瑞原唯子のひとりごと

「機械仕掛けのカンパネラ」ひとつ屋根の下 - 第18話 終幕にはまだ早い

 コンコン——。
 部屋の扉が叩かれた。
 遥は手を止めてノートパソコンの時刻表示に目を向ける。まもなく二十二時だ。扉の叩き方や足音からすると七海に違いない。腰を上げかけたものの立つことなく座り直し、一呼吸おいてから返事をする。
「開いてるよ、入って」
「うん……」
 戸惑いがちな声が聞こえて、静かに扉が開く。
 この時間までずっと武蔵と過ごしていたのだろう。七海はまだ制服を着ていた。いつもなら何の遠慮もなく中まで入ってくるのに、今日は扉に手を掛けたまま不安そうに立ちつくしている。
「座って」
 窓際のティーテーブルを示しながらそう言うと、七海はこくりと頷いてようやく部屋に入ってきた。遥はノートパソコンを閉じて立ち上がり、ベッドサイドの内線電話に手を伸ばす。
「ノンカフェインのお茶でいい?」
「あ、お茶はいいや」
 七海はきごちない笑みを浮かべて断り、椅子に座った。
 長居をするつもりはないという意思表示だろうか。あるいはここにいたくないという深層心理だろうか。遥は受話器を戻し、何もないティーテーブルを挟んで向かいに腰を下ろす。
「ごめん、お仕事の邪魔して」
「構わないよ」
 胸がざわつくのを感じながらも表情には出さず、さらりと応じる。
 だが、七海はこの部屋に来たときからすこしも緊張を隠せていない。おそらく話さなければならないことがあるのだろう。どうやって切り出そうか悩んでいる様子が見てとれた。
「あの、プレゼントありがとう」
「ああ……気に入ってくれた?」
「うん、大切に使うよ」
 七海への誕生日プレゼントは執事の櫻井に預けておいた。適当なところで渡してくれるよう頼んで。中身は財布だ。なるべく彼女の好みに合うものを選んだつもりである。二年半も付き合ってきたのだから外しはしない。
「それとさ……その……」
 こちらが本題なのだろう。七海は言いにくそうに言葉を詰まらせてうつむいた。膝の上にのせた手をギュッと握りしめる。額に汗がにじみ、かすかに体が震え、表情だけでなく全身がこわばっているのがわかった。
 重い沈黙が続く。
 気の遠くなるようなとてつもなく長い時間に思えたが、実際はそうでもないはずだ。無意識に息を詰めていたことを自覚したそのとき——七海が顔を上げ、強い意志を感じさせるまなざしで遥を見据えて言う。
「僕と、別れてほしい」

 冷たい手で心臓を鷲掴みにされたように感じた。
 覚悟はしていたつもりだった。武蔵が帰ってくると聞いたときからこうなる予感はしていた。そして部屋に入ってきたときの七海の様子を見て確信した。それでも現実に彼女の声で聞かされるのは——。
 小さく呼吸をして、遠のきそうになった意識をどうにか繋ぎ止めると、黒一色に塗りつぶされていた視界も戻ってきた。最初に映ったのは、表情をこわばらせてじっと返事を待つ七海だった。
「やっぱり、僕より武蔵が好きなんだね」
「ごめん……遥のことはちゃんと好きだった。すごく大事にしてもらったし、楽しかったし、付き合ってよかったと思ってる。でも武蔵と会った瞬間、心の奥から気持ちが逆流してきたみたいに感じて……もう自分じゃどうしようもなくて……」
 その話に嘘はないと思う。
 要するに心の奥底ではずっと武蔵を求め続けていたということだ。二度と会えないと聞いていたため無意識に抑え込んでいただけで。再会してあらためて自覚した気持ちは無視できないだろう。ひとつ屋根の下で暮らすのだからなおのこと。
「自分でもひどいと思うけど、こんな気持ちのまま遥と付き合えない」
 彼女の声は涙まじりで震えているように聞こえた。目も潤んでいるが、涙をこぼさないよう必死にこらえている様子が窺える。そんな彼女を、遥は眉ひとつ動さずにじっと見つめた。
「僕と別れて、武蔵と付き合うつもり?」
 責めたつもりはないが、そう捉えられても仕方のない口調になってしまった。七海はビクリとして顔をこわばらせながらうつむき、冷や汗をにじませる。
「そういうつもりは……っていうか……」
「多分、武蔵のほうに恋愛感情はないよ」
「わかってる」
 舞い上がって何も考えていないのではないかと思ったが、そうではなかった。恋愛感情が期待できないことくらいは理解しているようだ。武蔵と暮らしていたころの七海はまだ小さな子供だったので、冷静に考えればあたりまえのことではあるが。
「それでも僕の気持ちは伝えたい」
「そう……じゃあ、ふられたら戻っておいでよ」
「そんな都合のいいことできるわけないじゃん」
 七海は自嘲をにじませる。
 それは彼女なりのけじめなのかもしれない。遥としてはむしろ戻ってもらわないと困るが、いまここで下手に説得するとこじれかねないので、とりあえず彼女の意思を尊重する姿勢を見せる。
「わかった。でも、これからも僕が保護者であることに変わりはないから」
「あ……」
 どうやら言われるまで頭から抜け落ちていたようだ。きまり悪そうに目を泳がせながら逡巡したあと、遠慮がちに窺う。
「遥はそれでいいの?」
「ふられたからって途中で投げ出したりしないよ。七海が成人するまで僕が面倒を見ることになってるからね。保護者としてはいままでと変わらずやっていくつもり。もし、七海がどうしても嫌だっていうならじいさんに相談して」
 引き受けたからには最後までという使命感もあるが、それよりこの役目を誰にも譲りたくないという気持ちのほうが大きい。いまはこれしか七海との繋がりがないのだ。ただ、そうはいっても彼女の気持ちを無視するわけにもいかない。
「僕は、嫌じゃないけど」
「それならよかった」
 戸惑いながらも受け入れてくれた七海にほんのりと微笑を返し、腰を上げる。
「さ、そろそろ寝ないと」
「うん……」
 休前日ならともかく、明日は平日で学校に行かなければならない。七海は渋々ながら椅子から立った。まだ物言いたげな様子が見てとれたが、遥は気付かないふりをして扉のほうへ促す。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ……」
 扉を開けると、彼女はチラチラとこちらを気にしながらも、何も言わないまま素直に隣の自室へと戻っていく。それを見届けてから、遥は音を立てないようゆっくりと扉を閉めた。

 はぁ——。
 扉を背にして寄りかかり、思いきり息を吐き出しながらうなだれた。緊張の糸がぷつんと切れてしまったかのように、一気に疲労感に襲われて、そのままずるずると崩れるように座りこむ。
 七海と別れた。
 こんなことになろうとは思いもしなかった。武蔵が帰ってくると知らされたあの日までは。平穏に付き合い続けて、七海が大学を卒業するころに結婚する。漠然とそう考えていたのに。
 だが、まだ終わったわけではない。
 武蔵が七海の告白を受け入れることはないはずだ。七海を恋愛対象と見ていないというのもあるが、そもそも他に好きなひとがいる。もう可能性は微塵もないのに忘れられない相手が。
 勝負は七海がふられてからだ。すぐには難しいだろうが必ずわからせてみせる。叶わなかった幼い憧れにいつまでもしがみついているより、遥といたほうが幸せになれるということを。
 それを実現するにはどうすればいい——蛍光灯の白い光が満ちた部屋の中、遥はゆっくりと顔を上げて前を見据え、冷静に思案を巡らせ始めた。


◆目次:機械仕掛けのカンパネラ

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