三回目の山野。三年時の事である。
ハードな練習が続き、
OB諸氏からの指導に耐え切れず辞める部員続出の中、
なんと私が二年生時に三・四年生が全部辞めてしまい、
二年生から幹部の私にとって最後のコンテストとなった、
第12回山野ビッグバンドジャズコンテストの結果は
第三位と言う結果に終わった。
必ず連覇をと言われていながらこの成績に、
流石に落胆と共にOB諸氏からの
何とも言い表せぬ態度が耐えられなかった。
伝統校は常にこうなのか我々が異常なのかは知らぬが、
かなりの落ち込みとある種の恐怖を味わった。
伝統と実績と言うとんでもない重荷とその重圧に
体力的にも精神的にも押しつぶされるギリギリの状態、
いやその時既に押しつぶされていたのかもしれない。
レベルや知名度こそ違え、
名選手を輩出した高校野球のP学園であったり、
箱根駅伝の名門赤いCマークの大学であったり、
彼らのそれに随分似ていて周りの期待が大きすぎたのだ。
従って審査発表を客席で三位と聞いた時、
メンバーは全員落胆しかなく異様な雰囲気となったのだ。
その後の行動は見事なまでに記憶が途切れている。
ただまるで葬式の帰りの様な東京から戻る道のりが、
随分長く名古屋に戻りたくなかった事だけが微かな記憶。
同期の奴らとこの時の話は今もあまりしない。
結果はともかく、
そこに至るまでも、この時は壮絶であった。
毎回コンテストの曲は幹部が選び、
OB編曲家が編曲を施す事によって完成するのだが、
その選曲の段から苦難を重ねていた。
今であれば音源など安易に調達できるが、
当時はまだレコードが主流の時代であり、
海外のそれは買って聞かないと分からないという、
ある意味当たりを探すくじを引いている様なもの。
確かゴールデンウィークに
京都と姫路が実家の同期メンバーの指南により
輸入盤が多い京都と神戸のレコード屋まで走った。
結局16ビートの当時では奇抜な曲を選び出し、
(当時は一曲奇抜なフュージョン系が受けた)
その曲含みコンテストにエントリーする曲三曲を
日夜練習、9泊10日の合宿もそれを繰り返した。
ただ最終的にどうしても上手く仕上がらない。
度々高校野球の話を持ち出して恐縮だけれども、
練習試合をしてもエラーだらけで得点できず....。
そんな状態が続いていた様に今思い返すと感じる。
その状態を見たOBの編曲家から提供されたのは
なんとあんなに今迄練習してきた曲を白紙に戻し、
そのフュージョン系の曲のみ残して新たに組まれた
持ち時間一杯を一曲で納めた「組曲」だったのだ。
(それを書くこの方の能力は驚くべきものがあったが)
他の二曲は今迄の練習が水の泡と消えた事になった。
それも、実に本番10日程前の出来事であった。
一週間前に曲を決めてコンテストに臨むとは、
今考えるととても有りえない事であったが、
それをやってしまうだけのエネルギーが当時が有った。
いや、やらなくてはならないという変な使命感。
これも「伝統」の言葉で一括り出来る集団意識。
いや、宗教的にさえ感じる複雑な精神状態による、
行動だったのかもしれない。
そんな経緯だから第三位。
そんな経緯でも第三位。。
どんな理由が有ろうと第三位という現実。
名古屋に帰って私を含めて幹部全員頭を丸めた。
時代がそうさせたのか組織がそうさせたのか......。
青春真っ盛りに、最高なる屈辱を味わった。
ただ、全ては今良き思い出で有り良き経験である。
これらを踏まえて今の自分がいる事は確かである。
前回の記事でも書いた通り、
超凡人の我々でも鞭を打たれれば日本一にもなれる。
それが正しいのかどうか今でもわからないが
私の大学コンテストはこの三位を最後としている。
結果だけ見ると、三年間で優勝・二位・三位と、
とんでもなく輝かしい成績を頂いた事になるが、
全ては周りの人のお陰である事には間違いはないのだ。
違う世界に迷い込んだような大学時代の思い出は、
私にとって本当に貴重で且つ今に生きる経験であった。
そしてそのフュージョン系の曲を、
ずっーーーっと探していたのだけれども、
とうとう見つけた!。
これをビッグバンドにアレンジ頂いた。
めちゃめちゃかっこいいのだが、
このイントロが何とも寂し気に私には響く。
ハードな練習が続き、
OB諸氏からの指導に耐え切れず辞める部員続出の中、
なんと私が二年生時に三・四年生が全部辞めてしまい、
二年生から幹部の私にとって最後のコンテストとなった、
第12回山野ビッグバンドジャズコンテストの結果は
第三位と言う結果に終わった。
必ず連覇をと言われていながらこの成績に、
流石に落胆と共にOB諸氏からの
何とも言い表せぬ態度が耐えられなかった。
伝統校は常にこうなのか我々が異常なのかは知らぬが、
かなりの落ち込みとある種の恐怖を味わった。
伝統と実績と言うとんでもない重荷とその重圧に
体力的にも精神的にも押しつぶされるギリギリの状態、
いやその時既に押しつぶされていたのかもしれない。
レベルや知名度こそ違え、
名選手を輩出した高校野球のP学園であったり、
箱根駅伝の名門赤いCマークの大学であったり、
彼らのそれに随分似ていて周りの期待が大きすぎたのだ。
従って審査発表を客席で三位と聞いた時、
メンバーは全員落胆しかなく異様な雰囲気となったのだ。
その後の行動は見事なまでに記憶が途切れている。
ただまるで葬式の帰りの様な東京から戻る道のりが、
随分長く名古屋に戻りたくなかった事だけが微かな記憶。
同期の奴らとこの時の話は今もあまりしない。
結果はともかく、
そこに至るまでも、この時は壮絶であった。
毎回コンテストの曲は幹部が選び、
OB編曲家が編曲を施す事によって完成するのだが、
その選曲の段から苦難を重ねていた。
今であれば音源など安易に調達できるが、
当時はまだレコードが主流の時代であり、
海外のそれは買って聞かないと分からないという、
ある意味当たりを探すくじを引いている様なもの。
確かゴールデンウィークに
京都と姫路が実家の同期メンバーの指南により
輸入盤が多い京都と神戸のレコード屋まで走った。
結局16ビートの当時では奇抜な曲を選び出し、
(当時は一曲奇抜なフュージョン系が受けた)
その曲含みコンテストにエントリーする曲三曲を
日夜練習、9泊10日の合宿もそれを繰り返した。
ただ最終的にどうしても上手く仕上がらない。
度々高校野球の話を持ち出して恐縮だけれども、
練習試合をしてもエラーだらけで得点できず....。
そんな状態が続いていた様に今思い返すと感じる。
その状態を見たOBの編曲家から提供されたのは
なんとあんなに今迄練習してきた曲を白紙に戻し、
そのフュージョン系の曲のみ残して新たに組まれた
持ち時間一杯を一曲で納めた「組曲」だったのだ。
(それを書くこの方の能力は驚くべきものがあったが)
他の二曲は今迄の練習が水の泡と消えた事になった。
それも、実に本番10日程前の出来事であった。
一週間前に曲を決めてコンテストに臨むとは、
今考えるととても有りえない事であったが、
それをやってしまうだけのエネルギーが当時が有った。
いや、やらなくてはならないという変な使命感。
これも「伝統」の言葉で一括り出来る集団意識。
いや、宗教的にさえ感じる複雑な精神状態による、
行動だったのかもしれない。
そんな経緯だから第三位。
そんな経緯でも第三位。。
どんな理由が有ろうと第三位という現実。
名古屋に帰って私を含めて幹部全員頭を丸めた。
時代がそうさせたのか組織がそうさせたのか......。
青春真っ盛りに、最高なる屈辱を味わった。
ただ、全ては今良き思い出で有り良き経験である。
これらを踏まえて今の自分がいる事は確かである。
前回の記事でも書いた通り、
超凡人の我々でも鞭を打たれれば日本一にもなれる。
それが正しいのかどうか今でもわからないが
私の大学コンテストはこの三位を最後としている。
結果だけ見ると、三年間で優勝・二位・三位と、
とんでもなく輝かしい成績を頂いた事になるが、
全ては周りの人のお陰である事には間違いはないのだ。
違う世界に迷い込んだような大学時代の思い出は、
私にとって本当に貴重で且つ今に生きる経験であった。
そしてそのフュージョン系の曲を、
ずっーーーっと探していたのだけれども、
とうとう見つけた!。
これをビッグバンドにアレンジ頂いた。
めちゃめちゃかっこいいのだが、
このイントロが何とも寂し気に私には響く。
4位
6位
8位
す、す、すみません!