橆生さんの優しいオカルトな日々

シュタイナーのオカルト知識を日々に活かし、自分らしい世界の愛し方をいろんな人と一緒に考え合いたい

オカルトの一番最初の直観(幼すぎて理解不能)

2020-07-15 15:47:28 | 自己紹介
今までほとんど書いてないことを書くのは、すごい勇気が必要です。
しばらく止まってたのは、勇気を溜めるため。
運命のように人智学を必要とした最初の、幼い孤立について、
今ならきっと書けると思うし、世界の未来のためだと思っています。


小さなわたしは感じ取れる何かと、ずっと遊び続けていた。
音楽が聞こえると、目の前で線が踊り、色とりどりの光が走った。
それはわたしの胸の中から現れるようで、また音源から生まれるようで、
どこからやってくるのか確かめようと、父親のレコードプレーヤーで
回したり止めたりを繰り返しては怒られていた。


母親が怒ると、お母さんの顔や肩が大きくなったり小さくなったり、
白い何かがお母さんを包んで? いや、お母さんが白く光るのだ。
小さなわたしには母親の小言など耳に入らず、
お母さんの姿が変わっていくのをじっと、興味深く眺めていた。


そんな中で、キリスト教の影響だろうか、わたしは「アク」の姿を見た。
怖いものではない。大人も子どももみんな肩や頭に乗せている、
黒くて赤くて、鈍く光る丸いものだった。
他の見えたり感じたりするものはティンクトゥルーラーだったけど、
それはピグメント。つまり見え方も違っていた。
それが「悪」なのかどうかも、今となっては分からない。
ただわたしはそれを「アク」だと思っていた。


そしてそのことが2つの意味で、わたしの人生に大きな影響を与えた。
小さなわたしは自分の眉間に「アク」があるのを知っていたから。
「アク」が「悪」と結びついて以降、
小さなわたしは自分を「悪い」「男」なのだと思っていた。
6歳のわたしの直観だった。


直観に理屈は通用しない。否定もない。
わたしは不思議な感性と直観を抱えながら生きていくのだけれど、
それは人智学に出会い、導師となれるほどまでに着実な思考を重ね、
より人智学を深め豊かにしていくことの助けとなった。
to be continued・・・・




たなばたの星と戯れ

2020-07-07 10:31:14 | 野に遊び星と語る
今日は七夕ですね。
わたしたちの七夕は古代中国の伝説の「しちせき」ではなく、
また日本の女房文化の中で変化した
棚機姫(タナバタツメ)の物語でもなく、
みんなよく知ってる織り姫と彦星の年に一度の逢瀬の話でもない、
新しい物語が感じられて、今日は耳を澄ませています。
 
センスのある素敵な友達から、
七夕をイメージした星とカササギの折り紙と、
今にピッタリのマスクチャーム。
写真では反射でよく見えないんだけど(^^;)
地上からアマビエさんが短冊に願いをかけて
空を見上げているしおりが届きました。


マスクチャームはわたしの希望を聞いてくださって、
工夫を凝らして何回も作り直してもらって、
すごく可愛いんです!(^^)!
マスクはもうヤダ~!なこの頃ですが、
このチャームをつけると思うと、心が♬るん~ってなります。


届いた可愛いモノたちを七夕の形に並べてみて、
もともと政治戦略の話だったものが恋のお話に変わり、
今は明るい未来を思い描く行事に変わりつつあるのを感じて、
神話は人間がゆっくり時間をかけてメタモルフォーゼさせるんだなと
神々を感動させる能力を持つ人間の存在を思っています。


今日の雨は織り姫と彦星が流した涙と言われてるけど、
日本は今の時期だいたい雨だし、
中国から伝わる悲しい恋の伝説としてではなくて、
日本らしい物語になるように、素敵なイメージを描きたいですね。



「わたしには何もないの」と言う人に読んでほしい!

2020-07-02 20:03:03 | 自己紹介
小さい頃のわたしは、ここに線があって~と、
意味不明なことを話す変な子で、親はすごく心配したらしい。

小さい子だって、自分が感じてることを表現したい。
でも表現するとお母さんが悲しそうな顔をする。
だから表現できなくなってしまう
という人は、けっこうたくさんいると思う。


「わたしには何もないの」と言う人はすごく多いけど、
その人は本当に「何もない」んじゃなくて
小さいときに、大人の心配な表情を読み取ってしまって、
表現するのを止めて、そのまま忘れちゃったの。

でもだからって、それは大人が悪いわけじゃない。


ここ、すごく大事なひと言なんだけど、
今は自己紹介だから、うしろの方でちゃんと書くね。


小さなわたしも表現するのを止めたんだけど、
カトリックの幼稚園に通ってて、毎日お祈りがあるし、
きれいなお御堂に入れてもらえる時間もあって、
そこはわたしが感じる何かが、とてもとてもきれいだった。


卒園しても教会所属のガールスカウトになって、
高校を卒業するまで、ずっと教会に通い続けたからかな? 
表現しなくても忘れずに、そして、
よく分からない何かを感じるのを止めずに済んだ。


大人になって、シュタイナーの著書に出会い、
シュタイナーが創設に力を貸したキリスト教団体とも出会って、
「わたしはキリスト教に護られてきた」と強く感じている。

なのでこのブログには
「キリスト教のこと」というカテゴリーを作った。


大人のわたしにとって、とても大切なことは、
さっき書いた
でもだからって、それは大人が悪いわけじゃない。
ということ。


それはわたしの辛くて苦しい子ども時代を作った
親や学校の先生を許すことであり、コンプレックスの昇華であり、
シュタイナーが語った
「時代の困窮」の認識でもある。


この認識がないから、シュタイナー教育の人たちは
「表現すること」を重視する。
幼少期に表現を止めさせられたことを無意識に知っていて、
自分に何もないのは周囲の大人が悪いのだから、自分は親として、
または教育者として、
子供たちの表現する力をしっかりと伸ばしてやりたいと思ってる。


それは確かに素敵だと思う。
だけどね、たいていのシュタイナー教育の人たち、
「何もない」自分を作った大人を許してないし、屈辱忘れてないし、
自分は悪い大人じゃない、悪い大人になりたくない、
と思って行動してる。


「時代の困窮」の認識なく、たぶん誰も変わることはできない。


だからわたしがシュタイナー教育の世界に足を踏み入れたとき、
わたしの生涯のするべき使命となったのは、
子どものための教育ではなく、
大人が悪いわけじゃない、と大人たちに知ってもらうことだった。
to be continued・・・・