コロナ重篤化から全身麻痺

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そして入所

2022-08-03 18:46:00 | 日記
4人部屋でのお隣さんには本当に困った。
70代くらいのお年寄りなのだが、バイタルの時など自分が看護師と楽しくお喋りしていると、「医療以外の会話はするな!ここは病院だぞ」と何度か注意された。

自分自身も全く関係のない話をしているにも関わらずだ。

「お友達とのお喋りじゃないんだから医療以外の会話はするな」

毎朝隣から怒声が聞こえる。
流石に看護師も自分とは会話しなくなって来た。
それに加えて、洗面台に置いてある歯磨きセットを床に捨てられたりもした。
一度文句を言おうとしたら、看護師から「証拠がないから何も言わないでくれ」と言われた。

だか、証拠は案外近いとこにあった。
歯磨きセットを捨てるとこを目撃した。
流石に頭に来てお隣さんに噛み付いた。
「俺の歯磨きセット捨ててるのはお前か!ちゃんと拾って元に戻しとけ!」と。
まさか見られたと思わないお隣さんの言い分は「自分の部屋に一回一回持っていって下さい」だった。
体の都合上それが出来ないから置いてあるのであって、ていうか自分以外の三人の歯磨きセットもそこに置いてあるじゃないか。

何故かイジメのターゲットにされてる事に腹を立ててるのと、現場を目撃した事で今までの事も文句を言った。

「言葉が上手く話せないから看護師とお喋りしてるのに、それをいちいち妬みで文句を言うな」

と。

その日からお隣さんは何も言わなくなった。
これでようやく普通に過ごせる。

そんなこんなで、二週間ほど経ったある日、お隣さんが退院した。
正直、誰もがホッとしたようだろう。

その10日後に自分の退院が迫っているのだが。

刻一刻と退院、そして入所が迫っている中、リハビリではトイレの乗り移りの成功とベッドでの起き上がり、そしてベッドから車椅子の乗り移りが出来る様になった事で、入所の準備は万全だった。

毎日歩行器での歩く練習。少しずつだが、歩く距離が伸びて来ている。
両足の装具も手際良く付けれるようになった。

そんな時、病院で患者からコロナが発生した。
約8人ものコロナの発生。
リハビリは部屋で行われる事になった。

歩く練習も行動範囲が狭い為、廊下の短い距離を数往復する。
ベッドの縁からの立ち上がりの練習など、出来る事は限られていた。

もうすぐ入所だと言うのに。

入所三日前、リハビリの先生に手紙を書く事にした。
感謝の意を込めた手紙だ。
ただ、手も握力が15しかなく、ペンを持つ手も震えてまともに字を書けない。
三歳児と変わらない字で一生懸命に字を書く。
途中疲れてペンが止まるが、それでも何とか手紙を書いた。
凄く短い文章だったが、今の精一杯の気持をを紙に綴った。

そして入所当日、朝早くから退院の準備に取り掛かる。
体がまともに動かない自分の変わりに看護師が荷物を纏めてくれる。
自分はと言うと、装具を着けて車椅子に乗り帰る準備を済ます。

朝の9時、8ヶ月もの間お世話になった病院を出発した。

そこから約一時間。
入所する施設に到着する。




そして気管切開を閉じる手術をする

2022-08-02 17:01:00 | 日記
トイレの乗り移りが未だに成功しないまま、再び面談がやってきた。

この日は大雨で、リハビリの先生の運転で入所予定の施設へと赴く。

着いてすぐにトイレへの乗り移りの様子を見られた。
病院の便器に比べて少し高く、これなら行けそうな気がした。
いかんせん手摺の位置が高すぎる…
後一歩の所で体が持ち上がりそうだったが、無理だった。
手摺の位置がもう少し下なら多分いけた。

施設のリハビリの先生からは補高便座の購入を提案された。
補高便座とは、便器からの立ち上がりが低すぎて出来ない者に、便座を高くして立ち上がりし易いようにとする物だ。
10cm程の補高便座の購入を提案される。

そして、看護師やセンター長、医者との面談を経る。
リハビリは歩行器を使って歩く練習をしています。と、実践でやって見せた。
ただ、病院の歩行器とは違い、やや若干古い分歩きにくかった。

そして一人のリハビリ先生からある指摘をされる。

「喉の穴は開けたままにしておくんですか?見てると呼吸がし辛そうに見えますが、出来れば閉じることは出来ませんか?」

と。

一緒に来ていた。病院の相談員が「先生に相談してみます」と答えた。

自分が入院している病棟は回復期のため、喉の手術ができないのである。
何度か閉じてほしいと訴えたが、いつも答えはノーだった。

でも今回の指摘のお陰で、病院側の対応が変わった。
何せ退院の日は迫っているし、そのまま自分をポイと退院させるわけにはいかない。

喉の手術の予定が降った。

それまでもトイレの乗り移りの練習は行われ、補高便座はどれを買おうかとパンフレットをリハビリの先生と見たりしてる時、トイレの乗り移りが一人で出来るようになっていた。
縦の手摺を使って立ち上がりトイレに移る。
トイレから車椅子には横の二本の手摺で体を浮かせて立ち上がる。
そうすれば上手く乗り移りが出来た。

後は向こうの施設のトイレでそれが出来れば良い。
補高便座を購入するのは入所してからにしようと言う事になった。

そしていよいよ気管切開(喉)を閉じる手術の日が来る。

またもや一日だけ病棟を移る事になった。
手術が出来るのが急性期だからだ。
あの機械的な看護師達にまた会う事になるのかと苦笑いした。

手術は局所麻酔で行われる事になり、喉に麻酔をして気管を縫う作業が行われる。
全身麻酔では無いのは、気管がちゃんと閉じたか喉に水を当てて声出しをさせるためだと説明された。

所要時間は一時間程度。
一時間もの間、喉に麻酔をして何やらカチャカチャとやられる。
元来痛みに弱い自分は、その光景だけで麻酔が効いてたとしても何か痛いような気がしていた。
多分10分おきぐらいに「痛い」と言っては医者に「え?麻酔足りないかな」と言わせていたと思う。

なんやかんやで一時間ジャストで手術を終え、病棟の看護師が迎えに来た。
一泊の病棟では、観察室での見守り看護になっていた。

寝てても看護師の詰所が見える。
会話は聞こえないが、何をしてるのか丸見えだ。
このご時世だと言うのに、詰所ではマスクを外している看護師が多かった。

機械的な看護師でも詰所では一応キャピキャピしてるんだなと眺めながらそう思った。

夜は喉が痛くて二回ほど薬を貰ったが、全くもって効かない。
痛みのせいで夜はなかなか寝付け無かった。
朝、朝食を食べて薬を飲んだりバイタル(熱を測ったり血圧を測ったり)を測った後、元の病棟からのお迎えがやってきた。

今回は車椅子での移動で、同じ部屋の同じ場所への移動を済ました。

相変わらず喉は痛いが、着いてすぐ看護師のやる事はまたもやバイタルを測ることだった。



新な施設の入所が延期

2022-08-02 12:18:00 | 日記
胆嚢炎になったせいで、二回目の面談が延期になった。
病棟は相変わらず変わったままで、機械的な看護師との日々が続く。

前と違ったのは、ご飯の時に車椅子に移らなくても良い事とリハビリは部屋で一日一回だけ行う事。
そんな温い生活を送っていてトイレの乗り移りが上手く行くとは思えない。

だがここは機械的とは言え、文句を言う看護師はおらず、快適に過ごさせて貰えた。

手術から一週間とちょっとが過ぎた頃、元の病棟に帰れる事になった。

当日は見慣れた看護師のお迎えが来て、元の病棟にベッドのまま移動する。
部屋は4人部屋に変わっていた。
正直個室ではない事に不満はあったが、まあ文句は今更言えないと諦めた。

部屋に戻ってきて早速荷物の整理をして貰う、手の届く範囲に必要な物を置いて貰い、無くなった物がないか確認する。
一度バラバラにした荷物を整理するのは大変だった。
何せ自分では出来ないのだから。

同室の住人とは挨拶すら交わさない。
カーテンは皆閉め切ったままで看護師との会話だけが聞こえる。

病棟が戻ってからのリハビリはキツかった。
今まで出来ていた事をまたやり直さなければいけないからだ。
立ち上がりの練習から歩行器を使っての歩く練習。
立ち上がるだけでふくらはぎがとんでもなく痛く、どうする事も出来ない。
慣れていくしかない。とリハビリの先生は言った。

トイレの乗り移りの練習もいつまでも続き、どうしても一人での立ち上がりが出来ず支え有りの状態でしか乗り移れない。

乗り移ったあとも問題があった。
ズボンとパンツを一人で下ろさなくてはならない。
乗り移りが出来ないのに、お尻を浮かせる事なんてできるわけもなく、練習しても練習しても上手く行かなかった。

このままで本当に施設の面談をクリアー出来るのだろうか。

縦の棒を使っての立ち上がりだとようやく一人で立ち上がる事が出来たある日、歩きの練習も歩行器を使って一人で歩けるようになっていた。

この変化は本当に嬉しかった。
ほんの数ヶ月前まで体が一切動かなかった事を考えると、これだけ動けてるのは奇跡としか言いようがない。
前の病院では、一生歩けないとまで言われたのに、今では歩行器を使ってだが少しだけ歩く事ができた。

それでもまだまだやる事の課題は残っている。
肩だってまだまだ上がらないし、体を後ろに捻るのも全く無理だ。
うつ伏せなんて以ての外だし、地面に落ちた物を拾うなんて行為をしよう物なら体ごと倒れてしまう。

身体はまだまだ不自由で、ベッドからの起き上がりも柵を手に持って支えながら、よいしよっと気合いを入れないと起き上がれなかった。

4月誕生日を迎える。
この日は約一年振りに甘い物が食べられる日だった。
病院から誕生日ケーキが出る。
おはぎかチーズケーキのどちらか選べた。
おはぎを選ぶ。
来たおはぎを見て、がっかりした。
スーパーに売っている4個入りのおはぎを更に小さくした一口サイズのおはぎがそこにあったからだ。
一口で終わるところを頑張って三口で食べる。
流石病院のおはぎなだけあって甘さがめちゃくちゃ控えてある。

それでも久しぶりに食べる甘味は格別で暫くは甘味が残る口内に浸っていた。

次の日の夜勤の看護師から「今日は私機嫌が悪いから何するかわからんよ」と言われて驚いた。
ナースコールするとやはりイライラしていて、それくらい自分でしろと投げられる。
怖くて親にクレーム入れてもらったが、以前の看護師同様、「何も言ってません」とシラを切られた。
この看護師は以前からプライベートのイライラをすぐ仕事に持ってくる最悪な看護師だ。
機嫌が良い時は凄く対応が良いのもタチが悪い。



胆嚢炎

2022-08-01 15:26:00 | 日記
リハビリも歩く練習に精を出している中、足の(特に右足)感覚は殆どない。
左足は多少あるものの、右足は地面を踏み込んだら感覚すら無かった。
そんな中で歩く練習だ。お尻に力が入らず足はすぐ崩れるわ、前に足を出す行為があまり出来ないわで、歩ける見込みはほぼ無かった。

お尻の力を付けるために寝たままお尻上げの特訓などを何度もやった。
でも足の感覚がないのにどうやって歩けと言うのか。

立ち上がりの練習では、何とかベッドの高さを太ももくらいに上げて立ち上がる事は出来た。
ただ、やはり一人では難しく、リハビリの先生に支えられてではないと無理だった。

肩の可動域も狭く、背中や腰が痒いのは未だに届かない。
ゴムバンドを渡されて、リハビリ以外の時間も特訓してくれとお願いされた。

この頃にはスマホがようやく使えるようになり、前は一度もやった事ないゲームにハマっていた。
なので、ゴムバンドは正直サボっていた。

リハビリも順調に進み、一人の支えで何とか歩く事が出来るようになった。
平行棒でだが。

次のステップに進む時がすぐに来るから体が持たない。
お次は歩行器を使って歩く事を試みた。
歩行器に捕まり、前と後ろ、右足と左足に四人が支えてようやく一歩を踏み締めた。
お尻の力が弱いのと、足に力が入らず支えがなければすぐに崩れ落ちてしまう。
リハビリの先生4人が必死に支えてくれているのが申し訳ない。

ほんの10m程を歩いただけでも疲労感は半端なく、しかも元の場所に戻れと言うのだ。
先生方の方が疲れていると言うのに、来た道を戻り歩いた。

それからも毎日のように歩行器と先生4人の助けにより歩く練習が続いたある日、お尻に力が入るようになってきた。
右足と左足の支えがなくても立っていられるし、歩く事も出来る。
歩行器に捕まり、少しの距離を誰の支えも無しに歩いた。

退院は刻一刻と近づく。

退院後に入所予定の施設が、自分である程度何でも出来るようにならないといけない。というコンセプトらしく、この日からトイレの練習が始まった。

車椅子からトイレの便座へと乗り移る練習だ。
リハビリの先生に両脇を支えて貰い、お尻を浮かせて便座へと乗り移る。その逆も然り。

取り敢えず暫くはこのやり方でトイレに行くことになった。
病棟の看護師や介護士にもそれは伝わり、トイレに行く度にナースコールを押した。

そんなこんなで2月の初めに入所予定の施設への面談と面接が行われる事になった。

その日は天気も少し悪く、朝から介護用の車へと車椅子のまま乗った。
一時間程で到着するも、ほぼ一年振りの車に車酔いする。

面接はトイレを1人で出来ない事を一番に指摘された。
前に比べたら少しは動けるようになったとか関係ない。この施設の人たちはそんなの知らないのだから。

帰りの車の中ではその話題は一切なく。病院へと帰宅した。
お昼ご飯の時間だったが、車酔いした自分は昼ごはんを半分食べるのがやっとだった。

次の面談は月末だと言う矢先、最初の面談から一週間程が経った日に胆嚢炎になるのだが。

その日は金曜日、一日のリハビリなどを終えて、さあ寝ようとしたところにお腹に違和感を感じた。
何か痛い?
夜中の2時ごろに激痛で目を覚ます。
お腹と背中が痛くて、ナースコールを鳴らす。
先生は土日なので不在らしく、痛み止めを貰って凌ごうとするも、全く効かない。
仕方なく臨時の先生に診て貰うが、答えは腎盂腎炎だと言う。
本当にそうなのか?ネットで色々調べるも当てはまるようで当てはまらない。

そのまま眠れず朝を迎え、昼間もリハビリをする気力も体力も無かった。
その時は病気の診断も何もなく、なぜ痛いのかは分からない。
男性介護士の一人に「根性ねえなぁ」
と言われた。

日曜日の夜、もうすぐで朝を迎えれば月曜日で先生が来ると痛みに耐えていた。
一睡も出来ないまま、朝を迎え先生の出勤を待つ。
10時ようやく先生が出勤し、診察をしてもらった。
恐らく胆嚢炎だが取り敢えずCTを撮ろうと言う事だ。

結果はやはり胆嚢炎で、その日の夕方に手術をすることになった。

膀胱に続いてまたもや手術だ。
エクモに入って一ヶ月寝てる時も肺を3分の2切り落とす手術をしている。
一生分の手術をしているのではないだろうか。

全身麻酔の手術だったため、またもや目を覚ましたら終わってると言う状況だ。
手術前という事で家族が呼ばれて、母の代わりに姉がやってきた。
手術の説明を聞いてくれている。
疑問に思った事も姉はズケズケと聞けるタイプなので、こんな時は頼もしい。

そして手術は始まった。

目を覚ますと案の定手術は終わっていて、別の病棟に連れていかれた。

手術は約五時間も行われたらしい。

お腹に五つの穴を開けて、そこから内視鏡で胆嚢を切り落としたらしいが、説明では四つ穴を開けると聞いていた。
何で五つなのか?疑問に思っていると、医者から「ちょっと一ヶ所届かなかったからもう一個空けちゃった」と言われた。
まあ、痛みも無くなったしいいかと思いそのまま笑って流した。

それにしてもこの病棟の看護師は若い子が多い。
そして、機械的な子が多い。
何というか無感情と言うか、時間通りに何かをすると言うところが。
ナースコールを押して、オムツ交換を訴えても、リハビリ病棟とは違い機械的に事を進める。

次の日からここでの病棟のリハビリが始まった。

手術前に比べて体がまた動かない。
歩こうと立ち上がると足が痛くて立てない。
折角あそこまで回復したのに、また初めからですか?




年末年始

2022-08-01 09:13:00 | 日記
寝る時に脚を動かして貰う作業に看護師、介護士諸共呆れられていたある日、足の指に水虫が出来てしまう。
靴下さえ履いてないのに何で水虫が出来るのか?
医者にも取り敢えず診断して貰うと、やはり水虫だと言う。
毎朝薬を塗って貰うのだが、日中ずっと痒い。
堪らなくてナースコールを押しては指先を掻いて貰う。
看護師によっては掻かない方がいいと突き放す者もいたし、靴べらを二つ繋げてテープで固定した棒を渡され、それで自分で掻きなさい。と言われたりもした。

所詮靴べらは靴べらだ。腕を伸ばして二つ繋がった靴べらを足の指先まで届かせる。
だが、所詮靴べらなせいか先が孫の手のようにはなっていない。
届いたとしても掻くことが出来ないのだ。

これは困ったと、頭を悩ませ考えた末は、脚を手で引き寄せるだった。
左足を両手で抱えるように引き寄せる。かなり重く感じ中々引っ張れない。

そりゃそうだ。寒くて布団を肩まで上げようとしても、布団が重くて持ち上がらないのだから。

それでも痒みの方が強くて必死に手繰り寄せようとする。

その結果、なんとか膝が曲がり手繰り寄せる事に成功した。

足の指先を自由に掻けるのがこんなに幸せなのかと悦に浸る。
暫くは足は曲げたままにしてようとそう思った。

その水虫のおかげか、痒みのせいで気付けば前より腕の力が上がっていた。
寒くても布団を肩まで上がらなかったのが、今ではそれも出来るようになっている。

しかも、脚が膝から曲がるようになっていた。
これで水虫も自由に掻けるし、寝る時の足の位置も自分で調整出来る。
看護師や介護士に呆れられる事もない。

食事にも少し変化が出始めていた。
この頃には既に固形食に代わっていたのだが、全介助だった食事が時間はかかるが自助具を使って一人で食べれるようになっていた。

ただ、車椅子に乗れるのは一時間半が限界で、それ以上になるとお尻や腰が痛い。
なので食事をした後はナースコールをし、ベッドに横にさせてもらっていた。
でもここはリハビリ病棟であり、車椅子に座って置くのもリハビリだと言う看護師も居て中々ベッドには寝かせて貰えない事もあった。

車椅子に座ってるのも相当キツいのに、なんて意地悪なんだと当時はそう思っていた。

リハビリの方は脚が動くようになった事から立ち上がりの練習へと変わっていった。
これが中々難しい。椅子ぐらいの高さだと低すぎて立ち上がれないので腰ぐらい高さにベッドを上げての立ち上がりの練習。
誰かに支えて貰わないと立ち上がる事は出来なかった。

立つって事がこんなに難しいとは全く思わなかっただけに立ち上がれない事が結構ショックだった。

言語療法があった事もお伝えしておく。
一日40分間だが、その間は言語療法の先生とお話ししたり少し言葉の訓練をしたりしてた。
話の内容は今までの事とかこれからの事とか様々な愚痴だったりとかだったが、喋ることに意味があるらしく内容は何でもいいそうだ。
呂律は未だに戻ってない。

そしてそのまま年末が来る。
まさかの病院で年末年始を過ごすことになろうとは……

世間が年末にどんな過ごし方をしていようと病院での年末は何も変わらない。年始もそうだ。
いつものように起きてリハビリをして食事をする。
一つだけ違うのは年末のお昼には蕎麦が、年始の昼には簡単なお節が出た。
そして年始の挨拶だけが、「明けましておめでとうございます」だった。
ただそれだけだ。
それ以外は何も変わらない。

年始も少し過ぎた頃、歩く練習に切り替わっていた。
平行棒に二人がかりで立ち上がらせて、前と後ろから支えられ歩くと言うものだ。
膝が曲がると言うもの、脚を前に出す行為は中々に難しい。
しかもお尻の筋肉に力が入ってなくて、すぐに脚が崩れてしまう。
足首も動かないので歩き方が抜き足差し足みたいになっている。
こんなんで本当に歩けるようになるのか心配だ。