育児といろいろ

父親から見た育児。長女は産院、二女・三女は自宅出産。四女は助産院。それぞれの違いがよくわかりました。子育て頑張ってます。

童話作家山崎陽子さんのお話

2009年02月21日 22時07分28秒 | 育児
童話作家で、ミュージカルなども手がける山崎陽子さんのお話を聞きました。山崎さんは73才でいらっしゃってとても容姿からは50代に見える若々しさでした。昨春、軽い脳梗塞を患い、ともすると座るかもしれませんが、と冒頭申していますが、立ったままでご講演されていました。

内容は褒める子育てについてでした。結論から申し上げると子供はどんな子でも必ず1つ素敵なものを持っており、それを親が見つけてあげて褒めて欲しい。また、子供だけでなく自分も褒めて、可能性の芽を育てて欲しいとおっしゃられていました。

詳しい話は以下に書き記します。

山崎さんは二人のお子さん(男の子)がいらっしゃいます。お舅、姑さんとご主人とお子さんとの世帯で子育てをされました。

2人のお子さんは性格がまるで違っており、兄は叱られた時は大きな目で涙を流して感情を身体で表現し、逆に二男は聞いているのか聞いていないのか?わからないくらいきょとんとしていました。響いていない感じです。

その子はとてもいたずらで、学校給食でストローを熱で長く伸ばして牛乳は飲めるかやってみたり、懐中電灯を作る宿題では豆電球と軍手を駆使し、軍手の指を切り取り、そこに豆電球を付けたり、と面白い感性の持っていました。

ストローのいたずらで学校中のみんながまねをして、大騒ぎになりました。子供を叱るとき、自分もそんな長いストローで飲んでみたいと少し好奇心交じりで叱ると、子供にはわかってしまうようであまり効果なく、子供も目を輝かせて「あれやっぱりうまく飲めないんだよ~」と言って飛んでってしまいました。

ある時、祖父がけがで入院したときがあり、長男は入院したおじいちゃんの姿を見て大粒の涙で泣き、看護婦さんに「なんてお優しいお子さんなんでしょう・・・(それに比べ下の子は・・・)」と言われたのですが、二男は私の手をぎゅっと握っていたんです。感情をうまく表現できないというか。

トイレにトイレットペーパーの紙をつけ、流してみるとくるくる吸い込まれるか?やってみてトイレを詰まらせてしまったりと相変わらずのいたずら坊主は、今度は祖父が亡くなってから、仏壇に木の棒を入れ込みました。祖母に「きっとこれは二男の仕業だから・・・。」と言われ、山崎さんはいたずらにも程があると思い、ぶん殴ってやろうと思ったほど怒り心頭でした。

二男に問いただしてみると、
「おじいさんは足が悪かったから、今日学校で高尾山にハイキングに行った時、お山の高いところで、おじいさんが天国で困らないような杖を探してあげたんだよ。高いところあったいい棒だよ。」
と言ったそうです。あー、優しさを表現できない子っているんだな~。と思ったそうです。母親は子供をわかってあげる最後の砦っていうことを肌で感じたそうです。

山崎さん自身は祖父に褒められ育ったようです。幼少期は小さくて、しゃべれず、ダンスもできず、運動もダメ、音楽もダメ。それでも祖父は「幼稚園で陽子ちゃんが一番目立ってた。(自分の子供なんだから目だって見えるはの当然)目が光っていた。」とか真剣に褒めてくれました。

立教の小学校に上がった時の担任の先生も褒めちぎる人で、ヤギと言うタイトルのたった3行の詩を書いた時でさえ、五重丸をくれて、それが嬉しくて、書くのが好きになりました。そして祖父もそれを聞いて、この子は文才があるといって、源氏物語、枕草子、万葉集など読ませ、また、たった3章でよいからそれを読み上げるとたいへん祖父が喜んだそうです。

それから古典文学に興味を持って読むようになったそうです。

また、小学校では岸田今日子さん(姉は岸田衿子さん)と同窓でした。天然でおっとりしていて宿題もなさらない方だったようです。ある時、その先生に宿題を出す時、岸田さんは何も書いていないノートを先生に提出したそうです。

先生から戻ってきたページには大きな○があったそうです。褒め上手な先生が何も書いてないページに○をつけたのですが、20年くらい前の同窓会で、岸田さんはあの時、頂戴した○は零点のゼロだったかも知れない。と気付き、先生に確かめたら、「あれは○です。ゼロでしたら書き順が違います。何もしない岸田さんが、ノートを持って先生のところまで来て、出してくれた。だから、○をつけたんですよ。」とおっしゃった。

話は戻りますが、本が好きで祖父の家で興味をもった古典に読みふけっている中、戦争が激しくなり、母の実家に疎開することになりました。そこでは本がなく、身体が弱く農作業の手伝いもできず、退屈でした。

ある時大家さんの土蔵に本があり、声に出して本を読んでいたら、「上手に読んでいるね。そんなに好きだったら全部持っておいき。」と言われ、母の実家に持ち帰り、毎日読んでいました。そして、疎開先に来た祖父が驚きました。

実は、山崎さんが読んでいた本は落語だったんです。未来の紫式部にしようと思っていた祖父は、「これではうすむらさきだ。」と言ってたいそう嘆いたそうです。

疎開先の学校では、若い先生は戦争に借り出されて、おばあちゃん先生が生徒におとぎ話をしなさい。と言って授業を進めました。毎日おとぎ話をやっていたものだからみんな退屈していました。

人前で話すのが嫌だった山崎さんもついには先生に当てられてしまい、話す羽目になりました。だけど、何を話していいかわからず、読んでいた落語の面白いところを小声でぼそぼそと話したら、みんなよく聞いてくれて教室中が大笑い。先生もそのおとぎ話はとても面白いと褒めてくれたそうです。(落語なのですが・・・)

それから、みんなが山崎さんの話を聞きたがるようになって、自身も人前で話せるようになったとおっしゃりました。

ある時宝塚を受けてみないかと友達に言われ、親兄弟に反対されましたが、受けることになったのです。反対されれば、されるだけやってやろう。という気になるのものなのですね。

試験ではダンスシューズを持っていかなければならないのをスリッパを持って行ってしまったり、(草履を持ってきた子もいた)ダンスの受験では「2番で、棒を持って」と言われた時、2番の子が自分の前歯を摘んで勘違いした子(関西では出っ歯をでばと言う)、絶世の美女が案山子みたい踊りし時、顔を見て偉い先生がこの子は宝塚に入れないと損だと言って、みんな100点を付けたとが当時の受験エピソードを話されました。

山崎さんは自身が合格したのは、出された朗読の課題が芥川龍之介の「蜘蛛の糸」で、文学少女だった山崎さんはこれなら知っていると本を見ないで朗読したことと身体が大きかったこと、歌の課題では音痴でしたが、たまたま普通に歌っていたら下がってしまった。と話されていました。舞台での失敗談も話され、私は宝塚音楽学校は学科で卒業できたと振り返っていらっしゃいました。

その後、お見合いで結婚し、宝塚をやめました。ずっと女学校で、父親も厳しく自由に恋愛できなくても素敵な相手に巡り合えました。育児は介護をしながらの中だったので、本当に辛く、自分の時間が持てずにいました。

それでも13時の時間といって夜中と明け方に好きな童話を書いてストレスを発散していました。自分の時間を持てると人に優しくできるのです。

それがきっかけで、童話作家としての道を歩み、その種は幼少期の3行の「ヤギの詩」で褒められたことあります。だから、褒めることは人を伸ばす大きな力を秘めているのです。子供を褒めて自分を褒めてください。

ミュージカルも子育ての合間にやったので、夕食時に抜けていかなければならず、1度でやめようと思いまし。だけど、カートで観ていた骨が固まらない病気の女の子の母親に声を掛けれれ、「その子とともに死のうと思ったけど、死のうと思うとその子がニコニコして死ねなかった。そして、あなたの舞台を見て笑って元気をもらっている。この子は何一つできませんが、生きていることをその子から教えられたんです。」その子からもゆっくりだけどお礼のことばを掛けられ、続けようと決めました。

だから、人生は生きていて無駄なことはないし、鏡を見て生きている自分を褒めて欲しいのです。必ずチャンスは訪れてきます。今までモテナイ人もモテル時は来ます。

そのほか、自動改札の切符の話や喫茶店でのガマガエル話など随所にユーモアを交え、すても面白くすばらしいお話を聴くことができました。こういう場に居れたことは何かの巡り会わせではないかと思うのでした。


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