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立ち止まって考える

2013-12-16 16:45:21 | 日記
加賀乙彦の『湿原』を読むと、久しぶりにジッとくるものを感じた。
北海道の根室在住の厚夫と大学教授の娘の和香子が新幹線爆破事件に関連したということで、厚夫には死刑、和香子には無期懲役を検事から求刑され、一審ではその通りとなった。しかし、若手の弁護士の阿久津に変えて戦うと、二審では無罪となる。ハッピーエンドで終わる小説だった。
この小説で「組織で働く人間は常に疑う」とある。人を見ると、泥棒と思えが会社や官公庁、警察に充満している。
社会に出ると、自然と素直、素朴な目が薄れてくる。「お前も経験豊富だから八何の原則をしっちょるだろう、何人が、何人とともに、いつ、何処で、何人に対して、何故に、如何にして、何をしたか。」と問わなければ優秀じゃない。特に検事や警察は代表例だ。こういう問いをされるのは人間にとって、居心地よいものではない。
「私は車。車というのは人間の多様な能力のうち、前進だけを拡大し、あとの能力、夢想、立ち止まり、脇道にそれること、しゃがみこむこと等をすべて切り捨てられている。学校に入れられ、進学がたった一つの目標で、前進前進ただ前進、狭い道を押し合いへしあっているうち、私は疲れ、立ち止まって脇道にそれたくなり、車でなくなろうとしたら、組織の人々が変だ、落ちこぼれだと騒ぎ出した。」
我々小さい頃から競争に追い立てられる。学校の受験競争から会社の出世競争と。死ぬまで競争を強制されている感がする。最近では、死ぬ年齢まで競争する人が増え出した。何か変なものに人間は毒されているのではないかと思うようになった。 競争に勝ったものを勝ち組とか平気で言う人を信用しない。
医者も組織、体系を大事にする。体系に違反すると、全く信用をおいてもらえない。今の医学者で異端は免疫学や漢方、断食療法だろう。そういうのを全うな医者は信じてはならないのだ。すべて権威が優先する。
特に、日本人は権威に弱いのではないか。あっという間にテレビの医者がこういうことを言ったから、ある食べ物がすぐに売り切れになる。恐ろしい現象ではないか。
マスコミも一審で有罪で被告人になると、被告人の人権も台無しに家族のことなど平気で公開する。ところが、二審で無罪となると、以前の大胆な行為を忘れたかのように無罪人に平気で今の心境を問いに来る。大衆の見世物をつくることが出来るなどんなことでもするのだ。
人間、時には立ち止まらないと、行き着くところに行ってしまう感じがする。とてつもない世界に。今はグローバル化が正義になっている。これを疑えば、組織で生きていけない。組織は人間を家畜にしてしまう。
モーゼの十戒には、殺すなかれ、姦淫するなかれに続いて盗むなかれがある。殺すのは他人の命を盗むこと、姦淫するとは他人の貞操を盗むことで、盗みを悪の根源としていることにこの十戒の基本がある。
イヴが禁を犯してて林檎を盗んだのは、禁を犯すことが楽しかったからではないのか。神は人間が持つ最大の弱点が盗みにあると知り、それを人間に知らしめるために禁じたのではかったか。人間の盗みの歴史を執拗に描きだすことによって神の存在を示す、聖書とはそういう書物らしい。
企業に入ると、平気で盗みが行われる。人の良いところを盗めと言われる。新製品開発などその例だ。これを罪悪と思わないで行う。これが問題なのだ。みんながやっているから、僕もということが頭から離れないのだ。
人の物を盗むのは明確な犯罪だが、人の受け売りを言ったり、本から名言をとって朝礼で言うのは賞賛される。ちょっとしたことだが、これらも罪ではないのか。どうやら人間は盗みは死ぬまで何らかの形で行っている。そして、その重大さを知らないです死んでいく存在のようだ。