都内散歩 散歩と写真 

散歩で訪れた公園の花、社寺、史跡の写真と記録。
時には庭の花の写真、時にはテーマパークの写真。

価値の基軸に死を位置づけるには・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-12 20:32:55 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:平和という危うさ……「死」の意味づけを失った戦後日本-------から抜粋。
 戦後の日本は社会の価値の基軸に「死」の位置づけがない。したがって死を超える価値から死を意義づけることができない「生命尊重のアポリア」に落ち込んでいる。ここから抜け出して、価値の基軸に死を位置づけるためには、「生きている」ことに対してある種の「罪の意識」を感じ、ただ生きるのではなく、「死者」の思いを引き継いで生きるほかない、という宗教心が必要である。

・・・おおよその社会の「価値」の基軸は「死」へのまなざしから生じているといってもよいだろう。
さいあたり、「死」と関わるものを、霊性といってもよいし、来世といってもよいし、救済といってもよいが、いずれにせよ広い意味で宗教的なものであろう。
とすれば、宗教的なるものをほとんど公式的に追放した戦後日本において、「死」はそのような意味をもつのであろうか。(p.89)
・・・・
ひとつの社会における「死」という点から見れば、今日の日本において、「死」は個人の個体の消滅であり、固有名詞の登録抹殺に過ぎない。(p.90)
・・・・
確かに今日の日本では、「生」とは何よりまず、生物体としての生そのものにほかならない。かくて戦後の日本社会では、この意味での「生命」を至上のものとしたのである。(p.90)
・・・・
生命を至上のものとするならば、もしも生命が脅かされればどうするのか。生命を守るためにもわれわれはその脅威と戦わなければならないであろう。つまり「生命を守るためにも生命を犠牲にする覚悟をもたなければならない」のである。これは一種の背理であり、アポリアである。ディレンマといってもよい。
 同様のアポリアは戦後日本の中心的価値である平和主義についてもいえる。「平和」は大事である、としよう。で、「平和」が脅かされればどうするのか。「平和」を守るためにも武器をとらざるをえないであろう。(p.90)
 ・・・・
「民主主義」は至上のものだとしよう。しかし、民主主義が脅かされた場合には、平等の原則からして国民全員が戦わなければなるまい。いったん戦いの状況に入れば意思決定は通常全体主義的になるから、民主主義を守るためにも全体主義が要請されることになる。
 こういう背理の根本にあるものは、「生命尊重のアポリア」というべき、「生命を守るためには時には生命を捨てねばならない」という事情なのである。(p.91)
・・・
・・・戦後日本においてはこの(生命尊重の)アポリアさえほとんど意識されなかった、ということなのだ。「生命」にせよ、「平和」にせよ、あたかも自明な所与の条件と見なされてしまったからだ。本来は「生命尊重」や「平和主義」と貼り合わせになつた「生命を守る」「平和を守る」ための自己犠牲、すなわち「死」が意識されることはほとんどなかった。(p.92)
・・・
・・・このことが意味するのはどういうことだろうか。
「生命」であれ、「平和」であれ、「民主主義」であれ、あるいは「国体」であれ、「天皇」であれ、ともかくもそれらをひとたび「価値」とするなら、「守る」という観念において「守るために生命を賭す」という原理が作用する。それが「民主主義」であろうと「天皇」であろうと基本形は同じことで「……を守る」ためには「死」を覚悟する、ということになる。この場合には、「…‥・を守る」の「……」よりも以前に、「守る」という態度がなければならない。(p.90)
・・・・
「……を守るために死ぬ」ということは生命より一層高い価値を想定するほかないのだが、「生命」それ自体を最高の価値におけば、このような態度が出来しようがないからである。つまり、何らかの自己犠牲の精神そのものがでてこない。戦後においては「死」というものを、たとえ「……のため」という形においても、意味づけることができないのだ。(p.94)
・・・・
われわれの「死」への思いには・・・・。「死」を救済と見なす観念はない。「正義の死」という観念もない。肉体の消滅はすべての消滅なのである。このすべての消滅という「無」の前にはすべては理不尽としかいいようがない。ここでは「無」は絶対であり、「死」は理不尽な偶然によって与えられる。(p.95)
 だがだからこそ、生者はただ「生きている」ことに対してある種の「罪の意識」を感じるのではなかろうか。ここで生者はただ生きるのではなく、「死者」の思いを引き継いで生きるほかない、という意識である。この時、われわれはかろうじてあの「ただ生きていることが大事だ」という「生命尊重主義」を少しは超え出ることができるのではないだろうか。(p.95)

(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.89-95)。

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国際化とは・・・  佐伯啓思  『新潮45』7月号より抜粋

2013-10-09 13:45:44 | 抜粋
「反・幸福論」 著:佐伯啓思『新潮45』 (2013年第7月号)から抜粋
真の国際化とは、自分自身の頭で考え、日本の「旧なるもの」のうちに取るべきものを取り、残すべきものを残し、それを大切にした上に外国文明を取り入れることができるようになること。「旧なるもの」を捨て去ることでは国際化はできない。、
小見出し”「進歩か、退歩か、」から引用 p.326-327  
福沢諭吉は『文明論之概略』に次のようなことを書いています。
「思想浅き人は、世の有様の旧に異なるを見て之を文明と名づけ、我が文明は外国交際の賜物なれば、その交際いよいよ盛なれば世の文明も共に進歩すべしとて、こを喜ぶ者なきにあらざれども、その文明と名のるものはただ外形の体裁のみ。もとより余輩の願うところにあらず。たといあるいはその文明をして頗る高尚のものならしむるも全国人民の間に、一片の独立心あらざれば文明も我が国の用をなさず、こを日本の文明と名づくべからざるなり。」(巻之六第十章 自国の独立を論ず)
思慮の浅い人は、古いものを捨て去ることを文明化だと思い、「コクサイカ」を進めれぼ日本も文明化できると考えている。しかしそれはただの外形だけのことで、そもそも日本人に一片の独立心がなければ、そんなことには何の意喋もない、というわけです。
一片の独立心」とは、われわれ自身の頭で考えること、日本の「旧なるもの」のうちに取るべきものを取り、残すべきものを残し、それを大切にした上に外国文明を取り入れる、ということでしょう。
もちろん福沢は当時のもっともすぐれた外国通であり、英語に堪能だった。決して英語教育そのものに反対したわけではないでしょう。ただ、英語、英語といっているうちに、肝心要のもっと大事なものが忘れられ、気がつけば「一片の独立心」も失われてしまう、ということを危惧したのです。
 『新潮45』 (2013年第6月号), p.326-327 
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日本人の自然観の回復・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-08 09:43:51 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:震災と天罰----科学と信仰のあいだで----から抜粋。
 日本の自然観の根底には、人言は「自然」に溶け込み、自然に即してあり、自然を超えることも作り替えることもできない、という心理がある。したがって、自然の猛威に対しては最終的には「あきらめ」しかありえない、という気持ちになる。
日本の自然観の根底には、それが「自然:じねん」と呼ばれるように、「おのずとあるもの」、「おのずと生成してゆくもの」といった意味あいが強く、人の生・死もその中にある。人の生の条件が「自然」に対峠してそれを作り替える(「創造行為の変形」)と言うよりも、「おのずから」の「自然」に溶け込み、自然に即してある、という心理へと傾く。つまり、人間は自然を超えることも作り替えることもできない。
 日本の自然は穏やかだとはよく言われるが、同時にまた、巨大地震や巨大災害もよく起きる。決して穏やかなわけでもない。にもかかわらず、それを「天災」として「天」に帰するところに、西欧とは異なつた自然観が示されているだろう。そして、おのずから成る「自然」の働きに過度に逆らった時、すなわち過度な理性主義や慢心、我利我欲に走った時、われわれは「天罰」が下る、と言うのである。(p.64-65)
今回の地震でしばしば「想定外」だつた、と言われた。・・・・この時、「危機」的事態にいたる。しかし、日本ではそもそも「危機」はありえない、とされているために、何らの対応もとれない。(p.65)
・・・
 日本におけるあまりの「危機」意識の衰弱は、一部はいわゆる戦後平和主義と深く結びついているだろう。平和主義においては「危機」も「例外状況」もありえない。戦争はない、と仮定されているからである。・・・・
 しかしもう一部は、日本人のもっている「自然観」にもよるのではないだろうか。戦争はともかく、巨大災害という自然の猛威に対しては最終的には「あきらめ」しかありえない、という心理である。
・・・・ 
 問題はそのことの是非ではなく、今日の日本人が、徹底した近代的技術主義にも邁進できず、かと言って本来の自然観・死生観も見失ってしまった、という点にこそあるのだろう。(p.65-66)
・・・・
 今回の大地震が・・・われわれが「科学」と「信仰」、言いかえれば、「自由や幸福追求」と「自然観・死生観・宿命観」のバランスを回復する契機にはなりうるはずなのである。(p.67)
(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.64-67)。

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合理的世界観と「畏れ」・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-04 16:41:02 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:震災と天罰----科学と信仰のあいだで----から抜粋。
 科学や技術を超えた人智の及ばない領域はある。この人知の及ばない領域があることの自覚とそれに対する「畏れ」の思いを抱きつつ科学や技術を極めるということが必要。
神の創った秩序の中にあって、人間は自然に寄り添いながら生きるのではなく、巨大な自然を動かしている法則を取り出し、その法則を使って自然を作り替えてゆく、という言わばコペルニクス的転換が生じた。自然の制約に服するのではなく、自然を作り替えて、それを人間の幸福の手段とする点にこそ、人間の自由=自立の意味がある、ということだ。ここに近代科学と、その実際的、組織的応用である産業技術が登場し、自由の拡大と富の増大がひとつに溶け合った近代社会が生み出されてゆく。・・・・(中略)近代的な科学と技術は自然を支配し、合理的な世界像を前提にしている。一八世紀の啓蒙期には、・・・人間の理性にもとづく合理的世界観が登場してくる。(p.62)
(中略)
近代的世界観もまた最善な世界の実現というキリスト教的理想をしっかりと受け継いでいるのである。全能の神に代わって、その神の業を理性によって把握する人間が実際上、神の座に就くのである。神の創造行為を部分的に人間が引き継ぐ。人間中心主義は、人間が理性によって自然を管理し、よりよいものに作り替え、社会を改善して人間の富や幸福を増大する限りでは、神の意思に反するわけではない。それこそ神の祝福をえることになろう。
このような論理は人間の富を増進させるあらゆる科学技術を正当化するであろう。もちろん、新たな科学や技術は予期しえない問題を生み出すだろう。しかし、その間題もまたテクノロジズムによって解決を図られるべきことなのである。(p.62-63)
(中略)
世俗における不幸は、世俗における因果関係によって確定されるはずなのである。問題は、科学者の理論的誤りであったり、技術者の設計ミスであったり、システムの誤作動であったり、ともかくも何らかの因果によって確定される。そこに「神意」も「神慮」も入る余地はない。・・・・
かくて責任を負うべきなのは科学者や技術者ではない。しかもそれは道徳的責任ではない。ただ「想定」が甘かったという言わばテクニカルな誤算なのである。こうして、問題を解決へ導くものは、「新たな想定」のもとでの新たな技術だけである。(p.64)
(中略)
彼らは常に「想定外」=「危機」=「例外状況」を想定しているからである。それはまた、技術がすべてを解決するものではない、と同時に危機に対応するのもある種の技術でなければならない、。(p.64)
・・・・
いくらテクノロジーが進歩しても「想定外」は必ずありうる。いや新技術が「想定外」を生み出す。自然の脅威をすべて管理することはありえない。とすれば、科学や技術を超えた人智の及ばない領域がある。時にはわれわれの生はこの領域に心ならずも接触するのである。その時出てくるのは、自然観であり死生観である。もっと言えば、「運命」としか言いようのないものに対する「畏れ」である。これは広い意味で「信仰」の問題であろう。(p.66)
(中略)
われわれが「科学」と「信仰」、言いかえれば、「自由や幸福追求」と「自然観・死生観・宿命観」のバランスを回復する契機にはなりうるはずなのである。(p.67)
(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.62-60)。

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保守とは主体的に創造すること・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-02 16:59:18 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:「保守主義は保護主義か」----から抜粋。
保守するとは、博物館や文化館に展示することではない。保守するべきものを生活の中で主体的に創造をしていく行為である。
 保護主義を「正しい」と言うことはできるのであろうか。つまり「利」ではなく「価値」について論じることはできるのだろうか。
 もしもこのように問題を立てれば、われわれは「保護主義は何を保護しようとしているのか」と問わねばならなくなるであろう。それは「国益」なのか、「成長率」なのか、「雇用」なのか。
 そうではないであろう。
 問題の立て方がまずいのである。「保護主義」が何かを保護するのは、そのものを「保守」するためである。では何を「保守」すべきなのか。
 かつて三島由紀夫は『文化防衛論』のなかで次のように論じた。文化を防衛するとは、文化財を保護することではない。文化とは、常に作り出し形成されてゆくものであり、そこには文化形成の主体がある。文化を形成する主体があって初めてこの主体が「武」をとって文化を守ろうとするのだ、と。
 もちろん、この議論をそのまま保護主義にあてはめることには無理がある。だが三島にならって言えば、日本という国を作り出してゆこうという主体があれば、この主体は日本を保守しょうとするであろう。この日本とは、歴史的に形成された社会生活であり、文化である社会生活も文化も三島が言うように、決して生活博物館や文化館に展示されるものではない。作り上げてゆくものである。その創造的な主体があれば、彼は「武」を取るだろう。保護主義が、日本の何か大事なものの保守を意味するのなら、どうしてこれを経済の議論に限定できるのであろうか。保護主義者を唱えるならば、どうして自主防衛を唱えないのであろうか。これは「保守」する主体の基本的な立場のはずである。
 かくて、農業問題は憲法改正問題と無関係ではないのである。それどころか、本質的には(あるいは思想的には)同一の問題である。保田輿重郎という名をここで引き合いに出せばますます現実から乖離するのだが、保田は、農業こそは「神ながら」の日本の国の骨格だと力説した。農業において、日本人は神とともにあり、儀礼をおこない、自然にしたがい、自足して利を求めることはなかった。したがって、農業を「利」によって酌量しょうとしたとたんに、それは近代的な堕落の道をたどるほかないのである
 この保田の論をそのまま再説しようというわけではない。しかし保田の極端な反近代主義は、われわれが忘れてしまった盲点を突いている。それは、「国益」と言ったとたんに、日本の「農」はもはや「保守」され得ない、ということである。「保護」はされても「保守」はされないのである。「農」を「保守」できるのは、保護主義やら農家補償ではなく、それを「文化」として創造してゆく主体だけである

(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.58-60)。

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自主防衛力が必要・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-02 14:59:56 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:「同盟という従属」は終わらない----から抜粋。
平和、民主主義の前提は防衛力にある。
 日本の民主主義は平和主義と不可分の関係にあった。戦後民主主義は平和を実現するものであり、民主主義に対する敵対者は平和への挑戦者だと理解されていた。
 ではその場合、日本の平和は何によって実現されているのか。当時の世界状況を考えれば、それは日米安保体制によってである、といわざるをえない。平和憲法が戦後日本の平和を担保したわけではない。米軍による抑止力によって担保されたのであった。一国の平和とは、非武装の憲法によって保障されるのではない。近代国家においては、平和とは国の安全保障の問題であり、安全保障の問題とは防衛力の問題なのである。
 とすれば次のようにいわなければならないであろう。
 戦後民主主義も平和主義も、日米安保という安全保障体制の前提のもとで初めて成立していた、と。したがって、日米安保体制はただ日本国の防衛にあたっただけではなく、戦後民主主義や平和主義、すなわち憲法を守ったわけである。
・・・・・・・
実は、この自主防衛への道筋を少なくとも意図していたのは、むしろ安保改定を行った岸氏や自民党の一部の人たちであった。安保改定を行った岸氏の真意は、安保改定によって国民的支持を獲得し、それを背景にした総選挙で自民党を大勝に持ち込み、やがては憲法改正への道筋をつけようとしたものだともいわれている。いずれにせよ、岸氏をはじめとする、鳩山一郎らの旧民主党系の人たちは自主憲法制定論者だつたのである。 
(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.41-42)。



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国民的価値の合意が必要・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-10-02 10:43:45 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:「国民的政党」が示すべき価値----から抜粋。
自民党は国民的合意に向けた価値を示すべきだと述べている、次の通りに
 今日求められているものは、ある程度、共有できる「国民的な価値」に基づく「国民的政党」であって、決して行政改革や新自由主義のみに特化した「専門的政党」ではない。
 今日の日本の崩壊は、ただ行政や公務員や財政に起因するものではなく、経済、行政、教育、家族、外交、安全保障の全般に及ぶ、それこそ「国民的」なものだからである。危機は、特定の分野におけるものではなく、デュルケームのいう「社会的全体的事象」なのである。
 今日、自民党がそのような力を持っているかどうか、私にはわからないが、国民的価値の再定義が可能だとすれば、自民党をおいて他にはないだろう。
 では、今、自民党は何をすべきなのであろうか。もちろん、その具体的な項目(たとえば消費税云々、財政再建云々)を別としていえば、軸になるものはいくつかありえる。
 戦後日本は、平和憲法と日米同盟(アメリカヘの防衛依存)のもとでの経済成長追求路線をとってきた。これは自民党の基本方針であった。だが、日米同盟の自明性は、せいぜい冷戦体制下での社会主義への対抗に依拠したものであり、また経済成長は、戟後の貧しさや勤勉な労働、さらに労働人口の増加などを前提としたものであった。だがいまやその条件は両方ともに失われている。
 九〇年代以降、明らかに戦後日本のステージが変わつていった。昭和が平成に変わるとともに、冷戦が終わり、経済成長から平成長期不況へと落ちこんだのである。冷戦以降の時代とは、グローバリゼーションの進展のなかで、各国が各国のアイデンティティに基づいた国益の追求をめざす時代だったのである。このなかで、「戦後日本」の自明性はもう一度問い直されなければならない。
 第一に自民党の結党の精神でもある自主憲法の制定である。明らかに戦後憲法には正当性がない(当時、日本には本当の意味での主権がなかった)。それをいまさら蒸し返しても仕方ないのだとすれば、自主憲法制定の精神に基づいた憲法改正が不可欠であり、独自の自衛軍を持つことは当然のことである。日米同盟は、その上で新たに展開するならすればよい。
第二に、少なくとも、従来の意味で経済大国主義は不可能である。しかも、今後のグローバルな経済的混乱と過剰競争の時代にあって、待ったなしの少子高齢化へ向けた新たな社会像を作るほかない。これは、可能な限り、資源、食糧の自給体制を確保し、国内産業による雇用を確保することだ。そのための長期的見通しがなければならず、また、そのための公共投資を躊躇すべきではない。
第三に、長期的に国を支えるのは、道義的な責任感を持った人であり、人を作るものは、直接には教育と家族と地域であり、また医療や文化である。これらの土台を強化すべきであり、また、長期的な社会像のなかに、これらの土台を埋め込まなければならない。
これらの諸点が国民的合意を得られないとは考えにくい。いや、国民的合意に向けた粘り強い説得と議論が必要とされるのであろう。
(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.38-39)。

 
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「共有すべき国民的な価値」とは・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-09-22 14:05:37 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:「国民的政党」が示すべき価値----から抜粋 
自民党は国民がこれから共有する新たな価値を示すべきだとして、次の3点を挙げている。
確かに今日求められているものは、ある程度、共有できる「国民的な価値」に基づく「国民的政党」であって、決して行政改革や新自由主義のみに特化した「専門的政党」ではない。
 今日の日本の崩壊は、ただ行政や公務員や財政に起因するものではなく、経済、行政、教育、家族、外交、安全保障の全般に及ぶ、それこそ「国民的」なものだからである。危機は、特定の分野におけるものではなく、デュルケームのいう「社会的全体的事象」なのである。
 今日、自民党がそのような力を持っているかどうか、私にはわからないが、国民的価値の再定義が可能だとすれば、自民党をおいて他にはないだろう。
 では、今、自民党は何をすべきなのであろうか。もちろん、その具体的な項目(たとえば消費税云々、財政再建云々)を別としていえば、軸になるものはいくつかありえる。
 戦後日本は、平和憲法と日米同盟(アメリカへの防衛依存)のもとでの経済成長追求路線をとってきた。これは自民党の基本方針であった。だが、日米同盟の自明性は、せいぜい冷戦体制下での社会主義への対抗に依拠したものであり、また経済成長は、戦後の貧しさや勤勉な労働、さらに労働人口の増加などを前提としたものであった。だがいまやその条件は両方ともに失われている。
 九〇年代以降、明らかに戦後日本のステージが変わっていった。昭和が平成に変わるとともに、冷戦が終わり、経済成長から平成長期不況へと落ちこんだのである。冷戟以降の時代とは、グローバリゼーションの進展のなかで、各国が各国のアイデンティティに基づいた国益の追求をめざす時代だったのである。このなかで、「戦後日本」の自明性はもう一度問い直されなければならない。
第一に、自民党の結党の精神でもある自主憲法の制定である。明らかに戦後憲法には正当性がない(当時、日本には本当の意味での主権がなかった。それをいまさら蒸し返しても仕方ないのだとすれば、自主憲法制定の精神に基づいた憲法改正が不可欠であり、独自の自衛軍を持つことは当然のことである。日米同盟は、その上で新たに展開するならすればよい。
 第二に、少なくとも、従来の意味で経済大国主義は不可能である。しかも、今後のグローバルな経済的混乱と過剰競争の時代にあって、待ったなしの少子高齢化へ向けた新たな社会像を作るほかない。これは、可能な限り、資源、食程の自給体制を確保し、国内産業による雇用を確保することだ。そのための長期的見通しがなければならず、また、そのための公共投資を躊躇すべきではない。
 第三に、長期的に国を支えるのは、道義的な責任感を持った人であり、人を作るものは、直接には教育と家族と地域であり、また医療や文化である。これらの土台を強化すべきであり、また、長期的な社会像のなかに、これらの土台を埋め込まなければならない。
 これらの諸点が国民的合意を得られないとは考えにくい。いや、国民的合意に向けた粘り強い説得と議論が必要とされるのであろう。それは確かに選挙の争点とはなりにくい。(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.38-39)。

『文明的野蛮の時代』目次


 
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グローバリズムとは・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

2013-09-22 10:22:57 | 抜粋
佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:「地方的なもの」の再生--から抜粋グローバリズムについての意味するところについて次のように述べている。
グローバル経済はきわめて不安定な構造をもっているにもかかわらず、われわれはそれに巻きこまれ、それを押しとどめることはできなかった。
 ではどうしてこのような事態に陥ったのか。・・・・もっとも根底にあるものはいったい何であろうか。
 グローバル化とは、端的にいえば、「利益」や「幸福」や「自由」を求める人間の欲望の空間的な展開といってよい。グローバル経済は、利潤機会を世界中に見出すことを可能にし、人間の自由を世界中に拡張するものであるかのように思われた。国家というボーダーは「利益」と「自由」と「幸福」に対する制約だとみなされたのである。そして、「利益」「自由」「幸福」の追求こそが近代の価値であるとすれば、グローバリズムとは近代化の必然の帰結というよりほかないであろう。
「利益」や「自由」や「幸福」へ向けられたあくなき欲望の空間的な延長がグローバリズムであったとすれば、その時問的な延長は成長至上主義であり、進歩主義もしくは革新主義である。
「革新」は、旧来の価値や制度の破壊をよしとし、伝統的で慣習的なものには特に価値を求めない。過去は否定されるべき対象となり、過去の否定の上にしか未来は作れないと考える。
 その基軸になるのが技術革新であった。技術革新とはただ新規な技術が生み出されるだけのことではない。それは、エネルギー資源のあり方から、消費文化、生活様式、社会構造まで含めた社会的様式の総合的な革新である。かつて鉄道や自動車の技術革新は社会構造そのものを変えたし、テレビや通信もそうである。近いところではITや金融工学もそうであろう。技術の革新によって経済は無限に発展し、それは、個人の自由や幸福追求の機会を無限に拡張するものであった。ここに時間を通じた歴史の「進歩」があるという信念は、マルクスからシュンベーター、さらにはフリードマンに至るまでほぼ共有されていたのである。
 そこで、近代的価値の空間的な延長であるグローバリズムと時間的な延長である進歩主義(革新主義)を合わせて「近代主義」と呼んでおこう。 とすれば、問題は、ただグローバル経済の不安定性や成長戦略の枯渇といったようなことではない。システムの機能不全ではなく、問題は、われわれの価値観にあるからだ。
 なぜなら、いくらシステムの不完全性が指摘され、グローバル経済の矛盾が論じられようとも、もっとも基底的なレベルにおいては、われわれは近代主義を希求してきたからである。もっとも基底的なレベルとは、いっそうの自由を、いっそうの利益を、いっそうの幸福をわれゎれは求めてきた、ということにほかならない。誰もがその価値を正面から疑おうとはしなかったからである。
 したがって、もしもグローバル経済がもはや先には進めないほどの矛盾を露呈しっつあるのだとすれば、それは時間軸に投射した革新主義、成長主義の限界でもあり、空間軸に展延されたグローバリズムの矛盾でもある。すなわちここで「近代主義」そのものの臨界点にまで達したとみておく必要がある。問題はグローバルな資本主義というシステムにあるというより、近代主義という価値そのものにあるということだ。「グローバルな資本主義」なるものも、実はひとつの価値なのである。
(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.28-30)。

 
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書名『日本の宿命』 著者:佐伯啓思 ”まえがき”より

2013-09-07 15:11:59 | 抜粋
佐伯啓思.『日本の宿命』
まえがき--から抜粋
 私の基本的な立場は次のようなものです。
 今日の日本社会の混迷、もっと特定化して言えば、言論におけるタガのはずれ方を生みだしたものは、大きく言えば、戦後日本で、われわれがその上に社会を組み立ててきた価値が借りものであり、そのことの意味を分かっていなかったからだ、ということです。
 もっと端的に言いましょう。戦後日本の「自由」「民主」「平和」「富の増大」「ヒユーマニズム」「幸福追求」などという価値はどこか借り物であり、われわれの腑に落ちていないからです。そして、大事なことに、それにもかかわらず、われわれはそれを正しいものとして積極的にもちあげ、それに疑問を呈することを許さなかったのです。
 もっと大きく言うと、それを近代主義ということも可能でしょう。近代主義とは、自由の拡大、平等や民主主義の進展、経済発展、人権や基本的権利の拡張、平和の増進が人々の「幸福」につながり、「幸福の増大」は望ましいことだ、という考え方です。その意味での「幸福追求」こそがわれわれが目指すべきものだ、ということなのです。今日、この近代主義の価値観を疑う者はまずいないでしょう。
 私には、この種の「幸福追求」を絶対化し、それを疑うことをやめたところに、今日の日本の閉塞感がでてきているように思えるのです。「幸福追求」は必ず行き詰ります。まず他人のそれと衝突するでしょう。そうするといったいどうしてそれを調停するのか。
 また、人は、決して「運命的なもの」から逃れられません。別の言い方をすれば、理不尽な偶然のいたずらから逃れることはできません。人間の手ではどうにもならないことがいくらでもあります。こうなると、「幸福であろう、幸福であろう」という強迫観念がむしろ不幸をもたらしてしまうのです。
 実は、前作の『反・幸福論』を連載している最中に東日本大震災が起きました。まさに、どうにもならない理不尽で偶然の途方もない力が、人の幸福をあざわらうかのように吹き飛ばしてしまったのです。
 私には、この大震災は、われわれの追求してきた幸福のあり方、生活の組み立て方を根底から考え直す契機となるべきものと思われました。まさしく、人は、むきだしの生と死の前に立たされたのでした。死生観こそが求められているのでした。被災者や被災地を考えれば早急な「復興」が必要なことは言うまでもありません。しかし、その「復興」は、いく分かは新たな社会像をさし示すものでなければならず、そのためには何らかの自然観や死生観がなければならないのです。

 (佐伯啓思.『日本の宿命』 ,新潮社, 2013年. p.6-7)。


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佐伯啓思  『新潮45』6月号より抜粋

2013-08-26 10:52:01 | 抜粋
『新潮45』 (2013年第6月号)で佐伯啓思氏の発言の引用
佐伯啓思×西田昌司の対談”日本人が一夜にして蘇る「秘策」あり”
小見出し”「国際社会」の罪深さ”というテーマから引用
【佐伯】・・・・。考えてみると、近代社会は、たとえば近代国家は個人の自由を基本的な価値にしましたね。生命、自由、そういうものを基本的人権としてまず尊重する。そして平和でしょう。民主主義、平等主義。それに幸福、富の追求。これは基本的に市場原理で行って行く。これらを重要な柱にして、国家が成り立って来ましたね。
近代国家や近代民主主義の形成期には、何かある種の理想のようなものも、もしかするとあったかも知れない。あるいは、それを抑圧していた専制君主がいた時分ならね。もっと個人の自由がほしいとか、みんな平等なはずだとか、そうした声が少なからず「理想」に聞こえたかもしれません。しかしある程度達成されると、結局、国民一人ひとりの放縦な欲求の解放にになる。皆が自由を求めればその自由は競合して互いに自由の食い合いになり、最後は誰かが「力」ににものを言わせるという話になってくる。
・・・・。
【佐伯】幸福や富を追求する場である自由競争も同じですね。結局「力」です。一見、競争を公正なルールで行っているように見えますが、そのルールの中で力の強い方がどうしたって勝つように出来ているわけです。
そうすると、今、市民社会なり国際社会なりを作っているように見える近代国家の生み出した基本的人権、自由、平等、それから市場競争や富の追求であるとか、こうした原理原則、近代的なルールも、一皮剥けばやはり力の強いものが有利になるように出来ているという話です。
『新潮45』 (2013年第6月号), p.35-36で 佐伯啓思氏の発言の引用

『新潮45』 (2013年第6月号)で佐伯啓思:反・幸福論第29回より引用
小見出し”「大地の経済学」から引用
 ・・・・、われわれの経済観念はどうしても土地に対する信頼に基づいているのです。よかれあしかれそこから始まっているのです。「農」がまずは基本なのです。ここで別に『日本書紀』を持ち出して、天孫降臨に際して、アマテラス大御神が、その孫に稲穂を持たして、高天原の稲作生活を人間に伝えた、という話をもちだすまでもないでしょう。「ニニギノミコト」がすでに稲作を暗示する言葉で、葦原の国は葦が茂った場所です。その場所が、稲穂がおい茂る瑞穂の国でした。米作りは、かくて、もともと日本人にとっては、神とともにある生活であり、したがって、神に対する感謝やそれを表現する共同体の祭りと不可分だった。農と村と祭りは不可分だったのです。
ここに、稲作、米作りは、人が痩せこけた土地に働きかけそこから商品を作りだすというような西欧の経済観念すではなく、それ自体が、神のめぐみであり、さらには自然のめぐみである、という観念もでてきた。日本では、いくら土地を耕しても、決してジョン・ロックのような「労働価値説」などでてこないのです。農は、日本では、かくて、神とともに生きる生活が作り出すおのずからの秩序にほかならなかったのです。
 アマテラス大御神の親切心が日本資本主義の原型だなどとはいいません。しかし、土地がある程度、安定した形で価値を生みだす社会における経済観念は「砂漠の経済学」とは大きく異なったものであることは容易に想像のつくところでしょう。「無」から「価値」が生みされる。さらには「カネ」が「カネ」を生む、という錬金術的発想はわれわれには無縁というものなのではないでしょうか。われわれにはあのアラブ人のように「失敗してもどうせ無に戻るだけさ」というあっけらかんとして覚悟もありません。失敗しても土地が残るのです。辛抱強く待てばまた富は生み出されるのです。ここから日本人の経済観念の特徴がでてきます。勤勉さと忍耐力、組織の重視、集団の規律への従順、短期の利益より長期の安定への志向、金銭的評価にのらないものの重視、労働目体への敬意といったものです。ここでは利益を生むよりも、汗水たらして共同で働くことが大事なのです。
 かくて「砂漠の経済学」に対して、日本のそれは、強いていえば「大地の経済学」といってもよいでしょう。
 そしてこれらは日本的経済のエートスとされたり、日本的経営の特質などといわれてきたものなのです。それほ、「砂漠の経済学」である、富を生むものとしての「資本」への期待、どこへでも持ち運べる「カネ」への固執、個人能力の
重視、といったエートスとは対照的といってもよいでしょう。
 今日、日本経済はたいへんな苦境に立たされています。アべノミクスによってちょっと調子が戻った、というようなことではすみません。グローバルな激しい経済競争のなかではどうしても苦境に立たされるのです。
 それは、よくいわれるように、行政規制が強すぎるからだとか、非合理的な日本的経営に固執しているからだといったようなことではありません。もっと根本的なところで、われわれの心の奥底にある経済観念とグローバルな金融経済を動かしているエートスの間にあまりに大きな隔たりが生まれてしまっているからです。「砂漠の経済学」のエートスはなかなかわれわれにはなじまない。ヘッジファンドに代表されるような個人主義的で狩猟的な富の獲得という精神は、「大地の経済学」のエートスとは容易にはなじまないのである。
 安倍首相は著書『新しい国へ』(文春新書)の中で、どうも今日のグローバルな金融本義は強欲でよくない、日本はいわば「瑞穂の国の資本主義」でいかなければ、と述べています。「瑞穂の国の資本主義」とは、「農」の上に「工」
がのり、その上に「商」がのり、その上に「金融」がのるような構造をもった経済です。支えるのは「農」なのであり、この土台があってようやくバランスの取れた経済ができると。そこで始めて勤勉の精神や集団的な協力といつた国の精神」をもった日本の経済が成立する。それは、金融中心のいわば強欲主義とは違うのです。
 今日、グローバルな金融資本主義は、ますますバブル的になり、刹那的であり、利益優先的になっています。「無」から「金(カネ)」を生みだすことに奔走し、相互に食い合っている有様です。それはますます強欲資本主義に近づいているようにみえます。
 この時代に、日本人の「大地の経済学」にみあった経済像を描き出すのはたいへんな作業でしょう。われわの経済観念は、激しい競争を通じて個人的利益を追求するものでもないし、錬金術的にバブルによってカネがカネを生むことをよしとするものでもありません。すべてを合理性と効率性による判断に委ねようというものでもありません。それゆえにこそ、今日、苦境に立たされているのは、このようなわれわれの経済観念なのです。そして、本当はわれわれ自身が復権を期待しているものも、このような経済観念なのです。

佐伯啓思. 反・幸福論 第29回「砂漠の経済学」と「大地の経済学」".『新潮45』 (2013年第6月号), p.330-332
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書名『人生の原則』 著者:曽野綾子

2013-08-25 10:18:26 | 抜粋
曽野綾子.『人生の原則』
第五章”失意挫折を不運と考えてはならない”小見出し:消失の時代---格差のない社会などどこにもない--から抜粋
私は最近の日本を「消失の時代」に突入したと思っている。昔は何気なく、それゆえに素朴に健全に所持していた日本人の特性を、あちこちで失ってしまった。しかしその恐ろしさに気がつかないでいるのが現状だ
まづ日本は世界一の安定した国民生活を享受している。多少の願わしくない変化はあっても、経済的安定、餓死者のでない生活の保証、電気・ガス・水道の安定供給、優秀な警察による犯罪の少なさ、正確で安全で清潔な公共の交通機関、義務教育の徹底などを享受しているが、それを当然と感じて感謝もない。
してもらって当たり前。少しでも自分が苦労することは政治の貧困として告発しようという甘えの心理は蔓延した。自分の得ている幸運の自覚の消失した時代に入っている。
昔は誰でも、職人として数年間の長い徒弟期間を経て人るの職業に専念し、その道のプロになって一生を終わったものだった。
・・・・
辛抱する力の消失というか、日本の誇るべき職人が消失した時代を迎えたのだ。
・・・・
格差はいけない、それは人道に反する、という。しかし格差のない社会などこにあるだろう。・・・・今は願わしくない生活の中からも学ぶという姿勢を学校も親も教えない。
・・・・
戦後教育は、絶対にありえない平等を要求し、それがあたかも実現できるかのような錯覚を子供に与え、各々の人が自分が立っている地点、自分に与えられた資質を生かすことを指導しなかった。。
平等というものは、目指すものではあるが、DNAは一人一人違うということが、平等はあり得ないことを示している。
・・・・・
そのえっか、不運を抱える人に対して国家が助けるのも当然だが、大切なのは、個人の心の優しさだという点は忘れている。個人は、心からの道場、慈悲、現実に惠ことなどができて、初めて人間になる。しかし今の人たちは、「困った人は、国家に助けてもらったらいいんじゃないの?」と組織による救済を当てにする。慈悲の心の消失した、殺伐たる時代になったのである。
・・・・
善か悪か、どちらかだと考える幼い考えが戦後の日本に定着した。物事の両面性を見られる大人の日本人が消失してしまった。
・・・・
しかしすべての意識の背後にある最大に危険な現象は、人間は本来性悪なるものだ、という苦い自覚の消失である。最近の多くの日本人、ことに進歩的な人権派と自分を見られたい人たちは、自分が善人であることの証明に狂奔している。平和は必ず大きな犠牲を伴い、しかも現世ではなかなか実現しないほどの稀有なものなのだ。しかし外敵は入って来ず、餓死しないだけの生活の基本は守られている日本では、容易に善人ぶることが可能になっている。自分はいささかの悪人だといういう意識の消失こそ、日本人の魂を堕落させるのである。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.191-196)。

第五章”失意挫折を不運と考えてはならない”小見出し:職人国家の無名の名人たち----教育は強制に始まり、自発的意欲に繫がる--から抜粋
・・・私は日本が、市民の間にプロ級の仕事師の魂をもった人材を潜在的に多く抱える職人国家として確固たる地位を占めることを心から歓迎している。
・・・・
凝り性というものが、実はそんじょそこらに見当たるものではない国民的特徴なのである。

・・・・
精巧な作品を要求する職人的執念と、持続して何年も修業する才能とが、綿々と千数百年近くも続いたからこそ、日本には精緻を極めたIT産業が生まれたのである。それこそが日本の実力であり、宝だと私は信じている。
・・・・
とにかく日本人は、性向としてはものを創るのが本能的に好きなのだ。しかも工夫して、常に改良に改良を重ね、完璧なものを作る過程を楽しむ。優秀な技術を生み出すことが、彼らの快楽なので、世界的名声などどうでもいい。彼ら自身が自分の作品の批評家なのである。こうした人々が日本人の本性であり、世界的に貴重な「資源」なのである。
辛さに耐えて、プロとしての長い道のりを歩くことができる根性を、教育も意識して育てることが必要だ。教育は自発的でなければならない、などという間違いが、日教組教育の時代には看過された。しかしあらゆる教育は、幼児は強制に始まり、それが自発的意識に繫がる。・・・運がなければだめなのだが、適当に頭が悪くて、しかし長く一つのことを持続できる辛抱強さも同じくらい大切なのだ。
・・・・

(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.201-208)。

第五章”失意挫折を不運と考えてはならない”小見出し:勇者の苦悩---すべての人を完全に納得させられ答えなどない---から抜粋
戦後、私たち日本人は、大きな幸運に恵まれて来た。地域戦争にも巻き込まれず、大旱魃、大都市が呑み尽くされるような火山の大噴火にも遭わずに済んできた。経済はほぼ右肩上がりで推移し、生活のレベルは世界的な高さを持つようになり、平均寿命も延びた。それはすべての同胞のの努力の結果でもあった。しかし日本人はそれらのことを幸運、幸運と受け止める才能は失っていた。幸福と安全の配当は当然のことだが、感謝の対象ではなかった。
人々は「安心して暮らせる」生活を求め、それが可能であると考え、一部の人はその安全と安心が実現されるのが当然だと思ったようだ。人間にとって現世では叶わないことが二つだけある。一つが「安心して暮らせる」生活であり、もう一つが死なないことである。
・・・・
人道主義者は、常に完全な正義、完全な安全、完全な善の世界を追求して意気高らかだが、私はむしろ現実社会の不完全な正義、不完全な安全、不完全な善に耐えつつ、前進を目指して現世に関わり続ける人の苦悩を察して生きたいと思っている。最善ではない次善の善を求めて常に生き続けることが、現在では実質的に勇気と同義語になっており、それをできるのはほんとうの勇者たということだ。

(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.223-225)。
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書名『人生の原則』 著者:曽野綾子

2013-08-25 08:07:29 | 抜粋
曽野綾子.『人生の原則』
第四章”終わりがあればすべて許される”小見出し:思考の源流---働きたくないものは、食べてはならない--から抜粋
「働かないものは食べてはならない」と昔の人は言った。
・・・・
因果応報ということは、長い間、人類の歴史の中で、当然の帰結と思われていた。よいことをすれば報われる。悪いことをすれば、ひどい目に遭う。それが誰の目から見ても妥当なことだったのである。
しかしそこに運というものが介在して来る。どんなにいいことをしていても、ろくでもない結果になることもある。
・・・・
私も、人間の社会で運が大きいと、いつも思っている。今まで飛行機事故に遭わなかったのも、ひたすら運の結果である。だから幸運でも思い上がらず、不運に遭った人にたちょっと手をさし延べるのがいい。
ただ最近の世の中では、基本的発想がくずれて来た。たくさん働いた人と怠け者が同じ結果を得るのではおもしろくない。さんざん遊んで浪費した人と、爪に火をともすようにして倹約してきた人とが、同じ老後の経済状態になるのでは、正義が通らない。
しかしその点は無視されたのである。平等はどんな人にも平等でなければならない。だから私たちの周囲には、生活保護を受けている人が増えた。現在の貧しさの原因が、その人の心がけが悪かったからであろうと、現在食べていけない人を、私たちは支えていくことになる。
人間が助けたいと思う相手は、病気などで働こうにも働けなかった人である。しかし今は先進国では富より貧乏が強いと思うことがある。怠けて貧乏になってしまっても、必ず食べるものがある、生きられる、と言う社会も又、考えようによっては筋が通らない。
・・・・・。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.153-155)。

第四章”終わりがあればすべて許される”小見出し:治療優先順位の選別---美に殉じることは、最も人間的な選択--から抜粋
現在生きている多くの日本人は、人格の形成を戦後に行ったのだが、そこでは、皆が等しく賛同するような「良き事」を満場一致で決める習慣があった。真理の追究、言論の自由の確保、公正な裁判の実施、平等の思想、少数民民族の保護、などである。これらは、昔風の言葉でいえば「真善美」のうちの真と善の範疇に入る。そしてkの二つのものの共通した特徴は、ほとんど反対者がなく、「皆と一緒」に行動できる安心感があることだ。
・・・・
しかし最後の一つ、美に関しては、戦後教育は全く教えて来なかった。美と言うと美術の教育さと思っている人が多い。美はそんな表面的なものではなく、その人の生き方の根幹を、全く個人的に、一人で決めて実行する思想である。教育はそんなものがあるということを教えなかったから、その為に必要な勇気についても全く触れなかった。
・・・・
美とは、欲得の計算を遠く離れて、自分が美しいと思う姿に殉じることである。美に殉じることだけでは、誰も----親も教師も----教えられない。自分を犠牲にして他者を生かす、という行為は、人間だけにしかできない最も人間的な選択で、しかも仲間と一緒に出来ることではない。戦後民主主義が、完全に教えなかった領域だ。老年を長く生きるようになったら、時間はたっぷりあるのだから、最後に手つかずに残された自分独自の「美」の世界とは何か、考えて終わりを迎えるべきだろう。
・・・・・。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.153-155)。

第四章”終わりがあればすべて許される”小見出し:行き止まりは結論ではない---人間の生活は死ぬまで変化し続ける--から抜粋
「MOKU」2011年12月号で理化学研究所播磨研究所所長・石川哲也氏は次のように話しているのである。
「だから、『原発は悪だ。止めろ』という単純な答えに向かってしまうんですね。もし、原子力に替わるエネルギー供給が確保されるならば、それでいいですね。あるいは、原子力を停止させることが、新たなエネルギーを生み出す方向へ加速させることもあるかもしれない。ただ、かっての『原子力は安全だ』という思考停止の安全神話をそのまま裏返しにして『原子力は悪だ』と言っていても、結局は同じ思考回路であることに替わりはありません」。
・・・・
私たち人間は、普通行き止まり型の考えが好きなのかもしれない。こっちがだめなら、あっちだ、という考え方が、そのどちらも実は行き止まりである場合が多い。
・・・・
氏の対談相手の井原甲二氏(同紙主筆)も言っている。
「日本人の傾向として、すぐに『出来ないこと』の理由探しを始めるんですが、『できること』と『できないこと』を明らかにして、『ここまではできる』『こうすればもっとできる』を積み上げていくことが重要ですね」
・・・・
死ぬまで人間の生活は柔軟に変化し続ける。「これでおしまい」と言って人間が楽をできるのは、本当に死んだ時だけなのだ。
・・・・・。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.168-170)。
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書名『人生の原則』 著者:曽野綾子

2013-08-23 13:59:47 | 抜粋
曽野綾子.『人生の原則』
第三章”ほんものの平和には、苦い涙と長年の苦悩がある”小見出し:想定外の人生---どんな困難な中でも人間であり続けること--から抜粋
「和」を意識するには、「和」が必要とされる社会の概念が存在する必要があるだろう。放っておいても皆が仲よくしているなら、何も和をもって美徳とする必要もないのだ。
この天災(東日本大震災)は不幸な事件だが、これによって日本は、再び日本は名をあげる機会を得たと得たと私は解釈している。原発問題は最終結論を出すのに少し時間がかかるだろうが、それ以外では、被災民とそれを支える社会の仕組みを考える点で、日本人が整然とこの天災に立ち向かう姿を見せたからである。
被災地の住民たち、それを救う自衛隊、警察、消防、ほかのあらゆる人たちは、どんな困難の中でも人間であり続け、自己犠牲的であり、秩序を乱さなかった。・・・・彼らは任務をやり遂げた。何より災害時に、実に略奪も放火もどさくさまぎれの不当な利権や賄賂もはびこらなかった社会など、世界ではほとんど皆無だと言っていいだろう。
分野を越えた組織が被災者に手を貸し、収集のための手段を提供した。人々は逆上してもいず、絶望的な行動や暴力的な行為にも走らなかった。食事もガソリンもその他の援助物資もお、自分に与えられる分を秩序正しく列を作って受け取り
,時には自分たちの合意で分け合い、明らかな利己主義に走って分捕るような行為も見せなかった。
愛する人を失った人たち、家や家財道具のすべて、過去の思い出の品、職場までなくなった人たちは、もちろん暗澹たる心情だったろうが、それでも泣き喚くこともなく、必死で心の闇に耐えていた。日本人は抑制の利く民族であった。そしてこの種の心理の抑制なしに、複数の人間がかかわるあらゆることは成功しないのである。
・・・・
何度も書いているのだが、民主主義は、安定した上質の電気が、国の隅々にまで供給されている国にしかありえない、という原則を持っている。・・・・民主主義と電気とは、不可分の関係にある。電気が国の一部にしかないか、あっても始終停電したりしている国にあるのは、民主主義ではなく、族長支配の政治体制である。・・・・・。
電気の背後には、水がある。水は生命の基本的なものだが、同時にきれいなエネルギーと言われる水力発電とも不可分の関係にある。日本は山があるおかげで水にも恵まれていることのありがたさを、普段の日本人は意識しない。しかし砂漠に行けばそれはよくわかる。
・・・
しかし水は命の源なのである。だからその管理には、日本人の信じられなほどの厳しさが要求される。
・・・・・。
しかし水と電気の保有は、かなり余裕があっても多すぎるということはない。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.111-115)。

第三章”ほんものの平和には、苦い涙と長年の苦悩がある”小見出し:岩漠の上の優しさ----性格も才能も平等ではない。運命も公平ではない--から抜粋
今でも世間は、平等と公平を希求し続けるが、私の見るところ、人間に完全な平等も公平もあるわけがない。
・・・・
性格も才能も平等ではない。運命も公平ではない。しかしその偏った才能の使い道や、幸福を感じる能力は、それとはまったく別の機能で動いており、比べようがない。
戦後の教育は、平等であり公平であることが、可能であるかのように教えて来た。そしてその原則が守られない場合は、社会が病んでいて、どこかに「悪い奴」がいるのだ、というような教え方をして来た。しかしこんな単純な理由づけは、もちろん大人たちが人並な眼力で世間を見ていたら到底と通らないようなものだ。
・・・・
もらう立場ばかり狙っている人は、ほとんど誰とも「人間としてかかわった」ことがなくて済んでしまうので、一生ぎすぎすした性格ばかり助長され、誰から見ても羨ましい人生を送っているとは言えないように見える。
・・・・
戦場で他人の荷物を持ってやることは、もっと大変だろう。しかしそんな立場を取れる人こそ、現実の「和」を作ることは間違いない。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.137-141)。
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書名『人生の原則』 著者:曽野綾子

2013-08-23 07:37:06 | 抜粋
曽野綾子.『人生の原則』
第一章”人は人自分は自分としてしか生きられない”から抜粋
人は人、自分は自分としてしか生きられない。それが人間の運命だろう。個別の人としてこの世に生を受けた以上、人間は一人一人違っていて当然だ。無理して違わせることはないが、遺伝子が違うのだから好みも違って当り前であろう。
人がするから自分も同じようにする、ということを、私は息子に許さなかった。友達がマンガ本を読んでいるからボクも、という要求はいけない。友達が持っていて、自分にはないものもあるだろうが、友達は持っていなくて、自分には与えられているものもあるだろう。だから違いを言い立ててはいけない。
この認識を確立することだけが、人の幸福を左右するように思う。

どんな小さなことでもいい。自分の選択と責任において、背伸びしなければ、自分のできそうな仕事に就くことは、多くの場合可能である。
・・・・
どこの途上国のでも、人々は文字通り背を曲げて一生懸命働いて暮らしている。
・・・・
人が生きるということは、働いて暮らすことなのだ。中国やソ連など、社会主義の思想の強かった国では、自分で仕事を選ぶこともできなかった。党や国家が決めたのだ。しかし日本では、何とか頑張れば自分が好きな職業に就ける場合が多い。幸せなことだ。
問題は好きな仕事というものがない人と、長年、同じ仕事を辛抱して続ける気力にかける人たちが、けっこういるらしいということである。何事も長い修業代が要る。小説家の生活もそうだった。何年経ったら、作家になれるという保証はどこにもない。失業保険もない。時間外手当もつかない。それでも好きだから下積みを続けた。人と同じことを求めていては自分の道は見つからない、ということだけははっきりしていたのである。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.43-45)。


第一章”人は人自分は自分としてしか生きられない”から抜粋
(阪神・淡路大震災についての記述につづけて:私が記入}
いい行いをした人の家が残されたのではない。地震の被害は、因果応報とは全く無関係の横暴な選択、いや無選択そのものである。
・・・・
善人はその行いの正しさゆえに難を逃れ悪人は勧善懲悪の結果として老病死に遭うという思想は、聖書世界では、旧約の特徴である。新約は勧善懲悪的因果応報関係を離れて、専任もまた悪人と同じように、時にはいわれのない災難に遇うことになった。
現代の人達の特徴は、観念や知識としては、9・11を典型とする信じられないような災害があるとは知りつつも、自分がその当事者になるとは決して思ってはいない。昨日までの生活が、今日も明日も続くと思っている。
・・・・
国家も社会も、決して本質的には個人を守るものではない。いい行いをしたからといって,現生で神仏がその人だけを特別扱いにして守る、ということもない。
・・・・
戦争を知っている私たち世代は、今の若者とは違う強さを持っていることを、この頃、折あるごとに感じることふぁある。何より環境の変化に強い。暑さ寒さ、貧しさ、ものの欠乏を、何とかして切り抜ける心身の強さを持っている。
・・・・
私は戦争のおかげで、不潔にも強くなった。
・・・・
願わしくないことだが、私は戦争からも生き方を学んだ。だから戦争はあってはならないことだが、・・・・。戦争は明らかに私を育てた。戦争を知らなかったら、私は今よりもっと愚かしく弱い、自己中心的な人間になっていただろう。
今私は、すべての状態と変化に静かに耐えて、我を失わない人間になりたいと思っている。つまり人間は、地震のような非常事態にも穏やかな日常にも、清潔にも不潔にも、富にも貧困にも、善にも悪にも、著名人にも無名人にも、全く同じような誠実さと落ち着ついた判断力で向き合える人になることが理想だ。
・・・・
平常心がないと、せっかく生まれたこの人生を充分に味わえない。人との友情も長続きしない。それには、今でも自分の心と体を、いつ起きるかわからない異変に耐えられるようにいつも鍛え続けるほかはないと私は覚悟している。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.57-61)。


第一章”人は人自分は自分としてしか生きられない”から抜粋
私たちは普段得ているものを少しも正当に評価していない場合が多い。
まづ第一に建康で食欲があることのありがたさである。
・・・・
健全な食欲に恵まれているということは、健康の基本だろう。そしてさらに、その食欲に合わせて食べたいものを食べられる社会的、経済的余裕を持っていることは、人間としてはほとんど最高の贅沢だと考えていいのである。これが私たちが得ているのに気がついていない第二の幸福である。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.64-65)。

地震で断水や停電を知ったおかげで、日本人は水と電気のありがたみを知った。すばらしい発見だ。昔から私はすべて自分の身に起きてしまったことは、今井があるものとして受容することにしている。そのようにして、願わしいものからも、避けなければならないことからも、私たちは学び自分を育てていくことが穏やかな生き方なのだと思っている。・・・
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.68-69)。

第一章”人は人自分は自分としてしか生きられない”から抜粋
私が深く尊敬するのは、どんな道にせよ、その人が長年一筋に歩き続け、その結果として社会に尽くしたというその事実なのだ。
(曽野綾子.『人生の原則』 ,河出書房新社, 2013年. p.76)。
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