某の日々是好日

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川中島古戦場

2018年08月26日 21時45分00秒 | 史跡めぐり


「川中島古戦場」周辺を巡ってきました。

半年ぶりの川中島古戦場。
今回のコースは、①JR長野駅➡②諸角豊後守の墓➡③川中島古戦場➡④松代城(海津城)➡⑤山本勘助の墓➡⑥真田信之の墓と設定。


JR長野駅からアルピコ交通3番乗り場より、「古戦場経由松代行き」に乗り、まずは、「諸角豊後守の墓」へ。
下車は「下氷鉋」です(➡もう少し便利の良いバス停があるかもしれません)




諸角虎定は・・・
室住虎光の確かな史料における初見は弘治3年(1557年)の京進銭納入に際した奉行人連署手形であり、弘治年間には秋山虎繁(信友)とともに信玄に美濃情勢を報告している。武田氏の信濃侵攻に際しては信濃国衆とともに信濃柏鉢城を守備している。



永禄4年(1561年)、第四次川中島の戦いに出陣し、討死した。一時上杉方に首を取られるが、与力の成瀬正一と石黒五郎兵衛が取り戻したという。
跡式は嫡男の昌守が継ぐが、昌守は元亀元年(1570年)、原甚四郎と争いによって改易された。以後、室住氏の名は史料には見られなくなる(Wikipediaより)。



「諸角豊後守の墓」
諸角豊後守昌清(虎定)は武田信玄の曽祖父信昌の六男で武田家譜代の重臣として信虎・信玄の二代にわたり仕えた旗本五十騎持ちの剛勇は侍大将であった。
また信玄の弟、典厩信繁を幼少時から支えてきた守役で先見性のある智将でもあった。
永禄4(1561)年9月の第4回川中島の戦いにおいては本陣前線の右翼を担い八十一歳の高齢で出陣した。
「きつつき戦法」を見破られて武田軍の劣勢に兄信玄の危急を救わんと、副将信繁は上杉軍に切り込み壮烈な討死をした。諸角豊後守は信繁の討死の報せに激怒し、「もはや我が武運の尽きる時、我もお供つかまつらん」と、一途に主君信繁の後を追うように僅かな手勢で敵陣へ突入し奮戦のすえ壮烈な最期を遂げた。
ここを死に場所とした老将、諸角豊後守の無念さや心情に寄せた里人達の哀れみ深さと思いやりが今でも人々の心の中に生き続け、この地では「もろずみさん」の愛称でで親しまれており、塔之腰集落挙げて「諸角講」の皆さんにより、供養のため江戸時代の頃より毎年春・秋二回の祭典が行われている(案内板より)。






続いて、「川中島古戦場」を目指しました。

「諸角豊後守の墓」から「川中島古戦場」まで徒歩で約20分。



川中島古戦場は、長野県長野市小島田町にある、越後:上杉政虎対甲斐:武田晴信軍による川中島の戦い・第四次合戦(八幡原の戦い)に於いて、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられる。

川中島古戦場とはいえ、この地で戦闘があった訳ではなく、武田軍が勝鬨を上げたとされる八幡社境内と、討ち取った敵将兵の首実見を行ったとされ、周辺の広い田畑の中に残されていた首塚や「三太刀七太刀跡」の石碑(大正期に建造)が散在していた。また、実際に両軍が激突した最前線はこの地から2~3km西方に当たるとされる。現在の南長野運動公園と国道18号篠ノ井バイパスを挟んだ西側には「合戦場」の地名が残り、こちらの一帯が激戦地であり最前線であったことを物語っている(Wikipediaより)。



1561年(永禄4年)、第四次合戦(八幡原の戦い)の舞台。
第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、武田上杉双方で6千人以上の死傷者を出した。
    


武田信玄と上杉謙信の一騎打ちが有名な合戦ではあるが、確実な資料からその事実は確認されていない。
   
ちなみに、「甲陽軍鑑」では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったと書かれている。
  




また、上杉側の史料である「北越軍談」では一騎討ちが行われた場所を御幣川の川中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。





「首塚」
この塚は以前は屍塚と呼ばれ、1561(永禄4)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6000余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。
ここから東南へ約180mのところにも同じく大きな首塚がある。昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している(案内板より)。






続いて、「松代城へ」

アルピコ交通「川中島古戦場」バス停で乗車、「松代駅」で下車し、徒歩10分ほどです。
近くには、真田家の貴重な品々を展示する「真田宝物館」もあります。



武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれている。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれた。



江戸時代、真田氏が松代藩主となると、松代城を中心に真田10万石の城下町が発展。明治の廃城にともない建物が壊されたため、長い間石垣を残すのみでだったが、1981(昭和56)年、新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された。その後、長野市により環境整備工事が行われ、2004(平成16)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元された。
桜の名所としても知られ、4月中旬頃、見頃を迎える。





訪れる人も少ない、小さな城址公園でした。
川中島の戦い時の海津城を偲ぶ術は見つからず・・・。




「山本勘助の墓」
➡松代城からタクシーで10分。

道が狭いという事前情報を得ていたため、旧「金井山駅」前(下の写真)にタクシーを止め、そこから徒歩10分ほどです。情報に違わず、道はかなり狭いため、直接車で現地に赴くのは難しいと思います。



「柴」の交差点まで出れば、案内板がたくさんあるため、あとはスムーズ。
➡NHK大河ドラマ「風林火山」の恩恵?





山本勘助は、三河国(愛知県)の出身。26歳より諸国を巡り修業し、天文・兵法・剣術・築城術等武芸百般を体得。44歳にして武田信玄の軍師となり数々の策略を立て、上杉謙信の攻撃に備えて築いた海津城(松代城)の構築の手がけた。永禄4(1561)年9月10日の激戦において、信玄に勧めた「きつつきの戦法」を謙信に見破られ、武田軍は一時苦戦に陥り、勘助は責任を感じ奮戦の後討死にした。
勘助の墓は、初めこの南、陣ヶ瀬の東、勘助塚にあったが、千曲川の流れにより荒廃していく姿を憂い、1739(元文4)年松代藩家老鎌原重栄・原正盛が、信玄ゆかりの信州柴阿弥陀堂境内に遺骨と共に移し、墓碑を建立した。1809(文化6)年には孫の鎌原重賢が末永く墓を守るために更に石積みし、今の姿となっている(案内板より)。






「川中島三討死 山本道鬼討死之図」(月岡芳年画)




「真田信之公墓所」
➡山本勘助の墓から徒歩3分。





墓碑は高さ3.3メートルの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、塔身の正面に「大鋒寺殿徹巌一当大居士」、その下の基礎石正面に三行書きで、中央に「骨頭片々即琺身」、右に「万治元戌年」左に「10月17日烏」と陰刻されている。
真田信之は、昌幸の長男として永禄9年(1566)に生まれ、弟に信繁(幸村)がある。元和8年(1622)10月、小県郡上田城から移って、埴科・更級・水内・高井の四郡十万石を領知し、民政に力を用い名君とうたわれ、松代藩の基礎を固めた藩主である。松代藩主として35年、明暦2年(1656)10月、子の信政に家督を護って臣とともに柴村の館(大鋒寺の地)に隠居し、2年後の万治元年(1658)10月17日、93歳で死去した。
館の地で荼毘(だび)に付し、その灰塚の地に墓碑が建てられた。信之の館をそのまま寺としたとも、舘の材を用いて改築したものともいわれるが、信之の法号に依り大鋒寺とした(案内板より)。





万治元年(1658年)10月17日に信之が病没した後、10月19日に法泉寺で殉死した鈴木右近の墓も傍らに佇んでいます。




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