※京都府福知山市大江町天田内の豊受大神社
◆社伝の矛盾
●大阪府の吹田市には2つの伊射奈岐神社(佐井寺社と山田東社)がある。ともに雄略天皇23年を創建とし佐井寺社は伊邪那岐命を、山田東社は伊邪那美命を祀っている。
社伝は佐井寺社が『貞観から延喜(859~922)年間に伊邪那美命を東北の地に遷座。これを姫宮(山田東社)と称し、本社(佐井寺社)を奥宮と称した』とあり、山田東社は『小川谷の姫宮を高庭山に遷座し、貞観15年(873)に社名を五社宮に改名した』とある。
●この社伝とは別に佐井寺社、山田東社ともに貞観元年(859)に神階を授与したとある。日本三代実録には『伊邪那岐命に従五位上を授けた』とあり、実際に神階が授与されたのは佐井寺社のみだった。この件に関し江戸時代の国学者 伴信友は『伊邪那岐命と伊邪那美命は共に皇祖神であり、本来2社に授与されるべきものが、山田東社にはなかった。よって山田東社の伊射奈岐神社は、貞観から延喜(859~922)年間に佐井寺社から勧請されたもの』とした。
●ところが大阪府全志には『貞観前の仁寿2年(852)に姫宮の高庭山への遷座が行われた』との記録があり、勧請前に姫宮が存在したとするのです。
時系列順にすると。
① 雄略天皇23年に小川谷に姫宮を創建
② 仁寿2年(852)に姫宮を高庭山へ遷座
③ 貞観から延喜(859~922)年間に佐井寺社より伊邪那美命を勧請
④ 貞観15年(873)に五社宮に改名
山田東社の改名が貞観15年(873)のため勧請があったのは、貞観元年から貞観15年(859~873)の間でしょう。勧請とは神を他の地に移し祀る事です。すでに主神が坐す社に勧請する事はありません。このため勧請により主神が代わったと思われます。
◆社領の簒奪~神階の権威~
平安初期には神階による勧請が度々行われ、合わせて神官も交代し主神や社名までが替えられました。
神官の交代により主神や社名までが替わるのは、殆どの神社は氏神を祀り神官(神主)はその氏神の子孫が代々務めていたからです。神官が一族以外の者に交代すると、一族の氏神である主神も新たな神官の氏神に代わったのです。
この勧請には別の目的がありました。神官が管理する社領(知行)の簒奪です。NHKの歴史秘話ヒストリアで放送した内容です「 神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」に神階による社領の簒奪の話が詳しく説明されています。 その例です「初めに簒奪する側が管轄する小さな神社に破格の神階を与え、次に与えられた神階の権威を利用し標的となる神社に対し勧請を強制。勧請に合わせて神官が交代しその社領を簒奪する」
伊射奈岐神社の場合、初めに佐井寺社に神階を授け、次に神階を掲げ姫宮に伊邪那美命の勧請を迫ります。神階は朝廷の権威、拒むことは許されません。姫宮の神官一族は社領を佐井寺社の神官一族に奪われ、祭神を伴いこの地を追われました。その後、姫宮は社名を五社宮に改めたのです。
姫宮の地を簒奪した一族は誰なのか?答えは山田東社の祭神にあります。山田東社の祭神は伊邪那美命、天児屋根命、手力雄命、天忍熊根命、蛭子命の五柱で、天児屋根命、天忍熊根命は藤原氏(中臣氏)の氏神です。つまり姫宮の所領を簒奪したのは藤原氏だったのです。
勧請に伊邪那美命が選ばれた理由は、社名が「姫宮」だからでしょう。藤原氏には女性の氏神がいません。そこで女神で他の豪族と無関係。しかも皇祖神である伊邪那美尊が選ばれました。「他の豪族と関係がない」ため、他の豪族に社領を簒奪される恐れもなく、皇室に代わり藤原氏が皇祖神を祀るという大義名分を得て社領を守れたと思います。
◆大神木神社~仮宮の記録~
当初の姫宮の神は誰なのか?現在、姫宮があった小川谷の場所は不明ですが「山田小川公園」にその名を残し、近くには小川があります。かっての川下にあたる樫切山交差点付近には大神木神社があり、社伝には「雄略天皇が受けた天照大神の神勅により、豊受大神を丹波比沼真名井から伊勢高倉山度会の山田ヶ原に遷宮する途中、摂津国三島郷大神木に仮宮を建(たて)、1年余りに渡り鎮座した」とあるのです。
『大神木神社について
今を去る二千有余年前 此の地に近在まれに見る大木があり 此の木を神木として崇め敬ひ 人呼んで大神木神社と呼称す
日本書紀によると今から凡そ二千昔 国中に災害疫病が起こり 国土が荒れ果てようとした時 第十代崇神天皇が宮中に祀られてあった皇大御神を倭の笠縫邑(かさぬいむら)に移し ここに神を神籬(ひもろぎ)に建て皇女の豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)を神の守りとして奉仕させた 垂仁天皇二十六年皇大御神を永遠に祀れる平和な土地として伊勢国高倉山渡会(わたらい)の五十鈴川上に迎え奉り この時から皇大御神を天照大御神と呼び改め祀ることにしたのが伊勢内宮である。雄略天皇二十三年
天照大神の神勅「吾れ既に五十鈴川上に鎭り居ると雖も一人にては楽しからず神餅をも安く聞食(きこしめ)しめすこと能はずと宣(のり)して丹波の比沼の真名井に坐(ま)せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」とのお告げにより伊勢国高倉山渡会の山田ヶ原へ迎え奉ったのが外宮である その遷宮の途次摂津国三島郷大神木に假宮を建て年余りに渡り住居され今は大神木大神御一人になられるも
五穀豊穣、商売繁盛、子授けの神とし祀り奉ふ』
※読み易いようカタカナは平仮名に変換しました。
(※実際のご神託は雄略天皇21年で翌22年7月に伊勢へ遷宮)仮宮で年(ひととせ)余り鎮座した事から仮宮が在ったのは雄略天皇21~23年の間、跡地には姫宮が創建されたのでしょう。
※大神木神社の高札(文末に『その遷宮の途次 摂津国三島郷大神木に假宮を建て年余りに渡り住居され…』とある)
◆味舌上(ましたかみ)~消された地名~
大神木神社の南東には須佐之男神社があり須佐之男尊、天児屋根命、事代主尊を祀っています。
社伝の石碑『当社の創建年代は不詳乍(なが)ら聖武天皇の天平年間(729~749)に僧行基が諸国行脚の途中で味舌上村に金剛院(真言宗)を建立し寺の鎮守神として「午頭天王」を祀ったのが起源と考えられ江戸期の寛永年間(1624~1645)に山田村長野の樫切山にあった「三社の宮(みやしろのみや)」の御祭神を合祀してからも長期にわたって祭祀されてきた』
大神木神社裏手の山田川対岸から東南方向に伸びる一帯は古くから「味舌(ました)」と呼ばれ村があった。江戸時代には味舌藩(1624~1645)が置かれたが、廃藩後に「味舌上」と「味舌下」に分かれた。地名の由来に『ましたとは「可美田(うました)」であり、古代の「うまし」は「良い」を表現する言葉で「うました」は「良い田んぼ」を意味し、ウマに「味」、シタに「舌」を当て「味舌」になったと考えられる』とある。
お気づきですか?味舌上と味舌下に分けられたのは江戸時代。ところが社伝には、それより古い天平年間に味舌上が使われているのです。
これは地名を改竄した痕跡でしょう。この味舌一帯は雄略天皇の時代は海でした。その後徐々に海岸線が後退し陸地になったのですが、この一角だけが「味舌(良い田んぼ)」なのは不自然です。漢字をよく見ると「味舌」の「舌」の字から「ノ」を取れば「古」になる。元々は「味古上(みこがみ)」だったのではないでしょうか?「味古上」は「巫女神」でしょう。巫女とは神に使える女性です。伊邪那美命は伊邪那岐命との夫婦神であり巫女神の名に相応しくありません。一方、豊受大神は天照大神の食津神であり巫女神の名に相応しい。ここからも姫宮が豊受大神の仮宮であったと窺えます。味舌地域は平安時代に藤原氏の荘園 となっており、元の地名が「味古上」では都合が悪いため、荘園を開く際に味古上から味舌に変えたのでしょう。
※須佐之男神社の石碑(味舌上村と三社の宮が見て取れる)
※大正時代の千里丘陵東部の地図 味舌上の地名がある
◆樫切山~三社の宮の謎~
『寛永年間に樫切山にあった「三社の宮(みやしろのみや)」の祭神を合祀した』とありますが、「三社の宮」の先頭の「三」の字は「御」の略字で、正しくは「御社の宮」です。古代では「御」の字は天皇家が所有するものに付けられました。例えば三浦半島は御浦半島。日本武尊の遠征により天皇家の所領となった事に由来します。また「宮」の字は皇族の住居、あるいは天皇家の祖先神を祀る社に付けられ、他の豪族が使う事はありません。唯一の例外は豊受大神を祀る豊受大神宮で、これは豊受大神が天照大神と同格であった事を示します。
須佐之男神社の摂社に多紀理毘売命、多岐都比売命、市寸島比売命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、皇祖神天忍穂耳命を祀る八王子社があります。これが「御社の宮」であり、山田東社にも同じ摂社があるなど摂社を主体とします。当然、樫切山にも八王子社を摂社とする社があったはずです。それが姫宮(豊受大神の仮宮)ではないでしょうか?
◆尺谷~仮宮(姫宮)のあった場所~
樫切山の南側には「尺谷」という地名があります。「尺(しゃく)」は長さの単位です。味古上のように借字とすれば「しゃく」の同音異義語に「借」の字があります。仮宮の「仮(かり)」を発音から字誤ったか、旧字が「假」であるため「借」の字に代替えたものか。「仮宮の谷」を「借宮の谷」と記し、呼び方を略して「借谷(シャクたに)」と呼称。さらに「借」の字を「尺」に代え「尺谷」とした。つまり、「尺谷」が姫宮(豊受大神の仮宮)があった小川谷だったのす。
現在、尺谷には谷が2箇所在り東は「尺谷公園」と「吹田市消防本部東消防署」、西は「住宅地」です。ここは近年まで溜池がありました。調べると小川谷(尺谷)の姫宮が高庭山に遷座した同じ年の仁寿2年(852)朝廷は諸国の国司・郡司に「池堰を修築し開墾を勧めよ」と発令しました。この発令により姫宮を高庭山に遷し溜池を造ったとすれば、これが高庭山に遷座した理由でしょう。
※昔の尺谷と現在の地図 L字型の池が宮跡。場所は尺谷12丁目付近
※江戸時代の尺谷(吹田博物館所蔵のジオラマ)中央左の池に仮宮(姫宮)が在ったと思われる。
◆山田の地名~月読宮と五社宮の謎~
山田東社、佐井寺社ともに『伊勢神宮の斎宮皇女・倭姫(雄略天皇の皇女 栲幡姫皇女〔別名:稚足姫皇女〕の誤りか)の御示教により、岡本豊足彦(大佐々之命)が五柱の神を奉祀するべき霊地をこの地に定めた。その経緯により伊勢山田から名を移し山田ヶ原と称した』とあり、同様の話が柴島神社にも伝わっています。この経緯の詳細ついて山田東社は『豊受大神宮を遷宮する際、遷宮先の伊勢の山田ヶ原には既に五社宮の神様が祀られていたため、この五社宮の神様を摂津国三島郷の地に遷した』とします。
伊邪那美命と伊勢国との関わりは記紀にありません。貞観9年(867)に伊勢月讀宮の伊邪那岐命と伊邪那美命に宮号授与とあるものの、延暦23年(804)の大神宮儀式帳には「月讀宮一院、正殿四区」とあり既に宮号です。この謎は月讀宮摂社葭原神社の祭神、佐佐津比古命、伊加利比売命、宇加乃御玉御祖命を見ると判ります。宇加乃御玉御祖命は名に「御祖」とあるが大神宮儀式解には宇迦之御魂神と同神とする。信仰は和銅年間(708~715)に秦氏による伏見稲荷大社創建始まり、天長4年(827)に淳和天皇から「従五位下」を、天慶5年(942)には最高位である「正一位」を賜るなど、貞観の頃に隆盛を極めました。恐らく貞観9年に宇加乃御玉御祖命、伊邪那岐命、伊邪那美命を合祀。同時に伊邪那岐命、伊邪那美命は、佐佐津比古命と伊加利比売命に代わり正殿四区に奉祀されたと思います。月読宮には宝亀3年(772)にも官社授与の記録があり、月讀尊荒御魂、伊邪那岐命、伊邪那美命とされてますが詳細は不明です。参拝の順序が月讀命(子)→伊邪那岐命(父)→伊邪那美命母)と、子から親の順であるのを見れば伊邪那岐命、伊邪那美命は後々から合祀されたに違いないでしょう。
さらに蛭子神が五社宮の一柱であるのも懐疑的です。蛭子神は西宮神社が創建された平安時代末期に流行し始めた新興の神です。従って蛭子神が雄略天皇の御代に伊勢の山田ヶ原で祀られていたとするのはあり得ないことです。勧請があった頃に流行していたのは宇迦之御魂神であり、月讀宮に蛭子神は祀られていません。山田東社の摂社には稲荷大明神(宇迦之御魂神)が祀られており当初は蛭子神ではなく、この稲荷大明神が五社宮の一柱だったと思います。五社宮の神である伊邪那美命や蛭子神が伊勢の山田ヶ原に祀ってないなら、他の五社宮の神も疑わしいものです。五社宮とは伊邪那美命、天児屋根命、手力雄命、天忍熊根命、蛭子命がそろって五社宮です。月讀宮の祭祀が山田東社の勧請の布石とすれば、勧請は貞観9~貞観15年の間(867~873)でしょう。
※皇大神宮別宮 伊佐奈彌宮(祭神 伊弉冉尊)貞観9年(867年)創建 創建が伊邪那美神を山田東社へ勧請した時期と重なる
※山田東社の稲荷大明神(別名 重守大明神) 元は蛭子神に代わる五社宮の一柱か?
◆豊受大神~姫宮の主神~
斎宮栲幡姫皇女が御示教した五柱の神のうち、天児屋根命と天忍熊根命(天押雲根命)は藤原氏の氏神です。
古代において氏神はその子孫が祀るものであり、例え皇族であっても豪族が他の豪族の氏神を祀ることはありません。(例えば、第10代崇神天皇は三輪山の大物主を祀るのにその子孫である意富多多根古(おおたたねこ)を捜し出しこれを祀らせた。)摂社も一族や主神に関係する神を祀りました。
仮に祀ったとしても雄略天皇の時代の4世紀末は、藤原(中臣)氏は弱小豪族です。(藤原氏が台頭するのは大化の改新以降)雄略天皇の御代に台頭した葛城氏、大伴氏などの豪族を差し置き、弱小豪族である藤原氏の氏神を祀ることは絶対にありません。祀れば他の豪族から攻め滅ぼされます。
要約すると
①神話にも伊勢の山田ヶ原と伊邪那岐命、伊邪那美命をを結びつけるものがない。
②五社のうち天児屋根命と天忍熊根命は藤原氏の氏神である。
③五社のうち蛭子神は平安時代末期に流行した神。勧請のあった貞観時代に流行したのは宇迦之御魂神で山田東社の摂社、伊勢月読宮の摂社で祀られている。
④古代において例え皇族であっても豪族が他の豪族の氏神を祀ることはない。
⑤雄略天皇の時代は葛城氏や大伴氏,巨勢氏が台頭しており、一連の豪族を差し置き当時弱小豪族だった藤原氏(中臣氏)の氏神を祀ることはない。
以上の結果から山田東社の社伝は歴史的に矛盾するものであり、勧請後に改竄された見るべきです。本来の社伝は以下のものと思われます。
『伊勢神宮の斎宮皇女・栲幡姫皇女の御示教により、岡本豊足彦(大佐々之命)が豊受大神を奉祀するべき霊地をこの地に定めた。その経緯により伊勢山田から名を移し山田ヶ原と称した』
伊勢山田に鎮座するのは豊受大神です。伊邪那美命ではありません。姫宮(仮宮)の主神が豊受大神だからこそ、遷宮先の伊勢山田の地名が移されたのであり、逆に言えば、山田ヶ原の地名が移されたからこそ、姫宮の主神が豊受大神であることを証明している。
◆その後の豊受大神
その後の豊受大神はどうなったのでしょう?以前、大江神社を紹介した個人のブログに大江神社の神主に近い関係者の話として『ここの神社の言い伝えに、この豊受大神は元々大阪の北部地域に祀っていたが、いつの頃かここで祀る様になった。現在では祀っていた元の場所すら分からない』という記事を読んだことがあります。恐らく姫宮に鎮座していた豊受大神でしょう。
大江神社の由緒によると「創建は飛鳥時代、聖徳太子の発願による。当初の祭神は天王寺北村の産土神である豊受大神である」とする。創建が飛鳥時代にも関わらず平安時代の延喜式神名帳(延長5年(927)編纂)には記載がない。延喜式神名帳は伊邪那美神の勧請より半世紀ほど経って編纂されたもので、編纂には藤原氏が関与しています。大江神社側も神主に近い関係者の話とあるぐらだから、藤原氏の迫害を恐れ声を上げて社領を簒奪されたとは言えなかったのかも知れない。
※大江神社 姫宮(豊受大神宮の仮宮)の祭神か?
◆大神木神社の巨木~伐採の昔話~
大神木神社の巨木について当地の民間伝承に以下の内容があります。
『昔、この地に樫の木の巨木があった。それを二人で伐採しようとしたが伐ることができず、二人追加して四人でも伐れず、さらに八人と増え、二十人でも伐ることができなかった。仕舞いには三十名を超える人が加わり、やっと伐り倒すことが出来た。これにちなみ巨木があった山を樫切山と呼ぶようになった。』
この伐採した樫の木の巨木が大神木神社の巨木と思われます。具体的にいつ頃のことでしょう?この手掛かりが同じ吹田市の高浜神社にある。境内には「鶴の松」という大木の切株があり説明書きに『御神木「鶴の松」和加久寿大明神 昔の境内は此のような松の大木が沢山ありまして鶴が巣を作りましたが、太閤秀吉(豊臣秀吉)が大坂城を築城の時、用材として切りとられたとの伝説が残っています。』
大神木神社の巨木もこの時に大坂城の用材として伐採されたのでしょう。天正11年~慶長3年(1583~1598)と思われます。
※写真は高浜神社の説明書き
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