バリ記 

英語関係の執筆の合間に「バリ滞在記」を掲載。今は「英語指導のコツ」が終了し、合間に「バリ島滞在記」を連載。

バリ記34 社会性の世界 / 意志

2020-01-16 10:53:12 | バリ記
2000年6月25日
《社会性》の世界

 個人の世界と共同の世界、この世界をこのように分類することができる。共同の世界は、さらに各個人との関係性の世界だと言うこともできる。
 「家」というものを考えた場合、それは共同的な世界であり各個人は、父と子、母と子、兄弟というような関係性のなかで縛られている。
 「家」を場所としてみた場合、台所は、家族の関係性の世界であり、夫婦の部屋は夫婦という関係性の部屋であるが、それらは、外、つまり第三者にはあまり開かれていない。個室は完全な個人の世界である。第三者に開かれた、つまり社会性がある場所といえば、玄関、トイレ、応接間、時には居間である。「家」は共同の世界でありながら、その中には、内側に閉じる世界があったり、外に開く世界がある。
 近所に人がいなくて、親が人付き合いもあまりないという場合、親と子の社会性はどのように養われるのだろう。
唯一、第三者を意識して、せっせと片付けをしたり、掃除したりする。トイレや玄関も第三者を気にせず、好き勝手に置き雑然としている、家族という関係性だけの場所として使っているのなら、子供の社会性は養われていくとは思えない。
 社会性を身につけるために学校にいくのであるが、それまでに何らかの社会性がしみのようにでもついていなければ学校に拒否反応が起こったり、学校での人間とうまくやっていけず、心の病気になっていくのは想像できるような気がする。
 人間は、個人の世界の中ではいくらでも妄想を膨らませることができる。どんなイメージを描こうが勝手である。ところが、これは不思議なのだが、この妄想は個人の部屋の中ではいくらでもできるし、寝転んでボヤッとテレビを見ているとき、学校の自分の机にすわっている授業中ならどれだけでもできるのに、二人や三人、グループでいる時、公園などを歩いている時などは、妄想は起きにくいのである。
 つまり《社会性》の中にいる時には《妄想》は起きにくいのである。
 さて、バリの話。バリの人々は、家も隣近所も互いに開かれている。個人の部屋というものがない。いつも近所のものも出入りする。つまり、《社会性》だけの社会であると言ってもよい。かろうじて夫婦という関係性の部屋があるといったところだ。
 バリの人々は、人付き合いも上手に思えるし、喧嘩をすること、大声で怒鳴ることを嫌う。
 従って妄想の度合いが少ないように思える。歪んだ妄想のような世界が少ないと思えるのは絵を見てもわかる。病的な絵がない。
 個人の妄想の度合いが少ないかわりに共同の妄想が多い。悪魔やら霊やら妖怪みたいなのが多い。  
 病気も共同の妄想の原因や結果であったりする。
 日本はいつの間にか、いじいじした神経症的な人の多い国となった。
 バリ島は、今後どう進むのだろうか。そして、日本人は、次の時代の理想をどのようにイメージするのだろうか。


2000年7月2日
意志

 石をひたすら削り、四角形のものを作り、壁に貼り込めていく作業。床のテラゾーをひたすら磨き上げていく人、ガラスを接着させ、積み上げ、隙間の汚れをとる人、鉄パイプ等で枠組みや支え棒をセットする人、飯を売りに来るおばさん。もっと詳しく言えば、新婚ホヤホヤで六時になったらいつもいなくなる左官屋の大将。やらなくちゃと思っていそうな人、疲れた疲れた、腹減ったをくり返している人。工事現場は、バリ風に遅れつつ、ちょっとづつ進行している。
料理チームは、新しいレシピが多いのにややとまどいながらも、シェフに才能があるため、予定通りにスケジュールをこなしている。
 日本チームとオーストラリアチームが加わり、昨日からはウエイターやウエイトレスのトレーニングもスタートした。
レストランを作るというのは、実に楽しいだろうとは思っていたが、こうまで楽しいとは思っていなかった。
自分の世界をレストランに閉じ込めるわけにはいかない。いろいろな好みをもった人がいて、それらトータルの平均値として「客が来る」ことが決定する。
 始まりからレストラン開始まで三ヶ月。バリ島というものが集中して現れる。世界の中でのバリ島も、内としてのバリ島も政治、経済、日常的な生活、宗教、システムすべてがこの三ヶ月に凝集されていて、僕はその中で指揮をとるわけだから、なかなか刺戟的である。
 最も感じたことは、おそらくアメリカ人が日本人を見る時、皆同じ顔に見えて、みんな同じような考え方をもって何かのっぺらぼうとしたイメージを持つのではないかと思っていた。
 バリの人々は、その点で言えば、さらにのっぺらぼうとしている。悪い意味ではない。前にもここで書いたが、個人の生活というものがほとんどなく、共同体の中で生きる彼らは個人の意志をも共同体に預けたり、意志=共同体の意志であったり、恋人ができても、すぐに村に連れていったりと個人、家族、村の境界がほとんどないようなのだ。だから、強烈な個性というものが現れにくい。個性がある、ないは「幸福」には関係ないように思われる。
 こまかいことをもうひとつ。バリ島の人々の動作のゆっくりさである。彼らは、エネルギーの消耗を動物的な感覚でコントロールしているのである。
 身体を早く動かせば、汗をかく、エネルギーを消費する、タオルやハンカチもいる。彼らの身体の計算能力がこの風土に適応しているだけの話である。
 これを無視して、日本人の尺度でやろうとすれば、必ずコントロール不能になるだろう。
今日は日曜日。朝から爽やかな天気である。庭のブーゲンビリアが陽を受けて美しい。その背景にある空の色もまた美しく、バリ島では一番良い季節だ。


バリ記33 バリに住みたい?/ グチる人

2020-01-15 10:47:46 | バリ記
2000年6月19日
バリに住みたい?

 僕はまだかつて、バリ島に住みたいと思ったことはない。ここを定住の地としようと思う気持がどうにもわからないのだ。もちろん、そう思わせない理由は幾つもあるのかも知れない。例えば、仕事が日本にもあるとか、年老いた両親が日本に住んでいるとか、である。
 バリ島では、居心地よく仕事をしている。日本にいるよりは楽しい日々が続いている。
僕の好きな地のひとつであるが、定住とまでいかないまだ行ってみたいところがある。何ヶ月か住んで見たいところもある。マラッカとか、モロッコあるいはニューヨークとか。
 リスボンは好きな町のひとつで、アルファーマあたりに住んでみたいと思ったり、ナザレの海岸のそばに何ヶ月かいたいと思うこともある。東京の下町でも小さなアパートを借りて四月の桜を見、下町の商店街をぶらぶら買物をして、みたいなこともいいなと思う。
 それらすべてを実現させようと思ったら、その場が一番便利となる仕事を作らなければいけない。
ジプシーではないが、行く先々で仕事を作り、人と接し、人と共に築きあげてゆく。長く滞在できる条件とは何か、と問えば、自分の場合、きっと食材だろうと思う。
 このことを考えると、僕には明確に故郷がある。そこで、二月の下旬から三月の上旬の十日程の間にとれる「えたれいわし」は、この十日間だけアブラがうっすりとのって美味しい。軽く塩をして一日干してから焼いて食べる。
あるいは、十一月頃から南下してくるサンマは、まだアブラがおちきっておらず、これを丸のまま干物にすると実にうまい。夏になれば鮎がおいしい。
 バリ島の川魚を見たかったので、料理長に買ってきてくれないかと頼んだ。彼が持ってきたのは、鯉に鮒(ふな)、それになまず。貝といえばタニシの大きなものだった。川魚の種類が少ないのに驚いた。
日本でも川魚はそんなにスーパーなどには出まわっていないが、熱帯の地には、鮎やアマゴはいないようである。
僕は、貝や魚、蟹などが好きで、その点ではリスボンはよい。タカノツメという僕の住む町でもとれる貝も豊富で、イワシも同じように焼いて食べる。アジの開きまである。
 話は脇道に入ってしまったが、どうやら僕の場合、バリ島を定住地と思えないのは、そういうことからなのかと思ったりする。
バリで定住を決めている人で、僕の知っている限りの人は、一様に食が細く、食にあまり関心がない。
この辺が違うところなのかな。すると、どこのところで定住を決意するのか、そこから先の想像がつかない。脳みそをカチ割って、見てみたい好奇心にかられる。

2000年6月22日
グチる人

 バリの人々と共に仕事をしている(雇っている)日本人の多くは、「バリ人は、いくら仕事を教えてもおぼえない。自らの判断で仕事を見つけられない」と不平を言う。
 僕は、この種の日本人の言うことをほとんど信用していない。
 「約束の終了日までにできない」「仕事が雑だ」 それは、裏を返して言えば、雇い主である日本人のことである。
 例をあげよう。
 朝、民宿めいたホテルで朝食をオーダーする。オーダーは、トースト、コーヒー、ヨーグルトをのせたフルーツサラダだとする。すべて完璧に持ってくるのかと言えば、トーストを持ってきてもジャムを忘れる。今日は、完璧かなと思ったら、サインをするペンを持って来ない。などなど。おそらくこのようなことが日常の仕事の場面で起こっているのだと思う。
バリ人がゆっくり歩くのは、身体を消耗させない、汗を吹きださせないための風土的な知恵である。これをグチってもしかたがない。多くのことは、言語能力が不足する為に起こるものばかりだと思う。だからこそ、指示を出す側に念押しの確認がいる。また、あいまいな返事になっていないか、そうならないようスタッフも確認とイエスとノーをはっきりするという習慣を、これは雇い主の仕事として研修し、身につけさせなければならない。
 指示する側が持っているイメージがあるならば、それを何でもいいから表現してできるだけ正確に伝えるか、もしくは、見本を見せるか、一回目の失敗を覚悟するかである。国土、文化、生活習慣、経済的格差のある人々が一緒に仕事をするということは、日本人同士のようにならない。これは、誰でも当然のことと思うだろう。
 わかりきったことなのにバリ人をけなす日本人が多い。
「それなら、バリにおるなよ」とつい言ってしまう時もあるが、この頃は、「いやぁ、そんなのは半分ずつの責任ですよ」と笑って言うことにしている。
 自慢ではないが、僕らのグループにいるバリの人たちに僕は不満はない。その代わり、互いの仕事がうまくいくよう、経理は経理でバッチし指導したし、営業は営業で、受付は受付で、徹底して互いのコミュニケーションをはかった。当初の覚悟として、失敗はしかたがないと思っていた。
 海外に荷物を送る場合でも、荷物がどのように空港やトラック業者で扱われるのか、普通バリで生活をしている人は知らないから、傷がついたり、割れたりしないように梱包する方法をきちんと言った上でやってもらう。それを「この荷物、日本に送っといてくれ」じゃぁ、あまりにも無責任すぎる。
 このように不満をもらしながらも、バリを出てゆかず定住まで決めている人たちだから、本当は、日本人といっしょにやるよりはしんどくないだろうと思う。根っこの方ではバリ人を好きなのかもしれない。だったら、「言うなよ」と僕はいいたいのだ。

バリ記 32 美味しい物 / ランダ・ランダ

2020-01-14 10:39:19 | バリ記
2000年6月14日
おいしいもの

 僕の住む町は、一方が海で三方が山で囲まれ、ほんのちょっとの平地に人間が貝のように集まって住んでいる。昔は、林業と漁業で栄えた町である。
 山は、人工植林だから、なんとも不自然でいつも緑色をしているが、海の方は、少なくはなったが、磯釣り、堤防釣り、波止釣り、砂場釣り、船釣りとなんでもでき、魚種も豊富である。
二月の末あたりから三月の初旬あたりになると「えたれ」といわれる小さないわしにアブラがのりはじめ、一夜干しか一日干して、それを焼いて食べると絶妙にうまい。わずか十日程の間だから、スーパーなどにもまわらずほとんど地元の魚屋さんあたりでなくなってしまう。
 オニエビという深海のエビがある。十センチ程の頭の大きいエビだが、このエビを塩ゆでして食べる。頭の部分をはぎとるとミソがでてきてそのミソを食べる。これがまたまたおいしく「将太の寿司」という漫画のネタにもなったほどだ。
これもスーパーなどには出まわらず、料理屋でもなかなか出てこない。量多くとれないのだろう。このように東京や大阪の大 消費地に出まわらず、ここの町の料理屋でもなかなか味わえないものがある。
これは、バリ島も同じで、美味しく、少ないものは、地元産品である限り、さっさと地元でなくなってしまうのだ。地元でさっさと売れてしまうのだから、別の場所で果たして好まれるかどうかわからないものをトラックなどを使って、別の市場や業者にもっていくことはない。
 さしずめココナッツクラブ(ヤシガニ)などはその例だろう。きっと地元の誰かがうまい、うまいといって嬉々として食べているに違いない。
 川魚も海の魚も同様である。川魚などは、スーパーなどではほとんど見かけない。日本の「あまご」や「イワナ」だってそうだ。貝も、バリのレストランで見かけるのは大きくて味も上等でない「あさり」だけである。巻貝やつぶ貝のようなものは出まわらない。
 自然のおいしい食材はある地域で少量しかとれないため大量に出まわるものを使ってレストランは加工術にビジネスの命をかけて、食を提供することになる。
 美味しいものとは何か。自分が生まれ育ったところの自然と風土から取れるもの。それに、簡単でシンプルなものだ。料理屋のお茶漬けではなく、自分でお茶をかけて食べるお茶漬け。卵をかけて食べるご飯だとか、そんなものが、結局おいしいということになってしまうのでないか。
 池波正太郎の「創客商売」や「鬼平犯科帳」などで紹介される料理は、シンプルなものばかりである。これがコテコテと飾り、加工された一流シェフの料理よりも、美味しそうに思えるのだ。
 おそらくきっとバリ島の人々も少量のおいしいものを、ごくあっさりと料理して、食していると思うと、何とかそれが手に入らないものかと思ったりするし、あきらめもすぐに思い立つ。

2000年6月15日
ランダ、ランダ

 「『ランダ』って魔女、つまりオンナだよね」とエステのスタッフたちに尋ねると、彼女達はちょっと考えてから「そうよ、そうそう」と答える。
 「君らもオンナなんだから、君らの中にランダはいるよね」と次のタマを出す。???と首を傾げ、「それは、悪い行いをする、ということ? 」と聞き返してくる。
 「いや、悪い行いとか、具体的なものじゃないんだ。つまり、ランダだ。それは身体のどこかに密んでいて、悪の根っこ、どんな風にでも形を作り出す装置のようなものだ。」
 「えっ、私の身体の中にあるの? どこにあるの? 」
 「ああ誰でもオンナは持っているんだ。それがランダがオンナであるということの意味だ」
 と自分でも訳のわからない方向に行こうとしている。しかし、意外にもこの話に乗ってくるのだ。
 「私のどこにランダがいるの? 」とカーティーが聞く。僕は、すかさず「ここ。」と言ってカーティーの右脇腹の下を指でさす。えっと驚いたような様子で、右脇腹の下を見る。別の女の子は「私はどこ?」と聞いてくる。と、僕はパァっと、血液の中だとか答える。
 いい加減にいっているのに本気にしそうな雰囲気である。
 ちょっと話題を転じて、
 「オンナというのは、オトコよりも身体が強いだろう? 長生きするよね、オトコより。精神も強いだろ? オトコなんてのは見せかけだけで、本当はどうしようもなく弱くてだらしがないだろ?」
 「うん、うん」と一同五人程、うなづく。
 「これは、オンナの身体の中にランダが住んでいるからだ。だから強くて長生きするんだ」
 「ふ~ん???」とわかったようなわからないような雰囲気。
 「悪がいるから長生きするの?」
 「そうだ、まさに正解(パチパチパチと拍手)」
 「悪がいるからこそ長生きするんだ。全身、善ばっかりだったらどうなるんだ。それこそ最悪じゃないか。善と悪のこの微妙なバランス、これがバリ・ヒンズー教だろ」
 ここでみんな「うん、うん」とうなずく。
 「ところで、本木さん、あなたにはランダはいないの?」
 グッドクエスチョン。
 「オレは、バロンだ。」
 なぜかオオウケ。僕も頭がますますハイテンションになって
 「オレは、バロンだから、ノーティーみたいなベイビー・ランダがいるやつから、アルフリーダーみたいにお化けランダがいるみたいな、まわりがそんなのばかりだから、ヘトヘトだ。バロンはいくらランダと闘ってもダメだろ。チュルルックやスリンギ、ランダの子分はいっぱいいる。わかってるかい。バロンがランダを巻き散らすんだ。まさに、オトコじゃないか。そのくせランダを退治できないんだ。おおこの矛盾。」
 すっかり僕は酔っ払ったようになってしまって、バロンになった振りまでし始めた。われながらツジツマがかなりあっている。
一気にここで煙にまいて、
 「ところでね、オトコの死に方で、一番幸福な死に方って何か知ってるかい。死に方にもいろいろある。病院で死ぬ。家でみんなにみとられて死ぬ。孤独に死ぬ。事故で死ぬ。どれも変りはないけれど・・・・」
といっていると「アタシ、ウチ」などと言ってきたのはニョマン。
 「オトコはね、オンナのオ○○コに頭を突っ込んで死ねたら一番いいの。わかった?」
 一瞬?????
 「元に戻るっていうわけ?」
 「そういうこと、ピンポーン。」オトコはその願望だけで生きているんだ(?)」
 「だってオンナもオ○○コから出てきたんだから、戻りたいんじゃないの?」
 「ノンノン、自己矛盾。自分から自分のオ○○コには行けんだろ。」
 「だからオンナはランダのような魔女になって、オトコが死んでからひっそり死ぬんだ。まあ、善なる(大悪なると言ってもよいのだが)オトコを吸い取ってから死ぬんだ。」「どこへ行くと思う。」
 すると一人が「海」、一人が「どこか。霊界とでも言いたいのだろうか、言葉がわからない。「どこでもないんだよ、死ねば終わりだ」ノーティが「グッバイ」などと相槌を打つ。「生きている間に、自分の中のランダをまつって、ねんごろに大事にしたらいいんだ」などと僕はすっかりプリーストになったような気分で「ナイストーキングだね。」
 一同チョンチョンで、一幕が終了した。

◎ランダ:バリ島で悪の化身
◎バロン:善の象徴

バリ記31 色・崩壊そして・・・

2020-01-13 10:29:21 | バリ記
2000年6月11日

 バリ・ガラスでできたレストランを建設中である。建設と並行して、様々な準備をしなければならない。料理の決定、ドリンク類の決定、メニューデザイン、トレーニングなど事細かである。
 最高の味、最高のもてなし、最高のデザインがあれば、成功することは間違いないだろうが、そのシンプルな、三つの原理に到達するには、事細かに微密に物事や想像力を積み上げてゆく必要がある。
 そのような中で、今日は日曜日。天気がよく、爽やかである。レギャン通りをブラブラ歩き、シェフ特別用のスカーフとエプロンを探すのが、外での唯一の目的である。久しぶりに買物気分で店を見て歩いていると、ちょっとずつ新しいおみやげ物も出てきている。ビーズ物が流行っているのだろうか。
 シェフ用のスカーフは、絹のバティックを使用したいと思っていた。絹のバティックを売っている店がベモコーナーからクタスクウェアに行く途中の右側にあったのをおぼえている。値段も定価でびっくりするほどだったのもおぼえている。
その店で買おうと思っていた。シェフにも好みはあろうが、これは僕が決めるつもりだった。ひとつは、シェフの肌の色や雰囲気で決めた。つまり、色に意味をもたせずに決めた。茶とえんじの間のような色で金色も入っている。
 もうひとつは、色に意味をもたせたかった。あんたは、シェフなんだ。料理の世界では、最高の地位なのだ。それに恥じないように頑張れ。みたいに、その事が通じるような色を選ぼうと思った。あまり知られていないが、バリ島には、色のヒエラルキーがある。
 アグン山のあるほうには聖なる者が宿り、海のほうに邪悪なものが住むと見なす。その聖なる色は黄金である。その対極の色は、黒である。黄金色、白、黄、赤、黒と続く。
 黄金色は、楽器や舞踊の衣装でも使われるが、その色の見事なのは、家族が行う通過儀礼の時だ。全てが黄金色である。 全ての色に似合う完全の色である。
 白地に黄金、赤に黄金、黒までも黄金色が配され黄金色は黒に負けないのである。
 あれこれ考えた末、シェフのスカーフは、黄金、白、それに淡い水色、黄色が入ったものを選んだ。
 黒は、邪悪な神バタラデュルの色だ。シェフは黒を希望していたがやめた。
 白は、ブラーマ(慈愛の神)の色だ。それに太陽の色(黄色)と火の色(赤)が加わる。その中に火を使う台所での仕事が主なのだから、赤が入っていて欲しかったが、それは見当たらなかった。
 かくして、明日は、これらのスカーフを見せて、特別な思いをシェフに伝えるのである。このようにして一つ一つ片付けていく。レストランオープンまで、あと五十日である。

2000年6月13日
崩壊、そして・・・

 戦後、最大の事件といえば、僕は阪神大震災とオウム真理教事件、そして神戸の酒鬼薔薇聖斗の事件だと考えている。
 それらの事件は、戦後日本人が励み、生きてきたことの崩壊を意味しているように思えるし、東西冷戦が終わり、日本ではバブルが崩壊し、金融危機となり、ベンチャー企業は次々と倒産した。
 近代都市が一瞬にして崩壊する。制度も法も、過去も明日も崩壊する。それが阪神大震災である。オウム真理教事件では、ただ宗教的な動機で無関係な人々をサリンで殺した、という動機や縁のない殺人が起こった。それに心優しそうな知性の人が参加しているのからしてわかるようでわからない不可解さがあった。
 もっと心の核の部分を現実に浸犯してみせたのが神戸の事件だった。家族、親と子、その事件はやはり戦後五十数年間のこの日本の社会の中の家族、親子の関係、心の奥底を衝撃的に映し出した事件だった。この事件はオウム事件と底のほうでつながっているのかも知れない。
 それら三つの事件は一九九〇年年代に入ってから、バタバタと起こった感じだ。
 近代都市などは一瞬にしてつぶれるんだよ、そのときあてになるのは、個人、個人が生きていく力なんだよ、制度や規則なんてまるっきりダメなんだよ、政府みたいなのも労働組合みたいなのもからっきしダメなんだよ、そんな中で、それでも人間はやっていくんだよ、弱さも強さもズルさも、全部さらけだして、みたいな強烈な衝撃が世界の人々を揺さぶったと思う。それが阪神大震災だ。
 前置きが長くなったが、それが今日の話である。
 阪神大震災後、自分が経営する事務所、住む家を失った時、夫婦はどうなるか。夫婦それぞれの過去、現在の思い、未来へのひそかな思い、それらも凝縮されて噴き出てしまうはずである。その凝縮のされ方を想像するのは難しい。
 男はこの際に自然に順したような生活を送りたいよ思い、女は男についていこうとしたけれど、都会の生活をやっぱり好む。それは逆であってもよい。二人で次を見つける旅もした。バンコク、シンガポール、バリ、ブルネイ。漂流するように旅をした。二人とも元には戻りたくなかった。壊れたものを建ち直らせる、その原点のような希望がなかった。
 希望とは新しく別々に、それぞれの思いでやり直すことだったのだろう。女はバリ島で踊りにはまってしまった。男は別の事を考えていた。ある日、女のほうから男に別れたいと申し出があり、それは受けざるを得ない感情のものだった。

 男は一人になった。長く滞在したバリ島、そこでやり直そうか、どうこれから生きていこうか。被災から四年。男に心ときめかせるバリ島の女性が現れた。こんな感情がまだ身体のどこかから湧いてくるのかと不思議に思いながらも、突き動かしてくる心の衝動は激しかった。
 何もかも捨てて、ヨットにすべて生活道具を入れて、黒潮を避けるようにしてグアムの西を渡り、漂海民のいるスラウェシを渡り、バリ島に入った。その女性がいたからである。ヨットをバリ島に向かって意思して操ってきた。漂流してきたのではない。逆である。
 日本からバリ島へ逆にのぼったのである。幾らかの蓄えはある。バリ島でつつましく生活してゆければよい。そう思っている。しかし、なんだか第二の人生が始まったようで、やろうぜ、と思ってくる。  
 僕は、やろうぜ、と思い、やろうと起き上がった時の男と会った。今日のことである。彼に在留許可証を取ってあげた。


バリ記30 時間の感覚

2020-01-12 10:24:02 | バリ記
2000年6月5日
時間の感覚

 僕としては、相当真面目に書いているつもりであるが、残念ながらこの日記は二十五時間目に、妖しい夜の時間も果てるころに書いているので、文章を推敲する時間がない。
 今日は、この日記を読んでくれている方がわざわざ訪ねてくれて、嬉しかった。言い訳めいているが、夜の時間は不健康で、貴重な時間なので、なんだか妄想を湧かしているうちに、二十四時を過ぎるとその後は限りのないような闇の中に沈み、そういう中で思ったことを書いている。朝や昼は「実」の仕事時間で急に「虚」になれなくて、従って文章を再度見直すことはない。世界が全く違うのだ。
 さて、バリのことである。
 この前、バンリのバリアンのところに行った時、多くの人が順番を待っていた。我々日本人の多くは時に時計を見て、時間に気にかけるのだが、バリの人々は待っている間、全くイラつく様子もなく、時間を気にする様子もない。そういえば、最近までイダも時計を持っていなかった。時計がなくても、時間は別の感覚であったのかも知れない。太陽が昇る頃とか、沈んでから薄闇の頃とか、お腹がすいた頃などと。また、そう言えば、であるが、食事をする時間も決まっていないように見える。いつも、もう十二時だ、昼にしよう、と言ってもピンとこないようだ。夕食も同様である。家族のそれぞれが、てんでバラバラに必要時に食べるという感じだ。
 話を元に戻すと、時間にそう縛られていないバリの人達の時間の感覚はどのようなものだろう。
三才ぐらいから小学校を卒業するまでが、相当長かったような気がするが、あのような感覚なのだろうか。二十才を過ぎたあたりから時の流れる感覚がますますスピードアップしていると感じるのは、生活の時間が、仕事時間などに縛られているからだろうか。
 空虚に待っている間も、日本の場合は、雑誌や漫画が置いてあったり、テレビが提供されたりする。貼り物も多い。それらを読むこと、テレビを見ることで、脳の映像を映し出す部分がいつも忙しくしていて、時の経つのを忘れることが多いから浦島太郎のようにあっという間に時が過ぎたと思えるのだろうか。
この点の感覚の違いをつかんでバリ人と一緒に仕事をするのは、重要だと思える。そのことでイラ立つことはなくなるのだから。時間感覚を大幅に延長してもてばいいのだから。もっと言えば、ゆったりとした時間の過ぎ方のほうがより一般的かも知れないのだから。

2000年6月9日
せめぎあい

 もっと詳しい感情はわからないが、バリ島がリゾート地化され、バリの人々に観光産業がつまり第三次産業の立ち居振舞いが身についてきたことから、感情は第三次産業の色彩をもつようになってきた。
 村落共同体は、さまざまな面から、その存在を脅かされているように思える。
 例えば、ひとつの会社、またはグループ会社は、ひとつの地域から何人も人を雇ってはならない、という暗黙のルールがある。また、同じ会社で親、兄弟、妻が働くことは良くないことだとされている。
 これは、会社に対して、相当に強い人間の関係性を持ち込まないことで仕事に悪影響を与えまい、という意思と裏返しに、会社の仕事と村の行事がぶつかった時に、村の行事を守らなければならないという意思も働いている。
つまり、会社と村落共同体の利益が合致しているのである。
しかしながら、個々人はそんなことを言ってられない。職がなければ誰でもどこでも働きたいと思うのが心情である。個々人は、なんとかそのルールを無視し、あえてその障壁を越えてしまおうとするが、すぐにチクられたりして、採用前に頓挫するのである。
 この辺のところが、個人と共同体のせめぎあいのところでそろそろバリ島もその臨界点まできているのかな、という気がする。もしかしたら、まだ共同体側の方に余裕があるのかもしれない。ここら辺りの感情がちょっとわかりにくい。
若い人々は、核家族化を押し進める。子供により高度な教育を身につけさせたいと考える。家族の宗教的セレモニーは大切だが、村の組織への参加は、必要だけれども億劫になることもある。
 バリで仕事をするということは、自分も現在のバリに巻き込まれ、バリの人たちをも巻き込んでしまうということである。
自分自身にとって、未来に通じる言い方をすれば、彼らのはにかむ微笑や、スラッとした身体や、ゆっくり刻む時の流れ、はっきりとした昼と夜、食欲の自由なリズムなどに人間と言うものの原型を見ることだ。このような原型というか、人間が太古から持っている原初のイメージから今の自分を視ることによって、未来につなげてゆく、としか未来に通じる言い方はないのである。
 一方、僕の周囲のバリの人たちは、僕を通して、未来を視ている人もいるだろうし、僕という壁のところで立ち尽くす人、さっさと遠ざかる人、それぞれだろう。縁あったもの同士が互いを契機にある豊かなイメージをつかみとってゆくしか共に歩む方法はないのだと思う。
 そんな七面倒臭いこと考えずとも「仲良くやればいいじゃないか」と言われれば、それまでなのだが。