皇朝繙史

各地の神社に伝承される伝記をもとに古代の足跡をまとめてみた。

倭宿禰と神武天皇

2019-03-31 21:46:46 | 歴史

籠之神社は本殿に天照国照彦天火明串玉饒速日尊を主神とし、本殿に向かって右隣りには彦火火出見尊を祭神に恵比寿神社がある。対して本殿左隣りには本殿に近い方から天照大神和魂社,春日社,猿田彦社の3つの祠が並んでいる。一見して春日神社を中心に拝しているように見えるが、よく見ると祠の大きさからして春日社,猿田彦社は後から付け足したものと分かる。創建当時は天照大神和魂社のみだったと思われる。猿田彦神社の更に左隣りには眞名井稲荷社があり、そのまた左隣りには浦島太郎を彷彿とさせる亀の背に跨った人物像がある。名を倭宿禰、別名:珍彦(うずひこ),椎根津彦(しいねつひこ),槁根津日子(さおねつひこ)という。



社伝には神武東征の折り明石海峡で亀の背に乗って現れ航路を先導した功から倭宿禰の名を賜り、こののち神武天皇に使えたとある。饒速日尊の4世の子孫とするが石切劔箭神社の社伝には「神武天皇が紀伊半島を迂回し再び長脛彦と対峙した時、この頃には饒速日尊は既に亡くなっていたとする。最初に対峙した孔舎衙坂の戦いの時には饒速日尊は存命中だったのか、近くの枚岡神社の社伝にはこの孔舎衙坂の戦いの3年後に神武天皇が即位したある。



饒速日尊について古事記では神武天皇が大和入りする前に亡くなっていたとの記述があり、日本書紀では大和入りした後でも生きていたように記述している。神武東征の前後に亡くなったとみてよさそうだ。いずれにせよ時代的に饒速日尊の4世代目の子孫ではないだろう。

海部氏の系図には「本系図」と「勘注系図」の2つが存在する。いずれも国宝に指定されている。「勘注系図」には『不可許他見(他人に見せてはならない)』との但書がある。従って「本系図」が対外用、「勘注系図」は一族用に作成されたものと判る。「本系図」は倭宿禰を始祖とし「勘注系図」は饒速日尊を始祖として3代目の天叢雲尊の子に倭宿禰の名がある。しかし、その註文には「火明命―彦火火出見尊―健位起―倭宿祢」とも「火明命―健位起―宇豆彦命」ともある。

同族の尾張氏系図にも「武位起―倭宿禰」とある。倭宿禰は天叢雲尊の養子に入ったのだろうか、先代旧事本記はもう少し詳しく「彦火火出見尊―武位起―倭宿禰」と記し武位起の母は玉依姫だとしている。玉依姫は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命との間に神武天皇を産んでいる。神武天皇にとって武位起は叔父で倭宿禰は従兄弟の関係なのだろうか?記紀には武位起の名は記されていない。

神武天皇の諱は彦火火出見尊。諱が祖父彦火火出見尊の名と同じである。ありえない事であるため一般に何某の理由から祖父彦火火出見尊の神話を創設したと考えられている。では「神武天皇―武位起―倭宿禰」だろうか?これも世代的に矛盾があるし、自身の孫を知らないはずがない。籠ノ神社では彦火火出見尊は天照国照彦天火明串玉饒速日尊の別名だとするが饒速日尊の息子に武位起の名はない。いずれにせよ神武天皇と倭宿禰の事象経過からみて二人の間に血縁関係があるとは思えない。武位起は何者なのだろうか?

見方を変えてみることにする「武位起―倭宿禰」が系図ではないとなれば、これは何を示しているのだろうか?神武天皇は倭宿禰を家臣にしている。ひょっとするとこれは主従関係を示した図ではないだろうか?

この場合、神武天皇の実名が武位起であり倭宿禰はその家臣となる。武位起と倭宿禰は主従関係を示した図となる。武位起が神武天皇の実名だとすれば、神武天皇の諱は彦火火出見尊なので先代旧事本記にある「彦火火出見尊―武位起―倭宿禰」は「彦火火出見尊―彦火火出見尊―倭宿禰」となり彦火火出見尊が2代続くことになる。これは誰の目からしても間違いだと分かる。

彦火火出見は神武天皇の諱である。諱とは〔三省堂 大辞林「忌み名」の意〕
 ① 生前の徳行によって死後に贈る称号。諡(おくりな)。
 ② 身分の高い人の実名。生存中は呼ぶことをはばかった。
とある。称号、あるいは尊称。この場合は神名と呼ぶ方が相応しいように思う。

彦火火出見尊が尊称(神名)であるならば元々は尊称(神名)を実名の前に冠し「彦火火出見尊武位起」としていたのではないだろうか?これならば先代旧事本記の系図にある彦火火出見尊の名の由来に説明がつく。例えば饒速日尊の名は天照国照彦天火明串玉饒速日尊だ。天照国照彦,天火明,串玉のいずれも尊称であり神名だ。最後にある饒速日が実名である。同様に神武天皇の名も「彦火火出見尊武位起」だったと思われる。

「武」が姓で「位起」が名前だろうか。書籍の名を忘れたがある旧皇族出身の著書に彦波瀲武鸕鶿草葺不合命は、「伽耶国を得ることができなかった武という人」を意味するとある。同様のことが南朝の子孫を名乗る小野寺直著書の「もう一人の天皇」にもある。ひょっとすると皇室には一般に公表されていない口伝があるのかもしれない。
小野寺直氏によると『彦波瀲武鸕鶿草葺不合命は誤りで正しくは彦波瀲武宇伽耶不合命である。「宇」は八紘一宇〔『日本書紀』のなかにみえる大和橿原に都を定めたときの神武天皇の詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」 (六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き,八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす) 〕の宇と同じく統一を意味する』という。

しかし八紘一宇の様な思想概念は戦前に生まれたものであり古代の人が考えるはずもない。また「宇」を同音一文字で「鵜」に替えるならばまだしも「鸕鶿」とわざわざ二文字に替えるのも変だ。それよりも「後世に武をタケ(take)と読むようになったことと、武の音であるム(miuag)が訛ってウ(u)と発音するようになり、それを鸕鶿にあてて読まれるようになった。」とする方が自然である。

武が姓で鸕鶿が名前である。読み方はロジン(lÚ-tsieg)だろう。位起の方はイキ(ɦIUI-K'Iәg)若しくは和音でイオキと呼ぶのかも知れない。話を戻そう彦波瀲武鸕鶿草葺不合命と神武天皇親子の実の名は「武 鸕鶿 ― 武 位起となる。
「武」をブではなくムを発音するのは神武天皇をジンブではなく、ジンムと発音するのと同じであろう。漢音ではなく呉音で発音するため武 鸕鶿は中国南方系の由来の人かも知れない。


―結び―
神殿や神棚の祀り方には決りがあり主神を中央に拝し、右隣りに氏神、左隣りに崇敬神を拝す。籠之神社は氏神に彦火火出見尊とし崇敬神に天照大神を拝している。しかし先述したとおり彦火火出見尊は饒速日尊ではない。これは籠之神社の開祖倭宿禰が饒速日尊の子孫ではないからだ。神武天皇の梃入れで天叢雲の養子となり一族の財産や権力を引継いだのであろう。その際には一度神武天皇の養子となり神武天皇の子として天叢雲の養子になったのかも知れない。

「敵対勢力の力を削ぐ為に自身の子を敵対勢力の養子にする。自身に子がない場合は家臣の子を自身の養子にした後、敵対勢力の養子にする」このやり方は古来からの常套手段である秀吉や家康などはその代表例だ。
倭宿禰は神武天皇の家臣と言っても海部氏と比べ身分的に家柄が低かったのだろう。低い身分の者を身分の高い家に養子にするには不釣合いとなり家名を汚すことになる。そこで一度神武天皇の養子として天皇家から養子に取る形にする。一時的なので天皇家の家名を汚すことはなく海部氏にとっても天皇家からの養子となり家名を汚すことにはならない。

結果として倭宿禰にとっては大出世となったことであろう。一介の身から饒速日尊の孫の天叢雲の子となりその一族の権力財産をすべて授けられたのだから。倭宿禰にとって神武天皇は正に福の神であった。その証拠に神武天皇の諱を福の神の象徴である恵比寿神社に祀っている。全国的に恵比寿神社の主神は事代主命であることが多いが定まってはいない。これは恵比寿神が唯一神ではなく福の神を象徴する神名だからであろう。倭宿禰は神武天皇に感謝と畏敬の念を込め、その諱(神名)である彦火火出見尊を自身の氏神として福の神の象徴である恵比寿神社に祀ったのであろう。