の浅はかな、いっさいの粉飾をよせつけないのが書の芸術だと思う。」
「書のきびしさにくらべればデザインなんか、どんなにもゴマかせるという気がする。
デザインは計算で効果は成り立つ所業だが、書は計算では成り立たない。
そこがデザイナーのわたしからみると書は面白いと思うのだ。」
「デザイナーがよほどしっかりと『書』というものを見つめ、そしてそれを新鋭な感覚で処理してみせないと、
書とデザインの結合は次第に消滅してしまうだろう」
と述べてあった。
最近は、岡本太郎さんの書をよく見かけます。その書き方の特徴は、デザイン書を取り入れたものです。
岡本さん以外にも、大胆な書き方をしているのを見かけます。
書は古典重視だとよく話を持ちかけられるが、今は、デザインと書の融合があたり前になっています。
私は、デザイン書の良しあし判断は置いといて、良い所は参考にしたいと思っています。
一回書いて終わる書と違って、デザインは細かい修正など、やり直しがききます。
様々な色を使ったり、紙面にもこだわりが無く、何でもありでスケールも大小様々です。
私から見ると、理詰めで何度も多様な方法で、書き直していくデザイン書の方が、細かい作業で
ごまかせないものだと思っています。書はもっと気楽なものではないでしょうか。
まとめると、デザイン書に負けないよう細かい作業を、一回の動作で自然に書いて表現するというのが、
今の書作品には必要不可欠ではないかと思います。
そのために、筆を持って日々練習しているのだと思います。
ただ、コンピュータのように細かくミリ単位に注意して書くというわけではなく、
自身の人間性を、大胆かつ繊細に、自分らしく表現できればそれで良いと思います。
まあ、どちらにしても、楽して作品製作はできないですね。
筆者の論評によると、
「私は素直で、しかも一生懸命で、そしていい書が好きだ。いい書というのは、その素直さのなかに、
味わいや、哲学的な深さ、明快な雰囲気が、作らず構えずに自然とにじみ出たものである。
だから人間性の高さとか深さが、書では露骨に現れてしまう。
こんなに露骨にごまかせない芸術というのは、他にないのではなかろうか。
人間の浅はかな、いっさいの粉飾をよせつけないのが書の芸術だと思う。」
「書のきびしさにくらべればデザインなんか、どんなにもゴマかせるという気がする。
デザインは計算で効果は成り立つ所業だが、書は計算では成り立たない。
そこがデザイナーのわたしからみると書は面白いと思うのだ。」
「デザイナーがよほどしっかりと『書』というものを見つめ、そしてそれを新鋭な感覚で処理してみせないと、
書とデザインの結合は次第に消滅してしまうだろう」
と述べてあった。
最近は、岡本太郎さんの書をよく見かけます。その書き方の特徴は、デザイン書を取り入れたものです。
岡本さん以外にも、大胆な書き方をしているのを見かけます。
書は古典重視だとよく話を持ちかけられるが、今は、デザインと書の融合があたり前になっています。
私は、デザイン書の良しあし判断は置いといて、良い所は参考にしたいと思っています。
一回書いて終わる書と違って、デザインは細かい修正など、やり直しがききます。
様々な色を使ったり、紙面にもこだわりが無く、何でもありでスケールも大小様々です。
私から見ると、理詰めで何度も多様な方法で、書き直していくデザイン書の方が、細かい作業で
ごまかせないものだと思っています。書はもっと気楽なものではないでしょうか。
まとめると、デザイン書に負けないよう細かい作業を、一回の動作で自然に書いて表現するというのが、
今の書作品には必要不可欠ではないかと思います。
そのために、筆を持って日々練習しているのだと思います。
ただ、コンピュータのように細かくミリ単位に注意して書くというわけではなく、
自身の人間性を、大胆かつ繊細に、自分らしく表現できればそれで良いと思います。
まあ、どちらにしても、楽して作品製作はできないですね。