matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

武田氏最期の城、新府城

2018-04-07 10:55:18 | 日本100名城




 新府

 3月末のよく晴れた日、新府城跡(山
梨県韮崎市)を訪ねました。

JR中央本線新府駅(無人駅)で下車、
10分程歩くと新府城跡の石標がありま
した。

赤い鳥居の先の長い階段を上ると、本丸
跡地に藤武稲荷神社が建立されています




新府城は、甲府盆地西部の七里岩台地上
に立地する平山城。石垣は使われていま
せん。

七里岩突端部の南北7~8キロ、東西2
キロという周辺の自然地形全体が軍事的
意味をもつ大規模な城です。

武田家を代表する甲州流築城術の集大成
となる城といわれています。

戦国期に拡大した武田領国においては中
枢に位置します。



武田勝頼が、1581年(天正9年)か
ら築城を開始し、年末には普請なかばで
入城しました。

1582年織田・徳川軍の甲斐侵攻によ
り、勝頼は未完の城ではもはや大軍を支
えきれないと判断、3月岩殿城に移るた
めに、城に火をかけます。

勝頼は武田氏ゆかりの天目山(甲州市)
へ追い詰められ、28代続いた名門武田
氏は滅亡します。495年目の落日です


辞世は「おぼろなる月もほのかに雲かす
み晴れて行くへの西の山のは」

享年37.


  (武田勝頼公霊社)

同年6月には本能寺の変により信長が
死去。

徳川家康と北条氏直が甲斐へ侵攻。
徳川勢は新府城を本陣とします。

10月には徳川・北条同盟が成立し、
北条勢は甲斐から撤兵しました。



関ヶ原の戦いを経て、甲斐は徳川氏が領
し、甲府城が甲斐の政治的中心地となり
、新府城は廃城となりました。



近年発掘調査により、土塁や堀跡などの
遺構が確認できるようになりましたが、
門や建物の痕跡は確認できていないそう
です。



新府駅で次の列車を30分程待ちました。

ホーム間近に満開の桜、遠方には残雪の
八ヶ岳連峰が見えました。

(新府城は「続日本100名城」に選定
されていますが、本ブログでは便宜上、
「日本100名城」ジャンルに入れまし
た。)


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