まだ家庭教師は続けている。
サイファの部屋を壊し、外壁にまで穴を開けてしまい、辞めさせられるだろうとラウルは思った。彼としては、そうなっても一向に構わなかった。もともと、嫌々ながら引き受けたものである。狙ったわけではないが、そうなればいいという気持ちは、どこかにあったかもしれない。
だが、リカルドの反応は予想外のものだった。「家を壊したんだから、その分ちゃんと働けよ」などと、軽く笑いながら言う。サイファも、直後は呆然としていたものの、その後はなぜか妙にラウルに懐いてきた。
怒っていたのはシンシア一人だけである。どういうつもりだと眉を吊り上げ、ラウルに詰め寄ってきた。家を壊され、息子を危険な目に遭わせられたのだ。当然の反応だろう。この家でまともな感性を持っているのは、どうやら彼女だけのようだ。だが、その彼女もリカルドになだめられ、結局は渋々ながら引き下がった。
こうして、ラウルの家庭教師が続行されることになったのである。
「ねぇ、それ違うんじゃない?」
ノートに数式を書いていたラウルの横から、サイファは頬杖をついたまま口を挟んだ。自分の鉛筆で、空きスペースにさらさらと数式を書いていく。
「ここで放射されるのは光粒子だよね? だったらその基本エネルギーはその定理を使ってこう……で、影響を受けるのは重力と空気抵抗だから……こうなるんじゃないの?」
トン、と最後に点を打ち、顔を上げて隣のラウルを窺う。
「相互干渉の補正分が抜けている」
ラウルはサイファの数式の斜め下に追記し、それを丸で囲んだ。
サイファはじっとそれを見つめ、怪訝に眉を寄せた。
「この魔導で相互干渉なんて聞いたことないけど?」
「相互干渉を起こさない魔導の方が少ない」
ラウルは淡々と言う。
「でも、今までは考慮してなかったよ」
「微量だからだろう。大雑把に求めるのなら、おまえのでも間違いではない」
「なんかその言い方、喧嘩を売られているみたい」
サイファは頬杖を付き直し、口をとがらせた。
ラウルは横目で冷ややかに睨んだ。おまえの方がよっぽど喧嘩を売っている、と思ったが、あえて口には出さなかった。鉛筆を置き、教本を閉じる。
「今日はここまでだ」
「もう終わり?」
サイファは頬杖を外し、目を大きくした。
「3時間はとうに過ぎている」
ラウルは無表情で片付け始めた。教本を重ね、筆記具とともに帯で束ねる。
サイファはその様子を寂しげに見つめながら言う。
「少ないよね、3時間じゃ。もう少し延ばせないの?」
「おまえとこれ以上長くはいたくない」
「父上に頼んでみるよ」
ラウルは顔を上げ、サイファを鋭く睨みつけた。
「おまえ、人の話を聞いているのか」
「わかってる。今日はここまでだね」
サイファは少しも動じることなく、両手を広げ、にっこりと大きく微笑んだ。
「でも、あとひとつだけ質問してもいいかな?」
「何だ」
苛立ちを含んだ声で、ラウルは先を促した。
「最初に会った日のあれ、ラウルを一歩でも動かしてみろってやつだけどさ。ずっと考えていたけど、いい手が思い浮かばないんだ。ラウルならどういう手を使うの?」
「床を抜く」
「え?」
「二階なら床を抜くことは容易い」
ラウルは前を向いたまま、無表情で答えた。
「人の家だと思って、むちゃくちゃ言うよね」
サイファは半ば呆れたように、苦笑しながら言った。
「あ、でも、部屋の周囲には結界が張ってあったよね。あの結界を破らない限り、床を抜けないんじゃない?」
「破ればいい」
ラウルは事もなげに言った。
「僕には無理だよ」
「私ならどうするかという問いに答えただけだ。おまえのことは知らん。自分で考えろ」
サイファは恨めしそうに、じとりとラウルを睨む。
「じゃあさ、僕の戦い方で、直すべきところを教えてよ」
ラウルは教本の上に手をのせたまま、サイファを一瞥した。そして、面倒くさそうに溜息をつくと、腕を組みながら椅子にもたれかかる。ギィ、と濁った音を立て、背もたれのバネが軋んだ。
「掛け声は不要だ。相手に有利になることはあっても、自分に有利に働くことはない」
「それは、そうだね……」
サイファは控えめな声で同意した。図星を指されたせいか、そのときのことを思い出したせいか、僅かに耳元が紅潮している。恥ずかしいという認識はあったようだ。
「呪文の詠唱もない方がいい」
ラウルは腕を組んだまま、淡々と畳み掛けた。
「そうだよ! それ、どうやってるわけ?」
サイファはぱっと顔を上げ、興味津々に身を乗り出した。青い瞳を輝かせながら、じっと返事を待つ。
ラウルは煩わしげに顔をしかめ、投げやりな説明をする。
「その場で式を組み立て、計算し、魔導を構築する。原始的な方法だ。おまえも知っているのではないのか」
「それは、魔導の原理としては知っているけど……呪文より素早くなんて無理なんじゃないの? だいたい、原始的な方法じゃ時間がかかりすぎるからってことで、実用化するために呪文が発明されたんだよね?」
「多くの人間にとってはそうだ。だが、おまえくらいの頭と魔導力があれば、訓練次第で呪文詠唱なしの魔導も可能になるだろう。呪文より損失が少ない分、効率がいいし、融通も利く」
サイファは小さく息を吸ってラウルを見つめた。
「へぇ、面白そう」
独り言のように呟くと、大きく瞬きをして尋ねる。
「ラウルが稽古をつけてくれるんだよね?」
「……そのうちな」
ラウルは低い声で答えると、束ねた教本を無造作に掴み、椅子から立ち上がった。長い焦茶色の髪が、広い背中で大きく揺れた。
…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。
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