バリ記 

英語関係の執筆の合間に「バリ滞在記」を掲載。今は「英語指導のコツ」が終了し、合間に「バリ島滞在記」を連載。

バリ記29 バリアン

2020-01-11 10:18:07 | 日記
2000年6月1日
バリアン

 イダが事あるたびに行くというバリアン(呪術師)のところに行ってみる気になった。慢性膵炎という不治の病を持つことになったのは十ヶ月ほど前で、以後、食べ過ぎたり、アルコールを飲むと病んだ膵臓からの乏しい消化酵素のせいで胃が痛んだり、疲れやすくなった。体重も七十四キロあったのが、六十キロまで徐々に落ちてきた。周囲の者もすっかりスリムになった僕を見て、癌などに犯されていないか心配する。とにかく、膵臓が病んでいてこれは元には戻らない臓器なのである。
 キンタマーニ近くのバンリという村に、そのバリアンがいる。昼間は行列ができるということなので、夕方から出かけることにした。お供えを途中、道沿いの店で買い、そこに心づけを入れた。八時半の到着で、そのバリアンの屋敷に入った。すでに、十人ほどの人がいて、僕はシバ神やウィヌス神、ブラーハマ神を祀る屋敷内の祭壇の前で三十分程順番を待った。
イダの話によると、いくつかの敵を追っ払ってくれ、悩みは解消し病気が治る、ということである。
 元に戻らない臓器が治ったとしたら奇跡としか言いようがない。僕の番になって、僕は彼バリアンの前に座った。彼は、目を閉じ、しばらくして目を開け、僕の現在のバリの住居、そして日本の住所の位置関係を聞き出した。そして彼は僕の家の絵を描き(前に鉄でできたゲートがあり、広い庭があって奥が住居になっている)、そこから線を引き、この辺に僕を強く呪うカーリーヘヤーの太った女性がいることを告げた。思い当たる女性がいる。次に僕が生まれて育った家の位置関係を聞いてきた。しばらくしてまたペンで線を引き、印をつけて、「ここにヒーラーがいる」と言った。「心当たりはないか。」と言う。確かに子供の頃、そこに祈祷をする女性がいた。
 この二人からマジックパワーが出ているという。
 僕はその二人がマジックパワーをかけたとして、どうすればよいのか、と聞くと、「それは知っておくだけで良い」と言い、次に僕の内臓の絵を描き、「胃の上部の辺が鉄のようになっている。」と言った。「鉄のように」とはどういう意味かわからなかったが、その部分をギザギザの線で強調した。
 僕の膵臓は繊維質状態で固く腫れている。そのせいで消化酵素などが出にくくなり、胃がただれてしまう。三日前にバリュームを飲んでレントゲン写真を何枚も撮って胃のただれが判明したばかりである。
マジックパワーを解き、聖水で身体を浄化することに同意するか、と聞いてきた。「プリーズ。と言うと、にっこりして「土曜日に来なさい」と言った。薬草も調合すると聞いていたが、僕の場合、それはなかった。
バリアンとは、情報ストックのような人である。かなりの知識と経験を持っているようだ。それに常人以上の透視とか念ずる力とか何かすぐれた能力を持っているのだろう。
 自分で自分の膵臓をどうしようもできないのだから、ここは身を任せるしかない。「土曜日の夕方、聖水で悪いところを取り除いてやる」この不信心の僕がこの言葉を信じるしかない。

2000年6月4日
バリアン(つづき)

 さらに加える話がある。実は、僕の仕事上のパートナーであり大先輩のY氏も一緒にバンリのバリアンのところに行ったのだった。彼には糖尿の気があり、不整脈があるらしい。日頃、メデテーションを行い、この世界(?)は詳しい。
彼に対して、そのバリアンは、「腰がいたいのではないか」と言った。このことは、彼と僕以外誰も知らないことである。僕は三日前、彼の腰に膏薬を貼ったばかりである。スクーターでの軽い事故が原因だった。それを言い当てたので、彼は驚き、これはホンマモンだと思ったようだ。次に「腹のところで炎が立ち、そこで滞留していて、全身にパワーが行き渡らない。パワーのバランスが悪い」と言った。
 一ヶ月程前、彼は僕にメデテーションも自律訓練法も独学でやっているものだから、もう少し極めたいので、東京のとある道場のようなものへ行きたいのだ、と言ったことがある。大変気持が良いのだが、まだ、今ひとつすっきりしないらしい。
このような背景があるものだから、彼はもうこれでパーフェクトにホンマモンだと思うようになり、スーッと《信》の世界に入った。
 僕は、慢性膵炎は絶対治してほしいのだけれど、心にホンマカイナ、イヤ、コンカイダケシンジヨウとか、シンジマスカラ、ナオシテクダサイとか、いろいろ不信の証拠となるような思いがチラつく。
さて、金曜日の夜、エステの女の子たちに体験談を話していたら、まだ二十三歳の受付の女性(女の子)に、「信じてるの? 信じないと効き目はないわよ」と言う風に言われた。わかっとるわい、イワシの頭も信心から、と言うやろ、と言ってしまいそうになったが、知らん振りして、フンフンと聞いていた。まだ、ホンマカイナと思っている.
土曜日が来た。仕事を済ませて、三時からバンリに出かけた。クタから2時間近くかかる。バンリまで道がきちんと舗装されている。イダは、このバリアンのためにスハルトがぬかるみの道をアスファルトに変えたんだと言う。
バリアンの家の近くから車が左側に駐車して並んでいる。これは相当待ちそうだ。家に入るとまずY氏のための薬草が用意されており、それを篭に入れて、待合場所にいく。
今日は、ヒンズーの儀式どうり、お祈りを捧げて、身を浄めてから、順番を待つことになった。たいへんな人だったが、土曜日は相談を聞いたり、口頭で答えたりする日ではないらしく、まずY氏らのグループ、つまり自らの身体から発現する病気の人に、マントラを唱え聖水をふりまき、そして飲ませ、顔を洗わせ、薬草を食べさせることを何度も繰り返して、五分ほどで終了した。
次は、僕も入るグループで、これは、他からかかったマジックパワーで発現する病気の人たちである。上半身裸になり、手のひらを上に向ける。するとマントラを唱えつつ、各人の手のひらに聖水を注いでくれ、それを頭にかけ、飲み、顔を洗い、ビシッビシッと冷たい聖水を体中ビショ濡れになるまで浴びる。マントラよりも聖水のかけ方に迫力がある。
要するに全部まとめてやってしまうのである。
 僕はマジックパワーがとかれ、Y氏はパワーの位置が正常になったということになる。五日以内によくならないようだったらまた来なさい、ということだった。帰りの車の中で、僕はやや胃が腫れているような気がするものだから、いつもの漢方薬を飲んだ。病院で「膵臓から消化液が出にくいものだから胃がただれている。」と言われ、胃薬をもらった。それから五日間、調子がよく身体も疲れない。
 願わくば、この慢性病から解放されたい。Y氏は陽気で、前向きで、ヨクボシで、すっかり治ったと思い、はしゃいでいる。僕も治ったと思いたいが、心の底から思えない。でも期待し、心のどこかで信じている。
そして後日談がきっとあると思う。

バリ記28 地球の歩き方

2020-01-10 10:09:01 | バリ記
2000年5月14日
地球の歩き方

昨夜、激しい雨が夜中から降り始め、朝まで続いた。レギャン、クタはいつものように洪水状態だろうと思いながら寝た。
バリに来たのはいつだったのかも忘れてしまい、今日何曜日で何日なのかもわからず、それはあくまでも部屋にカレンダーがないのと、日と曜日がついていない時計を持ってきたからだと、改めて気づく。
朝十時も過ぎると、すっかり空は晴れ上がった。毎日、涼しく良い日が続いている。部屋では、クーラーは要らない。
食器がようやく見つかった。バリはどこもかしこも五つ星ホテルは、ジェンガラという会社の陶器を使っていて、独占状態の為、注文すると五ヶ月はかかり、とても八月一日のオープンには間に合わない。ジェンガラのものはデザイン的にはバリにある陶器屋さんの中では群を抜いて良い。しかし、重たい。重すぎるのが欠点である。日本の陶器のような洗練さはなく、ただ土の香りがする、というのが特徴かもしれない。僕は土の香りをするような、重たいものは求めていないが、ここしかないとなったら、しかたがないかとあきらめていた。灯台元くらしで、デンパサールのデパートに行ったら、期待しているものがあった。スラバヤに会社があるという。早速連絡をとり、バリの出張所のスタッフがすぐやってきて話し合い、これにて食器問題が解決した。
五ヶ月も待たせて平然としているジェンガラのスタッフ及び社長の横柄な態度に気分を悪くしていたので、すっきりしたのである。
そうこうしていたら、「地球のあるき方」の取材があった。二十四才の若い女性が、クタ、レギャン、スミニャックを担当し、三週間滞在して取材するのだそうだ。彼女は、役得でカルティカプラザホテルに無料で滞在し、取材しているのだそうだ。ガイドブックの影響力は大きい。広告代にすれば大変なものだ。
日本では、有名旅行雑誌が三つある。つまり三つの旅行雑誌のうちのひとつ。たかだか二十代の娘のセンスによる取材で、バリの店も影響される。逆に言えば、どうしても取材しなければ編集員として恥になってしまうような店作りをすれば良いということにもなる。

2000年5月31日
ひどい話

バリ島から日本に旅行する場合、きちんとした手続きをふめば、日本領事館も厳しいとは思うけれど、ビザを発行してくれる。ひどいのは、インドネシア人同士のことだ。
普通、パスポートを作ってもらうのに、余白二ページくらいで45000ルピアである。これが正規の値段である。このパスポート発行に中国系のブローカーが絡む。
ビザを出してもらう為、あらかじめ旅行日程を先に決めている人がほとんどだ。そこが目のつけどころと、期日までに間に合わせたいなら、お金を出せ、俺がうまく話をつけてやる、と申請手続きの周辺にいて、話をもち込んでくる。パスポートを作る係員も、その仲間もすべてグルである。これで1,500,000ルピア(約25000円)をとられる。
次は、出国の際である。日本なら無料のところである。政府は出国するインドネシア人から1,000,000ルピアをとる。計2,500,000ルピア。普通の人のサラリーの五ヶ月分である。
さらにおまけがつく。日本で物を買う。それを持って帰ると、なんだかんだと言ってお金を要求する。ひどい国である。たかりである。ふんだりけったりである。役人がそれをする。役人は給料が低いから、という理由がつく。だから、政府が悪い、となる。
脱税がほとんどで、道路などのインフラも整備できない。役人にそこそこの給料も払えない。だから利権でもうけようという者が出てくる。この悪循環が経済の裏で繰り返し繰り返し行われている。
日本の敗戦時のように、外から強制的に変革されるなら、改革は進みやすいのだろうが、インドネシアにまだそのような機会がない。スハルトが沈んだだけではこの国はおいそれと変りはしないのである。そう簡単に自分自身の力で、過去からの習慣や関係性を断ち切れるものではない。
この国が、せめて日本くらいまで(良いとは言えないまでも)つまり、一般大衆が正規料金でパスポートが取得でき、無料で出国できるようになるまであとどれくらいかかるだろう。
さて、このことに関してのバリ島民の意識だが、ほとんど外国に出ないから、被害の意識はなく、そんなものだと思っている、といった方が正解の感じがする。
僕は、このH・Pを通じてこのような問題を書きつづけている。
《不安》は、《わからなさ》からやってくる。なんとかして《わからなさ》をわかるように明らかにしたいと思う。


バリ記27 マジックパワー

2020-01-08 11:55:00 | バリ記
2000年5月8日
マジックパワー


 今回のバリ滞在は思ったよりも長引き、なかなか帰れないでいる。涼しい日が続き過ごしやすいのだが、相当に疲れがたまってきた。
 さて、さらに疲れがたまる話。朝、事務所でイダが、まじめな顔をして、ちょっと話がある、という。
「モトキさんが信じるか信じないか、それは別として、僕が管理しているお金三百万ルピアが失くなったのです。プトゥも一週間程前、オカも二週間前、持っていたお金の一部が失くなっておかしいなぁ、と思っていたところ、今度は僕だったので。三つ考えられるのです。どろぼうがいるか、自分達の思い違いか、マジックパワーか」
 僕は、「それはどろぼうに決まっているじゃないか」と言うと、イダは「マジックパワーだと思うので、実は今日、プリーストに行って、おまじないしてもらいたい」と言う。
 今まではマジックパワーの話を気楽に聞いていたが、今回のことは笑っていられない。
「イダ、今回は事情が違うので、マジックパワーを僕は認めるわけにはいかない。君がプリーストのところへ行くのは勝手だ。失くしたお金は自分で賠償するのだから。けど、このようなことがマジックパワーで片付けられていたら、お金が失くなればマジックパワーのせいで、誰でも簡単に物を盗めるじゃないか。ここは、まずお金の管理の仕方を今日から変える。それから重たい、容易には開けられない金庫を買おう。それに僕がバリにいるのでデイリーリポートが途切れていたが、僕がバリにいる間も毎日やろう。」
と指示した。

 マジックパワーはマジックパワーを信じる人だけに通じるのだそうだ。バリでは兄弟姉妹や親戚どうしのねたみ合いが多いという。「わら人形」に釘を打つようなことが多いというのだ。このようなことは僕には不気味でもなんでもないが、厄介なことだ。大事なことがマジックパワーで片付けられてしまうことがあるのだ。

2000年5月9日
薄気味悪い


 いつまで経っても、バリで薄気味が悪いのは、路上でたむろしている男達だ。
店の辺りでいつもたむろしているのは、だいたいが妻かガールフレンドが仕事を終えるのを待っているのか、何かお金になることはないか、物色しているか。たとえば、白タクの運ちゃんとかポン引きとかである。
ヤーマの道路をはさんで向かいに昼間、ニセモノの時計や香水を売っている出店があり、そこにはいつも五、六人の男が座って、何やら話をしたりしている。僕とよく目を合わす。いつもこの店をうかがっているようで、何だか不気味である。
 ある日、その男達の中に入っていって、話をする契機にニセモノの時計を買ってみた。一人は時計を売り、一人はオモチャのようなものを売っている。白タクのものもいる。職がなく、観光客を捕まえては、何を買いたいのか聞き、わかるとそれを売っている店に連れて行き、店からお礼をもらう、そんな男もいる。気さくな、人の良さそうな男ばかりだ。
 話をすると不気味さも消えるのだが、知らない人だといつまだたっても不気味に思える。
この正体がまだよくわからない。

バリ記26 神経症と遊び

2020-01-07 11:51:35 | バリ記
2000年5月4日
神経症と遊び


 日本人は戦後から現在に至るまでの間で、何を身に付けたか、を一言で言えば、《神経症》だと思う。
健康グッズ、抗菌グッズが流行し、美容に精を出し、ニキビひとつできることを嫌う。
オウム真理教などの新新興宗教も、信者たちの中にある貧困や飢えから来る恐れや不安ではなく、物質的には充たされていながらの〈何ともいえない不安感〉という神経症っぽいものからきているのではないか。ばい菌が殺しに来るのが見えるわけでもないのに、心の中でばい菌が見えてしまう。それを恐れ、いつも清潔にし、汚れを毛嫌いする。0・157の事件などは、日本人を象徴するような出来事だった。ダイエットをしていたらそのまま拒食症になってしまう人、いつも自分はどこか悪いのではないか、と思う人、いつも薬を飲んでいなければ不調を感じる人…
 日本人の全体的な像はこのようなものだ。
 もうひとつ、これは明るい面であるが、老人が元気になった。ただし、これは明治、大正生まれの老人で、昭和生まれ、それも昭和十年代はこれからというところだからまだ未知ではあるが、昔だったら姥捨て的なイメージが老人にはあったが、今は老人は結構遊びを楽しんでいる。〈病気不安症〉はこれはしかたない年齢のような気もするが、度を越した神経症でもなく、適度に遊んでいるように思える。充たされぬ思いはいっぱいあるだろうが、昔の老人に比べて相当環境がよくなったのではないだろうか。
 要するに戦後、我々が身につけたのは〈神経症〉と〈<遊び〉である。バリ島はまだこの二つはない。

2000年5月7日
不思議に共通するもの


 ドアを閉めて、部屋の中で仕事をしていたら店の方で、何やら日本の民謡のようなものが聞こえてきた。誰かCDでも持ってきてかけてるのだろうかと思い、ドアを開けると日本民謡のような音楽がジェゴク(竹の大合奏)に変った。つまりジェゴクの音の中で遠く離れた聞こえない部分があり(たぶん高音部だと思うが)、その部分が聞こえないと日本の民謡のように聞こえるのである。
これは、以前体験し驚いたことである。
今日は、またおもしろいことに気がついた。マッサージルームでマッサージを受けているとレセプションの女 性達が何やらひそひそ話をしている。これも幾つかのドア越しで、聞いていると日本語に聞こえるのである。
あるいは、日本の着物をバリの暑さの基準まではぎとってゆくとバリの腰巻になってしまう。
たぶん、バリの方から日本にも多くの人たちが入ってきたのだろう。おそらく朝鮮半島から多くの人々が入ってくる以前、海上の道をやってきたのだろう。
 言葉や音楽の中にそんな大昔のものが残っているのかもしれない。
 こういう共通点を実感するのは、妙な気持だ。
 現在の言語や地名などをさぐっていけば、日本人のルーツの一部も見えてくるだろう。

バリ記25 ブサキ寺院・妊娠した

2020-01-06 11:45:43 | バリ記
2000年4月29日
ブサキ寺院


 ブサキ寺院は、バリヒンズー教の総本山である。五年前に二百年に一度と言われる盛大な祭りがあったが、今年も何やら大きな祭りが一週間にわたってあったようだ。
 会社の女性スタッフたちが、夜の十時に店を閉めてからみんなでブサキ寺院にお参りに行くという。着飾り、化粧をし、女たちだけで行く。どうして、男友達ともいっしょに行かないのか、と尋ねたら、頭を指して、祈りに集中できないから、ダメとされているようで、彼女たちもそう思っている。祈りの場所はデートの場所ではないと言いたいようだ。
 朝の六時までブサキ寺院内で時を費やし、その日は約二時間の睡眠だったらしい。
さて、神への祈り、神への捧げ物のことに話は移るが、供物に入れる花々は香り花や化粧花ばかりだ。女たちは着飾り、香水をつけ、化粧をする。神々は女性を好むのだろうか。どこか妖しい交歓の雰囲気がある。

2000年5月3日
妊娠した


 バリ・ヒンズー教では、堕胎は禁じられている。
この頃のバリ島の若い世代の親は子供は二人で上等だと思っている。
リゾートしている側から見れば、バリ島は時間がゆっくりと進み、人々は神々に祈りを捧げて、一日がなんと平穏に過ぎてゆくかと思われるだろうが、そこには劇場国家たるゆえんのところである。
人々は、観光客側から見れば演じ手の一人だという風になる。
確かにバリ島は豊かである。お金がない、貧しいとマデやニョマンが言ってもこちらから言えば「そんなはずねえだろ」となる。
 「バナナがそこら辺に生えていて、庭のあちこちにハーブがあり果物があるところなんて、めったにないだろ」と言いたくなる。
 さて、堕胎についてである。スタッフの二人が妊娠した。Aは二人目の子供。Tは三人目の子供ができているのかも知れないのである。今日、病院の検査でわかる。
 Aはこの成り行きを、人に気持を表すことなく自分の中で受け止めて、淡々としている。一方、Tは仕事場でも、時に泣き、堕ろしたいと言い、それはダメだと若い人から言われ、ただただ三人目の子供ができることによって現在の家庭や家計、あるいは夫に及ぼす影響が大であることを気にして病んでいる。
 昔は三人や四人、五人の兄弟姉妹はざらだった。日本も同様である。それでもなんとか生活ができていった。しかし、今のバリでは三人は相当苦しそうである。教育を受けさせたい。テレビなども買って楽しみたい。できたら親と離れて核家族化したい。亭主は安月給で、職も転々とする。自分も働かなければならない。

 Tはどうするのか、僕にはわからないが、ほんの二ヶ月程亭主がシンガポールへ行くと言って出て行って、悲しみ、嘆き、よし一人で頑張ろうと思っていたら、またふと帰ってきて、元のサヤに収まり、という顛末の後のことだった。
 Tのマッサージ技術は素晴らしく、そんじょそこらのマッサージ師ではない。天性のものをもっている。
日本人以上に倫理的であり、宗教的だから、普通生活者の立場との板ばさみでTは悩む。男はどんな顔をしているのか見たいものだが、案外ケロッとしているのかも知れない。バリ島は女の方がよく働き、よくやる、という印象が僕には強いのだ。Tは今日は休み、明日はどんな顔をしてくるのやら、心配である。