都内散歩 散歩と写真 

散歩で訪れた公園の花、社寺、史跡の写真と記録。
時には庭の花の写真、時にはテーマパークの写真。

京都と西田幾太郎〈3〉 『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著

2014-10-02 19:31:21 | 抜粋
『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎 ”p.322-330
副題 : 西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。

"小見出し” "京都の特質とは" から引用
西田にとっては、学問的研究はほとんど関心の対象ではなく、自らの日常の経験から発して、最後にまたそこへ戻ってくるための手立てを哲学に求めたのです。「日常性の世界というものが、最も直接な具休的な世界である」という西田にとっては、哲学とは、この日常世界の意義をもっとも深く表してくれるものでした。だから「哲学は最も深い常識でなければならない」というのです(「『理想』編集者への手紙」)。
私が西田哲学に関心をもち、西田幾太郎という人物に共鳴するのは、知識というものに対するこのような至極まっとうな態度が根底にあるからなのです。哲学を特権化するわけでもなく、学問研究にはさして関心もなく、しかし、日常の経験を突き詰めてその究極にある普遍的なものを取り出したいという姿勢に共感するのです。知識は、われわれの具体的な日常の生から離れることはできないのです。
とすれば、われわれ日本に暮らす者は、日本という文脈を離れて知識にかかわることはできないでしょう。西洋の知識の輸入商人になり、それを専売特許にして我がもの顔で論じ、何々の専門家と称し、海外からの著名な学者を招くことに精をだし、それで日本の学術水準が上がっただのと思ってしまう今日の風潮とはまったく異なった精神がそこにはあります。(P.328-329)

西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いありません。決して東京では生まれなかったでしょう。
もともと、京都大学は、近代日本の国家建設の宿命を背負って生まれた東京大学とはまったく異なった意義をもっていました。それは東大に次ぐ大学なのではなく、東大とは違った大学だったのです。東大は常に西洋の最先端の学問や技術の導入と日本の近代化という使命と不可分なのに対して、京大は、特に文系の場合、内藤湖南に見られるように、東洋を向き、もっといえば、西洋と東洋を等分に見るというポジシヨンを与えられていたのです。そこへもってきて、京都という土地柄、日本の伝統的なもの、歴史的な為のへの関心が底に流れていたことは疑い得ないでしょう。
それは、最新情報を追うのに多忙で、競争と刺激によって成果を出し続けることを求められる東京とはまったく異なった風土にあったのです。近代がもたらす最先端の情報や目先の問題から距離を置くことこそが京都の特質だったはずです。それを放棄すれば、京都は京都でなくなります。京大が第二の東大を目指した時点ですでに京大は崩壊します。東大は常に西洋的なものの最先端を追い、グローバルな世界を見ているし、またそうでなければ困るのです。だからこそ京大は、それから距離をとらなければならないのです。業績主義、成果主義、商業主義はもともと京大には合わないのです。(P.329)

『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎”  副題(西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。p.328-329)から抜粋 

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京都と西田幾太郎〈2〉 『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著

2014-10-02 19:05:26 | 抜粋
『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎 ”p.322-330
副題 : 西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。

"小見出し” "常に権威は海外に" から引用
 日本の人文社会科学系の学問は基本的に西洋から導入され輸入学問です。だからどうしてもアメリカ、ヨーロッパが「本場」であって、日本の学者はそれを紹介したり、持ち込んだり、「本場」のふんどしで相撲をとらせてもらっているのです。哲学も政治学も経済学も社会学もおおよそこういう傾向を強くもっていました。これは西洋に追いつくことを目標と心得た近代日本の学問の宿命でした。
 最初からこういうバイアスがかかっているのです。日本の人文社会科学は決して自前の言葉で語り、自前の議論をしてきたわけではないのです。常に権威は海外にあったのです。その上で、欧米あたりの著名な学者を呼んできてシンポジウムをやっても、いややればやるほど、「われわれ」の自前の思考が衰弱してゆき、ますます「本場」の亜流になってしまうでしょう。多くの場合、単なる「権威づけ」に終わってしまうのです。しかもこの「権威」を得るために海外からの招待者には大枚が支払われる。このもっともらしい体裁の背後にある「奴隷根性」というべきものこそが大きな問題なのではないでしょうか。
 もちろん、人文社会科学においても、グローバルな共通語や共通の議論はありえます。しかし、討論者はその国の文化や歴史や習俗といった目に見えない背景を背負っています。だから、たとえば「民主政治」といった言葉を使っても、それが内包する意喋は日本やアメリカや欧州や中国やアラブではまったく違うのです。(P.327)
(それぞれの国)の社会的、文化的風土がわかっていないと理解しがたいことなのです。(P.327)

「自然」という言葉にせよ、「自由」や「コミユニティ」や「社会」にせよ、あるいは「神」や「絶対者」にせよ同じことで、これらはそれぞれの国の文化的、歴史的背景から切り離すことができません。(P.328)

「開かれたシンポジウム」などよりも、一人で自己の経験をもとにして、己の内にある深淵を覗き込むことで、その底に普遍的なものを見出そうとした西田の思索です。私には、そのことの方がほるかに意味深いことだと思われるのです。(P.328)

『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎”  副題(西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。p.327-328)から抜粋 
斜体字の部分は私が覚えのメモを挿入しています。
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京都と西田幾太郎 『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著

2014-10-02 10:31:05 | 抜粋
『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎 ”p.322-330
副題 : 西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。

"小見出し”- - 「ちょっと散歩に」"西田心痛の種"から引用
"哲学とはもともと人が生きる「道」をさし示すものだからです。このいい方が少し大げさなら、生きる方法を暗示するものだといってもいいでしょう。(p323)
ソクラテスの哲学について
ソクラテスにとっては、哲学(知を愛すること)とは、人が善く生きるための指針だったのです。それは「誤った思考」から人を救い出し、真理への道を示すものでした。(p323)・・・そのためにソクラテスが取った方法は「人との対話」でした。(p323)
ソクラテスの方法は、広場で公衆を前にして議論するのですから、知識は他人にもわかるように公共的なものでなければなりません。ここに、誰でもわかる「論理」というものがでてきます。(p324)

西洋の哲学は、人との対話によって、いわば知識が前へ前へと進化する方向へと向かうのでしょう。たとえば対話(ダイアローグ)は、やがてヘーゲルのような「弁証法(ディアレクティーク)」になるのです。(p324)

西田の哲学について
これに対して、わが哲学者、西田は、ひたすら歩きながら沈思黙考したのです。自己の内に沈潜し、自己内対話を行っていた西田の哲学は、ひたすら自己と向き合い、自己のうちを反省し、自己の底を覗き込もうとします。その底を突き破って、その果てに普遍的で絶対的なものを見出そうとしたのでした。(p324)

西田がやったのは「散歩」です。歩きながら「考えること」でした。彼が考えることで、そこに「道」ができたのです。西田にとって、哲学とは生きることそのものであり、生という事実に直結した営みだったのです。
「人生問題なくして何処に哲学というものがあろう」と彼は書いています(「プラトンのイデヤの本質」)。自分目身の人生をどのように生きるのか、そして、日常生活に襲いかかってくる悲惨や苦難をどう処遇すればよいのか、こうした人生、あるいは生活上の問題に対して、解決とまではいかなくとも、あるべき方向を模索するための道具が哲学だったのです。善き生のための「道」を求めていたといってよいでしょう。(p323)

西田は、思索することは「学者」になることなどではなく、できれば偉大な「人」に触れることだと思っていたのです。それは生きる「道」にかかわることなのでした。
そこには、ずっと西田の心痛の種であった家族の不幸があり、襲い掛かる苦悩がありました。経験こそがすべてだったのです。それをとことん掘り下げてその底にあるものを取り出そうとしたのです。それを取り出すことが彼の生そのものであり、そこに、西田独自の哲学が生み出されたのでした。(p324)

西洋の哲学と日本の哲学
私は、ここに、広場から始まった西洋の哲学と、道から生まれた日本の哲学の決定的な違いを見たくもなるのです。あるいは対話から始まった西洋的思考と散歩が生み出した日本の思考といってよいかもしれません。
もっとも、それが日本には論理的思考や体系的哲学が生まれなかった理由なのかも知れません。西行にせよ、鴨長明にせよ、青田兼好にせよ、松尾芭蕉にせよ、いかにも「日本」独特の思索者は、旅人だったり、隠遁者だったりします。基本的に自己内対話型なのです。(p324)

『新潮45』 (2014年第6月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第41回 ”京都と西田幾太郎”  副題(西田のような哲学は京都からしか生まれなかったことは間違いない。決して東京では生まれない。p.322-330)から抜粋 
斜体字の部分は私が覚えのメモを挿入しています。

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西田のなかの宗教観  『新潮45』 (2013年第12月号)佐伯啓思著

2014-03-14 07:54:06 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第12月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第35回 ”西田のなかの宗教観”  副題(日本に「個人主義」の観念が根付かないのは何故か。文化の相違として論じられる宗教論を西田はどう見つめたか。) p.324-332 

小見出し”西田の宗教意識”から引用
近代の日本における「個」の自覚と宗教意識の関係を、哲学の主題としてとりあげた人物は西田をおいて他にはない・・・。p.326
 ・・・・・、西田は、別に禅宗や真宗の教義の哲学化を意図しているのではなく、宗教の普遍的構造を哲学の主題にしたということなのです。・・・・・、宗教はまぎれもなく人間の心霊上の事実であって、その事実は哲学的に説明されなければならない、と彼はいうのです。p.327
 結論を先取りしていえば、人間の存在の構造そのものが宗教的だ、と彼はいう。宗教は人間の妄想が生み出した幻影であるどころか、それこそが人間のありようのもっとも深いところに根ざしており、人間にとっては根本的な現象にほかならない、という。なぜなら、人間は、自己とは何かと問い詰める存在であり、そう問うた時、宗教なるものが問題とならざるをえないからです。
・・・
さらに続けて彼はいっています。「人生の悲哀」という事実を人は本当にはつきつめてみていない。ここには自己の矛盾があって、その矛盾をつきつめれば「死の自覚」になる。ここに宗教的意識がある、というのです。
はたしてどういうことを西田はいおうとしているのでしょうか。
 人は誰も自分が死ぬことを知っています。普通、その意味は、人間も生物的な存在なので、あらゆる生物と同様に私も死ぬことがわかっている、ということです。つまり、頭でわかっているのです。理性でわかっているのです。p.327
 だから、われわれが「死」というものを自覚するのは、・・・・。それは、個体として、生命体として、いまここにいる「私」が全面的に消滅し、なくなってしまう、というおぞましい、あるいはとてつもなく恐ろしい意識にとらわれることなのです。どうにもならない圧倒的な何かによって「私」は消滅させられるのです。「私」というものが全面的に否定される。否定されることによって、「私」は「無」へ投げ込まれるのです。p.327

小見出し”「永遠の死」”から引用
 こうして「死」は永遠の「無」へわれわれを投げ込む。そして「無」は無限であり、永遠です。だから「死」はそれ自体が永遠だともいえるでしょう。「永遠の死」といってもよい。より正確にいえば、「死」によって、われわれは「無」という永遠のものに触れるのです。このとき、「無」という無限の前で、「私」はようやく自分を死すべき存在であることを知ることができる。
・・・・、「私」という「個」の消滅は、「永遠なるもの」という「絶対なるもの」(絶対者)の前において初めて理解されることになる。
 しかも、「私」という生命ある個体は、この「絶対的なもの」によってその生命をバッサリと否定されてしまうのです。「死」という絶対的なものによって、私という生命体は完全に否定される。p.326

「永遠なるもの」「無限なるもの」すなわち「絶対なるもの」(絶対者)が存在することによって初めて「私」は死すべきものとして自己を意識することになる。しかもそれはほかならぬこの私であって、「私」という「個体」の身の上の事実にほかなりません。・・・・
こうして、ほかならぬ私という「個」は、死すべきものとして初めて意識される。「私」は、「絶対なるもの」の前で死ぬものとしてようやく生きた「個」として自分を自覚することになるのです。絶対者がなければ、「個」という死すべきものもないのです。p.326
そして、「自己の永遠の死を知るもののみが、真に自己の個たることを知る」のであり、「それのみが真の個である、真の人格である」というのです。p.326

・・・・われわれが、自己を自己として意識するのは、「死」というものによって、自己をまずは全面的に否定されることによってなのです。
 もちろん、文字通りに死んでしまえば何の意味もありません。だからこれは、死の自覚において、絶対的な「無」の前で、自己という「有」を一度はすべて捨て去る、ということにほかならないでしょぅ。この矛盾したあり方においてのみ、「個」というものが自覚される。・・・・・、死がもたらす永遠の無を知れば、「私」などは実にちっぽけなほとんど偶然に生をつむいでいるささやかな存在である、と自覚されるということです。
そのとき、「永遠の死」は、実は、私自身の「内」にある。「永遠の無」も外にあるのではなく、われわれの内にある。われわれは、われわれの心の底に、すでに、われわれの存在をいっきょに否定する「無」という絶対的なものをもっているのです。
だから、「個」の自覚は、わが内なる「永遠の無」に向き合い、私を否定する絶対者の自覚によって生み出されることになるのです。p.328-9

自己を自覚するということは、絶対矛盾だという。それは次のようなことです
 自己が死すべきものである、つまり、自分が永遠の死へ向けた存在であるということを知っているということは、永遠の死を超えた意識がそこにある、ということになります。そしてそれは絶対者の意識にほかならない。
とすれば、自己の奥底には自己を超えた絶対者がある、ということになる。自己の内に、自己を否定する絶対者があるのですから、これはどうしようもない矛盾だ。しかし、その矛盾がなければ自己という自覚はありえない、といっているのです。
・・・・ちっぽけで塵芥のごとき自己は、あるいは親しい人は、かけがえのない、一回限りの、まさに今そこにいる「個」として自覚されるのではないでしょうか。つまり「人格」として意識されるのです。ということは、われわれは、永遠の死(無)という絶対者によって、一度は、自己を否定されて初めて「人格」的な「個」という自覚をもつことになるのです。
 しかも、この絶対者はあくまで自己の「底」にある。こうして、自己の根源を覗き込み、そこにある矛盾に到り、その底にある絶対的なものに触れることこそが宗教的な意識なのです。「自己が自己の根源に徹することが、宗教的入信である」と西田はいう。この根源にある矛盾を自覚し、絶対的なものにおいてしか自己というものはあり得ない、と知ること。それこそが宗教だという。それを西田は「廻心」というのです。p.329-330

小見出し”悪魔的世界”から引用
 西田は次のようにいうのです。絶対的なものが、自らを否定することによって相対的なものが成り立つ。また、相対的なものが自らを否定することによって絶対が現れる。絶対的なものと相対的なものは、それぞれ、自らを否定することによって、他方へと現れるのです。これを西田は「逆対応」という。
 ここまでくれば「絶対的なもの」とか「相対的なもの」という抽象的ないい方をする必要はもうないでしょう。いうまでもなく、「絶対的なもの」とは「神」といってよい。「相対的なもの」は「人」です。「神」は、自己否定として「人」において現れ、「人」は、自己否定することで「神」に接するのです。「神」と「人」は、それぞれ、自らを否定することで、逆接的に相互に接しているのです。p.330

 とはいえ、キリスト教の「神」と仏教的な「無」はやはり違っている。そして、実は、ここに日本の「無の思想」の本質があるのではないでしょうか。
 先に、「絶対的なもの」と「相対的なもの」をそのまま対比させれば、「絶対的なもの」まで相対的になってしまい、絶対的ではなくなる、といいました。その場合、もしも、「絶対的なもの」が実体をもった存在であれば、どうしてもそれは相対的になってしまうでしょう。だから、「絶対的なもの」は、本質的に実休をもたないのです。つまり「無」であるほかないのです。絶対者とは、本質的に「無」になる。永遠の死であり、永遠の無ということになる。しかし、西洋の宗教は、そこに「神」という全能の絶対者をもってきました。日本では、それは「無」というはかないのです。いや、「神」といえども、その本質は「無」ということになるのです。p.331

・・・・・・われわれの根底には、死の背後に広がる無限の「無」という意識があるのではないでしょうか。その「無」の前では、われわれの自己などというものへの執着は取るに足りません。また、絶対者の自己否定であるこの世が、ともすれば悪と苦に満ちた穢土(エド)であることを自覚すれば、われわれは、自らの心の底に「絶対者からの呼びかけ」を聞くことができるのかもしれません。それはやはり「良心」というべきものなのです。西洋では、呼びかける絶対者は「神」でした。日本では、それは漠然と「無」と意識されるものなのです。そして、西田は、いわば論理的にいって「無」の方が、より根源的だと見ているのです。p.332

『新潮45』 (2013年第12月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第35回 ”西田のなかの宗教観”  副題(日本に「個人主義」の観念が根付かないのは何故か。文化の相違として論じられる宗教論を西田はどう見つめたか。)からすべて抜粋 p.324-332 
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『反・自由貿易論』 1 中野剛志著

2014-02-02 16:49:28 | 抜粋
中野剛志著 『反・自由貿易論』 抜粋:第一章から第二章 新潮新書526  2013-6-20:発行

序章 これが「自由貿易協定」の正体だ---オーストラリアの悲劇
小見出し:自由貿易協定の変容p.13
米豪FTAの例は、次のような重要な教訓を示しています。
米豪FTAが締結されたのは2004年2月4月、発効は2005年1月ですが、その結果は、オーストラリアにとって散々なものでした。p.11
・・・・オーストラリアにとって相当不利な結末を迎えたのです。
・・・・その一端を見てみましょう。
まず、アメリカの要求どおり、オーストラリアが輸入品にかけてきた関税や障壁は、ほとんど撤廃されました。
一方で、オーストラリアも、アメリカにかけられる輸入制限の解除を望んでいましたが、特に期待の高かった砂糖の輸入制限は変わらず、牛肉や乳製品の輸入制限についても僅かな見直しが段階的に行われただけでした。
結果として、米豪FTA発効後、オーストラリアの対米貿易赤字は毎年拡大しています。米豪FTAによって,オーストラリよりアメリカの方が輸出を伸ばしたのです。p.11

この米豪FTAの例は、次のような重要な教訓を示しています。
ひとつは、今日のいわゆる『自由貿易協定」なるものは、「工業製品や農業製品の関税を引き下げる」などという古典的な自由貿易のイメージとはかなり異質なものになっているということです。
そして、もう一つの教訓は、自由貿易協定は国同士の合意に基づくものであるにもかかわらず、「一方の国が圧倒的に有利になる」ということです
「戦後の世界経済、とりわけ日本経済は、この自由貿易の恩恵によって成長した」・・・・・というのが常識になっていました。
ところが、現代の自由貿易協定はその質を変えつつあります。各国の国民生活のあり方を大きく左右しかねない国内制度についても、大きな変更を迫るものとなっているのです。
FTAの交渉の対象となるのは、牛肉や自動車のような物品だけでなく、医療や知的財産権のような「サービス」であり、単に関税の引き下げだけでなく「国内独自の制度や慣行(非関税障壁)}にまで介入し、改革を求めるものなのです。
さらに問題なのは、米豪FTAにおけるアメリカのように、強い力を持つ国がほぼ一方的に有利な方向で変更を行うということです。p.13-14

第一章  自由貿易は好ましい」は本当か---主流派経済学の狂信p.21
小見出し:経済効果の算定という詐術p.30
貿易自由化の利益を推定するうえで最もよく用いられる分析が「応用一般均衡モデル」というものです。
しかし、この経済モデルは、主に「完全競争」の状態を前提としているため、現実の経済とは著しく乖離したモデルであり、数多くの限界や欠陥が指摘されている。
中でも最大の欠陥は、・・・・「生産要素は国内の産業間を自由にかつ調整費用なく移動できる」と想定されていることです。p.30
経済効果のまやかしp.31
・・応用一般均衡モデルは、失業者の発生や産業構造の変化によるコストを認めていません。そのため農業への打撃によって失業した農家がいても、すぐに別の産業に転職するという非現実的な想定を置いています。村の荒廃による地域社会の衰退や環境破壊といった社会的費用も考慮されていません

たとえば、日本の林業は、1964年の木材の貿易自由化によって、25%の関税が全廃され、90%あった木材の自給率は20%以下となりました。林業は衰退し、産業を失った山村では過疎化が進みました。それだけでなく日本の国土の約7割を占める山林は荒廃が深刻化し、土砂崩れや花粉症など全国的な被害を引き起こしました。
たしかに関税撤廃により、安価な木材の輸入による経済効果はあったでしょう。しかし林業の雇用喪失、共同体の崩壊、環境破壊あるいは健康被害といったコストを差し引くいたら、本当に割の合うものだったのか、よく検証すべきでしょう。自由貿易の経済効果を推計する経済モデルはこうした社会的費用を含む多面的な効果を勘定に入れていないからです。p.32

   
小見出し:市場はなかなか均衡しないp.33
応用一般均衡モデルによる試算のもう一つの大きな欠陥は、市場メカニズムの働きによって「需要と供給は常に一致する」と想定していることです。p.33
たとえば、近年、小麦、トウモトコシ、大豆といった穀物の価格が高騰しています。しかし、需要が急増し、価格が高騰しても、農家はそれに合わせてすぐに作付面積を拡大し、穀物を増産することはできません。p.33・・・・・
このため穀物需要が拡大し、価格が上昇すると、そのまま価格が下がらず「高止まり」が続きがちです。p.33-34
需要と供給が一致しないのは農林業だけではありません。・・・東日本大震災からの復興事業により、セメントや鉄鋼・・・・の需要が急増し建材の価格や人件費が高騰しています。しかし、現実として、セメント会社や鉄鋼会社は、増えた需要に合わせた増産はできていません。増産のためには巨額の設備投資が必要になりますが、・・・・決断できなし将来、復興がひと段落したら、増強した設備は過剰になってしまう・・・・からです。p.34

小見出し:戦後の経済成長を促したものp.35

一般的に、「戦後の世界経済は、自由貿易体制によって成長を遂げた」と考えられています。・・・・
しかし、だからと言って、自由貿易による貿易の拡大が経済成長を促したとは限りません。というのも経済成長の方が貿易の拡大を促した可能性もあるからです。つまり、経済成長と貿易の拡大の、どちらが原因でどちらが結果なのかをはっきりさせなければならないのです。p.35-36

歴史的に見ても、十九世紀の欧米は保護主義でありながら経済発展を遂げ、特に最も保護主義的であった時期に貿易が拡大しています。p.37

「金融グローバル化」が引き起こす危機p.39
海外取引の規制を撤廃し、国際的な金融取引を推し進めようとする「金融市場のグローバル化」・・・・。これも自由貿易以上にその意義が疑われています。むしろ金融危機を引き起こす原因であり、経済や社会を不安定化させるものであることが強く懸念されています。p.39

小見出し:アメリカ経済学の変節p.41
・・・グローバル化に対する懐疑が広まっています。この流れは、2008年のリーマンショックによって、さらに決定的となりました。p41
これまでグローバル化のロジックを支えてきたのは、アメリカの経済学でした。・・・ところが、今では、そのアメリカの経済学者たちの間でグロ‐バル化の信念が大きく揺らいでいるのです。それにもかかわらず、アメリカ政府は、現在もなお、グローバル化を進めようとしています。TPPはその典型と言えるでしょう。p.41
「国際的な資本移動の自由化の行き過ぎが、リーマンショックをもたらしたのであり、今後は世界各国が協力してグローバル化を適切に制御することが必要である」(ジョセフ・スティグリッツ)p.42

「自由貿易というのは、非関税分野に関する利益集団の利己的な要望に突き動かさされて、地域ブロック化を進めるものに過ぎない。(ジャグディシュ・バグワティ)p42
TPPなど近年の貿易協定に関して「ビジネス界の要求が社会のより広範囲な利益と一致するとは必ずしも限らない」(サイモン・レスター)p.42

第二章 「自由貿易英国主義」が世界を分断した---近代経済学の虚実p.45

経済学が自由貿易を信奉し、強固な理論でこれを推進してきたのは、「自由貿易によって今日の経済発展がある」という歴史の裏打ちがあるからだと考えられます。・・・この「歴史」は。果たして真実なのでしょうか。p.43

小見出し:帝国主義的な争奪戦の過ちp.46
不況に陥った現在・・・・自国の不況から脱出するために、経済圏を拡大し、世界市場の争奪戦に乗り出しています。しかもそれが「自由貿易」の名のもとに行われているのです。p.48

小見出し:イギリスが蹴り外したはしごp.51
「イギリスは自国の産業を保護・育成し、経済大国の地位を確保した上で、後進のドイツに自由貿易のイデオロギーを吹き込んで、その経済発展を妨げようとしている」(フリードリッヒ・リスト)p.53
「第一に、イギリスは自国が工業化を成しとげてから貿易の自由化を進めた。第二に、イギリスは国内産業に対して自由放任ではなく国家による介入を行っていた。そして最後に、貿易の自由化は時間をかけてゆっくりと進められた」(ハジュン・チャン)p.53
イギリスは自由放任や自由貿易によって繁栄したのではなく、保護貿易と産業政策というはしごを上がって経済大国の地位に上り詰めたのでした。p.54

小見出し:「自由貿易の守護神」アメリカの幻想p55
アメリカは伝統的に「自由貿易の国」であるというイメージが日本人につきまとっています。p.54
ところが実際には、1776年の建国から1945年の第二次世界大戦終結まで、基本的には、「世界で最も保護主義的な国」だったのです。p55
アメリカは、アレキサンダー・ハミルトンや彼の後継者たちの提唱した保護主義(建国されたばかりのアメリカでは、政府の支援なしには工業化することは不可能である)に従って、工業化と経済発展を進めていきました。p.55

小見出し:関税の是非を南北戦争で争うp.56
保護主義は、当時のアメリカの総意ではありませんでした。北部は工業が発展しつつあったため、高関税による保護を歓迎しましたが、綿花やたばこのの輸出で潤っていた農業地帯の南部は自由貿易を志向していました。このため
,アメリカは、保護主義の是非を巡って、南北で対立したのです。p.56
南北戦争で北軍が勝利すると、関税率は一挙に引き上げられました。p.57

アメリカは、世界恐慌時に突然保護主義に傾斜したのではなく、建国以来、基本的に「最も保護主義的な国」だったのです。p.57
そのそも、保護主義こそが、アメリカの建国以来の基本精神なのです。アメリカが「自由貿易の国」などというのは神話に過ぎません。p.57

小見出し:ヨーロッパは保護主義で発展したp.61
前述のとおり、イギリスは19世紀の半ばまで保護主義的であり、その間に産業革命を成し遂げ、経済大国の地位を勝ち得てから、自由貿易体制に移行しました。アメリカにいたっては、建国以来一貫して最も保護主義的な国です。その他の大陸ヨーロッパの諸国も多かれ少なかれ保護主義的で、国家の介入によって産業の育成や社会の保護を実施しており、他方、自由貿易・自由放任路線を歩んだフランスは、経済発展が遅れました。p.61

中野剛志著 『反・自由貿易論』 抜粋:第一章から第三章 新潮新書526  2013-6-20:発行
序章、第一章、第21章、p.9-68 の抜粋
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西田哲学「純粋経験」ということ 『新潮45』 (2013年第8月号)佐伯啓思著

2014-01-23 19:51:00 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第8月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第31回 ”西田哲学「純粋経験」ということ ”p.326-334

小見出し”かくて「私」は存在する”から引用 (太字はブログ管理人が作成)
桜の花が一気に満開になっています。美しさにアッと息をのみます。少しして「なんと美しい花だ」といいます。p.326
「なんと美しい花だ」という時には,「この花は美しい」という事実がいわば対象化されています。・・・・「私」が「美し花」を「見た」のです。これは認識であって、経験ではありません。p.328

しかし、花を見た一瞬、アッと息をのんだ時、私はある経験をしています。しかし、この時には、「私はいま桜を見ている」ということさえもできません。「きれいな桜だな」などと考えたりもしません。そんな明瞭なな認識はないのです。この一瞬には言葉もでてこないのです。ただ経験があるのみです。そこには、「私」もなければ、対象化された「桜」もありません。いわば両者が融したような経験だけがあるのです。
西田は、こうした経験を純粋経験と呼んだのですが、それは、「私」という主体と「桜」という客体が区別される以前のもので、「私」というものは、あとからその経験を振り返ってでてくる。p.328

純粋経験こそが本質(実在)だとする西田の観点に立てば、「私」という「主体」は後付けで反省的に打ち出されるもので、純粋経験のうちにはない。・・・
むしろ、この強烈な経験があるからこそ、そこから「私」は押し出され来たというきでしょう。「私」が「経験」するのではなく、「経験」が「私」を生みだすのです。経験があるからこそ、それを反省的に理解して、そこに「私」がでてくるわけです。「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人ある「(『善の研究』)というわけです。p.331
そこで、もしも・・桜を見て息をのんだ瞬間に戻ろうとすれば、「私」というものを消し去らねばなりません。「私」を無化しなければなりません。少なくとも「私」が「私」がといっている間は、「私」と「桜」が一体となっており、息をのむいきをのむという感動だけが漂うというあの瞬間を想定することも難しいでしょう。まずは、「私」は無であるとしなければなりません。p331
桜に感動した時、われわれは「あまりの美しさに、我を忘れた」などといいます。しかし、「我」が確かにあって、たまたま「我」の意識がぶっとんだというわけではない。逆なのです。あの瞬間を反省した時に「我」がでてきたのです。あの瞬間には、「我」にあたる部分は「無」なのです。そして、この「無」があるからこそ、その後で、反省的に「私」が立てられることになる。だから「私は、私でなくして、私である」というようなことになる。p331

小見出し”西田の悲しみ”から引用 
 しかし、日本の思想には、どこか、「私」を消し去り、無化してゆく方向が色濃くただよっています。「主体」というものを打ちださないのです。これは、一言語的にいえば、日本語では、しばしば主語を省略したり、主語を重視しないという点にもあらわれてくるでしょう。和歌や俳句でも通常、主語はありません。一場の情景と、その場に溶け込んだ読み手の感情が一体化して切り詰められた言葉に乗せられるのです。むしろ、私を消し去ったところに、自然と一体となったある情感や真実が享受されると考える。p.332
「私」の思想や「私」の思いや「私」の経験を強く訴えるという散文はもともと日本人の得意とするところではなく、それは西洋的なものといってよい。
 しかしまた、西田の「純粋経験」という考え方は、一方できわめて日本的であると同時に、実は、本当は西洋思想の根底にもあるはずだ、ということになる。西田は、これを「根本的実在」と考えており、別に日本人にしか理解できない、などといっているわけではまったくありません。すべての認識のもっとも深いところにあるものなのです。p.332

前回も書きましたが、西田は、8人の子どものうち5人までを失っています。これはまだ妻と死別する前ですが、大学のある同僚(朝永三十郎) にあてた手紙のなかでこんなことを書いています。
「余の妻よりよき妻は多かるべく、余の友よりよき友は多かるべし。しかし余の妻は余の妻にして、余の友は余の友なり。」p.332-3
 そうだとすれば、妻子の死に直画した西田の悲しみは、まさに西田の悲しみであって、世に子どもを失った親はあまたある、という話ではありません。悲しみという経験は、それがたとえどれほどちっぽけでささいでつまらないものであっても、他人に代わってもらうこともできません。他人の悲しと比較することもできません。それは個人の実存にかかわる経験なのです。そこにどうしようもない、「個」というものがでてくる。抽象的な「私」ではなく「個」なのです。「経験」という場におい「個」が意識され、たちあげられるのです。桜の美しさに感動するというような経験も、究極のところ、言葉で表現して他人に伝えられるものでもありませんが、おそらくは、悲しみの感情は、それ以上に「個」というものをいやおうなく屹立させるものなのです。とりわけどうしようもなく理不尽な経験をした場合、私たちは、つい「どうして自分がこんな目にあうのか」と思ってしまう。「なぜ自分なのか」と自らを責めてみたり、運命を呪ってみたくなります。平安時代の日本人は、そこに怨霊のような大智を超えた超自然的原因を想像することができたのですが、今日のわれわれは、肉親の死を怨霊のせいだというわけにはいきません。この理不尽さの前に1人で立ち尽くすほかないのです。p.333
 しかしまた、実は、「なぜ自分がこんな目にあうのか」といった時には、もうそれは本当の経験ではなくなっている。チャイコフスキーが「悲愴父響曲」というの絶望的な曲を書いた時には、彼は絶望そのもののなかにいるのでない。絶望を曲にする「私」がそこにいる。本当に絶望という経験そのもののなかにいる時には、作曲などできないでしょう。そして身内を失った苦痛を訴える時、そこには「自分」がたちあらわれ、やがてそれは「私」になり、反省的に振り返り、説明を求めてくるのです。ここにある程度、経験を客観化した「私」がでてくる。
 しかし、その場合、デカルトのように、経験などよりも前に最初から「私」があり、しかも一貫して変わらぬ「私」がまずある、とすれば、この「私」を消し去ることなどできないでしよう。「私」は常に、経験を捉え返し、それがどうして生じたのかを考えるほかない。巨大地震がやってきて一瞬にして家が流され、身内が死ぬ。この筆舌に尽くしがたい苦しみを事実として捉え返し、ではどうすればよいか、と考える。この事態を引き起こした原因はどこにあるのか、地震を引き起こすメカニズムは何なのか、という方向にゆくでしょう。p.333
 しかし西田的にいえば、苦痛のなかから「どうして私はこんな目にあうのか」と思った時、その経験を通して初めて「私」がでてくるのです。そしてもしも「私」が、このとてつもない経験によってでてきてしまったのだとすれば、その「私」は無化することができるはずです。完全に「無」へと戻すことはできないにしても、できるだけ「自我」を抑えることはできるのです。いや、その方向へと働く意識があるのではないでしょうか。前号でも引用しましたが、西田は「我が子の死」と題するエッセイのなかで次のように述べていました。「後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。・・・深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時……」。p.333
「いったいどうしてなのだ」という時には、すでに自我がのさばっている。「ああすればよかった」と後悔する時にも、すでに自分をかいかぶっているのです。
 その「自我」を捨てなければならない。「無」の方へ押しやらなければならない。そして、この「無」こそが本当に「私」がいる場所なのです。喜びであれ、驚きであれ、悲しみであれ、純粋経験の方が、根本的実在なのであって、「私」などというものは「根本的」には存在しない、あるのは、ただ様々な経験だけだ、というのです。p.334

「私」も、対象化された「桜」もなく、いわば両者が融したような経験だけがある・・こうした経験を純粋経験と呼んだ。それは、「私」という主体と「桜」という客体が区別される以前のもので、「私」というものは、あとからその経験を振り返ってでてくる。
あの瞬間には、「我」にあたる部分は「無」なのです。そして、この「無」があるからこそ、その後で、反省的に「私」が立てられることになる。だから「私は、私でなくして、私である」というようなことになる。
苦痛のなかから「どうして私はこんな目にあうのか」と思った時、その経験を通して初めて「私」がでてくるのです。そしてもしも「私」が、このとてつもない経験によってでてきてしまったのだとすれば、その「私」は無化することができるはずです。
「いったいどうしてなのだ」という時には、すでに自我がのさばっている。「ああすればよかった」と後悔する時にも、すでに自分をかいかぶっているのです。その「自我」を捨てなければならない。「無」の方へ押しやらなければならない。そして、この「無」こそが本当に「私」がいる場所なのです。喜びであれ、驚きであれ、悲しみであれ、純粋経験の方が、根本的実在なのであって、「私」などというものは「根本的」には存在しない、あるのは、ただ様々な経験だけだ。
 


佐伯啓思著 第31回「反・幸福論」.『新潮45』 (2013年第8月号) p.326-334



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日本人にとって憲法とは何なのか 『新潮45』8月号 

2014-01-22 08:51:51 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第8月号)佐伯啓思著. ”特集 私の憲法論 日本人にとって憲法とは何なのか” p.36-39 
小見出し”この論理の奇妙さ”から引用

憲法とは、国民の総意に基づく根本規範なのだ。ところが、すべての人が合意して自らを縛り付ける最高の規範を作りだすとはいったいどうゆうことなのか、それがよくわからない。p.36

「最高の規範」と、それを作り出す「自らの意思」のどちらが上位にくるのか、ということだ。「最高の規範」とはそれを超える規範は存在しないことを示している。ところが、規範も意思の表明である限るこの規範を生みだす意志(国民の意志)は、論理上、憲法よりも上位に来るはずであろう。p.36

この矛盾は、もう少し憲法の条項に即していえば次のようになる。たとえば、憲法の前文には「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とあり、第41条に「国会は、国権の最高の機関であって・・・」とある。p.36

しかし、考えてみれば奇妙なもので、この場合、国民主権は憲法によって保障されているのである。そして「主権」とは最高の意思である。最高の意志の発動は国会においてなされる。ではもしも国会が憲法を超える意思決定をすればどうなるか。p.37

近代憲法では、「国民主権=民主主義の原理」と「基本的人権の保障」を二つの支柱としている。特に、近代憲法として「近代」が強調される場合には、普遍的権利としての基本的人権保障が強調される。つまり、国家権力から人権を守る、というのである。
こうなると、・・・誰もがこの論理の奇妙さに思いいたるであろう。一方で国民主権(民主主義)を唱え、他方で人権によって主権を制限するというのである。近代民主国家では、国家権力を動かすものは、究極的には主権者である国民なのである。とすれば、人権保障による国家権力の制限とは、国民主権(民主主義)の制限を意味することになる。それでは主権の意味はどこにあるのか。主権(民主主義)などといいながら、それは憲法(人権)によって最初から制限されていることになる。p.37

どうしてこんなおかしなことになるのか。それは、近代憲法が、実は歴史的に「革命」の産物だからである。近代憲法の嚆矢はフランス革命にあるとされるが、それはまさしく市民革命の産物であった。フランス革命によって旧体制を崩壊させ、革命によって新政府を生み出した。新政府を創出したのは第三身分としての「市民」であり、そこで「市民」が、彼らの支配体制の正当化を図るために生み出したのが憲法である。
したがって、そこに当然、人民主権の原理が書かれ、同時に、革命の正当性を与えるために「自然権としての基本的人権保障」が謳われることになる。基本的人権保障は絶対王政への批判であり、人民主権(民主主義)は新政府の正当化原理であった。p.37

絶対主義への批判において、人民主義と基本的人権保障は矛盾しないのである。両者は一致する。しかし、絶対主義が打ち倒され、人民が主権者となった近代社会では、・・・「国民主権(民主主義)」と「基本的人権保障」の二つの支柱を内包する近代憲法は、その内部に矛盾を抱え込むことになる。
繰り返すが、この矛盾は、近代憲法が市民革命の産物であるために生み出されたのであった。「革命」とは、旧体制を破壊した市民による権力の奪取である。一時的な無政府状態が生じ、この無秩序の中から市民は新たな政府を構成する。その新たな権力の正当化が近代憲法であった。
だから近代憲法は、一方で権力の抑制(権力の批判)を行い、他方では権力の正当化を行うのである。端的に言えば、市民階級は、みずからの権力を改めて憲法によって正当化しようとしたのである。p.38

小見出し”「護憲」でも「改憲」でもなく”から引用
そもそも革命を経験していない国で近代憲法をもつことが可能なのか、という問いである。p.39

日本では歴史の大きな断絶がなく、国の秩序の根本において断絶がない。これは福沢諭吉も述べるように、政治権力の形式上の正当性が天皇という権威によって与えられてきたからだ。変形された君主制とみてよいであろう。そのような国においては、近代憲法はそのままでは創設されえないのである。p.39

本質的なことをいえば、政治権力の革命的な断絶をもたない国では近代憲法をもつことはたいへんに難しいのである。しかしそのことはまた近代憲法のあの矛盾に悩まされる必要もない、ということである。
憲法(コンスティチューション)とは、まさしく「国のかたち」、もっといえば「国体」という意味である。日本の憲法は、もしそれがあるとすれば、日本の「国のかたち」を記すものであろう。それは、歴史的にもたらされたもの、積み重ねられたもの、新たに加えられたもの、の集積である。このような次元まで立ち入って、「われわれにとっての憲法」を改めて創出することには意義があるだろう。p.39

『新潮45』2013年8月号 特集私の憲法論 日本人にとって憲法とは何なのか p.36-39
近代憲法は革命の産物である。日本には革命的な断絶の歴史はない。国体・国のかたちを記すことで憲法を創出することはできる。そこに記されるのは「歴史的にもたらされたもの、積み重ねられたもの、新たに加えられたもの、の集積である」。



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「日本経済 戦後の夢を明日に」  伊東光晴

2013-12-24 11:47:06 | 抜粋

伊東光晴 「日本経済 戦後の夢を明日に」 『これからどうする ― 未来のつくり方』p262-264に収録の論文 岩波書店 2013:発行


第二次大戦後、日本人の多くは三つの夢をもった。何よりも平和、それは憲法となった。そして豊かさ。さらに一人だけの豊かさではなく、誰でもが安心して生きることのできる福祉社会。一九六〇年代の高い経済成長とそれに続く七〇年代の中で、日本は少しずつ所得格差縮少への道をたどった。所得の平等化を測るジニ係数がそれを示している。 


戦後日本の成長と平等化の同時進行がおかしくなるのが、英米日で規制緩和と市場優位の政策が登場した八〇年代である。不平等と経済格差が大きくなり、さらに二〇〇一年からの小泉政権による労働政策の転換によって、被雇用者の三〇%が非正規になってしまった。

今、取り組むべき経済政策の第一は、この若者が直面している反福祉社会をただすことである

私はかねて、日本の年金の水準は高すぎこれを推持したまま、福祉社会に向うのは難しいと思っていた。賃金も年金も、夫が働いて妻は家庭でという形にそって制度が作られていた。だがやがて夫婦が共に働き、共に年金を得るという形になろう。

今は過渡期である 問題を国際関係に移そう。まず為替レートを正常値にもどすことが必要である。そのために投機資金の流入を抑える「外国為替取引税」を導入する。これはケインズの考えからヒントをえて、エール大学のトービンが〇・〇二%の課税を提唱したものである。同一資金が頻繁に為替の売買をする投機資金にはこの税が累積するため、この導入を日本がきめた段階で投機資金は日本を去り、円は正常値にもどるだろう。これで日本のものづくりは活気をとりもどす。アメリカの投資銀行、ファンド等がおし進めているグローバリゼーションの弊害もとり除かれる

ガットは、世界の国々の制度、文化、慣習は多様であり、それと矛盾しない貿易ルールとして「内国民待遇」を基本とした。・・・・互いに自国の人、もの、企業に与える自由を、他国の人、もの、企業にも与えるというものである。俗に「自由化」というのがこれである。と同時に、自然的条件が大きく異なる農業と、制度が異なるサービス部門を自由貿易の横においた。  

だがアメリカは、一九八〇年代なかばごろから、これを「相互主義」にかえだし、貿易の主戦場を農産物とサービス部門に移しだした。アメリカの制度その他を他国に要求するというものである。日米構造協議がその一例で、二国間交渉が行なわれた。二国間交渉では強者の論理が発動されやすく、・・・・ブロック経済となり、・・・・、第二次大戟の原因になった・・・・。

 他方、アメリカが進める環太平洋経済連携協定(TPP)は、農業・サービス業の分野で強者の要求を通そうとするものであり、ガットの理想に反するものである。・・・・日本は互恵の「経済連携協定」を二国間で締結し続けてきた。・・・・・・。これをおし進めると同時に、ガットの精神の再構築を目ざすべきであろう。
(岩波書店編集部編 『これからどうする ―未来のつくり方』 p262-264 伊東光晴「日本経済 戦後の夢を明日に」     岩波書店 2013:発行。

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西田哲学「絶対無の場所」 『新潮45』9月号 

2013-12-20 20:31:45 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第9月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第32回 ”西田哲学「絶対無の場所」” p.324-332 

小見出し”決して「慟哭せぬもの」”から引用
いつも意識されるわけではないにせよ、あれやこれやの経験に先立って確かに「私」がおり、その「私」があれやこれやの出来事をひとつの「経験」として理解したり解釈したりする。
特に西洋思想ではそのような不動の「私」を経験に先立って打ち立てて、それを「超越的自我」だとか「先験的自我」と呼びました。・・ここでは、具体的経験に先立って「私」があり、その「私」が経験において喜んだり悲しんだり苦しんだりするのです。
別の考え方ができないのでしょうか。p325

小見出し”「場に過ぎない」”から引用
「サエキ」とい特殊なものが日本人という、より一般的なものにおいて存在している、と。「さえき」なるものは「気難しい人」と言うより一般的なカテゴリーの上で存在している、ということです。もう少しわかりやすくいうと、「サエキ」は京都在住である。「京都人」は、より一般的なカテゴリーである「日本人」に包括される。したがって、当然、「サエキ」は日本人であります。そして「日本人」はより一般的な「人間」に包括される。
これは言い換えれば、「人間」のなかで「日本人」が限定され、さらに「日本人」のなかで「京都人」が限定され、「京都人」の中で「サエキ」がが限定される。つまり主語はより一般的なものにおいてう存在、一般的なものによって限定される、ということです。述語はより一般的なものとして主語を限定するのです。
たとえば「ニシダは京都に住んだ誠実で優秀な日本の哲学者である」という命題があったとします。
それは一方では「誠実」や「優秀」や「日本」や「哲学者」などという一般的な属性によってニシダを定義しているのですが、別の見方をすれば、多様な一般的な概念をあれやこれやと限定して「ニシダ」という特殊な存在を導いているのです。
当然ニシダはかず「人間」です。その「人間」と言う一般的なものを「日本人」と限定し、さらに「京都」によって限定し、「哲学者」によって限定し、その「哲学者」をさらに「優秀」によって限定し、それをさらに「誠実」によって限定しているのです。こうして、「一般的概念」としてある述語を、そこにおいて限定して主語と言う「特殊な概念」へと接近していく。
そうするとそうなるか。「ニシダ」とは、「哲学者」や「日本人」や「優秀さ」などがそこにおいて実現されるある一つの場とみることができるでしょう。というより、そのように見るほかありません。「ニシダ」という実態そのものとして定義することはできません。それは様々な性質(一般概念)が、交差し、また、そこにおいて様々な性質が生みだされるところの場と言うほかないでしょう。「優勝な日本の哲学者」という一般的な概念が「ニシダ」という場所において実現しているのです。
・・・・・そのようなり方を西田哲学では「於いてある場所」と表現します、「サエキ」も「ニシダ」も「於いてある場所」にほかならないのです。
・・・・・・
多様な状況のなかで、「サエキ」がある形をとって浮かび上がってくるのです。本当に存在するのは場所だけなのです。「サエキ」はこれらすべてを統合している場に過ぎないのです。・・・・・この「場」は、必然的にすべてを含み持っている、ともいえる・・。「サエキ」という個物が、様々な状況の中で表現しうるあらゆる属性を秘めているともいえることになる。
・・・・・・・
こうしてあらゆる可能性をすべて包括してゆくとどうなるか。最終的には「サエキ」は「存在そのもの」ある、ということになるでしょう。それは、すべてのものを包括した最も一般的な「存在」なのです。
・・・・・・・
・・・論理の問題としていえば、無限の可能性を包括する「存在」として「於いてある場所」が「サエキ」なのです。(p326-328)

小見出し”つまりそれは「無」”から引用
このもっとも一般的な包括的な「存在」とはいったい何なのでしょう。
実は、西洋思想においては、それは端的に「神」と理解されてきた。
あるいは、ギリシア哲学的に「イデア」といってもよいでしょう・・。
・・・日本や東洋は、西洋的な、つまりユダヤ・キリスト教およびイスラム教的な絶対神という明白な観念は生み出しませんでした。
すると、すべてを包摂する「存在」にあたるものはいったい何なのでしょうか。

包摂的判断の概念に見立てていい直せば、潜在的にあらゆる属性や性格がすべて「サエキ」に於いてあるというこのになる・・。それを「サエキ」とは「於いてある場所」といったのでした。
仮にそれ命題の形でいえば、最終的に「サエキは存在である」としかいいようがないでしょう。だから「サエキ」とは「存在」がそこに於いてある場所ということになる。しかし、このでいう「存在」が何か実態的なものだすると、それはさらに別のもので特徴づけられ包摂されるはずです。つまり「存在」が実体ならば、それは、それ自体が再び主語となって別の一般的概念の包摂されるはづなのです。しかしここでいう「存在」(有ること)は、もっとも一般的ですべてを包摂しているのですから、それをもはや実体として扱うわけにはいきません。それは「無」というほかないのです。
だから、ここではすべてを包摂する究極の存在(「超越的述語面」といわれるもの)は、それが「於いてる場所」である「サエキ」(「超越的主語面」といわれるもの)と一致することになる。しかもそれは「無」に他ならない。なぜなら「サエキ」という実体はどこにもない。
・・・・・
「サエキ」に代えて「私」として考えてみましょう。
「私とは何か」というのは伝統的な哲学上の難問ですが・・・・。確かに、実感としても「私」などというものは定義できません。・・だから、結局、「私」とは、様々な状況のなかで様々な行動を起こし、ある性癖を見せる、つまり多様な働きの集合というほかありません。そこに固定された実体はない。それは実体的には「無」ということになる。その意味では、「無」だからこそ「私」の内には無限の可能性があるのです。
しかしこの「無」を、無限の可能性を入れた何か入れ物のようにイメージするのは正しくありません。
・・・それは「器」ではなく、その都度その都度、そこに「私」を映し出す「鏡」のようなものというべきでしょう。・・・・
・・・意識の底の部分で、いわば私は、「無」という場所を鏡として、そこに自己を映しているのです。これが「自覚」ということなのです。p328-329

小見出し”心の底とはどこなのか”から引用
本当にあるものは、状況のなかにあって「於いて、映しだす」という作用だけです。それがここでいう「鏡」にほかならず、本当に重要なのは、映しだす作用の方だ、ということになる。
・・・・
私とは、実はこの「場所」にほかならない、といいました。われわれが通常、「私」とか「我」とかいっているのは、具体的な状況のなかで、・・・・表現されたその都度その都度の「私」にす過ぎず、それは、根源にある「私」(無の場所)において様々なものによって限定された影像に過ぎない。
かくして、鏡に映った「私」をあくまで鏡に映った「私」として認識することが決定的に大事なことになります。これは自己をできるだけ殺して反省することにほかなりません。真の自己がどこにあるかという「自覚」もそこからでてくる。だから西田のいい方を借りれば、「自覚」とは「自己のうちに自己を映す」ということになる。
西田が短歌のなかで、我が喜びも憂いも届かぬ心の底がある、といったのも、このようなことでしょう。心の底とは、「無の場所」です。
・・・・・
それは(無の場所)は、具体的なこの世界や世情における経験に寄り添いながらも、その経験する「私」を「私」として映しだす、もっとも包括的で絶対的な場所といわなければならない。
・・・・・
この場所は実体としての「私」を離れてどこかにあるものではない。私から見れば、常に私の背後に影としてついてまわるものなのです。しかし、この影の方から見れば、実は、「私」こそが陰影に過ぎないのです。
ここで見方の転倒が生じている。先ほどの論理で説明したように、論理を突き詰めれば、根源的なものは「無の場所」といわねばなりません。われわれが実在だと思っているものは、その影なのです。「私」もまた影としてこの世に存在する。そして、この場合「無」は、究極的なすべてを包括する存在でもある。というのことは、それは[有(存在)」に対する「無(非存在)」ではなく、この「有」も」無」も超えてしまった「無」、もしくは、「有」とも「無」ともいうような絶対的は何か、ということになる。それを西田は「絶対無」といいました。だから、もっとも根源的で絶対的なものは「絶対無の場所」なのです。p329-332
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中野剛志  『新潮45』9月号より抜粋

2013-12-19 11:00:40 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第9月号)中野剛志著「日本人の「組織能力」を取り戻せ」 p.41-44より引用

官僚パッシングの時代は、「失われた二十年」、すなわち日本の政治や経済の長期低迷と軌を一にしている。・・その原因とは、何か。それは日本人の「組織能力」の衰退である・・・。

このでいう組織能力とは、複数の人間が協力して集団行動を行う社会的な能力のことを指す。

例えば、「チーム・ワーク」と呼ばれるものは、組織能力の典型例である。・・・・・チームにおける指導力や結束力が、選手個々人の能力の単なる総計以上の力を生み出すのである。これが組織能力である。

この組織能力が、日本の社会から失われつつある。そう思わざるを得ないのが、官僚パッシングという現象である。
・・・・・組織のトップと部下との信頼関係は、組織能力の核である。

組織内部の改革に執着するようになるというのは、組織能力が衰弱しつつある兆候である。
おそらく、この二十年間の日本では、行政機能のみならず、企業、政党、組合、学校などありとあらゆる組織が内部体制の変革をいたずらにくりかえしてきたのではないだろうか。
・・・・・
「政官スクラム型リーダーシップ」
官主導であったのは敗戦後から復興期にかけての一時期だけであり、いわゆる55年体制が成立して以降は、自民党が官僚に対して有利であった。
・・・・・
各省の法案や予算案は、閣議決定をする前に、すべて自民党の政務調査会と総務会の承認(「与党審査」)を得なければならない。政策の最終的な決定権は、自民党にあるのである。与党審査が慣例化した1960年以降、官僚は自民党との密接な提携関係が形成された。村松岐夫は、これを「政官スクラム型リーダーシップ」と呼んでいる。・・・・・官僚は、行政を政治の一部と考え、政治のただ中に入り、さまざまな利害調整の過程を経て、公益を実現しようと活発に活動した。
・・・・・
官僚は「政官スクラム型リーダーシップ」の下で、政治的な利害調整の経験を積み重ねていったが、このことは行政の組織能力にとって極めて重要な意味を持つ。
・・・・偏差値秀才に過ぎない若い官僚たちが、利害調整の経験を通じて、政治的な能力に長けた「調整型官僚」へと成長していくのである。こうして官僚機構は、その組織能力を獲得していく。政官スクラム型リーダーシップは、行政の組織能力を育んできたのである。
・・・・・
「調整型官僚」は、政治の調整過程の中に積極的に乗り出し、行政独自の立場や利益を主張することもあった。これに対して、(80年代半ばから現れた)「管理型官僚」は、官僚の役割は政治によって与えられた政策の忠実な遂行であると信じ、自ら調整には乗り出さず、政治が方向性を指示するのを待っている・・・。
つまり上司から言われたことしかやらない官僚が増えてきたというのだ。そのような官吏型官僚には、人と人との間の関係を調整したり、集団で協力して未知の課題を克服したりする能力などは期待できない。官吏型官僚が増えれば、行政機関の組織能力は低下することは避けられない。
・・・・・
・・・日本中で組織能力の低い官吏型が増えていったのではないだろうか。官吏型の蔓延とともに、行政のみならず、政党も企業も学校もおかしくなっていったのだ。
元来、組織能力は、日本人の長所とされていたはずであった。その組織能力が衰退していけば、日本の政治・経済・社会が低迷し、閉塞するのも当然であろう。それが失われた二十年の根本原因である
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「無」について、運命について・・・  佐伯啓思  『新潮45』7月号より抜粋

2013-10-18 20:26:02 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第7月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第30回 ”西田幾太郎「悲しみの哲学」と教育のコクサイカ”, p.324-332 

小見出し”無の哲学”というテーマから引用
「無の哲学」は苦境や悲哀を源泉としている。つまり、人生の悲痛や苦悩や楽しみに一喜一憂している自己や自我を消し去り、その先に西田が見出したのが「無」である。したがって、人生についても、死についても意味はなく「無意味」であると了解するしかない。これはまた運命ということでもある。運命とは自己の力を捨て、己を捨てたときに根源にある無が立ち現われてきたものである。
以下引用
(西田の)人生の基底に彼が「悲哀」を見出し、それを徹底的に見つめ、哲学にまで仕立てた、ということなのです。
この「悲哀」の源泉ほ、人の死です。家族の死であり、どうにもならない運命の享受なのです。
・・・・・
西田はこの(我が子の死の)苦境や悲哀を哲学にまで高めた。
・・・・ 
 西田はこのエッセイ(「我が子の死」)の最後の方でまた次のように書いています。
「いかなる人も我が子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後にほ、不可思議のカが支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合におて、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。」
・・・・・
 西田哲学はしばしば「無の哲学」といわれます。「無の場所」「絶対無」「無の自覚」といった「無」という言葉が彼の哲学のキーワードになっているからです。・・・・さしあたりここで述べておきたいことは、「無」へ辿りつく彼の思索が、決して彼の人生上の苦難や悲哀と無関係ではない、ということなのです
 いや、人生上の苦難なら人によっていくらでもあるでしょう。西田は、それを「悲哀」として感じとり、さらにそれを突き詰めて「無」という、いわばいっさいを脱色し、感覚的なものもそぎ落とした抽象的概念へ辿りついた、ということです。このように、彼は自分の人生を昇華し、もはや自分一人の人生というも色も脱色してしまったのです。
 ・・・・・
 この徹底した内面への沈潜、もしくは自己了解は、自己を消去するという形で自己を超え出てしまう道でもありまし。自己の内なる根源へ向うことで、もはや人生の悲痛や苦悩や楽しみに一喜一憂している自己や自我などというものを消し去ってしまおうとしたのです。その先に彼が見出したのが「無」としか呼びようのないものだった。根源にあるものは、すべての現象の彼岸であり、またそこからすべてを生じさせる「無」にほかなりません。( p.331)
・・・・
 子どもの死には何か意味がなければならない、と西田は書いていました。死には意味がなければならない、人生の出来事にはそれぞれなりに深い意味がなければならない、と彼は書いている。
 この「深い意味がなければならない」は、実は、「本当は何の意味もない」という根源的な立場と背中合わせなのです。もちろん、西田は人生そのものにあらかじめ特定の意味があるとは考えていないでしょう。己の好きなように人生を操れるとももちろん思っていない。己も含めて根源的なものは「無」なのです。だからこそ、この現実のなかで、人は、そこに自ら意味を与えるのです人生を解釈するのです。子どもの死などという不条理で納得不能な出来事が生じた時、その経験が、人生に深い意味を要請するのです。出来事に意義を要求するのです。
 と同時に、この意味は、もともとどこかで確定されているものでもない。考えればでてくるものでもない。根源的なものは「無意味」です。本当は我が子の死に特別の意味はないのです。そしてそのことをそのままで受け止めるほかない。その時に「運命」という言葉が使われるのです。「運命」は己の力で動かせるものではない。自分で好きなように意味を与えられるものでもない。この「自己の力」を捨て、「己を捨て」たときに、根源にある「無」が「運命」という響きをもってたちあらわれるのです。これはひとつの救いといってよいでしょう。日本で唯一の「日本の哲学」は、かくて、コクサイカや文明開化などとほ何の関係もない、西田幾多郎という一人の受難者の人生から生み出されたのでした。( p.332)

佐伯啓思著 第30回「反・幸福論」.『新潮45』 (2013年第7月号), p.324-332
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「一片の独立心」・・・  佐伯啓思  『新潮45』7月号より抜粋

2013-10-16 10:32:33 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第7月号)佐伯啓思著.「反・幸福論」第30回 ”西田幾太郎「悲しみの哲学」と教育のコクサイカ”, p.324-332 
小見出し”進歩か、退行か”というテーマから引用
福沢諭吉は『文明論之概略』に次のようなことを書いています。巻之六第十章 自国の独立を論ずより引用)
思想浅き人は、世の有様の旧に異なるを見て之を文明と名づけ、我が文明は外国交際の賜物なれば、その交際いよいよ盛なれば世の文明も共に進歩すべしとて、こを喜ぶ者なきにあらざれども、その文明と名のるものはただ外形の体裁のみ。もとより余輩の願うところにあらず。たといあるいはその文明をして頗る高尚のものならしむるも、全国人民の間に一片の独立心あらざれば文明も我が国の用をなさず、こを日本の文明と名づくべからざるなり。」
思慮の浅い人ほ、古いものを捨て去ることを文明化だと思い、「コクサイカ」を進めれぼ日本も文明化できると考えている。しかしそれはただの外形だけのことで、そもそも日本人に一片の独立心がなければ、そんなことには何の意喋もない、というわけです。
「一片の独立心」とは、われわれ自身の頭で考えること、日本の「旧なるもの」のうちに取るべきものを取り、残すべきものを残し、それを大切にした上に外国文明を取り入れる、ということでしょう。( p.326-7)
・・・・
「コクサイカ」を誰よりも説いていたはずの福沢などがもっとも気にしていたのは、「コクサイカ」の上に乗って滑っているうちに、そのうち日本人の「独立心」も同時につるつると滑っていって溶けてなくなってしまうのではないか、ということでした。( p.327)

佐伯啓思著 第30回「反・幸福論」.『新潮45』 (2013年第7月号), p.324-332

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「モノづくり」は社会インフラの安定が・・・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-14 13:38:11 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第2部”デジャブ --立ちすくむ現代 小見出:「米」相場の教訓 (p.118-121)-------から抜粋。初出『WEDGE』2008-8
 「モノづくり」経済には、「社会インフラ」が長期的に安定していることが必要である。 
以下抜粋
食糧、資源の高騰が続いている。・・・その高騰をさらに加速し、前倒ししているのは、食糧、資源の先物市場での投機である。
・・・・それが、食糧というわれわれの「生活基盤」や、資源という一国の「生産基盤」をターゲットにするとなると事態は深刻だ。(p.118)
・・・・
「モノづくり」経済は、長期的に安定した生産組織を必要とする。安定した企業組織は、それなりに安定した社会基盤や、安定した資源供給を必要とする。ところが、食程や資源の大きな価格変動、さらにその供給不安は、社会の安定性を崩してしまう。人々は、労働者である前に、まずは生きてゆかねばならない。だから、食糧から資源エネルギー、さらには医療や年金なども含めた「社会インフラ」がしっかりとしていなければ、長期的な「モノづくり」の経済さえも危うくなる。(p.119)
・・・・
食糧・資源の先物市場における投機が「社会インフラ」を破壊しかねない。一方において過剰資金が莫大な利益を生み出し、他方において、われわれの生活の基盤がガタガタになる、というのではあまりにいびつな経済というほかない。(p.119)

(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.103-108)。

.『文明的野蛮の時代』 目次
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思想としての徴兵制・・・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-14 11:23:56 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:思想としての徴兵制 (p.103-108)-------から抜粋。
 徴兵議論をする気のない国民=守るべきものを持たない国民ということである。守るものがあるならば理不尽な干渉にも抵抗をする、そのためには武装もする。この武装を民兵で行うか国民の義務として徴兵制で行うか、議論が必要である。 
以下抜粋
・・・平和憲法が存在したために徴兵制の論議が不要だったのではない。論理としていえば、平和憲法があればこそ「自発的徴兵」としての「民兵」による国土防衛という思想がありえた。徴兵とは民兵(武装した市民)による国家防衛の制度化にほかならないからだ。したがって、平和憲法があるために徴兵論議が不要だったのではなく、そもそも論議をする気がなかった、ということになる。(p.104)
・・・・
・・・政治思想のもっとも基本的な点を確認しておきたい。それは、近代国家とは、フィクションとしてではあるが、その正当性を人々の契約によって調達している、ということだ。契約の基本内容は、国家は人々の生命・財産を守る。同時に、人々は、その基本的な点において国家に従う、というものである。
 ところがここで重要な問題が生まれる。国家は人々の生命・財産を守るというが、どのようにして守るのか。国家の主権者が王であれば、王が自らの軍隊を率いてそれを守る。しかし近代国家とは国民主権である。とすれば、国民の生命・財産を守るのは国民自身ということになる。だからこそ、社会契約においてルソーは、何よりも国防のために国家に命をささげることを市民の義務として強く要求したのであった。
 これは近代国家の基本構造である。そこには確かに矛盾がある。人々の生命・財産を守るために人々は命を捨てることを要求されるからだ。(p.105)
・・・・
・・・戦後日本人に「平和」を守る、という本当の意味での覚悟も突き詰めた思想もなかったのである。(p.107)
・・・・
 もっといえば、本当に「守るべきもの」があったのであろうか。・・・・・。戦後日本人にとって「平和」とはただ「戦争のない状態」という消極的なものに過ぎなかった。「平和を守る」という言い方には「平和」と「守る」というふたつの要素が含まれている。そして、より大事なのは「守る」という方なのだ。
 もしも、「平和」とは断固として「守る」べきものだとすれば、「平和」を積極的に「守る」ためにも市民は武装しなければならない。「平和」を実現するためには、「平和国家」へのいかなる他国の侵略も義を伴わない理不尽な干渉にも抵抗しなければならないからだ。これは、近代国家が市民の生命・財産を保護するために、市民の武装を求めるのと同じ理屈である。
 確かにここに一種の矛盾がある。その矛盾をかろうじて支える思想があるとすれば、国軍が保持できない限り、憲法で規定された平和を守るためには、市民武装による民兵しかない。いずれにせよ、この矛盾を引き受けなければ「平和国家」などというものはありえないのである。(p.108)

(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.103-108)。

.『文明的野蛮の時代』 目次
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適切な「自由」の理解のために・・・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-13 14:17:41 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:「自由のヂィレンマ」と知識人の責任(p.96-102)-------から抜粋。

 「私の自由」--好きなように暮らす自由は、それをドグマとして追い求めていくと、政治勢力や市場原理主義などのグローバルな「世界」までへと自己拡張し、独善的な自由絶対主義に至り、原点の「私の自由」と矛盾してくる。つまり価値相対主義のもつティレンマにおちいる。このディレンマを断ち切るすべとしては、自由の背後には権威があり、規範があり、秩序があり、集団がある、ということを理解知ることである。「……からの自由」すなわち近代的自由が失敗するのは、「自由」をこれらの背景から切り離し、性急に、権威や規範や秩序や集団とは対立するもの、と捉えたからである。
(p.96-102)-------から抜粋。
バーリンの・・・・。「……からの自由」と「……への自由」。 ・・・ 「……からの自由」は、今ここで生活している人間の主観的な経験を前提としている。それは普通の人間が「好きなように暮らす自由」なのだ。
「……からの自由」は、多様な主観的な価値があって、それらに優劣はつけられない、という前提から出発する。・・・・、この私的領域の自由に決定的な重きを置(く)・・・・
・・・・・
ささやかな、しかし、どうしても手離してはならない・・、「自由の擁護」は、イスラム勢力との敵対から始まり、エジプトやリビアの独裁者への批判へと乗り出し、テロリストや「ならず者国家」を一括して「野蛮」と呼ぶほかなくなるだろう。
 もっと小規模なところでは、市場原理主義という名の経済的自由主義者は、市場の自由に反するものを抵抗勢力と見なしてこれを攻撃し、あるいは時にはグローバリズムへの反対者をあたかも「鎖国主義者」であるかのように批判することになる。
・・・・・

バーリンがつかみだした、ささやかな、しかし、どうしても手離してはならない「私の世界」は、もはや「私の世界」どころかグローバルな文字通りの「世界」へと自己拡張を続けている。「私的領域」を守るというささやかな自由は、いつのまにか、それ自体が独断的な自己実現をめざすようになってしまった自由がドグマと化したとき、「自由主義」の名のもとに多様性が失われ、抑圧が進展することもありうるのだ。
われわれは「自由」という観念のもっているこの矛盾、あるいはディレンマに対してもっと敏感にならねばならない
 もっといえば、これは価値相対主義のもっているディレンマともいえよう。価値相対主義は、それを貫こうとすれば、自らの正当性を主張することができず、自らの正しさを主張しようとすれば、自らを絶対化して反論を封じなければならないのである。それでもわれわれは「自由」を至上の価値とすることができるのだろうか。われわれはどのようにしてより適切な「自由」の理解に辿りつくことができるのだろうか。
 残念ながらまだ確かな答えをもっているとはいい難い。確実なことは自由の背後には権威があり、規範があり、秩序があり、集団がある、ということである。「……からの自由」すなわち近代的自由が失敗するのは、「自由」をこれらの背景から切り離し、性急に、権威や規範や秩序や集団とは対立するもの、と捉えたからである。

(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.89-95)。

.『文明的野蛮の時代』 目次
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