その秋、今でも楽しく参加させて頂いている高山ストリートジャズフェスティバルに初参加をさせて頂きました。2008年9月の出来事であります。その頃までは、春の本番前の週末に、コンマス氏の御膝元碧南市にある、とある施設にて合宿をしていたのですが、このイベントを境に合宿を止め、この様な遠征に積極参加すると言う事で方針転換。高山スイングエコーの皆様のあたたかいおもてなしのおかげで、今でも毎年楽しく参加させて頂いているのは、ご承知の通りであります。
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既にこの頃には年中行事として恒例化したオータムライブを、前回大いに盛り上がったエリックマリエンサル氏を再び招く事となり、思い切ってブルーノートへの出演を決める。第4回のオータムライブは、なんとナゴヤブルーノートでゲストがエリックマリエンサルというすごい贅沢なものであった。さすがにこのライブハウスだけは敷居が高く、我々が乗って本当に良いのか!?という躊躇は有ったが、ご覧の様に近年の活動幅はどんどん広がりを見せており、トランペットを吹く機会も俄然増えていた私には、緊張感と言うよりも、ワクワク感が随分あったように感じます。
2008年オータムコンサートポスター
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実はここに書く事すら辛いのだけれども、私とレアサウンズを語るには残念ながらこの事に触れなくてはならない。2006年、ボビー・シューのライブの時には、打ち上げでビールで乾杯するにまで復帰した西川氏は、この2008年秋のコンサートを最後に帰らぬ人となってしまう。恐らく言葉に表せぬほど辛かったであろうにも関わらず、このブルーノートにエリックマリエンサルと言う、何とも贅沢で素晴らしいステージでは、本番は勿論、リハーサルから全てを見守って下さったのだ!お蔭でステージは大盛況。私の記憶でも、又録画記録を見ても、レアサウンズの最高の演奏がこの日であったと私は確信する。西川氏、翌月12月22日にこの世を去る。
2008年オータムコンサートパンフ表紙
7年にも及んだ病床生活の中で、常にレアサウンズの事を考え、又自らが創設した愛知社会人ビッグバンド連盟についても気をかけ、正に愛知のビッグバンド代表として生き抜いた西川氏の通夜式で、即日次期リーダーの選挙が行われた。勿論ご親族の方々に迷惑がかからぬよう配慮したが、何とも奥様が見届け、証人となって下さった事には、驚きと有難みの両方を感じた覚えだ。結果、どういう訳だか私が代表に選ばれ、同時に行ったコンマス選挙で新美氏が選出された。即日できた新しい体制は西川氏の期待だと私は今も信じ務めている。
翌年2009年の第13回ゴールデンウィークコンサートは、ゲストであるトランペット奏者、クレイジェンキンス氏にも協力を頂き、西川さんの追悼コンサートと位置付けた。このコンサートのキーワードは間違いなく「FRECKLE FACE」。西川氏が大好きであったこの曲を、アンコールで演奏。そもそもトランペットしかほとんど吹かないクレイジェンキンス氏は、この曲のためだけにアメリカからフリューゲルホーンを持ってきてくださったとは、何とも心温まる話。お客様からも追悼の気持ちを頂きました。
2009年ゴールデンウィーク西川追悼コンサートポスター
2009年春西川氏追悼コンサート白黒の表紙
クレイ・ジェンキンス氏のサイン
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この年のビーハッピージャズフェスティバルも、彼の追悼で有った事は言うまでもない。このイベントに初めてここで触れるが、1983年に故西川氏が作り上げたこのビーハッピージャズフェスティバル。我々四半世紀、西川氏の側近として、彼の思いの具現化をお手伝いしてきた自負があり、晩年は動きたくとも動けない彼の無念さを色々聞いてきた私にとっては、こちらの追悼も、意義深く捉え演奏をさせて頂いた。そしてあれ程センターマイクを避けていた私であったが、この時の「FRECKLE FACE」でセンターマイク復帰。実は西川氏により、アドリブの復活を遂げたと言っても過言では無いのである。
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新米バンドリーダーとなり、同時に会社の新米社長であった私は、暗黒の時代とはまた別の次元で、どこか窮屈で、のびのびとしていない時期がこの頃で有ったような気がする。会社であれば、部下に対し極論「私の言うとおりにしてください」と、他の意見を退ける事は可能だが、その時のバンドリーダーとしての私には、そこまでの権限も、力も、何より人望も無かった。勿論、今それが備わっているなどと過信はしていないが、利害関係のないバンドのメンバーに対してリーダーとしてどう接したらよいのか迷いが有ったのは確かだ。
第5回目の秋のコンサートは、そんな迷いが混沌とした中で行われた。ゲストはこれまた、とんでもない大物!トランペットのチャック・フィンドレー氏。そして会場は再びブルーノートであったのだ。実はその迷いの一つにはお金の問題。こういった会場でやる限り、やはりチケット単価が跳ね上がり、加えて当然ノルマもメンバーに対しきつくなるが、これでいいのだろうかと迷った。西川体制の時には余り不満は露呈していなかったが、ここへきて、そもそも年2回のコンサートを開催する事への疑問であるとか、この様なノルマや集客の限界論などの不満が語られるようになったのだ。
2009年オータムコンサートポスター
それでも常にコンマス新美氏と同意を得ながら、これらを「克服」するかのようにこのイベントを進めていったのは確か。新美氏の協力には今も心から感謝している。このコンサートでは、私の勝手な思いで、チャックフィンドレー氏を崇拝して止まない、私の後輩であり、名古屋で活躍するトランぺッター渡辺勉君を一曲だけ最後に招き入れ、大盛り上がりになる様仕掛けたのは、今となっては懐かしい。それでも、おっかなびっくりイベントを進めていたと言うのは、今だから言える事かも知れない。
チャック・フィンドレー氏のサイン
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この頃から何故か毎年勝手にテーマを設けバンド運営をしていた。2010年のテーマは「向上心」。自ら言い聞かせるようなこのテーマは、春のコンサートに向けて銘打ったのだと思う。3回目の共演となったエリックマリエンサルのステージは、名古屋市芸術創造センターに場所を移して開催したのであった。エリックマリエンサルのネームバリューのお蔭にも助けられ、併せて数年前から私一人でこつこつと進めてきた、はがきによる案内による効果も功を奏し、この時の記録は、開演前に長蛇の列が出来たと記される。
2010年ゴールデンウィークコンサートポスター
会場を出て東に延びたその列は、信号を超えたとも書いて有るから、かなりの列で有る事は間違いがない。きっと迷いの中にありながら、かなり必死に皆に集客を要請していたのだろうと今想像するが、もしメンバー皆さんに、きつい依頼をしていたとしたら、この際なのでお許しいただきたいところだ。
サックス上手いは、顔はいいは、足は長いわ。。
ゴードングッドウィン、ビッグファットバンドのリードアルトとしての存在ばかりでは無く、チッコリアエレクトリックバンドのメンバーとしても、又いわゆるフュージョン界を常に牽引してきた彼の音楽的実力は本当にすごい!最新のビッグファットのアルバムから曲を送って頂いたり、フィルコリンズのビッグバンドのノリノリの曲をバリバリと吹いてもらったり、熱帯ジャズ楽団のイケイケの曲をゴリゴリ吹いてもらったり・・・つい、重ね言葉が続いてしまうけれども、本当にそんなステージであったと記憶している。
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その年の夏、ビーハッピージャズフェスティバルを通じて知り合った、伊波秀進さんの提案により、ラテンボーカリストの須永アリサさんとの共演の話題が持ち上がる。題して「ALISA con MAESTRO featuring RARE SOUNDS JAZZ ORCHESTRA」。開催理由などを詳しく書くにはここに書ききれないが、新米バンドリーダーとして、今まで西川氏が積極的バンド運営をしてきたそれを何とかブレーキをかける事無く取組みたい。と、そんな思いであった私が思い出される。従ってイベントの内容よりも、準備に費やした事が記憶に蘇るのだが、会場となった名古屋老舗のジャズスポット、スターアイズさんとの交渉にエネルギーを注ぎ、須永アリサさんのグループ全員の宿泊先などの手配も進んで行った。
ALISA con MAESTRO featuring RARE SOUNDS パンフ
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以前、能登ジャズウォーズに出かけた時、西川リーダーは一言も文句言う事無く、こういった雑用を進んでやっていたのを知っていただけに、黙々とこの役を全うした様な気がする。お蔭でエアコンが追い付かないほどの満席のお客様に恵まれ、加えてお店のマスターからも、是非又出演しないか?と誘われる。残念ながらまだここでの再演は果たしていない。
その年2010年11月、トロンボーンの巨匠、ビルワトラス氏を再び迎え、天白区のサニーサイドでライブを開催する。この方、娘さんを宮崎に嫁がせた関係から、大の親日家。私とて娘が結婚し千葉に行っただけで、千葉が好きになるのだから!その気持ちはよくわかったりする。そして何より前回来日の時にも記載した通り、彼は「ウナギ」が大好物なのである。このツアーでは今迄に無く、ゲストが前日名古屋入りしたため、主要なメンバーと名古屋の有名な鰻屋さんにご招待。終始ご機嫌だったのが今でも忘れられない。そして本番で使った「THE REFRIGERATOR」という曲が私には大変印象的。ノリノリで演奏させて頂きました。
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ビル・ワトラス氏のサイン
2011年春、日本中が大変な事態に陥った東日本大震災。ゴールデンウィークのコンサート開催のチラシを作り、チケットも発売し「いつもの通り」その日を迎えようとしていた一か月半ほど前にあの大惨事はおきました。当初は二度目の共演をめざし、トランペットプレーヤー、チャック・フィンドレー氏をゲストにて開催する予定でありましたが、ご承知の通り震災直後の自粛ムード。我々はどうすべきかと言う選択に迫られました。リーダーをやっていて初めての大きな決断であったでしょうか。そんな日本中が混乱している中、ゲストであるチャックフィンドレー氏が「来日を控える」との連絡を頂いたのです。
2011年ゴールデンウィークコンサート幻の!ポスター
2009年秋と同じゲストだったからとデザインを怠った罰で幻となってしまったのであろうか!?
あの時は、日本中全ての人が情報収集に躍起になっていたような気がします。勿論被災地の状況を知りたいという事もそうですが、原発の事故、消費電力の問題、そして自らの生活についても。だからこそ、自粛ムードから一転、元気を出そうというそんな気運を私自身が感じ取っていた為、何となくあっという間に決めたのが、ゲストが来られなくても開催するという事。単独チャリティーコンサートととして開催したい、とメンバーに伝えました。
更にそんな直後、プロモーター黒坂氏からの代打のゲスト来日の可能性が有るという驚きの報は、その時の日本の状況下からして、なかなか信じ難い事実。そこで我々は、どんな状況になろうともコンサートを開く事が出来る様「危機管理策」として構成を二通り考え練習し、その日を待ったのです。
スコットさんが来て下さった場合のメニュー
誰もゲストが来ず単独ライブの場合のメニュー
スコット・マーチンさんのサックスの音色は、こんな事態でも来日して日本を元気づけたいという、そんな気持ちのこもったあたたかな音色であるというのが、我々の記録映像にも残っていますが、彼は音楽的だけでは無く、何とも素晴らしい人格者でありました。そもそも今までのゲストプレーヤーは、事前に譜面を送って下さり、主としてそれを共演するというスタイルだったのですが、今回そんな時間なく来日をされたスコット・マーチンさんは、当初ゲストであったトランペットゲストの曲をテナーサックスで演じて下さったのです。お客様のアンケートに「元気をもらいました!」というコメントが沢山あったのが、今でも忘れられません。
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急遽作ったスコットマーチンさん来日のパンフ
スコット・マーチン氏のサイン
その2011年夏、レアサウンズにとっては3度目、私にとっては2度目の海外演奏となる香港へ海外演奏ツアーに出かけました。実はこのツアーも、震災前から計画されていたもの。従って震災直後は中止も止む無しと思っていた所、復興機運は高まり、メンバーの意思もしっかり確認する事が出来、渡航を決定したのです。その時の様子は、このブログにもしっかり記載してありますので、ご興味が有りましたらお読みいただきたいのですが、この時どうしても故人西川さんが愛した「FRECKLE FACE」を演奏したく、香港の地で披露しました。アメリカツアーで同室にてご一緒下さった西川さんには、香港にも付いて来てもらいたい、とそんな思いで演奏した記憶です。
香港ツアーの旅程表の綴り
この香港が実現したのは、新美コンサートマスターの大学時代の後輩君が当地で勤務をされており、同時に「アイランド・エキスプレス」というビッグバンドのリーダーでいらっしゃったのがご縁。「是非先輩、香港に来て下さい!」という有難いお誘いを受け実現したのです。ただこのバンド、ほとんどプロ。そして我々の扱いも、何処にも「アマチュア」と言う文字は踊っていない。そうなんです。入場料金を頂いて音楽をする以上プロなんだという海外の常識に、久し振りに触れた思いでありました。
レアサウンズ香港ライブのチラシの表
レア香港ライブのチラシの裏面。英語での解説がある。
香港演奏旅行日誌その1はこちら
香港演奏旅行日誌その2はこちら
香港演奏旅行日誌その3はこちら
香港演奏旅行日誌その4はこちら
ところでこの2011年で私50歳の大台になりました。実はこの香港で、前の年キーワードの曲としてご紹介した「THE REFRIGERATOR」という曲をやりましたが、新美・高橋・緒方、そして私と言う50歳になった昭和36年生まれ組がその曲でソロ回しをさせて頂いたのも良い思い出です。決して上手いソロが吹ける自分ではありませんが、センターマイクを辞退していたあの頃の自分はもうここにはいないという事を確認した記憶でも有りました。
この震災の年には、こんなイベントも有りました。栄オアシスの特設ステージでの名古屋市外郭団体主催による「グル―ビンサマー」と言うイベントです。夕暮れとはいえ、真夏7月の下旬、本当に暑かったという思い出と、もう一つが、このイベントも受諾したのが震災前であったため、震災により諸条件が異ってしまったのです。特にトヨタ系に勤務するメンバーが、電力の分散利用の為開催日当日が出勤日に変更。本番30分前にメンバーが駈け込んで来るという、なんともスリリングな思い出でもありました。
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この頃は本当に強かったドラゴンズ!この2011年もしっかりリーグ優勝をして盛り上がった秋には、みたび「ノー事件」のボブシェパード氏をサニーサイドに迎えます。(ノー事件と言っても重ねて我々が悪いのだけれど)。その頃我々の代表曲と言っても過言では無い「BOPULARITY」というどっ早い曲を時々演奏をしており、このライブでも一部ラストの曲として採用。そして、最後のドラムオープンソロの時に「ドラゴンズ!ドラゴンズ!落合!落合!!」と、パーカッションに合せて大合唱。お客様の多くのドラゴンズファンの皆様も喜んで参加くださいました。あー、最近はこんな事が全然できない!
落合コールのまさにそのシーン(^^♪
2011年オータムコンサートポスター
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その5につづく。
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既にこの頃には年中行事として恒例化したオータムライブを、前回大いに盛り上がったエリックマリエンサル氏を再び招く事となり、思い切ってブルーノートへの出演を決める。第4回のオータムライブは、なんとナゴヤブルーノートでゲストがエリックマリエンサルというすごい贅沢なものであった。さすがにこのライブハウスだけは敷居が高く、我々が乗って本当に良いのか!?という躊躇は有ったが、ご覧の様に近年の活動幅はどんどん広がりを見せており、トランペットを吹く機会も俄然増えていた私には、緊張感と言うよりも、ワクワク感が随分あったように感じます。
2008年オータムコンサートポスター
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実はここに書く事すら辛いのだけれども、私とレアサウンズを語るには残念ながらこの事に触れなくてはならない。2006年、ボビー・シューのライブの時には、打ち上げでビールで乾杯するにまで復帰した西川氏は、この2008年秋のコンサートを最後に帰らぬ人となってしまう。恐らく言葉に表せぬほど辛かったであろうにも関わらず、このブルーノートにエリックマリエンサルと言う、何とも贅沢で素晴らしいステージでは、本番は勿論、リハーサルから全てを見守って下さったのだ!お蔭でステージは大盛況。私の記憶でも、又録画記録を見ても、レアサウンズの最高の演奏がこの日であったと私は確信する。西川氏、翌月12月22日にこの世を去る。
2008年オータムコンサートパンフ表紙
7年にも及んだ病床生活の中で、常にレアサウンズの事を考え、又自らが創設した愛知社会人ビッグバンド連盟についても気をかけ、正に愛知のビッグバンド代表として生き抜いた西川氏の通夜式で、即日次期リーダーの選挙が行われた。勿論ご親族の方々に迷惑がかからぬよう配慮したが、何とも奥様が見届け、証人となって下さった事には、驚きと有難みの両方を感じた覚えだ。結果、どういう訳だか私が代表に選ばれ、同時に行ったコンマス選挙で新美氏が選出された。即日できた新しい体制は西川氏の期待だと私は今も信じ務めている。
翌年2009年の第13回ゴールデンウィークコンサートは、ゲストであるトランペット奏者、クレイジェンキンス氏にも協力を頂き、西川さんの追悼コンサートと位置付けた。このコンサートのキーワードは間違いなく「FRECKLE FACE」。西川氏が大好きであったこの曲を、アンコールで演奏。そもそもトランペットしかほとんど吹かないクレイジェンキンス氏は、この曲のためだけにアメリカからフリューゲルホーンを持ってきてくださったとは、何とも心温まる話。お客様からも追悼の気持ちを頂きました。
2009年ゴールデンウィーク西川追悼コンサートポスター
2009年春西川氏追悼コンサート白黒の表紙
クレイ・ジェンキンス氏のサイン
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この年のビーハッピージャズフェスティバルも、彼の追悼で有った事は言うまでもない。このイベントに初めてここで触れるが、1983年に故西川氏が作り上げたこのビーハッピージャズフェスティバル。我々四半世紀、西川氏の側近として、彼の思いの具現化をお手伝いしてきた自負があり、晩年は動きたくとも動けない彼の無念さを色々聞いてきた私にとっては、こちらの追悼も、意義深く捉え演奏をさせて頂いた。そしてあれ程センターマイクを避けていた私であったが、この時の「FRECKLE FACE」でセンターマイク復帰。実は西川氏により、アドリブの復活を遂げたと言っても過言では無いのである。
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新米バンドリーダーとなり、同時に会社の新米社長であった私は、暗黒の時代とはまた別の次元で、どこか窮屈で、のびのびとしていない時期がこの頃で有ったような気がする。会社であれば、部下に対し極論「私の言うとおりにしてください」と、他の意見を退ける事は可能だが、その時のバンドリーダーとしての私には、そこまでの権限も、力も、何より人望も無かった。勿論、今それが備わっているなどと過信はしていないが、利害関係のないバンドのメンバーに対してリーダーとしてどう接したらよいのか迷いが有ったのは確かだ。
第5回目の秋のコンサートは、そんな迷いが混沌とした中で行われた。ゲストはこれまた、とんでもない大物!トランペットのチャック・フィンドレー氏。そして会場は再びブルーノートであったのだ。実はその迷いの一つにはお金の問題。こういった会場でやる限り、やはりチケット単価が跳ね上がり、加えて当然ノルマもメンバーに対しきつくなるが、これでいいのだろうかと迷った。西川体制の時には余り不満は露呈していなかったが、ここへきて、そもそも年2回のコンサートを開催する事への疑問であるとか、この様なノルマや集客の限界論などの不満が語られるようになったのだ。
2009年オータムコンサートポスター
それでも常にコンマス新美氏と同意を得ながら、これらを「克服」するかのようにこのイベントを進めていったのは確か。新美氏の協力には今も心から感謝している。このコンサートでは、私の勝手な思いで、チャックフィンドレー氏を崇拝して止まない、私の後輩であり、名古屋で活躍するトランぺッター渡辺勉君を一曲だけ最後に招き入れ、大盛り上がりになる様仕掛けたのは、今となっては懐かしい。それでも、おっかなびっくりイベントを進めていたと言うのは、今だから言える事かも知れない。
チャック・フィンドレー氏のサイン
この↑本番日誌はこちら
この頃から何故か毎年勝手にテーマを設けバンド運営をしていた。2010年のテーマは「向上心」。自ら言い聞かせるようなこのテーマは、春のコンサートに向けて銘打ったのだと思う。3回目の共演となったエリックマリエンサルのステージは、名古屋市芸術創造センターに場所を移して開催したのであった。エリックマリエンサルのネームバリューのお蔭にも助けられ、併せて数年前から私一人でこつこつと進めてきた、はがきによる案内による効果も功を奏し、この時の記録は、開演前に長蛇の列が出来たと記される。
2010年ゴールデンウィークコンサートポスター
会場を出て東に延びたその列は、信号を超えたとも書いて有るから、かなりの列で有る事は間違いがない。きっと迷いの中にありながら、かなり必死に皆に集客を要請していたのだろうと今想像するが、もしメンバー皆さんに、きつい依頼をしていたとしたら、この際なのでお許しいただきたいところだ。
サックス上手いは、顔はいいは、足は長いわ。。
ゴードングッドウィン、ビッグファットバンドのリードアルトとしての存在ばかりでは無く、チッコリアエレクトリックバンドのメンバーとしても、又いわゆるフュージョン界を常に牽引してきた彼の音楽的実力は本当にすごい!最新のビッグファットのアルバムから曲を送って頂いたり、フィルコリンズのビッグバンドのノリノリの曲をバリバリと吹いてもらったり、熱帯ジャズ楽団のイケイケの曲をゴリゴリ吹いてもらったり・・・つい、重ね言葉が続いてしまうけれども、本当にそんなステージであったと記憶している。
この↑本番日誌はこちら
その年の夏、ビーハッピージャズフェスティバルを通じて知り合った、伊波秀進さんの提案により、ラテンボーカリストの須永アリサさんとの共演の話題が持ち上がる。題して「ALISA con MAESTRO featuring RARE SOUNDS JAZZ ORCHESTRA」。開催理由などを詳しく書くにはここに書ききれないが、新米バンドリーダーとして、今まで西川氏が積極的バンド運営をしてきたそれを何とかブレーキをかける事無く取組みたい。と、そんな思いであった私が思い出される。従ってイベントの内容よりも、準備に費やした事が記憶に蘇るのだが、会場となった名古屋老舗のジャズスポット、スターアイズさんとの交渉にエネルギーを注ぎ、須永アリサさんのグループ全員の宿泊先などの手配も進んで行った。
ALISA con MAESTRO featuring RARE SOUNDS パンフ
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以前、能登ジャズウォーズに出かけた時、西川リーダーは一言も文句言う事無く、こういった雑用を進んでやっていたのを知っていただけに、黙々とこの役を全うした様な気がする。お蔭でエアコンが追い付かないほどの満席のお客様に恵まれ、加えてお店のマスターからも、是非又出演しないか?と誘われる。残念ながらまだここでの再演は果たしていない。
その年2010年11月、トロンボーンの巨匠、ビルワトラス氏を再び迎え、天白区のサニーサイドでライブを開催する。この方、娘さんを宮崎に嫁がせた関係から、大の親日家。私とて娘が結婚し千葉に行っただけで、千葉が好きになるのだから!その気持ちはよくわかったりする。そして何より前回来日の時にも記載した通り、彼は「ウナギ」が大好物なのである。このツアーでは今迄に無く、ゲストが前日名古屋入りしたため、主要なメンバーと名古屋の有名な鰻屋さんにご招待。終始ご機嫌だったのが今でも忘れられない。そして本番で使った「THE REFRIGERATOR」という曲が私には大変印象的。ノリノリで演奏させて頂きました。
この↑本番日誌はこちら
ビル・ワトラス氏のサイン
2011年春、日本中が大変な事態に陥った東日本大震災。ゴールデンウィークのコンサート開催のチラシを作り、チケットも発売し「いつもの通り」その日を迎えようとしていた一か月半ほど前にあの大惨事はおきました。当初は二度目の共演をめざし、トランペットプレーヤー、チャック・フィンドレー氏をゲストにて開催する予定でありましたが、ご承知の通り震災直後の自粛ムード。我々はどうすべきかと言う選択に迫られました。リーダーをやっていて初めての大きな決断であったでしょうか。そんな日本中が混乱している中、ゲストであるチャックフィンドレー氏が「来日を控える」との連絡を頂いたのです。
2011年ゴールデンウィークコンサート幻の!ポスター
2009年秋と同じゲストだったからとデザインを怠った罰で幻となってしまったのであろうか!?
あの時は、日本中全ての人が情報収集に躍起になっていたような気がします。勿論被災地の状況を知りたいという事もそうですが、原発の事故、消費電力の問題、そして自らの生活についても。だからこそ、自粛ムードから一転、元気を出そうというそんな気運を私自身が感じ取っていた為、何となくあっという間に決めたのが、ゲストが来られなくても開催するという事。単独チャリティーコンサートととして開催したい、とメンバーに伝えました。
更にそんな直後、プロモーター黒坂氏からの代打のゲスト来日の可能性が有るという驚きの報は、その時の日本の状況下からして、なかなか信じ難い事実。そこで我々は、どんな状況になろうともコンサートを開く事が出来る様「危機管理策」として構成を二通り考え練習し、その日を待ったのです。
スコットさんが来て下さった場合のメニュー
誰もゲストが来ず単独ライブの場合のメニュー
スコット・マーチンさんのサックスの音色は、こんな事態でも来日して日本を元気づけたいという、そんな気持ちのこもったあたたかな音色であるというのが、我々の記録映像にも残っていますが、彼は音楽的だけでは無く、何とも素晴らしい人格者でありました。そもそも今までのゲストプレーヤーは、事前に譜面を送って下さり、主としてそれを共演するというスタイルだったのですが、今回そんな時間なく来日をされたスコット・マーチンさんは、当初ゲストであったトランペットゲストの曲をテナーサックスで演じて下さったのです。お客様のアンケートに「元気をもらいました!」というコメントが沢山あったのが、今でも忘れられません。
この↑本番日誌はこちら
急遽作ったスコットマーチンさん来日のパンフ
スコット・マーチン氏のサイン
その2011年夏、レアサウンズにとっては3度目、私にとっては2度目の海外演奏となる香港へ海外演奏ツアーに出かけました。実はこのツアーも、震災前から計画されていたもの。従って震災直後は中止も止む無しと思っていた所、復興機運は高まり、メンバーの意思もしっかり確認する事が出来、渡航を決定したのです。その時の様子は、このブログにもしっかり記載してありますので、ご興味が有りましたらお読みいただきたいのですが、この時どうしても故人西川さんが愛した「FRECKLE FACE」を演奏したく、香港の地で披露しました。アメリカツアーで同室にてご一緒下さった西川さんには、香港にも付いて来てもらいたい、とそんな思いで演奏した記憶です。
香港ツアーの旅程表の綴り
この香港が実現したのは、新美コンサートマスターの大学時代の後輩君が当地で勤務をされており、同時に「アイランド・エキスプレス」というビッグバンドのリーダーでいらっしゃったのがご縁。「是非先輩、香港に来て下さい!」という有難いお誘いを受け実現したのです。ただこのバンド、ほとんどプロ。そして我々の扱いも、何処にも「アマチュア」と言う文字は踊っていない。そうなんです。入場料金を頂いて音楽をする以上プロなんだという海外の常識に、久し振りに触れた思いでありました。
レアサウンズ香港ライブのチラシの表
レア香港ライブのチラシの裏面。英語での解説がある。
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ところでこの2011年で私50歳の大台になりました。実はこの香港で、前の年キーワードの曲としてご紹介した「THE REFRIGERATOR」という曲をやりましたが、新美・高橋・緒方、そして私と言う50歳になった昭和36年生まれ組がその曲でソロ回しをさせて頂いたのも良い思い出です。決して上手いソロが吹ける自分ではありませんが、センターマイクを辞退していたあの頃の自分はもうここにはいないという事を確認した記憶でも有りました。
この震災の年には、こんなイベントも有りました。栄オアシスの特設ステージでの名古屋市外郭団体主催による「グル―ビンサマー」と言うイベントです。夕暮れとはいえ、真夏7月の下旬、本当に暑かったという思い出と、もう一つが、このイベントも受諾したのが震災前であったため、震災により諸条件が異ってしまったのです。特にトヨタ系に勤務するメンバーが、電力の分散利用の為開催日当日が出勤日に変更。本番30分前にメンバーが駈け込んで来るという、なんともスリリングな思い出でもありました。
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この頃は本当に強かったドラゴンズ!この2011年もしっかりリーグ優勝をして盛り上がった秋には、みたび「ノー事件」のボブシェパード氏をサニーサイドに迎えます。(ノー事件と言っても重ねて我々が悪いのだけれど)。その頃我々の代表曲と言っても過言では無い「BOPULARITY」というどっ早い曲を時々演奏をしており、このライブでも一部ラストの曲として採用。そして、最後のドラムオープンソロの時に「ドラゴンズ!ドラゴンズ!落合!落合!!」と、パーカッションに合せて大合唱。お客様の多くのドラゴンズファンの皆様も喜んで参加くださいました。あー、最近はこんな事が全然できない!
落合コールのまさにそのシーン(^^♪
2011年オータムコンサートポスター
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その5につづく。
お友達になっていただいて
ブログにおジャマさせていただくようにったと
思います。
新参者の読者ですが
毎回楽しみにしています~
それからモリコロパークでお目にかかり(^^)/
以後何度もコンサートに来て頂き
本当に感謝しています。
まだまだ書きますのでよろしくお願いします!