瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第15話・見えない枷

「終わったー!」
 昇降口から外に出ると、澪は両手を空に突き出し、大きく伸びをして息を吸い込んだ。空は鉛色に垂れ込めているが、空気は新鮮で心地良い。利きすぎた暖房でぼうっとした頭も、少ししゃっきりとしてきた。
 隣を歩くスーツ姿の悠人は、お疲れさま、と温和な微笑みで澪をねぎらった。

 今日は高校の三者面談だった。
 本来は保護者が出席するものだが、両親とも忙しく、その代理として悠人が来たのである。こういったことは今回が初めてではない。学校側も橘家の事情は理解しており、入学当初から、戸籍上無関係の悠人を保護者代理として認めていた。
 面談の内容は、主に進路のことである。
 澪は文系を選択しているが、担任には、以前から理系に変更することを勧められていた。特に理系分野の成績が良いわけではないのだが、おそらく母親が名の知れた科学者なので、澪にもその才能があると思われているのだろう。おまけに、意欲さえあれば遥にも負けないはずだと、何の根拠もないことを本気で言うのだ。そのたびに、澪は辟易としていた。

「お母さまのせいで、変に期待をかけられちゃってつらいな」
「気にすることはないよ。澪は澪でやりたいことをやればいい」
 人影のない静かな石畳を歩きながら、つい弱音をこぼした澪に、悠人は優しく励ましの言葉を掛ける。けれど、澪の顔はなおさら曇った。
「やりたいこと、特にないんですよね。将来の夢とかも全然なくて……」
 遥は橘家を継ぐように言われているが、澪の将来は誰にも決められていない。しかし、せっかくの自由にもかかわらず、いまだ方向性を定めることさえ出来ずにいた。
 思い悩む澪を見て、悠人はくすりと笑った。
「僕もそうだったよ」
「えっ? 師匠も?」
「そんなに意外?」
「はい……」
 澪はまじまじと悠人の顔を見つめた。彼が将来について悩む姿は、想像もつかない。
「師匠はどうやって大学や学科を決めたんですか?」
「僕と一緒のところにしろ、って大地に言われてね」
 悠人は苦笑しながら答える。
 澪はこのときまで二人が同じ学科だったことを知らなかった。同じ高校・大学出身だとは聞いていたが、学部や学科のことまでは話題に上らなかったのである。
「何学科だったんですか?」
「工学部生物工学科だよ」
「理系、だったんですね」
「見えない?」
「そんなこともないですけど」
 そう答えたものの、二人とも文系のイメージがあったので、少し意外に思ったのは事実だった。しかし、白衣で実験する姿を想像してみると、けっこう似合っている気がして、思わずくすっと笑みがこぼれる。
「無理に大学に行かなくても構わないよ」
「えっ?」
 澪は振り向いた。
 悠人は足を止めることなく続ける。
「専業主婦という道もあるだろう? もちろん強制ではないよ。僕は澪を縛るつもりはないから、大学へ行きたければ行ってもいいし、働きたければ就職してもいいけど、そういう選択肢もあるということ」
 その一方的な内容に、澪は眉をひそめた。
「あの、師匠と結婚するのは決定事項なんですか?」
「そう言わなかった? 時期については澪の希望も聞くよ。僕としては少しでも早い方がいいんだけど、現実的には次の夏休みか、卒業式のあとくらいかな」
 悠人は少しも悪びれずに言う。
 ムッとして、澪は横目で睨みつけた。彼が結婚を決めていることはわかっていたが、一応、春までは返事を待つと言っていたはずだ。せめて自分の発言には責任を持ってほしいと思う。だいたい、早い方がいいといっても、怪盗ファントムの仕事も終わらないうちに結婚だなんて――そこまで考えたとき、ふと、ある疑問が頭をよぎった。
「私たちって警察に黙認されてるんですよね? だったら誠一に話しても……」
「それでも法を犯していることに変わりはない」
 彼の声に厳しさが宿った。
「確かに僕たちは私利私欲で動いているわけではないし、黙認もされているけれど、悪いことをしているという自覚は持つべきだ。気の緩みは破滅に繋がりかねない。そもそも警察庁にとっても機密事項なんだよ。これ以上、誰にも知られてはならないということは、きちんと理解しておいて」
「……はい」
 ピシャリと言われて、澪には返す言葉がなかった。
 悠人の指摘したこともあるが、考えてみれば、肝心の誠一がどう受け止めるかもわからない。いくら警察に黙認されているとはいえ、彼自身の正義が許さない可能性もある。そう思うと、急に怖くなってきた。
「さ、これからどこへ行こうか」
「えっ?」
 考え込んでいるうちに、いつのまにか悠人の黒い小型車の前まで来ていた。駐車場に他の車は見当たらない。彼は助手席側のドアを大きく開き、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
「嫌だと言っても一晩付き合ってもらうからね。面倒なことを押しつけられたんだから、そのくらいのご褒美がないとやってられないだろう?」
 それを聞いて、澪はくすりと笑った。
「遥とも三者面談のあとで御飯を食べに行きましたよね」
「ああ、あれは二人きりで男どうしの話がしたくてね」
「えっ? それどういう話ですか?」
「内緒」
 悠人はあっさりと一蹴する。
「ヒントだけでも」
「ダメだよ」
 澪が食い下がっても、彼の答えはにべもなかった。いくら粘ったところで聞き出せそうもない。ここは素直に諦めて、帰ったら遥に聞いてみようかな――などと少々ずるいことを考えながら、悠人に促されて助手席に乗り込む。
「で、どこへ行こうか。晩御飯まではまだ少し時間もあるし、行きたいところがあれば連れて行ってあげるよ」
 悠人は開いたドアに片腕をのせ、助手席の澪を覗き込んで尋ねた。
 澪は少し考えて、答える。
「じゃあ、海が見たい」
「海ね、了解」
 悠人はにっこりと微笑んで助手席のドアを閉めた。そして、反対側から運転席へ乗り込み、カーナビに手早く目的地を設定すると、エンジンをかけてゆっくりと発車させた。

 タプン、タプン――。
 下方から、コンクリートに打ち付けられる水音が聞こえる。眼前には細波立った黒い海面が広がり、どこからか運ばれた小枝の塊や、捨てられた空のペットボトル、ビニル袋などを不規則に揺らしていた。ところどころ油も浮かんでいるようだ。そのせいか潮風には僅かに異臭が混じり、視覚的にも嗅覚的にも、さわやかな海のイメージとはほど遠い。
「確かに海だけど……」
「あしたの予定を全部キャンセル出来たら、きれいな海へ連れて行ってあげられたんだけどね」
 悠人は肩をすくめて苦笑する。
 しかし、澪とてリゾート地のような海を期待していたわけではない。思ったより少し酷かっただけのことだ。薄汚れた白い柵に両腕を置き、そこに顔をのせて、鈍重な冬の海をじっと眺める。不意に強まった冷たい潮風が、頬を掠め、長い黒髪をさらりと吹き流した。
「海の匂いってね、私、お母さまを思い出すの。研究所が海の近くだからかな。健康診断で研究所に行くときくらいしか、お母さまとゆっくり過ごせないし……」
 そう言うと、目を伏せて薄く微笑む。
 研究に明け暮れている母親との思い出は、ほとんどが研究所に関わるものだった。けれど、それを悲しいとは思わない。優秀な科学者である母親は、澪にとって誇りであり、憧れてさえいたからだ。なのに、その研究所で不正が行われていたなんて――。
「澪、大丈夫か?」
 心配そうに声を掛けた悠人に、澪は精一杯の笑顔を見せた。
「平気です。私には師匠や遥がついているんですから。師匠には、橘家のことで面倒ばかりかけて、申し訳なく思ってますけど……今日の三者面談だって……」
「澪はそんなことを気にしなくていいんだよ」
 悠人は澪の頭にポンと大きな手を置いて言う。その言葉に嘘はないだろう。ただ、面倒をかけられたことは否定しておらず、この現状については、やはりそれなりの不満を感じているのだと確信する。
「お父さまって、そんなに忙しいんですか?」
「まあ、忙しいのは忙しいと思うけど、家に帰れないほどではないはずだよ。帰ってこないのは、少しでも美咲と一緒にいたいからだろうね」
「……えっ?」
 その意味がわからず、澪は振り向いて聞き返した。
「仕事が終わると研究所に行ってるんだよ。知らなかった?」
「うん……」
 仕事が忙しいと聞かされていたためか、不在のときはすべて仕事だと思い込んでいた。いや、実際に昔はそう言っていたはずだ。今ではもう尋ねることさえなくなったが、小さな子供のころは、両親が家に帰ってこない理由を悠人や祖母によく尋ねていた。そして、答えはいつも「仕事」だったのだ。
 悠人はズボンのポケットに片手を入れて、うつむいた。
「美咲は研究に明け暮れているからわかるが、大地があれこれ僕に押しつけるのは、多分、面倒なことをしたくないからだろうね。興味のあること以外はやりたがらない奴だから……」
 そう言って小さく息をつくと、顔を上げ、遠い眼差しを空に向ける。
「大地は、昔から自分勝手で気ままで自由だった」
 淡々とした口調。しかし、そこには深淵な感情が潜んでいるように感じられた。
「美咲のことも……いくら気に入ったからといって、まだ小学生の女の子を、いずれ結婚するつもりで引き取るなんて、僕には狂っているとしか思えなかった」
 怪盗ファントムとして絵画を取り返した大地は、一目見て、本来の持ち主である美咲に心を奪われた。そして、彼女に身寄りがいないことを知ると、剛三に頼んで養子として橘家に迎える――それが倫理的に褒められるものではないことは、澪も理解している。
「でも、剛三さんも乗り気でね。僕の反対意見は聞き入れてもらえなかったよ。幸か不幸か、小笠原の事故に遭って、大地と美咲の気持ちは通じ合ったみたいだけど」
 結婚前のことだが、大地と美咲が小笠原へ向かう途中、乗っていたフェリーが沈没するという事故に遭ったらしい。生存者はこの二人だけだったようだ。科学者としての橘美咲を特集していた新聞記事で、この話を知ったのだが、当事者である両親から直に聞いたことはまだない。
「事故に遭ったから……?」
「きっかけはそうだろうね。あの事故で、美咲にとって大地は命の恩人になったんだ。それまでも兄としては慕っていたようだけど、それとは違う、危うささえ感じるくらいの慕い方をするようになってね。事故からしばらくの間は、片時も離れようとはしなかった」
 それは初めて聞く話だった。過去のこととはいえ、自立した今の美咲とは別人のようで、澪は少しばかり戸惑いを感じてしまう。しかし、よく考えてみれば、無理もないのかもしれない。まだ10代前半の少女が、あれほどの大事故に遭えば、心に深い傷を負うだろうことは容易に想像がついた。
「今の研究の道に進んだのも、大地の意向らしいよ」
「じゃあ、お父さまが才能を見いだしたってこと?」
「そういうことになるかな。でも、彼女にとっては幸せだったのかどうか……」
 以前の澪なら、迷うことなく「幸せだ」と言い返していただろう。しかし、研究所の不正を知ってしまった今では、そう断言する自信はなくなってしまった。美咲が関与していたのかはわからないが、研究所としての不正は間違いないらしく、そこまで追いつめられていたとしたら、もしかしたら――。
「大地が何を考えているのかわからない」
 悠人は、白い柵に腕を置きながら言う。
「昔から相談してくれたことなど何ひとつなかった。いつも自分で勝手に決めて進み、そして僕を巻き込んでいく。他人がどうなろうとお構いなしさ。僕は彼のことを友人だと思っていたけれど、彼は都合よく利用していただけなのかもしれない」
「……恨んでいるの?」
「そういう気持ちもないとはいえない。でも、結局のところ彼が好きなんだろうな」
 初めて聞く悠人の本音。
 今日の彼は、今まで語らなかったことを次々と口に上している。研究所の不正を知った影響だろうか。澪と同じように、もしかすると澪以上に、やりきれない思いを抱えているのかもしれない。言葉の端々からそれが滲んでいるような気がした。
 澪が無言で立ち尽くしていると、悠人はふっと柔らかく微笑んで振り向いた。
「何より、彼のおかげで澪と会えたわけだしね」
 そう言いながら、人差し指で澪の横髪をすくい、ゆっくりとなぞるように耳に掛けていく。たったそれだけのことで、くすぐったさとは別のものを感じてゾクリとする。表情に出したつもりはなかったが、悠人にはすっかり見透かされたようで、意味ありげに彼の口角が上がった。澪はほのかに頬を染めたまま、唇をとがらせる。
「師匠も最近は随分自由に見えますけど」
「大地を見習ってみたんだよ」
 悠人はしれっと答えた。そして、薄い唇に笑みをのせると、白い柵を握り、仄暗い鉛色の空を仰ぎ見る。
「人生で一度くらい我が儘になっても構わないだろう?」
「……そういう言い方、ずるいです」
 鈍い痛みが胸に走る。澪は目を細め、鼻筋の通った彼の横顔をそっと見つめた。大地の我が儘に振り回され、剛三の野放図に付き合わされ、自分たちの世話まで押しつけられてきた、そんな彼がたったひとつ望むことだとしたら――。
「冷えてきたね。そろそろ行こうか」
 悠人が振り向きながら言う。
 陽が落ちたのか、あたりは急速に暗さを増していた。風もさらに冷たくなっている。短いプリーツスカートでは覆いきれない太腿も冷え切っているようだ。澪はこくりと頷き、白い柵から手を離した。
「何が食べたい?」
「……温かいもの」
 少し考えて、そう答える。
「温かいものね、了解」
 悠人は笑いを含んだ声で復唱すると、澪の肩に手を回し、駐車場に向かって歩き出した。
 次第に重なっていく二つの足音。
 彼の隣はとても居心地がいい。小さいときからずっと大好きで、尊敬していて、言いようもないくらい感謝もしている。そんな彼に結婚を望まれるのは、幸せなことなのかもしれない。どのみち、誰よりも一緒に歩んでいきたい人とは、引き離されてしまうのだから――澪は眉を寄せ、思考を振り払うように小さく頭を振った。その現実は認めている。だが、正面から向き合う覚悟までは、まだ持てずにいた。


…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。

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