私の祖父は7年ほど前に亡くなりました。
私達兄弟をかわいがってくれていた祖母が私が大学の時亡くなり、そのお葬式の時が生きている祖父に会った最後の時でした。
4歳ぐらいから小学校の2年ぐらいまでの間、私は祖父の家に住んでいました。
福岡と熊本の県境で、当時の新興住宅地というのかしら、丘の上のとても不便な所にありました。
私の中の祖父のイメージは、ずっと書斎に閉じこもって難しい数式を解いている数学者としての姿と、庭で野菜などを作るまめな人というものです。
孫の私達には、やさしくもなく、構うでもなく、無視するでもなく、子供好きでなかったからなのか、子供がうるさかったからなのか、色々なことを良く諭されたことはあっても、一緒に遊んでもらった印象はありません。
祖父が戦争で満洲に行き、ソ連の捕虜となり、命からがら戻ってきた話は、親戚や子供達(祖父の子供達)が集まった時など必ず一度は語られる武勇伝であり、何度も聞いたはずなのに子供だった私は右から左でほとんど何も覚えていません。
年取ってから祖父は戦争の時の思い出を書き綴った手記を書き始めました。
赤紙が来てから、約3年強の後、無一文で家に帰り着くまでを書き記した手記をきれいに製本して子供達(私の親達)と親戚達に配りました。
祖父が亡くなってから数年たって、実家でその本を見つけた私は母に頼んでそれを貰って帰ってきました。
しかしそれから約3年、ずっと納戸に入れっぱなし。
なぜかというと、読もうと思って買いためた本が何十冊もあり、順番に読んでいたのです。
そして昨日からようやく祖父の本を読み始めました。
まだ半分辺りまで、ちょうどソ連の捕虜になったあたりまでしか読んでいませんが・・・
読み進めていく中で、もちろんその中の祖父は若いので私の知っている祖父とは違っていて当然なのですが、かなりイメージが違うので戸惑いました。
中でも、出兵してから乗馬の訓練を受けたと書いてあるくだりは驚きました。
祖父から乗馬の話など聞いた覚えはなかったのです。
でもあれほどしょっちゅう回りの者に戦争の時の話をしていたのだから、きっと何度も馬の話も聞いていたのでしょう。
なのに全く覚えがありませんでした。
そして満州の駐屯地で爆撃を受け、部下達を先に脱出させて残っていた時、馬たちのことがとても心配になってきたこと。
厩舎に火が燃え移ったら馬達は逃げようもなく焼け死んでしまう。
あまりにかわいそうだと思い、炎の中をかいくぐって厩舎に駆けつけ、馬たちの手綱を全てはずして外へ放してやった事。
中の2頭だけ、自分が乗る馬と書物を乗せる馬とキープしたけれど、爆音を怖がって一頭が手綱を引きちぎって逃げて行ってしまい、もう一頭も怖がって暴れたけれど首をたたいて声をかけたら落ち着いてくれ、その馬に乗って先に脱出した部隊との合流地点まで何日もかけて馬と二人きりで進み、持ってきた米と麦は全て馬に与え、自分は乾パンのようなものを少量食べてしのいだこと。
満州の非戦闘員の死体がごろごろ転がっている所を馬が通るのを怖がり、「怖くない、死ぬ時はお前といっしょだ。」と話しかけ死体を馬に見せないようしながら通ったのに、その後壊れかけた橋を渡る時、川が深くて急流のため、別れなくてはならず、一緒に死ぬという約束を破ることを馬にわび、馬を拾ってくれる人のために米を鞍に着け、泣きながら別れた事が書いてありました。
そんな人だったなんて全然知らなかった。
爆音におびえる馬を必死になだめて、乗って逃げれるほど乗れたのだろうか・・・
持って逃げた米や麦を全て馬にやってしまうような優しい人だったのか・・・
馬にわびて泣いて別れるような人だったのか・・・
私は祖父のこと、何も知らなかったんだなあと思いました。
一緒に住んでいたころはほんの子供だったし、高校生になる頃にはほとんど会うこともなかった。
何年も会わず、最後に会ったのは祖母のお葬式の時でほとんど話しなんかしなかった。
今生きていてくれたら。
今の私なら馬の話を一緒にできるのに。
乗馬の訓練がどんなだったか、爆撃の中馬に乗って逃げた時どんなだったか、おじいちゃんから直接聞きたかったな・・・
とてもさびしい気持ちでいっぱいになりました。
私達兄弟をかわいがってくれていた祖母が私が大学の時亡くなり、そのお葬式の時が生きている祖父に会った最後の時でした。
4歳ぐらいから小学校の2年ぐらいまでの間、私は祖父の家に住んでいました。
福岡と熊本の県境で、当時の新興住宅地というのかしら、丘の上のとても不便な所にありました。
私の中の祖父のイメージは、ずっと書斎に閉じこもって難しい数式を解いている数学者としての姿と、庭で野菜などを作るまめな人というものです。
孫の私達には、やさしくもなく、構うでもなく、無視するでもなく、子供好きでなかったからなのか、子供がうるさかったからなのか、色々なことを良く諭されたことはあっても、一緒に遊んでもらった印象はありません。
祖父が戦争で満洲に行き、ソ連の捕虜となり、命からがら戻ってきた話は、親戚や子供達(祖父の子供達)が集まった時など必ず一度は語られる武勇伝であり、何度も聞いたはずなのに子供だった私は右から左でほとんど何も覚えていません。
年取ってから祖父は戦争の時の思い出を書き綴った手記を書き始めました。
赤紙が来てから、約3年強の後、無一文で家に帰り着くまでを書き記した手記をきれいに製本して子供達(私の親達)と親戚達に配りました。
祖父が亡くなってから数年たって、実家でその本を見つけた私は母に頼んでそれを貰って帰ってきました。
しかしそれから約3年、ずっと納戸に入れっぱなし。
なぜかというと、読もうと思って買いためた本が何十冊もあり、順番に読んでいたのです。
そして昨日からようやく祖父の本を読み始めました。
まだ半分辺りまで、ちょうどソ連の捕虜になったあたりまでしか読んでいませんが・・・
読み進めていく中で、もちろんその中の祖父は若いので私の知っている祖父とは違っていて当然なのですが、かなりイメージが違うので戸惑いました。
中でも、出兵してから乗馬の訓練を受けたと書いてあるくだりは驚きました。
祖父から乗馬の話など聞いた覚えはなかったのです。
でもあれほどしょっちゅう回りの者に戦争の時の話をしていたのだから、きっと何度も馬の話も聞いていたのでしょう。
なのに全く覚えがありませんでした。
そして満州の駐屯地で爆撃を受け、部下達を先に脱出させて残っていた時、馬たちのことがとても心配になってきたこと。
厩舎に火が燃え移ったら馬達は逃げようもなく焼け死んでしまう。
あまりにかわいそうだと思い、炎の中をかいくぐって厩舎に駆けつけ、馬たちの手綱を全てはずして外へ放してやった事。
中の2頭だけ、自分が乗る馬と書物を乗せる馬とキープしたけれど、爆音を怖がって一頭が手綱を引きちぎって逃げて行ってしまい、もう一頭も怖がって暴れたけれど首をたたいて声をかけたら落ち着いてくれ、その馬に乗って先に脱出した部隊との合流地点まで何日もかけて馬と二人きりで進み、持ってきた米と麦は全て馬に与え、自分は乾パンのようなものを少量食べてしのいだこと。
満州の非戦闘員の死体がごろごろ転がっている所を馬が通るのを怖がり、「怖くない、死ぬ時はお前といっしょだ。」と話しかけ死体を馬に見せないようしながら通ったのに、その後壊れかけた橋を渡る時、川が深くて急流のため、別れなくてはならず、一緒に死ぬという約束を破ることを馬にわび、馬を拾ってくれる人のために米を鞍に着け、泣きながら別れた事が書いてありました。
そんな人だったなんて全然知らなかった。
爆音におびえる馬を必死になだめて、乗って逃げれるほど乗れたのだろうか・・・
持って逃げた米や麦を全て馬にやってしまうような優しい人だったのか・・・
馬にわびて泣いて別れるような人だったのか・・・
私は祖父のこと、何も知らなかったんだなあと思いました。
一緒に住んでいたころはほんの子供だったし、高校生になる頃にはほとんど会うこともなかった。
何年も会わず、最後に会ったのは祖母のお葬式の時でほとんど話しなんかしなかった。
今生きていてくれたら。
今の私なら馬の話を一緒にできるのに。
乗馬の訓練がどんなだったか、爆撃の中馬に乗って逃げた時どんなだったか、おじいちゃんから直接聞きたかったな・・・
とてもさびしい気持ちでいっぱいになりました。
それに、とても馬を大事にして、泣いて別れる様な人だったとは。。。
ティティさんと同じじゃあありませんか!
そのお祖父さんありて、今のティティさんありって感じですね。
やっぱり血は争えないのかな?
お祖父さんとティティさんは、やっぱり同じ血が流れているのでしょうね。
今生きていてくれたらなあ・・・
私の動物好きは祖父譲りだったのかなあ。
でも、今では、
「是非キョロちゃんを見たい!」
と言ってくれています(^^ゞ
また、義父は、馬のことを必ず「お馬さん」と言います。
お馬さんは、農家にとって、どこも一家の大事な働き手だったのだそうです。
農耕馬とは同じ馬とは思えないものね。
とにかくサラは、脚もスラッとしているけど、農耕馬は、全然違って(キョロちゃんはサラじゃないけど)、もっとどっしりしていて、脚の太さなんてすごく太かったって言ってた。
実際に畑や田んぼを耕していたんだもの。
どっしりしていて当たり前だし、でないとお仕事が勤まらないよね。
どっしりしている農耕馬や馬車馬、かわいくて大好き。
今日いた青い目のペイントポニーもすごくかわいかった~。