国道4号線を走っていると、必ず目に止まる場所がありまして・・・
その場所は、東北町にある自動車教習所(国道沿い)のすぐ横にあります。
一見、駐車帯のように見えるのですが、実は【日本中央の碑歴史公園】という立派な公園であります。
ということで、公園内にあるこちらの小さな建物へと向かいました。
入口付近に、『日本中央の碑保存館』という看板が見えます。
公園内には、ところどころに句碑や歌碑がありました。
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よく見ると、大町桂月や戦後に活躍した歌人である近藤芳美、金子兜太(俳人)の歌や句が記されています。
共通して見られたのが、「日本中央」とか「石文」、「石ぶみ」という文字。
ここに何かポイントがありそうです。
さて、日本中央の碑保存館の中に入ると、いきなり目の前に大きな石が姿を現しました。
この石は、東北町の有形文化財第一号に指定されているそうです。
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よーく見ると、“日本中央”という文字がうっすらと記されています
この文字は、しっかりと彫られたようなものではなく、何か硬いもので傷をつけたような感じを受けます。
そもそも、この日本中央とはどういう意味なのでしょう?
七戸町史によると、日本(※)とは「日出ずる」という意味で、東方を指すようです。 ※読み方・・・ひのもと
中央政権の側でも、東国を“ひのもと”と呼ぶ例が多いそうで。
ということは、東国の中央ということになるのでしょうか・・・??
県道8号線(主要地方道八戸・野辺地線)の千曳駅付近に、このような看板があります。
「日本中央の碑」発見地と記されているのですが、日本中央の碑は、まさにこの近くで発見されました。
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発見者は千曳の川村種吉さん。
発見当時、村は大騒ぎになったそうです。
それもそのはず。
この石は、多くの歌人が東国に思いをはせて歌枕にし、また、明治天皇が東北巡幸の際に県をあげて探索させたという「つぼのいしぶみ」である可能性が高かったからです。
これで、「つぼのいしぶみ」とされるものは、宮城県多賀城址にある石碑と日本中央の碑の2つになりました。
さて、真相はいかに???
昭和24年6月21日、甲地村(現・東北町)石文集落近くの赤川上流で発見された石を巡って、このあと様々な論争が起こります。
「字はそう古くない、偽物だ」、「四文字の外側に摩滅したあとがあり、かなり古い」、「石文集落の近くで見つかるとは話が出来すぎ」、「偽物ならば、千曳神社付近に埋めるはずだ」などなど・・・
実は日本中央の碑が発見されたあと、撮影のため新聞社が石に墨を塗ったり、写真を撮るために見物客がチョークでなぞったりということがあったようです。
また、それを落とすために石をこすったり・・・
こういった経緯から、発見された時の状況とはかなりの食い違いが生じているのも事実だそうで。
これも、論争の大きな要因のひとつとなったようです。
時は平安末期に遡り、歌学者の藤原顕昭は、つぼのいしぶみを解説した初の書物を著しました。
顕昭は著書「袖中抄(しゅうちゅうしょう)」の中で、将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐で都母(つも)に至る際、その地の大石に弓のはずで字句を刻んだと伝えています。
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ただ、坂上田村麻呂が青森県まで攻めたという記録は残っておらず、後任の文室綿麻呂が都母(※)まで侵攻して蝦夷と和議を結んだときに石碑を建立した、という説が有力なのだそうです。 ※現在の十和田市から上北郡にあたる地域と推測される。
明治に入り、多賀城碑が偽作ではないかという説(※)が流布してくると、つぼのいしぶみを青森県の坪村(平安時代の都母地方)に求める説が広がっていったようです。 ※現在は真作説が有力となっています。
(平安時代後期の文献では、都母を“つぼ”といい外ヶ浜(陸奥湾沿岸)を指していたようですが、一般的には七戸町の「坪」あたりのことをいうそうです。)
様々な文献で、つぼのいしぶみを「壺の碑」・「壺の石碑」・「坪の石文」などと書いているのは、ここから来ているとも・・・。
さて、これまでに何度か出てきた【千曳神社】ですが、日本中央の碑歴史公園から国道4号線を少し南下した場所にあります。
杉の大木に囲まれた鳥居をくぐって進んでいくと、本殿へ辿り着きます。
807年、坂上田村麻呂によって創建されたということですが、社殿が建てられた時期は明らかになっていません。
2007年7月28日には、節目となる1200年祭が開催されました。
千曳神社は、青森県内で最も古い神社であるといわれています。
1876(明治9)年、つぼのいしぶみに纏わる伝説の裏付けのため、明治政府が青森県に依頼してこのお社の下を発掘調査させたのだとか。
ただ、碑らしきものは出土せず、発掘は不発に終わったようです。
さらに、この千曳神社には「千引の石の伝説」というものもあるようで。
神代の昔、北方から渡って来る鬼を追い返すところとして、ある場所に「石の札」を建てたそうな。
そこへ悪鬼が来て、石の札を土中へ隠してしまいました。
それを知った神々が集まって、石の札を探しだした場所が石文村だったのです。
この石を建てた場所はもともと坪村でしたが、坂上田村麻呂がやってきて鬼を残らず退治してしまったために、この石は無用となりました。
そこでこの石を村人千人で引いてきて地下七尺に埋め、その上に建てたのが千曳明神(神仏分離以前の千曳神社)なのだそうです。
実は、明治政府が探していたものは、この「千引の石」であったとも・・・
つぼのいしぶみとわれている“日本中央の碑”と“多賀城碑”・・・ その謎は、未だに解明されていません。
今後、この謎を解くカギは現れるのでしょうか?
ん~、真実やいかに!?
§日本中央の碑保存館§
■住所 青森県上北郡東北町家ノ下タ39-5
■TEL 0175-64-7979
■開館時間 9:00~16:00
■休館日 毎週火曜日、年末年始(12月28日~1月3日)
■入館料 無料
■最寄駅 千曳駅(青い森鉄道)/ 駅から車で約6分
■東北町HP http://www.town.tohoku.lg.jp/
§千曳神社§
■住所 青森県上北郡七戸町字菩提木56
■問合せ 七戸町生涯学習課 TEL 0176-62-9702
■拝観料 無料
■最寄駅 千曳駅(青い森鉄道)/ 駅から車で約11分
■旅の蔵HP http://shichinohe.org/kanko/index.php
by ヴァ♪