瑞原唯子のひとりごと

「オレの愛しい王子様」番外編 この感情に名前はつけない



 東條圭吾は後方の扉から大講義室に入った。
 試験だからか、始業十五分前なのにすでにちらほらと席が埋まっている。圭吾も階段状の通路を降りてやや前寄りの長椅子に座った。席は決まっていないが普段から何となくこのあたりなのだ。
 さて、と——。
 前回からちょうど三週間。試験も今日で終わる。
 だから次はこの日にしようと前々から決めていた。メッセンジャーバッグを机に置いてスマートフォンを手にとると、お決まりのメッセージを打ち込み、こころなしか緊張しつつ送信ボタンをタップする。

 東條圭吾:今日よかったら来ないか?

 向こうもちょうどスマートフォンを見ていたのか、それが画面に表示されるとすぐに既読がついて、返事が来た。

 諫早創真:5時半まででいいなら
 東條圭吾:了解。ケーキ用意しとく
 諫早創真:今日はオレが買ってくよ
 東條圭吾:わかった

 ほっとして頬がゆるむ。
 時間が短いのは残念だが、それでも久しぶりに会えるというだけで十分にうれしい。大学でもそれなりに仲のいい友達は何人かできたものの、正直、心を許せるほどではないのだ。

 東條圭吾:試験、頑張れよ
 諫早創真:おまえもな

 彼らしいそっけない返信に思わず口元がほころんだ。これ以上のメッセージを送るのは自重しつつ、そのまま画面を眺めていると——。
「それ、カノジョ?」
 長椅子の隣に座りながら声をかけてきたのは、同じ学科の志賀だ。大学では一緒にいることが多く、一応、友達と呼んでも差し支えない間柄である。圭吾はスマートフォンを隠すようにしまいながら答える。
「いや、友達」
「ふぅん、まだ片思いってことか」
「そんなんじゃないって」
「でもデレッデレの顔してたぞ」
「…………」
 うっすらと微笑んではいたかもしれないが、いくらなんでもデレッデレではなかったと思う。多分。そろりと胡乱なまなざしを送ると、志賀はいたずらっぽく笑いながら身を乗り出してきた。
「なあ、カノジョがいないなら合コン行こうぜ!」
「合コンは好きじゃないって言ってんだろ」
「おまえが来るだけで女子のレベルが上がるんだよ」
「俺には関係ない」
 個人の自由なので合コンをとやかく言うつもりはないが、圭吾を誘うのだけはやめてほしい。一度だけ根負けして行ったときに心底うんざりしたのだ。彼にも二度と行かないと宣言したはずである。
「合コンはともかくカノジョはほしくないのか?」
 溜息をついてメッセンジャーバッグから筆記具を出していると、彼はこちらを見つめたまま頬杖をついて尋ねてきた。その思いがけない真面目な声音に調子を狂わされる。
「別に、ほしくないわけじゃないけど……」
「だけどおまえずっとカノジョいないよな?」
「誰でもいいわけじゃないし」
「ってことはやっぱり本命がいるんだろ」
「……もういいよそれで」
「やっと認めたな! なぁどんな子だ? 写真あるんだろ?」
 面倒になって投げやりに答えたら余計に面倒なことになった。閉口していると前扉から担当教授が入ってきて試験が始まり、ひとまずはうやむやになった。

 なんで、よりによってこんなときに——。
 最後の試験が終わり、急いで帰ろうとしていたら教授に呼び止められた。何かと思えば父親と同級生だったとかで、お父さんは元気か、何をしているんだ、などと懐かしそうに話してきたのだ。
 どうにか十分程度で切り上げて、いまは全速力で家に向かっているところである。
 いまから大学を出る、ちょっと遅れるかもしれないとメッセージは送っておいたが、こんな寒空の下で待たせてしまうのはあまりに申し訳ない。息をきらせながら必死に走りつづける。
「あれ、意外と早かったな」
 洋菓子店のまえで、ちょうどそこから出てきた諫早とばったり出くわした。二人で食べるためのケーキを買ってきたところのようだ。シンプルなロゴが入った白い紙袋を左手に提げている。
「はぁっ、はぁ……走ってきた、から……」
「そんなに急がなくてもよかったのに。大丈夫か?」
「ああ」
 話しているうちにだんだんと息切れがおさまってきた。まだすこし苦しいが、それでもどうにか何でもないかのように笑顔を見せると、すぐそばの自宅マンションへと一緒に足を進めた。

 圭吾は大学三年生からひとり暮らしをしている。父親が海外赴任になり、広い一軒家にひとりで住まわせるのは不安だということで、大学から徒歩七分のワンルームマンションをあてがわれたのだ。
 あとで知ったが、諫早と翼が住んでいるマンションもこの近くだった。
 それゆえ引っ越してすぐに諫早を見かけたのも必然といえる。そのとき部屋に誘ったのをきっかけに、こうやって二、三週間ごとに時間を共有するようになった。どちらかがケーキを用意して。
 諫早とは学部が違うので、三年生になるころには顔を合わせることも少なくなっていたし、たまに会っても翼が一緒にいるせいでゆっくり話もできない。だから二人きりで会えることがうれしかった。
 彼のほうも疎ましく思っていないから来てくれるのだろう。翼が三年で大学を卒業するために忙しくしていて、寂しいというのもあるかもしれない。本人がそう言ったわけではないけれど——。

「ケーキ、すぐに食べるよな?」
「ああ、諫早くんはお湯を沸かしてくれ」
「わかった」
 諫早が電気ケトルに水を入れてスイッチを入れるあいだに、圭吾はケーキ皿やマグカップを用意していく。洋菓子店の箱を開けると、チョコレートケーキといちごのショートケーキが入っていた。
「諫早くんはどっち?」
「おまえが好きなほうを選べよ」
「じゃあ、チョコのほう」
 ケーキを皿にのせ、コーヒーを淹れて、二人で座卓に運んで食べ始める。
 この洋菓子店のケーキはどれもおいしいが、中でも濃厚で繊細なチョコレートケーキは一番のお気に入りだ。上質なチョコレートを使ったガナッシュ、ムース、スポンジを絶妙なバランスで組み合わせてあり、飽きることなく楽しめる。
「諫早くんは試験どうだった?」
「まあ、単位はもらえるんじゃないかと思う。おまえは?」
「ひとつヤバそうなのがあるんだよなぁ」
 いつものように意識的にゆっくりと食べ進めながら、とりとめのない話をする。
 なんだかんだで学生らしく試験や講義に関することが多い。あとはバイトだ。圭吾は家庭教師をしていて、諫早は自身の兄が創立したWebサービス企業を手伝っている。互いに知らない分野の話を聞くのは楽しいし興味深い。
「そういえば翼は卒業できそうなのか?」
 一段落したところで、ケーキを切りながら気になっていることを尋ねてみた。
 共通の友人である翼の話題になることは少なくないし、そう非常識な質問でもないと思うが、一瞬、諫早のフォークを持つ手が止まった気がした。しかしすぐに何でもなかったかのように答える。
「たぶん大丈夫だろうって言ってた」
「そうか……傍目にもめちゃくちゃ忙しそうで心配してたけど、報われたのならよかったよ。それにしてもまさか本当に三年で卒業するとはなぁ」
 やはり持って生まれたものが違うのだろう。
 それでも並々ならぬ努力をしなければ為し得ないはずだ。翼とは学部が同じなので講義などで見かけることも多く、以前はよく話をしていたが、最近は声をかけるのも憚られるくらい忙しそうにしていた。
「まだ卒論発表は残ってるし認定はそのあとだけどな。とりあえずこの試験が終わったら忙しさは一段落するって聞いてる。だから……これからしばらくは翼のために時間を使いたい」
「ん?」
 意味をはかりかねて小首を傾げながら振り向く。
 諫早はショートケーキの最後の一切れをちょうど口に運んだところだった。そしてマグカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干してから、静かに言葉を継ぐ。
「翼を最優先にするから、当分、ここへは来ないつもりだ」
「……ぁ……ああ……」
 平静を装おうとしたが、あからさまなくらい声に動揺がにじんでしまった。もしかしたら表情にも出てしまったかもしれない。不安になり、それでも露骨に隠すわけにはいかず曖昧に顔をそむける。
「当分って、その……いつまでだ?」
「はっきりとは決めてないけど、秋くらいだな」
「秋……」
 いまからだと早くてもゆうに半年はある。それまで一度も圭吾に会わず、春休みも夏休みもすべて翼に捧げるということか。何もそこまで——固く口をむすび、喉まで出掛かった言葉をどうにかこうにか飲み込むが。
「結婚式の準備もあるし」
「へ?」
 思いもよらない単語を耳にして、間の抜けた声がこぼれた。それに応じて律儀に説明が返ってくる。
「翼は司法修習が始まるとまた忙しくなるし、そのまえに結婚するんだ。式をするつもりはなかったけど、翼の母親にどうしてもって懇願されてな。家族と親しい友人だけのを予定してる」
 すでに婚約も同居もしているので、大学卒業のころに結婚というのは既定路線なのだろう。言われてみれば納得だが、実感はない。二人はいまも変わらず気の置けない幼なじみという雰囲気で、とても結婚するような間柄には見えないのだ。
「え、と……おめでとう?」
 呆然としながらも、必死に頭を働かせて祝福の言葉を絞り出すが、動揺のあまりなぜか疑問形になってしまった。それを諫早はハハッと笑い飛ばす。
「結婚式にはおまえも呼ぶから来いよな」
「ああ……え、でも俺が行っていいのか?」
「親しい友人なんておまえしかいないし」
「いや、翼の両親も来るんだろ?」
「オレの友人枠だし文句は言わせない」
 ドクリ、と鼓動が跳ねる。
 不覚にもうれしいと思ってしまった。自分が翼の両親にとって忌むべき存在であることも、翼の結婚式にふさわしくないことも、場の雰囲気を壊しかねないこともわかっているのに——。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「……ああ」
 時計を見ると、すでに約束の時間を五分ほど過ぎていた。
 諫早は空のケーキ皿とマグカップをキッチンに運ぶと、ダッフルコートに袖を通し、デイパックを肩に掛けて玄関に向かう。
「これでしばらくお別れだな」
「連絡、待ってる」
 最後の声は、ひどく未練たらしくて切実な響きをしていた。
 それを自覚して内心でひそかに狼狽するが、諫早は気付いているのかいないのか平然としたまま、いつものように軽やかに手を上げて帰っていった。

 ひとり部屋に戻ると、さっきまで座っていたところに再び腰を下ろした。
 まだ皿に残っていたチョコレートケーキをぼんやりと口に運ぶ。甘く、ほろ苦いそれを味わいながらゆるりと思考をめぐらせるが、結局、何もつかめないまま放棄した。それは無意識の選択だったのかもしれない。




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