コロナ重篤化から全身麻痺

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胆嚢炎

2022-08-01 15:26:00 | 日記
リハビリも歩く練習に精を出している中、足の(特に右足)感覚は殆どない。
左足は多少あるものの、右足は地面を踏み込んだら感覚すら無かった。
そんな中で歩く練習だ。お尻に力が入らず足はすぐ崩れるわ、前に足を出す行為があまり出来ないわで、歩ける見込みはほぼ無かった。

お尻の力を付けるために寝たままお尻上げの特訓などを何度もやった。
でも足の感覚がないのにどうやって歩けと言うのか。

立ち上がりの練習では、何とかベッドの高さを太ももくらいに上げて立ち上がる事は出来た。
ただ、やはり一人では難しく、リハビリの先生に支えられてではないと無理だった。

肩の可動域も狭く、背中や腰が痒いのは未だに届かない。
ゴムバンドを渡されて、リハビリ以外の時間も特訓してくれとお願いされた。

この頃にはスマホがようやく使えるようになり、前は一度もやった事ないゲームにハマっていた。
なので、ゴムバンドは正直サボっていた。

リハビリも順調に進み、一人の支えで何とか歩く事が出来るようになった。
平行棒でだが。

次のステップに進む時がすぐに来るから体が持たない。
お次は歩行器を使って歩く事を試みた。
歩行器に捕まり、前と後ろ、右足と左足に四人が支えてようやく一歩を踏み締めた。
お尻の力が弱いのと、足に力が入らず支えがなければすぐに崩れ落ちてしまう。
リハビリの先生4人が必死に支えてくれているのが申し訳ない。

ほんの10m程を歩いただけでも疲労感は半端なく、しかも元の場所に戻れと言うのだ。
先生方の方が疲れていると言うのに、来た道を戻り歩いた。

それからも毎日のように歩行器と先生4人の助けにより歩く練習が続いたある日、お尻に力が入るようになってきた。
右足と左足の支えがなくても立っていられるし、歩く事も出来る。
歩行器に捕まり、少しの距離を誰の支えも無しに歩いた。

退院は刻一刻と近づく。

退院後に入所予定の施設が、自分である程度何でも出来るようにならないといけない。というコンセプトらしく、この日からトイレの練習が始まった。

車椅子からトイレの便座へと乗り移る練習だ。
リハビリの先生に両脇を支えて貰い、お尻を浮かせて便座へと乗り移る。その逆も然り。

取り敢えず暫くはこのやり方でトイレに行くことになった。
病棟の看護師や介護士にもそれは伝わり、トイレに行く度にナースコールを押した。

そんなこんなで2月の初めに入所予定の施設への面談と面接が行われる事になった。

その日は天気も少し悪く、朝から介護用の車へと車椅子のまま乗った。
一時間程で到着するも、ほぼ一年振りの車に車酔いする。

面接はトイレを1人で出来ない事を一番に指摘された。
前に比べたら少しは動けるようになったとか関係ない。この施設の人たちはそんなの知らないのだから。

帰りの車の中ではその話題は一切なく。病院へと帰宅した。
お昼ご飯の時間だったが、車酔いした自分は昼ごはんを半分食べるのがやっとだった。

次の面談は月末だと言う矢先、最初の面談から一週間程が経った日に胆嚢炎になるのだが。

その日は金曜日、一日のリハビリなどを終えて、さあ寝ようとしたところにお腹に違和感を感じた。
何か痛い?
夜中の2時ごろに激痛で目を覚ます。
お腹と背中が痛くて、ナースコールを鳴らす。
先生は土日なので不在らしく、痛み止めを貰って凌ごうとするも、全く効かない。
仕方なく臨時の先生に診て貰うが、答えは腎盂腎炎だと言う。
本当にそうなのか?ネットで色々調べるも当てはまるようで当てはまらない。

そのまま眠れず朝を迎え、昼間もリハビリをする気力も体力も無かった。
その時は病気の診断も何もなく、なぜ痛いのかは分からない。
男性介護士の一人に「根性ねえなぁ」
と言われた。

日曜日の夜、もうすぐで朝を迎えれば月曜日で先生が来ると痛みに耐えていた。
一睡も出来ないまま、朝を迎え先生の出勤を待つ。
10時ようやく先生が出勤し、診察をしてもらった。
恐らく胆嚢炎だが取り敢えずCTを撮ろうと言う事だ。

結果はやはり胆嚢炎で、その日の夕方に手術をすることになった。

膀胱に続いてまたもや手術だ。
エクモに入って一ヶ月寝てる時も肺を3分の2切り落とす手術をしている。
一生分の手術をしているのではないだろうか。

全身麻酔の手術だったため、またもや目を覚ましたら終わってると言う状況だ。
手術前という事で家族が呼ばれて、母の代わりに姉がやってきた。
手術の説明を聞いてくれている。
疑問に思った事も姉はズケズケと聞けるタイプなので、こんな時は頼もしい。

そして手術は始まった。

目を覚ますと案の定手術は終わっていて、別の病棟に連れていかれた。

手術は約五時間も行われたらしい。

お腹に五つの穴を開けて、そこから内視鏡で胆嚢を切り落としたらしいが、説明では四つ穴を開けると聞いていた。
何で五つなのか?疑問に思っていると、医者から「ちょっと一ヶ所届かなかったからもう一個空けちゃった」と言われた。
まあ、痛みも無くなったしいいかと思いそのまま笑って流した。

それにしてもこの病棟の看護師は若い子が多い。
そして、機械的な子が多い。
何というか無感情と言うか、時間通りに何かをすると言うところが。
ナースコールを押して、オムツ交換を訴えても、リハビリ病棟とは違い機械的に事を進める。

次の日からここでの病棟のリハビリが始まった。

手術前に比べて体がまた動かない。
歩こうと立ち上がると足が痛くて立てない。
折角あそこまで回復したのに、また初めからですか?




年末年始

2022-08-01 09:13:00 | 日記
寝る時に脚を動かして貰う作業に看護師、介護士諸共呆れられていたある日、足の指に水虫が出来てしまう。
靴下さえ履いてないのに何で水虫が出来るのか?
医者にも取り敢えず診断して貰うと、やはり水虫だと言う。
毎朝薬を塗って貰うのだが、日中ずっと痒い。
堪らなくてナースコールを押しては指先を掻いて貰う。
看護師によっては掻かない方がいいと突き放す者もいたし、靴べらを二つ繋げてテープで固定した棒を渡され、それで自分で掻きなさい。と言われたりもした。

所詮靴べらは靴べらだ。腕を伸ばして二つ繋がった靴べらを足の指先まで届かせる。
だが、所詮靴べらなせいか先が孫の手のようにはなっていない。
届いたとしても掻くことが出来ないのだ。

これは困ったと、頭を悩ませ考えた末は、脚を手で引き寄せるだった。
左足を両手で抱えるように引き寄せる。かなり重く感じ中々引っ張れない。

そりゃそうだ。寒くて布団を肩まで上げようとしても、布団が重くて持ち上がらないのだから。

それでも痒みの方が強くて必死に手繰り寄せようとする。

その結果、なんとか膝が曲がり手繰り寄せる事に成功した。

足の指先を自由に掻けるのがこんなに幸せなのかと悦に浸る。
暫くは足は曲げたままにしてようとそう思った。

その水虫のおかげか、痒みのせいで気付けば前より腕の力が上がっていた。
寒くても布団を肩まで上がらなかったのが、今ではそれも出来るようになっている。

しかも、脚が膝から曲がるようになっていた。
これで水虫も自由に掻けるし、寝る時の足の位置も自分で調整出来る。
看護師や介護士に呆れられる事もない。

食事にも少し変化が出始めていた。
この頃には既に固形食に代わっていたのだが、全介助だった食事が時間はかかるが自助具を使って一人で食べれるようになっていた。

ただ、車椅子に乗れるのは一時間半が限界で、それ以上になるとお尻や腰が痛い。
なので食事をした後はナースコールをし、ベッドに横にさせてもらっていた。
でもここはリハビリ病棟であり、車椅子に座って置くのもリハビリだと言う看護師も居て中々ベッドには寝かせて貰えない事もあった。

車椅子に座ってるのも相当キツいのに、なんて意地悪なんだと当時はそう思っていた。

リハビリの方は脚が動くようになった事から立ち上がりの練習へと変わっていった。
これが中々難しい。椅子ぐらいの高さだと低すぎて立ち上がれないので腰ぐらい高さにベッドを上げての立ち上がりの練習。
誰かに支えて貰わないと立ち上がる事は出来なかった。

立つって事がこんなに難しいとは全く思わなかっただけに立ち上がれない事が結構ショックだった。

言語療法があった事もお伝えしておく。
一日40分間だが、その間は言語療法の先生とお話ししたり少し言葉の訓練をしたりしてた。
話の内容は今までの事とかこれからの事とか様々な愚痴だったりとかだったが、喋ることに意味があるらしく内容は何でもいいそうだ。
呂律は未だに戻ってない。

そしてそのまま年末が来る。
まさかの病院で年末年始を過ごすことになろうとは……

世間が年末にどんな過ごし方をしていようと病院での年末は何も変わらない。年始もそうだ。
いつものように起きてリハビリをして食事をする。
一つだけ違うのは年末のお昼には蕎麦が、年始の昼には簡単なお節が出た。
そして年始の挨拶だけが、「明けましておめでとうございます」だった。
ただそれだけだ。
それ以外は何も変わらない。

年始も少し過ぎた頃、歩く練習に切り替わっていた。
平行棒に二人がかりで立ち上がらせて、前と後ろから支えられ歩くと言うものだ。
膝が曲がると言うもの、脚を前に出す行為は中々に難しい。
しかもお尻の筋肉に力が入ってなくて、すぐに脚が崩れてしまう。
足首も動かないので歩き方が抜き足差し足みたいになっている。
こんなんで本当に歩けるようになるのか心配だ。