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熊本から気ままに山と自転車のブログ

トンカラリン・日置の墓地

トンカラリン・日置の墓地
2021/6/24(木) 晴/時々曇

天候は晴れ/薄曇り、出発時気温24°最高気温予報30°。
朝の始動を一時間早めて午前8時過ぎから、目的地を和水町瀬川の県指定史跡「トンカラリン」と町指定建造物「日置の墓地」としてポタリングに出る。18日ワクチン接種以来6日目となり、なんとなく体調も平常になったように思う。そこで様子見に、早めに切り上げるつもりで自転車に跨った。

往路は、県道31、国道208経由で玉東町稲佐から右折して、九州屈指の大きさをほこり少女の変形した頭がい骨が出土した古墳として有名な和水町瀬川の松坂古墳を目指す。

松坂古墳の所から県道から右折して集落の中の道を進むと、トンカラリンの案内看板(写真1参照)があった。
説明板には、「謎の隧道遺構トンカラリン
菊水町瀬川の鶯原神社近くから始まるこの遺構は、全長445.6mでトンネル状の地隙(ちげき)や、地下道のような石組み暗梁(あんきょ)等が組み合わさった実に不思議な構造物である。
昭和50年代に、作家の松本清張氏が現地を調査して、邪馬台国が記された「魏志倭人伝」(三世紀に書かれた中国の歴史書)の一節から、「シャーマニズムに関係した鬼道ではないか」と推論したことで、全国的にその名が知られた。しかし、その後の「排水路説」により、沈静化へ向かった。
再び、トンカラリン論争が甦ったのは、県北部を襲った平成五年六月の集中豪雨以降である。この時、県北の排水路が甚大な被害を受けたが、トンカラリンには一切の損害が無く、それは大した水が流れなかった事を意味していた。そので、農業土木の見地から、今一度、詳細な再調査が行われる事になった。結果として排水路説には、余りにも矛盾が多いことが判明したのである。
(1) 上部の台地面積が狭いので、流れ出す雨水量は少なく、谷部に大規模な排水路を造る必要がない。雨水を取り込みやすいオープンカットの素掘り溝で十分である。
(2) 今日、トンカラリンを築いた場合、工事費の積算額は、二億円近くにもなる。これに見合うだけの経済効果を見い出せない。
(3) 排水路は、できるだけ直線的な造りが望ましい。しかし、トンカラリンは、実に多くの湾曲箇所を伴って蛇行を繰り返している。
(4) 石組の構造物に、災害箇所(地隙)が取り込まれており不自然である。排水路施設は、この様な造りをしない。
(5) 地隙内に積まれた切り石や、石組み暗梁下部の変化点における角部の整形など、排水路に不自然な飾り箇所がある。面取りされた切り石は常に闇の中にあり、角部には削られて、丸みを帯びている。この様に、トンカラリンは再び、我々に問題を投げかけるのです。皆さんも、是非、この謎解きに挑戦してください。菊水町」とある。



トンカラリンの開口部(写真2参照)は、民家の後ろ2mほどの土手にある。


開口部(写真3参照)は、人がしゃがんで出入りできる程の大きさである。


内部の石段(写真4参照)が見える。「シャーマニズムに関係した鬼道?」松坂古墳との関連を連想させられる。「胎内くぐり」の原初か?「砦(城)の抜け道」?「横穴石室古墳」の技術が使われていると考えられる。日置氏と関係があるようにも感じられる。関係あるとすれば、石棺を瀬戸内、畿内に運搬したその財力で建設したか?更には、江田船山古墳と関係有るや無しや?


開口部横にある説明板(写真5参照)


トンカラリンを後にして、集落の中、畑地を通り、林の中を抜けて「日置の墓地」(写真6参照)に移動する。集落の中には、屋敷神の祠等がそこここにある。


文政八(1825)年に郡役所の指示により建立された「日置部公墓碑」(いっちょ墓)(写真7参照)


説明板(写真8参照)には、「所在地:和水町瀬川字西奥原、紀年銘:文政八(1825)年五月、石質:砂岩(天草砂岩)、寸法:地上高2.0m
 鶯原台地の西南部の畑の中に、ポツンと墓碑が建っており、一墓しかないため「いっちょ墓」と呼ばれています。
 この墓碑は、寛政六(1794)年に日置部公のものと思われる銅板墓誌が出土した地に、文政八(1825)年に郡役所の指示により建立されたものです。
 墓誌は、幅二寸(約6.6㎝)、長さ八~九寸(約26.4~29.7㎝)、厚さ一~二歩(約3.3~6.6㎝)が残っていましたが、明治十五(1882)年に盗掘を受けて以来、行方不明になっています。
 「日置部」は大和政権によって各地に設置され、「日」あるいは「火」を守るという重要な役割を与えられた集団といわれ、本来「ヒオキ」と読まれ、のちに「ヒキ」→「ヘキ」へと変化しました。
 日置部公の本拠地は「和名抄」に見える玉名郡日置郷一帯とされ、疋野神社は一族の氏神だったと考えられています。
(墓誌写)、
(解釈)
 「七道のうち西海道を統括する大宰府に白す。  玉名郡の人    權擬少領    外初位下  日置部公。 治める地は高野山」とある。


10時半前帰途に就き、12時過ぎ帰宅する。帰路のペダルは、先日よりも軽く感じた。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)27km→日置の墓地27km→熊本(自宅)
所要時間4時間(実3.5時間) 総計54km 走行累計41,609km

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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