月感上人之墓・高橋東神社
2024/11/13(水)晴
最高気温25°早朝12°少し暑くなる午後13時半から、池上町の月感上人の墓と高橋東神社を目的地としてポタリングに出る。味生池について、土木の神様・加藤清正公が干拓したという説があるが、現地の「月感大徳上人の由来」書には上人が藩に願い出て干拓したとあったように記憶にあるので、それを確認するものである。
熊鹿ロードを南進し、井芹川沿いを下り、戸坂町を過ぎ左折して池上町の月感上人の墓(写真1・2・3参照)に立ち寄る。参道入り口の碑の横から石段を登る。山の中腹に墓地があり、その最上段に上人の墓石がある。
参道入り口の碑の隣に、「月感大徳上人の由来」(写真4参照)記があり、それには、「延寿寺開祖の月感大徳上人は慶長五年菊池郡合志坂井の庄碧巖寺に生る。俗姓藤原憲隆遠祖は大職冠の裔菊池氏に従って肥後に下り合志を領す。憲隆十二才の正月得度して明了と号す。慶長十六年租師三百五十年御祥忌の日なり。この年太守加藤清正に延寿寺再興を乞い許されて熊府白川の辺に境地を給ふ今の現在地之なり。上人天資明学識旺盛寛永八年五月の火難に寺院全焼五千余巻の蔵書灰燼に帰せし時師は火気未だ消えざるに法義修練のため京に発ち修学五年に及ぶ。学殖信仰共に卓越その講義布教には鳥獣も聴聞に集りしと傳岳多識経財に精通し医薬に詳しく観相哲学の理を究め者書亦多く肥後の三蔵と謳われ高僧の名高し。特に池上村については当時水田に恵まれず住民生計に苦しむを憐み味生池を干拓し水田百余町歩を造成し水利を良くし山林の開墾を奨め又免税の特典を得しむる等深く村民の福祉向上に寄与さる。延宝二年七十五才を以って示寂、爾来村民はその厚恩を忘れぬ為毎年三月廿八日に一同山の中腹に酒宴を催して村の繁栄を祈り御命日に当る旧九月五日には盛大な祭典を挙行し来りしが漸次衰退を辿り誠に遺憾に堪えず、茲に有志相議り碑建て永く月感大徳の遺徳を偲ぶ。辞世の歌、夢の世に汐のひるまに生まれきて浪のよするに身はなかりけり。志水正男碑文・中島淑人謹著」とある。
月感上人の墓を後にして、高橋東神社(写真5・6参照)に移動する。鳥居右側に樹齢千三百年以上と推定される「天社さんの楠」と呼ばれる大楠がある。
「東神社の由来」書(写真7参照)には、「高橋東神社(天社さん)は和銅三年(西暦710年奈良に都が定められた時代)元明天皇の御宇に勧請、祭神を道の君の首名と称す。公は大彦命の後胤にして、筑後の国主として、奈良朝の命により赴任、肥後国主を兼ね、生業を勧め、味生の池を興し潅漑によって、農耕の便を図り、地方農民の信頼を衆む。従来天社宮と称し、高橋町、池上村の田の神として農業、商売繁盛の守護神として信仰せらる。明治六年、高橋東神社と改称、現在高橋西神社の飛地境内神社たり。境内の大楠は勧請後植樹され、樹齢凡そ壱千弐百年を経て今尚鬱蒼として往時を偲び天然記念物として文化財の指定を受くるものなり。」とある。
高橋東神社を後にして、熊本港(写真8参照)まで足を延ばし、折り返す。帰路は、小島橋から白川右岸堤防を走り帰途に就く。
17時に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)18km→熊本港19km→熊本(自宅)
総所要時間3.5時間(実3時間) 総計37km 走行累計60,644km