※京都府福知山市大江町内宮の元伊勢内宮 皇大神社
◆吉志部神社~ 元伊勢神宮(内宮) ~
仮宮の地を定めただけで、なぜ地名まで移す必要があるのだろう。本来仮宮というものは正殿が完成するまでの間の一時的な待避所である。わざわざ2年間も千里丘陵で過ごさずとも伊勢の外宮が完成してから直接、丹波の比沼の真名井から遷宮すればすむことだ。山田東社の社伝が腑に落ちない。そこで見方を変えてみる。これは地名を移したのではなく、伊勢山田ヶ原に見立てたのではないか?伊勢山田ヶ原には豊受大神を祀る豊受大神宮(外宮)があり、南方には天照大神を祀る皇大神宮(内宮)がある。ひょっとしたらとの思いで仮宮があった尺谷の南方を調べると驚いた事に天照大神を祀る神社があった。吉志部神社(きしべじんじゃ)という。
吉志部神社の社伝には「崇神天皇の御代に大和の瑞籬(みずがき)より神を奉遷してこの地に祀った」のを始まりとする。
祭神は天照皇太神、豊受大神、八幡大菩薩(応神天皇)、祇園牛頭天王(素戔嗚尊)、稲荷大明神(宇迦之御魂大神)、春日大明神(藤原氏の氏神)、住吉大明神、恵比寿三郎。
社の説明には『創建当時は豊受大神を除く七柱をお祀りし、七社明神と呼ばれていたのですが、正徳3(1713)年正遷宮の際に豊受大神を加座し、現在のような八柱奉祀の多祭神になりました。』とある。
(※吉志部神社の社伝 崇神天皇の御代に大和の瑞籬から奉遷したとある)
祭神八柱のうち江戸時代に合祀された豊受大神を除き、他の七柱は創建当初の崇神天皇の御代から祀っていたという。しかしながら八幡大神である応神天皇は崇神天皇の5世代目の子孫にあたり、住吉神社は応神天皇の母親である神功皇后の御代に創建されている。時代的に合わない。住吉大明神と八幡大神は共に後世に合祀したものだろう。恵比寿信仰は平安時代末期の西宮えびす神社創建の頃に始まる。素戔嗚神の信仰は平安時代の大同5年(810年)に嵯峨天皇が「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」と勅命して以来全国で奉祀され始めたものだ。稲荷大明神は応神天皇の御代に渡来した秦氏が奉祀したもので全国の稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社は秦氏が和銅年間(708-715)に創建している。余談だが伏見稲荷大社の祭神である宇迦之御魂大神は豊受大神であると室町時代の神祇次官・吉田兼倶が著した『神名帳頭註』の伏見稲荷の条にある。兵庫県の豊岡市は豊受大神の名が起源でトヨウケ→トヨウカ→トヨオカと訛ったものとされる。トヨウカからトヨの文字が取れたのがウカノ大神であろう。なぜトヨの文字が無くなったのかその理由までは記されてはいない。さて春日大明神も大化の改新以後の藤原氏の台頭に始まる。こうして見ると天照大神を除く他の六柱はすべて時代考証的に無理がある。創建当初は天照大神のみ。江戸時代に吉志部神社では遷宮が行われていたとある。本場伊勢さながらの祭祀を行い続けて来たのだろう。
※吉志部神社 本殿
崇神天皇の御代に大和の瑞籬から奉遷したとあるが、どの史料にも大和の瑞籬から岸部の地に遷宮した記録がない。気になるのは社伝にある「奉遷」だ。奉遷とは「神体などをよそへ移すこと」【三省堂】とある。遷宮とは異なり御神体のみの移動のようだ。恐らく一時的なもので記録にすら残らない仮宮ではないだろうか?あるいは、ここも藤原氏の簒奪にあい遷宮の記録を抹消されたものかと思う。
ではなぜ大和の瑞籬から遠く離れた岸部の地に奉遷したのか?大和の瑞籬で地震や洪水など、某かの異変が起こり宮での祭祀が出来ない状態に陥り、一時的に域外の吉志部神社に避難させたのではないだろうか?公式には大和の笠縫邑の瑞籬の次は同じく笠縫邑内の志貴御県坐神社付近に遷宮している。詳しい事は判らないが吉志部神社に天照大神が祀られていたのは事実だと思う。次にその証拠をお見せする。
◆正雀川と五十鈴川~ 変えられた名前 ~
(※京都府福知山市元伊勢内宮 皇大神社近くの五十鈴川)
伊勢の内宮には五十鈴川が隣接する。福知山の皇大神社(元伊勢内宮)に隣接する宮川の別名も五十鈴川である。同じように吉志部神社にも隣接する川がある。名を正雀川(ショウジャクがわ)という。初めて見た方の中には「セイジャクがわ」と読んだ人もいるだろう。この「正(セイ)」の字の同音異義語に「井(セイ)」の字がある。もうお分かり頂けただろう「井雀川(いすずがわ)」である。現在、正雀川の由来は諸説あり確定していない。ここが藤原氏の荘園 になった時に「井雀川」の呼称を訓読みの「いすず」から漢読みの「セイジャク」に呼び改められ、後に「井」の字を「正」に変え、呼び方も「ショウジャク」としたのであれば、最もシンプルに正雀川の由来を説明出来る。
日本の旧国名、郡名や、郷名、河川湖沼などの地名の漢字表記は奈良時代に元明天皇が発せられた「諸国郡郷名著好字令」という勅命によるものだ。それ以前は大和言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一様ではなく、万葉仮名のように一つ一つの発音に対し漢字一字を割り当てるものもあった。そこでこれらの名称を好字二字で表記せよとの勅命がなされた。この時、訓読み表記で定着していたの3文字以上の名称は「近淡海」→「近海」→「近江」などの様に漢字を省略するなどで対応したが、大半は漢字二字に納めさせるために訓読みの発音に近い漢読みの漢字二字を割り当てている。便宜上読み手に解るよう漢字二字の読み方はすべて漢読みか訓読みであり、漢読みと訓読みを混ぜた表記は、鎖国が始まった894年以降に登場する。理由としては漢字の画数が多い、一般的に知られていないなど、そのため別の漢字を略字として代用した。
(※正雀川 吉志部神社付近で流路が直角に屈曲している)
正雀川を正尺が由来とする説がある。この場合、「正」を漢読み「尺」は訓読みだ。このような表記方法は後世的だ。「正雀」と書いた場合、「正」、「雀」ともに漢読みである。「正尺」の表記は室町時代に遡るとするが、これは「雀」の字を簡素な「尺」の字に略したためであろう。表記方法を見れば「正雀」の方が古い。おそらく明治の地名確定の際に本来の地名に戻したのだろう。
実はこの正雀川が井雀川であったとする説は、私が考え出したものではない。今から50年ほど前に私の友人の父親がこの辺りに住む老人から聞いたものだ。当時の千里丘陵は開発が始まったばかりでほとんど竹藪だらけの丘陵地帯だった。私の友人の父親がメジロを捕りにこの辺りの山に入った時のこと、同じくメジロを捕りに来た老人と知り合い、談笑の中で「正雀の『正』の字は『セイ』って読めるだろう?昔は『井』と書いて「井雀(いすず)」と呼んでいた」と聞いたそうだ。なぜその老人が正雀の話をしたのかおよそ想像がつく。その友人一家の苗字が「井上」だったからだ。大神木神社に千年前の豊受大神の仮宮が伝わるように井雀川の話も地元住民の間で細々と伝えられて来たのだろう。
正雀川は名神高速道路の高架下を抜けると東南に向きを変え、吉志部神社付近でほぼ直角に屈曲し北東方向へ流れている。一帯は水田地帯だったため灌漑用に流路を変えたとされている。しかし、吉志部神社の真裏には釈迦ヶ池という巨大な溜池がある。大規模な灌漑工事で川を屈曲させずとも池から小さな農水路を引けば済むことだ。これは釈迦ヶ池よりも正雀川の屈曲工事の方が古いからであろう。釈迦ヶ池は中世には既に存在していたのが確認されている。尺谷にあった豊受大神の姫宮を高庭山に遷座させその跡地を溜池にしたのは仁寿2年(852年)だ。この年、文徳天皇の仁寿2年(852年)には藤原良房が全国の国司・郡司に農業用の池堰(ちせき)を修築させている。釈迦ヶ池も尺谷の溜池と同じくこの時期に造られたものであろう。これより古い時代の吉志部神社の東部には淡水の河内湖「当時の呼び名は草香江(くさかえ)」が広がり、正雀川の水は吉志部神社付近からほぼ直接、草香江に流れていた。灌漑用に正雀川を屈曲させたとするには河口があまりにも近すぎて意味をなさない。吉志部神社が天照大神を祀る元伊勢の内宮であったからこそ、祭祀祭礼のため正雀川(井雀川)を屈曲させたのであろう。
◆猿田彦神社~天照大神の導きの神 ~
(※京都府福知山市大江町二俣の猿田彦神社)
伊勢の内宮近くには猿田彦神社がある。福知山の皇大神社(元伊勢内宮)と豊受大神社(元伊勢外宮)のほぼ中間にある二俣駅の隣にも猿田彦神社がある。猿田彦神社は外宮とセットで祀られるようだ。そこで吉志部神社と尺谷がある千里丘陵東部に猿田彦神社が祀っていないかを調べてみると、隣接する茨木市稲葉町に佐奈部神社の摂社として猿田彦大神が祀らていた。Wikipediaには「水尾の個人が祀っていた猿田彦社を合祀した」とある。ご神体は神社で売られているお札やお守りと違い、神官となるべく修業を積んだ資格ある者でないと手に入らないものだ。古代であれば祭神の子孫であることが絶対条件だ。個人で祀っていたのは、祀るべき社領が無いため、代々家で祀っていたのではないだろうか。祀るべき後継ぎが絶える前に摂社として残したと思われる。淀川北岸で猿田彦が祀られている神社は、大阪市淀川区十三東の神津神社と佐奈部神社だけで他にはない。
(※佐奈部神社の摂社 猿田彦神社)
千里丘陵一帯の神社の祭神を調べると、ほとんどの神社が天児屋根命と素戔嗚尊を祀っている。これは淀川北岸に藤原氏の荘園が置かれたためであろう。特に素戔嗚を祀る神社は河内湖(草香江)が海退した場所に多い。海退とは土地の隆起、海面低下などで海岸線が後退し、それまで海底だった場所が陸地として現れることをいう。嵯峨天皇が天皇家の直接の祖先神ではない素戔嗚を天皇家の祖先神として全国で祀るよう宣旨た理由は、海退した土地の所有権は天皇家が持つと宣言するためである。だが、実質的にこの土地を管理したのは天皇家ではなく、藤原氏だった。そのため素戔嗚尊と一緒に天児屋根命が祀られているのだ。祭神が天照大神ではなく素戔嗚を祀った理由は、素戔嗚が海原を統治する神だからであり、嵯峨天皇が特段素戔嗚神の信奉者であった分けではない。のちに政務を藤原園人に一任し自身はもっぱら詩宴や舟遊びに興じている。この嵯峨天皇と同じく政務を藤原良房に一任し自身は詩宴や舟遊びに興じたのが貞観の治で知られる清和天皇だ。嵯峨天皇と清和天皇はともに名君とされるが、そもそも詩宴や舟遊びに興じて政務を丸投げする人が名君と呼べるであろうか?実際は藤原氏の傀儡であったのだろう。藤原氏は嵯峨天皇と清和天皇の御代に急速に領地を拡大している。
話を戻そう、猿田彦大神は単独で祀られる事が余りないように思える。天照大神、豊受大神、邇芸速日命、天宇受賣命などと一緒に、あるいはその近隣に祀られている事が多い。佐奈部神社の近隣にはそれらが見当たらない。福知山や伊勢神宮の例からすると、元は豊受大神の仮宮である姫宮があった尺谷や天照大神を祀る吉志部神社の中間付近に祀らていたはずだ。それに該当する場所が一つある尺谷の東にある須佐之男神社だ。須佐之男神社の社伝を思い出して欲しい。創建は不明とある。先述したように素戔嗚尊を祀り始めたのは嵯峨天皇の宣旨以後だ。それより前に素戔嗚を祀る神社はない。元は猿田彦大神を祀っていたものを嵯峨天皇の御代になって藤原氏が素戔嗚を祭神として祀らせ、猿田彦大神を祀る神官一族をこの地から追い出したのであろう。
◆天岩戸神社~天照大神の岩戸隠れの舞台 ~
(※京都府福知山市元伊勢内宮 皇大神社摂社 天岩戸神社と天岩戸)
正雀川の下流に市場池公園がある。公園の北隣りに流れる正雀川を挟んで北は吹田市、南は摂津市だ。公園の東側は大阪府道1号茨木摂津線(万博外周道路)に面し、大神木神社もこの道路沿いに鎮座する。公園から道路沿に20mほど離れた南には「岩戸 十一面千手観音菩薩」が祀られている(※以後、岩戸観音と呼称する)。岩戸観音は世阿弥の能『檜垣』に登場する檜垣嫗が崇拝した菩薩で有名だ。檜垣嫗は平安時代中期(10世紀)に実在した女性歌人で『後撰和歌集』にその歌が載っている。岩戸観音は少なくとも10世紀には存在していたようである。普通、岩戸観音はその名が示す通り洞窟の中で祀る仏像だ。しかし、ここに洞窟はない。ではなぜ岩戸観音が祀られているのだろう?名前から推測するに、ここには天岩戸神社が鎮座していたのではないだろうか?神社を廃止たため祟りを恐れ岩戸観音を祀ったと思われる。岩戸観音の御利益は一切の怨敵から害を受けない。財産を守るだ。
(※岩戸十一面千手観音菩薩 大阪府摂津市千里丘6丁目2)
◆山田郷土史~ 伝承に見える元伊勢 ~
山田郷土史「山田のあゆみ」【山田自治会郷土史編纂委員会 2001年】には「倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい場所を探す際に、上之山と呼ばれるところに一年ほど遷座し、その際に千里丘陵を「山田ヶ原」と呼んだのが「山田」という地名の起源とされる。」とある。吉志部神社の由緒書きには『吉志部神社は社伝によれば崇神天皇の御代に大和の瑞籬(みずがき)より神を奉遷してこの地に祀ったのが創祀といわれています』とあり、文章の前半の倭姫が天照大神を祀る場所を探し求めた結果と吉志部神社の社伝が一致する。後半の『上之山と呼ばれるところに一年ほど遷座し、その際に千里丘陵を「山田ヶ原」と呼んだのが「山田」という地名の起源とされる。』は、天照大神のご神託により豊受大神を仮宮を建て1年余り鎮座したという大神木神社の社伝と一致する。山田東社の社伝『伊勢神宮の斎宮皇女・倭姫の御示教により、大佐々之命が…神を奉祀するべき霊地をこの地に定めた』と倭姫になっているのは、天照大神を吉志部に遷宮した時の話で、豊受大神宮の遷宮(仮宮)一件と混同したとすれば辻褄が合う。山田郷土史の由来は、不確かながらも皇大神社(内宮)と豊受大神宮(外宮)がこの千里丘陵に在った記録が混在したものであろう。
◆元伊勢~ 神籬の地~
以上のように吉志部神社で天照大神が祀られていた事が、尺谷に豊受大神の仮宮を置いた最大の理由であろう。そもそも事の発端は雄略天皇が天照大神の御神託を受けた事による。だがこの御神託は雄略天皇のみが受けたもので、余人にはそれが事実なのか知る術がない。これまで伊勢では天照大神を単独で祀って来たため本当に天照大神のおそば近くに豊受大神を遷して大丈夫なのか、障りがないか確証がない。そのため直接伊勢に遷さず、この千里丘陵東部一帯に伊勢の地勢を擬似的に再現し、仮想伊勢として祭祀を施したのであろう。そのため伊勢の皇大神宮(内宮)の代わりに吉志部神社を、伊勢山田ヶ原に新築される豊受大神宮(外宮)の代わりに尺谷に仮宮を築造し、伊勢に見立てて2年余りに渡り検証したのだ。この過程で仮宮を擁する樫切山一帯に伊勢の豊受大神宮(外宮)が坐す山田ヶ原の地名が移されたのだ。つまり、この千里丘陵は雄略天皇の御神託の実験場であった。
擬似的にしろ吉志部神社での天照大神への祭祀は、伊勢の内宮と同じく正式なものであったに違いない。ひょっとしたら正雀川もこの時に流路を変えたのかも知れない。いずれにせよ、この千里丘陵東部は神を祀るに相応しい神籬の地であったため天照大神や豊受大神を祀る仮宮が置かれたのであろう。2年余りではあるが、千里丘陵東部は天照大神を祀る皇大神宮(内宮)と、豊受大神を祀る豊受大神宮(外宮)が鎮座した元伊勢であった。
「正雀」の由来については、記事の内容は大変興味深い推察ですが、正雀川上流域にあった地名「上正尺」「下正沢」からきていると考える方が素直です。
http://nora.my.coocan.jp/mac/Saigoku/history/water/river/Syojaku.html
かつては「正尺川」と呼ばれていたところからも、間違いないでしょう。
なぜ「雀」の字があてられたのかは不明です。