皇朝繙史

各地の神社に伝承される伝記をもとに古代の足跡をまとめてみた。

仁徳天皇の難波高津の宮と元四天王寺

2020-04-25 08:39:57 | 歴史

前期難波宮

仁徳天皇難波高津宮上町台地の一角に存在したのは間違いないようですが、その所在地については判明していません。有名な法円坂の難波宮は聖武天皇が造営したもので、「後期難波宮」と呼ばれるものです。後期と名がつくぐらいですから前期もあるわけで孝徳天皇が造営した前期難波宮は、なんと後期難波宮のさらに地下にあったのです。広大な敷地に大極殿回廊を有した高津の宮は大規模な宮であったため発見することができました。
しかし、孝徳天皇より遡ること約200年余り。仁徳天皇が造営した難波高津の宮は法円坂の後期難波宮と比べ、規模が小さすぎて痕跡すら掴む事ができません。そのため所在地に関しては未だ推測の域を超えず、諸説ある説のいずれもが決定打に欠けている状態です。


(下記は有力な5つの説を列挙したもの)
①現大阪城内説…「延喜式」神名帳の「宮中神62座」に「生国魂神社」が高津宮(高津神社)内に祀られていた事を拠り所に、「生国魂神社」の旧所在地を大坂城内の敷地に推定する説。
法円坂説…「日本書紀」に『仁徳天皇14年、大道を宮中に作る。南門より直ちに指して丹比邑(たじひむら)に至る』とあり、丹比邑から真北に一直線の道を想定し、終点である高津の宮を法円坂(大阪歴史博物館や・NHK大阪放送局の敷地)に推定する説。
③大阪城外堀南淵説…「日本書紀」に『仁徳天皇12年、宮の北の郊原を掘り、南水を引きて以て西海(大阪湾)に入る。因りて以て其の水を号して堀江と曰う』とあり、この堀江が現在の大川とし大阪城外堀南淵に推定する説。
上町台地北端説…「日本書紀」に仁徳天皇が高殿に登って暑さを避けた時に「菟餓野」から鹿の鳴き声が聞こえたとあり、現在の大阪市北区兎我野町付近を推定する説。
⑤現難波宮趾説…孝徳天皇の前期難波付近に仁徳天皇の難波高津宮もあったとする説。

 

難波古絵図」  市立中央図書館所蔵

 

「難波古絵図」  大阪市立中央図書館が所蔵する江戸時代に書かれたものですが、驚くべき事にこの地図には「仁徳天皇居大宮跡」とあり、仁徳天皇の「難波高津の宮」とおぼしき場所が描かれているのです。贋作、偽作とも評されますが、地図は「承徳2年(1098年)の難波」を描いたとされ、事実であれば古くなった地図の写しと考えられます。またこの地図にはもう一つ、元四天王寺のあった場所も描かれています

◆元四天王寺
元四天王寺」という言葉を初めて聞く人の方が多いと思います、Wikipediaでは次の様にあります『当初の四天王寺は現在地ではなく、上町台地の北部に位置する玉造JR森ノ宮駅付近)の岸上にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(鵲森宮の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしている)』。
「難波古絵図」には大城城天守閣がある石山の東岸に「四天王寺跡」が描かれています。この東岸に接する川は現在の平野川ではありません。この川は豊臣秀吉が大坂城築城の際に堀として大半が埋められ、残った川跡が大坂城東外堀になりました。この位置関係から元四天王寺は大阪城公園の梅林か、桜広場付近に在ったと思われます。その元四天王寺ですが鵲森ノ宮神社の言い伝えでは『大風(台風)による高波を受け崩壊した』そうです。参考までに現在の地図に同宿尺の現四天王寺の航空写真を載せましたが、梅林にほぼ納まります。

大阪城公園図

◆難波高津宮
仁徳天皇難波高津宮の所在地は、清和天皇の時代には不明になっており天皇の命により故地を調査したのですが判明しませんでした。やもえず高津という地名から跡地を定め、そこに高津宮神社を建てたのです。現在この場所は大阪府立高津高等学校の敷地となっており校内には高津宮趾の石碑があります。「難波古絵図」の元絵が承徳2年(1098年)に描かれたとすると、これより百年ほど前の清和天皇の時代に難波高津の宮の所在地が不明だった事と矛盾します。もし清和天皇の命を受けた役人が「高津」という名称だけで当時の高津付近しか調査しなかったとすれば、どうででしょう?ほとんどの場合、元は広大な範囲を指す地名が時代が経るにつれ、狭い範囲に限定される様になります。地図の真偽はともかく、この地図が示す「仁徳天皇居大宮跡」が何処なのか検証したいと思います。


「難波古絵図」にある「仁徳天皇居大宮跡」が何処なのか?その手掛かりは、この地図にある周辺の建物にあると思います。そこで「仁徳天皇居大宮跡」の周囲に散らばる建物について調べ、対象となる構造物と「仁徳天皇居大宮跡」との方位を本に位置関係を割出し、距離的なものは判りませんが推定地を絞り込みたいと思います。

難波古絵図拡大図

①「四天王寺
真っ先に目につくのは何と言っても「仁徳天皇居大宮跡」の南に位置する「四天王寺」でしょう。敷地とおぼしき枠内には金堂や五重塔、それに池があることから、枠は回廊ではなく門を境にしたものでしょう。この「四天王寺」と「仁徳天皇居大宮跡」が、ほぼ同じ大きさで描かれており、「仁徳天皇居大宮跡」は「四天王寺」と同規模程度の広さだった事がうかがえます。「仁徳天皇居大宮跡」は「四天王寺」から川を挟んだ真北に位置します。

②「施薬院
「療病院」,「施楽院」ともに聖徳太子が怪我や病気で苦しむ人を救うために建てた施設です。現在「療病院」は消失し正確な所在地は不明ですが、「施楽院」は「勝鬘院愛染堂」として跡地に継承されています。「仁徳天皇居大宮跡」は「施薬院」とは川を挟んだ北東に位置します。

③「谷町筋
「施薬院(勝鬘院愛染堂)」の東には谷町筋があり、地下には地下鉄が走っています。仮に「仁徳天皇居大宮跡」が谷町筋を跨いで造営されていたなら地下鉄工事の際に発見されていたでしょう。そうでないため「仁徳天皇居大宮跡」は谷町筋より東に限定できます。

六万体通り(「学園坂」~「六万体」~「JR桃谷駅南側」)
「難波古絵図」の「三条中之小道」通りに面する「天王寺舎利堂」に該当するのは、生野区舎利寺に現存する「舎利尊勝寺」でしょう。この寺も聖徳太子と縁があるそうです。この「舎利尊勝寺」と「施薬院(勝鬘院愛染堂)」の地理的な位置関係から現在の「勝山通」が「三条中之小道」と思われます。この「勝山通」の北に描かれている名も無い川は、どこにあるのか?地理院地図(国土地理院)の陰影起伏図で見ると、現在の学園坂から六万体を通りJR桃谷駅南側に抜ける通りに川の痕跡らしきものがあり、川に面して船着き場と思われる跡まであります。ここが「難波古絵図」に描かれている川に違いないようです。「仁徳天皇居大宮跡」はこの川の少し北に位置します。

陰影起伏図

⑤「難波寺
「難波寺」には2棟の寺らしき絵とともに「今の野中ノ観音」と注釈書きがあります。「難波寺」の寺史によると『元は現在の天王寺区東高津町に創建されたが大正13年に移転した』そうです。ところが高津町は「難波古絵図」では「宮比部川」北岸の「味原」付近にあたるため「難波寺」の寺史と矛盾します。この「味原」ですが南岸の「小橋(おばせ)」とともに現在でも大阪上本町駅近くに地名が残っています。また「難波古絵図」では「宮比部川」の河口には「皇居小川堀」とありこれが日本書紀の「堀江」を意味しているのかも知れません。
話を戻します「難波寺」について更に詳しく調べると、『元弘2年(1332年)戦火により消失して荒廃大破、延宝6年(1678年)に再興』とありました。再興するまで約350年も経っています。元在った場所に再興したのでしょうか?仏閣の再興例を見る限り元在った位置には建てらず、別の場所に再興されている場合が殆ど。再興により寺の位置が移転したのではないでしょうか?。そこでもう一度「難波古絵図」を見ると、「難波寺」は六万体通りにあった川の北側、「堀江」の西岸に描かれています。同時にここは「味原・小橋」を結ぶ線の南に位置します。そこで六万体通りにあった川と「味原・小橋」を結ぶ線が交差する付近の北側を調べると、JR桃谷駅の北西に「豊川稲荷大阪別院(観音寺)」,「豊川稲荷観音寺」という二つの寺院が目につくと思います。残念ながら、同じ観音でもこの寺は明治38年頃に、豊川稲荷妙厳寺の末寺である観音寺を移転したものです。ところが移転の際、境内からは古代の瓦片が多数出土し、調査の結果飛鳥時代の寺院跡とみなされました。しかしながら元の寺院の名跡が判らず『堂ヶ芝廃寺』と仮称されています。一般に「百済寺」に比定されていますが、ここが「難波寺」だったのではないでしょうか。豊川稲荷観音寺が「難波寺」跡とすれば、「仁徳天皇居大宮跡」はこの寺の西に位置します。

 

ここで、この「難波古絵図」の贋作・偽作とも思える箇所を指摘したいと思います。下の左側の地図は陰影起伏図を本に古代の海岸線を表してみました。右側の「難波古絵図」と比較すると分かる様に、「難波寺」が「仁徳天皇居大宮跡」の在る方の島ではなく、「四天王寺」がある方の島の一部になっています。比較し易いよう同じ入り江にA、Bの記しをつけました。ここで注目して頂きたいのが松ヶ鼻町が「難波古絵図」では樹木に覆われ承徳2年(1098年)には、陸地であったとされている事です。いつ頃陸地になったのかは判りませんが、松ヶ鼻町付近はJR桃谷駅周辺の台地や学園坂のある大地より土地が低く、JR桃谷駅の南の通り(点線部分)を掘削し南水(堀江)を引いた場合、洪水になります。このためJR桃谷駅の南の通り(点線部分)は掘削していないと思われます。もし承徳2年(1098年)に六万体通りの川が存在したなら下の左側の地図のような海岸線だったでしょう。だからと言ってこの「難波古絵図」が全くの贋作・偽作だとも断言できません。本となった絵が始めから煩雑に書いたかも知れませし、それこそ江戸時代に本となった資料から想像で書いた偽作なのかも知れません。ただ松ヶ鼻町の名が示すように江戸時代には松が生い茂り「難波古絵図」の絵の様に樹木に覆われていたのは間違いないようです。

古代の海岸線

⑥「百済寺」、「五條宮
「百済寺」は「難波古絵図」では「難波寺」のさらに南にある六万体通りの川と「三条中之小道(勝山通)」の間に描かれています。場所的には現在の天王寺区烏ヶ辻1丁目と、勝山通4丁目の間付近にあったのではないかと思います。「仁徳天皇居大宮跡」は「百済寺」とは川を挟んだ北西に位置します。もう一つ「難波古絵図」には「百済寺」の西に小さな鳥居が描かれています。社名こそありませんが、位置的に「四天王寺」より少し東北に描かれていることから、これは「五條宮」ではないかと思います。「仁徳天皇居大宮跡」は「五條宮」から川を挟んだ北北西に位置します。

⑦「上野王子
「王野社」あるいは「玉野社」は、誤字を訂正したのか文字が上書きされて判別し難く、上町台地でこれらの名前で調べても該当するものはありません。隣に書かれた「延喜式 比売古曽社■■」と関係があるのでしょうか?、比売古曽神社で調べると祭神は下照比売命を、もしくは阿加流比売神の二柱がありこの内「延喜式」で祀るのが下照比売命。「難波古絵図」に「延喜式」とあることから、祭神は下照比売命であろう。しかし「王野社」,「玉野社」で下照比売命とは調べても紐づきません。どうやら無関係の様です。初めから誤字として考えれば、これは「上野王子」を示しているのではないでしょうか。「上野王子社」は四天王寺を守る「四天王寺七社」の上之宮神社として、現在の上之宮址碑近くに鎮座していたそうです。「仁徳天皇居大宮跡」は「上野王子」の南西に位置します。

⑧「愛岩清水」とある池の南にある
「王野社」の西には大きな池が描かれ「愛岩清水」とあります。現在、四天王寺より北側の上町台地に大きな池はありません。そこで地理院地図(国土地理院)の陰影起伏図で見ると、大阪国際交流センターの敷地に池らしき痕跡があり、池の形状も似ていることからここが「難波古絵図」にある地と思います。「仁徳天皇居大宮跡」は池の南に位置します。


以上により「仁徳天皇居大宮跡」の方角的な所在地が判明したと思います。特に池の痕跡がある大阪国際交流センターと、川の痕跡がある六万体通りの間に絞り込めたのは幸いです。ここに「四天王寺」と同規模の敷地を当てはめてみると、天王寺郵便局から上八公園を南限に北は大阪国際交流センターまでの一角が浮かび上がって来ます。

ここに「難波古絵図」が示す「仁徳天皇居大宮跡」つまり仁徳天皇難波高津宮があったのではないでしょうか?この一角にある上八公園の隣には小さな神社があります。「難波古絵図」にも「仁徳天皇居大宮跡」の敷地内に神社が描かれています。これらの神社が同じものとすれば…。そこでこの神社を訪れてみたのですが、残念ながら手掛かりは掴めませんでした。社殿の中には大小二つの祠があり、扉は南京錠鍵がかかってました。大きい祠の前には狐の狛犬があることから宇迦之御魂神を祀ったものでしょうか?では小さな祠には何が祀ってあるのか?「難波古絵図」の「仁徳天皇居大宮跡」には神社の主神を示しているのか『今■■■仁徳天皇』の注釈書され、前述した「延喜式 比売古曽社■■」はこの注釈書きの隣りにあります。「王野社」で説明しましたが比売古曽神社は「王野社」とは関係ないものでした。ではこちらの「仁徳天皇居大宮跡」の敷地内にある神社と関係あるのでしょうか?。そこで「上野王子」で調べた「延喜式」でないもう一柱の神、阿加流比売神を祀った比売古曽社について調べると『阿加流比売は高津宮の主神だったが、後に併せ祀った仁徳天皇が主神となった」とある。つまり比売古曽社は仁徳天皇と阿加流比売の二柱を祀った高津の宮の守護神社なのです。「難波古絵図」の注釈書きはこの事を語ったのかも知れません。[延喜式」とあることからもう一柱の祭神は阿加流比売から下照比売に代わっていると思います。上八公園の隣にある神社にある二つの祠が、仁徳天皇と阿加流比売、あるいは下照比売の二柱を祀っていれば、この地が「難波古絵図」にある「仁徳天皇居大宮跡」つまり難波高津の宮である可能性が確信に変わると思います。(※■は判読不可)

 

上八公園前の神社の内部。この神社は比売古曽社なのだろうか?大小二つの祠が並び祀られている。右手前は灯籠。もし祭神が仁徳天皇と阿加流比売、あるいは下照比売の二柱であれば、この下に仁徳天皇の難波高津の宮が眠っているのかも知れない。

 

いかがだったでしょう?「難波古絵図」の真贋はともかく、「難波古絵図」が示す仁徳天皇の難波高津の宮と思われる「仁徳天皇居大宮跡」の所在地を明らかにしました。「難波古絵図」にある寺社等の位置は現在の地図と比べても遜色ない様に思います。これら構造物が示す方位から「仁徳天皇居大宮跡」を導きましたが、半ば強引だったかも知れません。実際のところどうなんでしょう?幻の仁徳天皇の難波高津の宮が発見されるといいですね。