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∂猛き咆哮4

2020-05-05 18:26:49 | 日記
∂猛き咆哮4
⌘クライングフリーマン

殺し屋、クライング・フリーマン。チャイニーズ・マフィア「百八竜(ハンドレッド・エイト・ドラゴン)」の長となったクライング・フリーマンが組織と妻を守るため襲い来る敵を撃退していく、エロス満載のアクション活劇である。

作画の池上は原作の小池から「涙を流す陶芸家の殺し屋」というコンセプトを聞き、マッチョな男より「いい男」を描きたいと思ったという。またこの当時、漫画業界全体で性的な表現が拡大していった時期であり、本作でも性的描写・性行為が多く見られ、公私無関係にすぐに全裸になり、平気でストリーキングをするという奇行的な行動が現れている。大西祥平『小池一夫伝説』によれば、本作は(日本の)漫画で堂々と陰毛・ヘアを描写した嚆矢たる作品であるという。本作は本来、百八竜に拘束され殺人機械にされてしまった哀れな男の物語であったはずであるが、いつしかストーリーは主人公がただ組織と妻を守るため、襲いかかる強敵を倒していく勧善懲悪ヒーローの物語になってしまう。これは、適当に名付けたはずの百八竜という青幇が香港に実在していたことによる。物語が中盤の頃、小池は百八竜にホテルの一室に呼び出された。「なかなかおもしろい」と評され、高級時計をプレゼントされるなど、その対談は友好的雰囲気のうちに終わったが、さすがにそれでは今後、百八竜を悪の組織として描くわけにはいかず、中盤以降の予定がすっかり狂ってしまったと小池は述懐している。結果、以後百八竜は「悪い組織を退治する謎の組織」(大西祥平『小池一夫伝説』p.163より引用)となったが、この路線変更が本作のさらなるヒットに結びついたとも考えられる。


∂あらすじ

気鋭の陶芸家・火野村窯(ひのむら よう)は自らの個展会場であるフィルムを手にする。そこには残忍なチャイニーズ・マフィアである「百八竜(ハンドレッド・エイト・ドラゴン)」の殺人場面が写されていた。フィルムを回収しようとする百八竜は、引渡しを拒んだ窯を拉致し、また窯に殺し屋としての天才的な素質を見いだしたため、窯を殺さず、強力な催眠を掛けて殺し屋に仕立て上げる[11]殺し屋としてのコードネーム「フリーマン」を与えられた窯は殺し屋としての訓練を受け、自由の象徴として刺青を入れられる。窯は殺しが終わると同時に、己の宿命に涙を流すことから、「クライング・フリーマン」とも呼ばれるようになった。またこの頃より既にフリーマンは百八竜の未来を背負って立つ器のある者と見なされていた。

天涯孤独の画家・日野絵霧(ひの えむ)は、香港でフリーマン(窯)の殺人を目撃する。目撃者として殺されることを悟るが、同時に静かに涙を流したフリーマンに思いを募らせるようになる[13]。絵霧は殺しにやって来たフリーマンに、殺す前に抱いて欲しいと願いをぶつける[14]。彼女の願いを叶えたフリーマンは、彼女を愛したため彼女を殺せなくなった。しかしその頃、フリーマンに会長を暗殺された白真会組員たちが絵霧の家に侵入、フリーマンとの戦いになり、絵霧が巻き添えで重傷を負う。フリーマンは彼女を病院に運び、火野村の登窯で会おうと言い残す。回復した絵霧は新田と花田君江の襲撃を撃退。窯の全裸紅白ブリーフによる手旗信号で竜潜を呼び出し、窯と共に百八竜へ向かう。

頭目・百八竜とその妻・虎風鈴は、フリーマンに龍太陽(ロン・タイイァン)、絵霧に虎清蘭(フー・チンラン)という中国名を与え、結婚を許す[百八竜の後継者となる事を運命付けられたフリーマンだったが、日本人が頭領となることを快く思わない頭目の孫娘、白牙扇(ペーヤーサン)に命を狙われ、組織を巻き込む争いとなる。この事件を解決したフリーマンは絵霧に虎の入れ墨を施す。

さらにテロリスト誘拐組織など、国際的な犯罪組織が次々と百八竜とフリーマンの前に立ちふさがる。


∂猛き咆哮2 @Lynノベル20200503A

2020-05-03 07:14:00 | 日記
猛き咆哮2
@Lynノベル20200503A

そろそろサンフランシスコ国際空港に着く、シスコの街の夕景が海に浮かぶ光の城のようだ。いよいよアメリカへの第一歩を踏み出す。
どんなジャムが始まるのか胸の高鳴りが抑えきれない、スチュアーデス(いまでは、CA)の声が頭上でした。
∝ウエルカム シスコ、please come and get your bag
これこれ、アメリカンテイストだ。心はアメリカンになっている。

ホリデイ イン サンフランシスコ - ゴールデン ゲートウェイが、今夜の宿だ。まだインには早いので、何処かのカフェに寄って軽く飲み食いしたいと思っていた。旅のカタログ(スピン出版)を取り出した、これの編集会社にいたから隅から隅まで先刻ご存知なもの。

∝さて、何処に決めようか?〝Cisco〝にしよう、この記事書いたの私だから!実際に行ったように書いたよな、実際はどうだろう?
イヤフォンから♪花のサンフランシスコ(スコット・マッケンジー)が繰り返し鳴っている。まるでシスコに行けば、そこは夢の地のような歌詞、ヒッピー讃歌の歌のようだ。
しかし、シスコはそれとは違った顔を見せることになる。それが私の見た本当のアメリカを。そして、それは私の無邪気な青春を終わらせることになった。
@Lynノベル20200504Aへ続く・・・

∂アメーバブログへ




∂猛き咆哮1@Lynノベル20200502A

2020-05-02 15:46:25 | 日記
∂猛き咆哮 @Lynノベル20200502A
私のバッグの中には、3枚組のジョージのアルバムが入っていた。オールシングマストパス、全ては変わりゆくもの、私にとってそれは意味深いアルバムタイトルであった。
』 1970年11月27日ジョージ・ハリスンスタジオ・アルバムLPレコードCDビートルズ時代から温めていた楽曲なども含めて、彼のソングライターとしての実力が遺憾なく発揮されている。70年代の幕開けを飾るロックの金字塔とも評される。
シングルでも「マイ・スウィート・ロード」(全英・全米1位、日本4位)、「美しき人生」(全米10位、日本19位)などのヒットを生み出し、アルバム全体を通してジョージが崇拝する神への念を素直に表現している。
オリジナルLPのディスク3はジャム (音楽)">ジャム・セッションの様子を収録。エリック・クラプトンを中心としたデレク・アンド・ザ・ドミノスの全メンバーや、リンゴ・スターバッドフィンガービリー・プレストンなどがレコーディングに参加している。プロデュースはジョージとフィル・スペクター

ビルボード』誌アルバム・チャートでは、7週連続第1位を獲得し、1971年度年間ランキング第18位を記録。また、『キャッシュボックス』誌では、8週連続第1位を獲得し、1971年度年間ランキング第21位。

私は3枚目のジャムが好きだった。ジャムというスタイルが、面白さを感じさせていた。
それと〝オン・ザ・ロード〝という小説、ジャック・ケルアックが書いたもの。

内容

ジャック・ケルアック
1922-69年。マサチューセッツ州生まれ。大学中退後、海軍に入隊するがすぐに除隊、47年から大陸横断の旅をはじめる。57年本書刊行、一躍文壇の寵児となる。『地下街の人びと』『孤独な旅人』『荒涼天使たち』など。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より


この二つで私のシスコへの道が決まった、羽田空港へ向かう電車の中で青く広がる空と雲を眺めていた。まるで景色が違うあのゴミゴミとした東京の街が光輝いて見えていた。私の大学の頃にはリムジンバスも成田空港もなかった、モノレールから滑走路が見え飛行機群の翼が銀翼に光って見えていた。

@Lynノベル2へ@20200502Cへ・・・




asrinwriterのブログ

2020-04-30 16:22:03 | 日記
∂ブログ小説をこの@gooで書いていきます!
宜しくです!
@Lynノベル2020040502A

 ジャンルは問わず、書きたいテーマが見つかったら書きます。応援よろしくです。

∂猛き咆哮(仮題)
  それは五十年前のことだろうか?1970年が始まり、60年代のヒッピームーブメントや学園紛争が落ち着きを見せ、何かモラトリアムの時代だった。若者は社会的安定を求めて模索していた。私にとっては1969年のビートルズの解散、“let it be”のアルバムの
♪two of usから
♪get back
までの曲の流れに時代の流れを感じていた。


大学に入り、一年目が過ぎていた、アルバイトでスピン社という出版社では新雑誌発行の会議に加わっていた。その雑誌は‘popeye−ポパイ−“という名前で、私は音楽コーナーの担当、音楽関係の会社やミュージシャンの取材などをまかされていた。今ビッグになったグループなどがまだ売れる前でギラギラと自分たちのこれからの音楽性について熱く語っている。それを私はリアルに記事にしていくのだ。あのMR j・Jこと植草甚一氏を取り上げてJAZZや散歩と雑楽につての講釈をカフェで取材しながら聞いていた。MRJJとは年の差はあるが友人ような付き合いをその後した。これも私の青春の大切なメモリーになっている。
そしてビートルズの解散、別々の道を歩み始めた4人。”マッカートニー“,”ジョンの魂”
“All things must pass”,”リンゴ“とそれぞれひとりひとりが個別にアルバムをだしていた。しかし私の中でのビートルズはそのアルバムのどこにもなかった。
私はジョンがヒーローだったので、ジョンのアルバムを擦り切れるほど聞いた。まさにジョンの魂の叫びがそこから聴き取れた。
ジョージの”all thing mus t pass“は、ギタリストのジョージそのもの、このアルバムの中の曲をコピーしてジョージのことを思った。
学園祭の演目にジョージのこのアルバムの曲は必ず入れた、そして2年目の夏休みにバイトで貯めた金でシスコに旅立った。
これが私の人生に大きな転機をもたらした。これから書くのはその話である。

続く・・・
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