2000年7月14日
気がついたことアラカルテ
五月の下旬にバリに来てから五十日くらいになる。バリ島について新たに発見したことを述べる。
まず、水である。どうしたことか髪の毛が縮れはじめ、髪がパサパサとしてきた。応援スタッフのオーストラリアから来たパトリシアもそうだという。どうやら水のせいではないかということになった。変化は髪の毛だけでない。白いマニキュアが黄色く変化してくる。白いシャツは何度か洗っているうちに黄ばんでくる。
バリ島には、爪を伸ばしている人が多いのだが、男性も女性もその爪が汚れてみえる。実は、汚れているのではない。伸びた爪の裏表が水に攻撃されて、光沢を失い黄ばむのである。これがひとつ。
次に、バリ人には地図が描けない人が多い。ほとんどの人が描けない。逆に言えば地図が読めない。日本では、全ての家が載っている市町村別の地図もあればランドサットによる地図もある。バリ島では警察すらこのような地図をもっていないし、詳しい道路地図もない。
学校で地図を描く練習もないようだから、必要性がなかったのだろう。
次に話のポイント、核心的なことに触れず枝葉のこと、周辺の具体的な話がやたら多い。例えば、「いつから台所がつかえるの? 」と聞くと、「来週の月曜から」と答えればすむ話を、手洗い場がこうこうこう、こうなって、キャンセルをして、それはどういうわけで、だれのせいで、オレらは夜中まで家に集まって相談して・・・・」という話になり、さらに、話が飛び階段を支える鉄は一本ではすぐに腐ってしまうのではないか、不安だ、延々と話は続き放っておくと結論はなく、まるで終わりのないバリの音楽を聞くような感じだ。
「それで、台所はいつになったら使えるの?」と聞くとまた別の話をし始める、といった感じである。
次に、一人に質問すると寄ってたかるように三人、四人と口をはさんでくる。それも怒った様子で口をはさんでくるので、一人の言っていることが何か間違ったことを言っているように思える。
「やかまし! オレは今、スリアシと話をしているんだ。」
と思わず言ってしまう。
人によって違うのだろうかと観察していると、確かに無口な人もいるが、その無口なひとでさえ、時に参加してくる。だから一般的にそんな風なのだろう。
次に、漢語ではなく、恐らく昔から使われていた言葉なのだと思うが日本語の動詞と音の意味がよく似た言葉がある。
語る、ストーリーを語る、物語みたいなことをカタとかカタカタというし、気持がたかぶるはタカブルと同様である。日本語という言語がある時期、この辺とも密接につなっがっていた、つまり日本語が積み重なってきた歴史の初期の頃、よく似た言葉を日本人も喋っていたのではないかと思ったりする。それは、着物をはいでいけば腰巻、つまりバリのサルーンが最後に残るというような、どこか根底のところで共通したものがあるという感じなのである。
2000年7月15日
ひそやかに、遠慮がちに
パトリシアが帰る日が来た。彼女は十七日間、メニュー作りとウエイター、ウエイトレスのトレーニング、ヨーロッパテイストのチェックと大活躍。
最後の仕事が終わってパトリシアがあいさつをして、さてみんな二十才以上のバリのスタッフを見ていると、何ていうのだろうか、「世界うるるん滞在記」みたいな感じだ。
しらけた人がいないのが不思議だ。人はみんな貴種流離譯のようになってしまうのだ。他所から来る人はなぜか尊く見えるものだ。
彼女はこの十七日間、彼女が会ったバリの人々を批判することも、非難することも、愚痴をこぼすこともなく、文化・生活習慣の違いというものをしっかり認識して、仕事に入っていた。えてして、「バリ人って・・・・」と、馬鹿にした言い方をする人がいるものだが、この点は、わがスタッフは気持がよい。
彼女が大好きなロングコーヒーもメニューに入れた。素敵なレストランで、美味しい食事をして、ワインを飲む。そして素敵な音楽がかかる、などと最後の夜は、はしゃいでいるように見えたが、そしてシェフやバーキャプテンもひそやかにこれから話が弾むことを期待していたのだったが、ふいの訪問客が僕の部屋のガーデンに来た。
テレビのワイドショーや歌謡番組の何分かのコーナーを請け負って、制作している仕事をしている会社の社長だった。僕らは彼を歓迎しつつも、シェフたちは日本語がわからないから、とたんに遠慮の姿勢となって、パトリシアのお別れ会めいたものはそのまま散会となった。
さて気がかりは、淋しそうに、遠慮がちに帰ったシェフのバワやバーキャプテンのプジャナであった。パトリシアも、しかたなさを感じているものの、心残りであったに違いない。いろいろあった日だった。
気がついたことアラカルテ
五月の下旬にバリに来てから五十日くらいになる。バリ島について新たに発見したことを述べる。
まず、水である。どうしたことか髪の毛が縮れはじめ、髪がパサパサとしてきた。応援スタッフのオーストラリアから来たパトリシアもそうだという。どうやら水のせいではないかということになった。変化は髪の毛だけでない。白いマニキュアが黄色く変化してくる。白いシャツは何度か洗っているうちに黄ばんでくる。
バリ島には、爪を伸ばしている人が多いのだが、男性も女性もその爪が汚れてみえる。実は、汚れているのではない。伸びた爪の裏表が水に攻撃されて、光沢を失い黄ばむのである。これがひとつ。
次に、バリ人には地図が描けない人が多い。ほとんどの人が描けない。逆に言えば地図が読めない。日本では、全ての家が載っている市町村別の地図もあればランドサットによる地図もある。バリ島では警察すらこのような地図をもっていないし、詳しい道路地図もない。
学校で地図を描く練習もないようだから、必要性がなかったのだろう。
次に話のポイント、核心的なことに触れず枝葉のこと、周辺の具体的な話がやたら多い。例えば、「いつから台所がつかえるの? 」と聞くと、「来週の月曜から」と答えればすむ話を、手洗い場がこうこうこう、こうなって、キャンセルをして、それはどういうわけで、だれのせいで、オレらは夜中まで家に集まって相談して・・・・」という話になり、さらに、話が飛び階段を支える鉄は一本ではすぐに腐ってしまうのではないか、不安だ、延々と話は続き放っておくと結論はなく、まるで終わりのないバリの音楽を聞くような感じだ。
「それで、台所はいつになったら使えるの?」と聞くとまた別の話をし始める、といった感じである。
次に、一人に質問すると寄ってたかるように三人、四人と口をはさんでくる。それも怒った様子で口をはさんでくるので、一人の言っていることが何か間違ったことを言っているように思える。
「やかまし! オレは今、スリアシと話をしているんだ。」
と思わず言ってしまう。
人によって違うのだろうかと観察していると、確かに無口な人もいるが、その無口なひとでさえ、時に参加してくる。だから一般的にそんな風なのだろう。
次に、漢語ではなく、恐らく昔から使われていた言葉なのだと思うが日本語の動詞と音の意味がよく似た言葉がある。
語る、ストーリーを語る、物語みたいなことをカタとかカタカタというし、気持がたかぶるはタカブルと同様である。日本語という言語がある時期、この辺とも密接につなっがっていた、つまり日本語が積み重なってきた歴史の初期の頃、よく似た言葉を日本人も喋っていたのではないかと思ったりする。それは、着物をはいでいけば腰巻、つまりバリのサルーンが最後に残るというような、どこか根底のところで共通したものがあるという感じなのである。
2000年7月15日
ひそやかに、遠慮がちに
パトリシアが帰る日が来た。彼女は十七日間、メニュー作りとウエイター、ウエイトレスのトレーニング、ヨーロッパテイストのチェックと大活躍。
最後の仕事が終わってパトリシアがあいさつをして、さてみんな二十才以上のバリのスタッフを見ていると、何ていうのだろうか、「世界うるるん滞在記」みたいな感じだ。
しらけた人がいないのが不思議だ。人はみんな貴種流離譯のようになってしまうのだ。他所から来る人はなぜか尊く見えるものだ。
彼女はこの十七日間、彼女が会ったバリの人々を批判することも、非難することも、愚痴をこぼすこともなく、文化・生活習慣の違いというものをしっかり認識して、仕事に入っていた。えてして、「バリ人って・・・・」と、馬鹿にした言い方をする人がいるものだが、この点は、わがスタッフは気持がよい。
彼女が大好きなロングコーヒーもメニューに入れた。素敵なレストランで、美味しい食事をして、ワインを飲む。そして素敵な音楽がかかる、などと最後の夜は、はしゃいでいるように見えたが、そしてシェフやバーキャプテンもひそやかにこれから話が弾むことを期待していたのだったが、ふいの訪問客が僕の部屋のガーデンに来た。
テレビのワイドショーや歌謡番組の何分かのコーナーを請け負って、制作している仕事をしている会社の社長だった。僕らは彼を歓迎しつつも、シェフたちは日本語がわからないから、とたんに遠慮の姿勢となって、パトリシアのお別れ会めいたものはそのまま散会となった。
さて気がかりは、淋しそうに、遠慮がちに帰ったシェフのバワやバーキャプテンのプジャナであった。パトリシアも、しかたなさを感じているものの、心残りであったに違いない。いろいろあった日だった。
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