ベッドにははっきりと使用された痕跡が残されている。いや、荒らされているといった方が近いかもしれない。敷き布団はベッドから大きく斜めにずれ、その上に掛け布団が乱雑に投げ置かれたようになっている。小さな女の子がひとりでやったとするには些か無理があるだろう。
「発信機はこのすぐ近くにある」
ベッド脇まで来て足を止めた武蔵は、手に載せたノートパソコンを覗き込みながら言った。限界まで拡大された地図の中央付近に、赤と緑の点がほぼ重なって表示されている。つまり、そこからごく近いところに発信機があるということだ。
篤史は掛け布団をばさりと捲り上げた。その下にあった細い金属製の輪を目にして、小さく舌打ちして顔をしかめる。それがメルローズの足首につけてあった発信機らしい。壊れてはいない。どうやら腕時計のように簡単に着脱できる仕組みのようだ。
「メルローズがひとりでやったとは考えづらい。そもそも外し方を教えてないしな。外したいときは俺か武蔵さんに声を掛けるように言ってあったし、危ないからひとりで部屋を出るなとも言ってあった。メルローズもちゃんと理解して頷いてくれた」
「シーツがなくなってる」
遥がベッドにそっと手を置いて言う。確かに、敷き布団に掛けられているはずの白いシーツが見当たらない。単に外れているだけということではなさそうな感じだ。
誠一は腕を組んだ。
「だとすると、考えられるのは……」
「正面玄関の防犯カメラに映っていた」
開かれたままの出入口から悠人と剛三が入ってきた。二人とも険しい表情をしている。悠人が誰にともなく差し出した薄っぺらい紙を、近くにいた澪が受け取り、後ろから首を伸ばした誠一や武蔵とともに目を落とす。それは防犯カメラの映像をプリントアウトしたものらしく、白い布にくるまれた何かを横抱きにする溝端の姿が写っていた。そのすぐ前には楠長官もいる。
「こんなに堂々と……正面玄関から……」
「あやつら、隠す気はなかったようだな」
唖然としたまま言葉を落とす誠一に、剛三は忌々しげに歯噛みをして応じる。彼の言うとおり、白いシーツでメルローズを隠してはいるものの、これだけ堂々と持ち去っているのだから、見つかることを怖れていたとは考えられない。
武蔵はノートパソコンを閉じ、眉をひそめた。
「だが、こいつらはなぜメルローズの居場所を知っていた? この屋敷にいることは見当がついていたかもしれないが、何十も部屋があるのに、迷った形跡もなく短時間ですんなりメルローズを拉致している。俺でさえさっき初めて聞いたんだぞ。それも、篤史の部屋の隣ってだけで、実際どこなのかは知らなかった」
それを聞いて、皆、難しい顔で考え込んだ。
楠長官たちが剛三の書斎に通されたあと、悠人と誠一が澪の部屋に行き、残った剛三がひとりで応対して、しばらく後に悠人が戻り、楠長官たちが書斎をあとにする――というのがおおよその流れである。この間にどうやってメルローズの居場所を掴んだというのだろうか。剛三がひとりで応対しているときに口を滑らせたのでは、と疑いたくなるが、百戦錬磨の彼がそのような軽率な失敗はしないだろう。万が一、失敗していたとすれば、気付いた時点で自ら告白するはずである。
武蔵は刺すような眼差しを誠一に向けた。
「裏切り者がいるとしか思えない」
あたりの空気が一瞬にして凍りつく。はっきりと名前は口にしていないが、誠一を疑っていることは明らかだ。狼狽える彼を庇うように、澪はその前に飛び出し、キッと眉を吊り上げて立ちはだかった。
「誠一は絶対に裏切ったりしない!」
「こいつ、公安の人間だろう」
「好きでそうなったんじゃないよ!」
「そんなことはわかっている」
武蔵は目つきを鋭くし、再び、澪から誠一へ視線を移した。
「澪を救出する手がかりを掴むために、意に沿わない人事を受け入れ、あえて公安に留まったんだったな。だが、澪は無事に戻ってきた。目的を果たした今、もう上司の命令を拒む理由はないだろう。なあ、真面目そうな南野誠一さん?」
その疑惑は、彼への反発心からきているものではなく、彼の置かれた状況に基づく推測のようだ。しかしながら、澪はそれが見当違いであると確信している。そんなことをすれば澪が悲しむことくらい、彼にはわかっているはずだから――。
「メルローズのことは誓って誰にも話していない」
誠一は真正面から誠実な瞳を返して断言した。その毅然とした態度に澪は安堵の息をつく。これで武蔵も少しは信用してくれたのではないか、と思ったのだが、予想に反して全く疑いの姿勢を崩していなかった。
「それをどう証明する?」
「メルローズがどこにいるかは、さっき志賀君が話しているのを聞いて初めて知った。君と同じだ。それ以前に居場所を教えることは不可能だし、それ以降はずっと君や澪と一緒にいたはずだ」
現在、橘側の関係者はすべてここにいる。事実に反していれば声が上がるはずだが、誰ひとりとして異を唱えようとしない。彼の言葉に嘘がないことの証左である。それでも、武蔵だけは納得していないようだった。
「澪の部屋にいたとき、上司と電話で何か話をしていただろう」
「メルローズのことは話していない。みんな聞いていたはずだ」
「暗号で伝えた可能性もある」
澪にはもはや言いがかりとしか思えなかった。あれだけの言葉がどんな暗号になり得るというのだろう。これまで分別のある態度を見せていた誠一も、さすがに不快感を隠しきれずに眉を寄せる。
「こんなことを言いたくはないが、状況的に疑うべき人物は他にもいるだろう」
「……篤史か」
武蔵は戸惑いがちに顔をしかめて答え、部屋の隅に立つ篤史に視線を流した。つられるように他の皆も振り向く。不安と疑惑の入り混じった視線を浴びた彼は、無表情のまま眉だけをピクリと動かした。
「確かに、きのうからずっとメルローズについていたのは俺だし、メルローズの部屋を決めたのも俺だし、メルローズの行方不明に気付いたのも俺だ。あいつらの側に寝返っていたとしたら簡単に手引きできただろうな」
淡々とそう言った彼の双眸に、ふと強い光が宿る。
「でも、俺はやっていない。残念ながら証明は出来ないから、信じる信じないは勝手にしてくれ。ただ、状況っていうなら悠人さんも疑える。メルローズの部屋は悠人さんと相談して決めたし、何より楠長官は悠人さんの父親だろう」
「やめてよ!!」
澪は堪えきれずに声を上げた。
「ここにいる人はみんな仲間だよ。誰も裏切ったりしないんだからっ!!」
根拠は何もない。それでも、みんなのことを信じていたいし、みんなのことを信じてほしい。こんなふうに互いに疑心暗鬼になっていては、これまで築いた信頼さえも崩れてしまう。それこそ、楠長官の思うつぼではないだろうか。
「ねえ」
ぶっきらぼうな呼びかけが耳に届く。振り向くと、遥が思案顔で小首を傾げていた。
「誠一に盗聴器が仕掛けられてた、ってことはない?」
「……えっ?」
澪がそう聞き返した隣で、誠一はハッと息を飲んだ。
剛三の顔つきが鋭く険しいものに変わる。
「皆、書斎に来い」
そう言うや否や、くるりと踵を返して一人足早に部屋を出て行った。悠人はすぐにあとを追って飛び出し、遥と篤史もそれに続く。残された澪と武蔵と誠一は、互いに戸惑いながら顔を見合わせると、無言のまま書斎へ向かって歩き出した。
「このボールペンだな」
篤史は、盗聴器発見器が反応した誠一の胸元を探り、胸ポケットのボールペンに目星をつける。手際よく中を開けて確認すると、そこにはボールペンの機能とは無関係の精密機械が仕掛けられていた。
正面の執務机で座っている剛三は、瞬ぎもせず誠一を見つめる。
「君のものか?」
「いえ、行きの車中で溝端さんが貸してくれたものです。楠長官に言いつけられてメモをとろうとしたとき、いつも持ち歩いている鉛筆が見当たらなくて、探していたら溝端さんが貸してくれました。また使うこともあるかもしれないから、しばらく持っていろと……」
誠一はうつむいて眉を寄せた。
話を聞く限り、楠長官と溝端に利用されたとしか思えない。鉛筆がなくなっていたのも偶然ではないだろう。つまり、ここにいる誰も裏切っていないということだ。しかし、武蔵だけはいまだに渋い顔で誠一を睨んでいる。
「本当は共謀してたんじゃないだろうな」
「もう疑うのはやめてよ!」
澪は泣きそうになりながら腕を掴んで訴えるが、彼は少し困ったように眉をしかめただけで、口を結んだまま何も答えようとしなかった。うなだれた澪の頭に温かい手が置かれる。振り返ると、誠一が安心させるように優しく微笑んでいた。しかし、不意に真面目な顔になると武蔵に視線を移す。
「信じてもらうのは難しいかもしれないが、本当に盗聴器のことは知らなかったんだ。だが、メルローズが連れて行かれたのは俺の責任だ。もっと自分の立場を理解して警戒しておくべきだった。ボールペンなんて最も疑って掛かるべきものなのに……本当に申し訳なく思っている……」
「メルローズが無事に戻らない限り、許すとは言わないからな」
武蔵は斜めに目を伏せ、葛藤とやるせなさを滲ませてそう応じた。メルローズを救出するために何年も費やしてきたのだから、いくら真摯に謝られても簡単に許せはしないだろう。しかし、彼が本当に許せないのは、誠一でも他の誰でもなく彼自身なのではないか――思い詰めた横顔を見て、澪は何となくではあるがそんなふうに感じていた。
「随分とふざけた真似をしてくれたな。我が屋敷から連れ去った少女を返してもらおう……とぼけるでない! 防犯カメラに映っておったわ! ……君らが少女を抱えて玄関から出て行くところだ……それで言い逃れられると思っておるのか! ……待て!!」
剛三は舌打ちし、叩きつけるように受話器を戻す。
「あやつら、連れ去ったことからして認めるつもりはないようだ。防犯カメラに映っていたのは白いシーツだけだからな。あくまで状況証拠でしかなく決定的な証拠にはなりえん。まあ、証拠を掴んだところでメルローズを返してくれるわけではないのだが」
眉間に皺を刻む剛三を、武蔵は執務机に片手を付いて覗き込んだ。
「おい、このまま引き下がるつもりじゃないだろうな?」
「ここまで虚仮にされて引き下がれるわけなかろう」
責任感とは別のところで剛三の闘志に火が付いた。漆黒の瞳には怖いくらいの鋭い光が宿っている。こうなってはもはや誰にも止められない。もっとも、今回に限っては誰も止めはしないだろう。
「私は警察庁に戻って話を聞いてきます」
誠一が姿勢を正してそう告げると、剛三は真剣な顔で頷いた。しかし、それは敵の本拠地に一人で乗り込むようなものだ。公安は次第に手段を選ばなくなってきている。誠一もどんな目に遭わされるかわからない。なのに――澪は後ろから彼の袖をちょんちょんと引っ張る。
「大丈夫、なの?」
「職場に戻るだけだよ」
誠一は柔らかく笑いながら頭を撫でてくれた。それでも不安は拭えなかったが、引き止めるわけにはいかない。彼がなぜ行こうとしているのかはわかっている。その思いを汲み取り、祈りを胸に秘めたままこくりと頷いて見せた。
「無理をするでないぞ」
剛三の言葉に、誠一は表情を引き締めて深々と礼をした。
悠人は執務机に一歩踏み出し、胸に手を当てて訴える。
「私も彼と一緒に行きます」
「おまえが行ってはややこしくなる」
逆上して楠長官の首を絞めたという前科がある以上、このような緊迫した状況で行かせられはしないだろう。以前の二の舞になりかねない。悠人自身もそのことを理解しているのか、悔しげに顔をしかめつつも、おとなしく口をつぐんで引き下がった。
「手を貸してほしいときには連絡します」
誠一は気遣わしげに悠人を見つめてそう言うと、再び剛三に一礼し、今にも走り出しそうな勢いで書斎をあとにする。その背中には、澪たちの前では見せなかった激しい怒りが滲んでいる気がした。
「お返しします」
誠一は執務机の前に立つと、胸ポケットから取り出したボールペンを楠長官の前に置いてそう言った。感情を見せないよう平静を装ってはいるものの、次第に速くなる鼓動までは制御しようもなく、知らず知らずのうちに顔が上気していく。しかし、気付いているのかいないのか、楠長官は眉ひとつ動かさずボールペンを一瞥した。
「それは溝端のものだろう」
「長官のご指示ですよね?」
先回りして尋ねると、彼は無言のまま口の端を上げた。誠一の手のひらが少し汗ばむ。
「メルローズをどこへやったのですか」
「何のことだね」
とぼけるその声には、どこか楽しむような声音が混じっていた。
誠一はカッと頭に血が上るのを感じながら、それでも必死に理性を保つ。
「あなたのしたことは誘拐です」
「誘拐? 言うのなら窃盗だろう」
「……どちらにしても犯罪です」
楠長官の発言は、メルローズを人として扱わないと宣言しているも同然だ。しかし、今は人間の定義について言い争っている場合ではない。それよりも、メルローズの救出方法を優先して考えるべきである。
「メルローズをどうするつもりですか」
「さあ、知らんな」
「橘美咲を手に入れるためですか」
恐怖心を胸の奥にしまい、揺さぶりを掛けるべく真正面からぶつかっていく。
ふっ、と楠長官の唇に笑みが浮かんだ。
「南野君、君のそういうところは気に入っているがね。残念ながら君の諫言を受け入れることはありえない。なぜなら私個人の意志ではなく、警察庁、ひいては国の意志なのだからな。私も駒の一つにすぎないということだよ」
以前も国の存亡に関わることだと言っていた。長官ですら駒だと聞くと、相手がいかに途轍もないかを自覚させられ、ゾクリと背筋に冷たいものが走る。それでも手を引くつもりはない。何の罪もない幼い少女が実験体として攫われているのだから。
「橘大地の取り調べを許可願います」
「……よかろう」
楠長官が断らないだろうことはわかっていた。おそらく、こちらから申し出なかったとしても、取り調べを命じられたに違いない。状況が大きく変わった今、橘美咲を手に入れるための新たな情報を、少しでも彼から引き出すために――。
「やあ、南野君、どうしたんだ?」
アクリル板の向こうで、楠大地がニコニコと人懐こく微笑んだ。
仕切られた両側にはそれぞれ警備担当がひとりずつ配置され、複数の監視カメラがアクリル板を挟む二人を捉えている。もちろん音声も録音されているだろう。しかし、橘側の情報の大部分が知られしまった今、隠さなければならないことはそれほど多くない。
「きのう、澪さんが無事に戻ってきました」
「それにしては浮かない顔をしているね」
感情を表に出さないよう細心の注意を払ったつもりなのに、彼には簡単に見抜かれてしまった。どういう態度を取るべきか少し迷ったが、素知らぬ顔で受け流し、当初の予定どおりに淡々と話を進めていく。
「橘美咲さんの居場所もわかりました」
「ほう?」
「橘会長が面会の約束を取り付け、澪さんが行ってきました。澪さんは帰ってくるように訴えたらしいですが、残念ながら、美咲さんが首を縦に振ることはなかったようです」
「だろうね」
大地はクスッと笑って相槌を打つだけで、美咲がどこにいたのか尋ねようとしなかった。今までの口ぶりから考えても知っていた可能性が高い。米国大使館で起こった一連の事件について、彼の見解を聞きたい気持ちはあったが、公安に知られない方がいいと判断して思いとどまる。
「ただ、メルローズは預かってきました」
「ここで話してもいいのか?」
「もうすでに公安に奪われてしまいましたので」
「は? ……ったく、悠人は何をやってたんだか」
大地は呆れたように大きく溜息をついた。しかし、その口調も態度もいたって軽く、深刻な様子は見受けられない。誠一は微かな違和感を覚えつつも、そのことについては追及しなかった。
「何のために彼女を奪ったと考えますか?」
「実験体なんだから実験以外にないだろう」
「しかし、橘美咲さんは戻っていません」
「公安の目的はもとよりメルローズの方さ」
話が見えず、誠一は怪訝に眉をひそめた。大地は少し考えてから言葉を繋ぐ。
「公安は僕らに実験を強要していたが、次第に言いなりにならなくなった、ということは話したな? 美咲を脅して実験を継続させることも考えてはいただろうが、最後の実験体であるメルローズさえ奪取すれば、たとえ美咲の協力がなくても実験を継続することはできる。研究の道筋はすでに美咲がつけているからね。まあ、僕としてはそう簡単にいくとは思ってないけど」
「では、どこかの研究機関に……?」
「さあ、そこまではわからないな。一時期、国立医療科学研究センターを間借りしていたことはあったけど、ずいぶん昔のことだし、かれこれ十数年ほどまったく接点を持っていない。少なくとも僕たちはね」
唐突に具体的な名称が出て、誠一は慌てて手帳を広げてメモを取る。しかし、公安にも聞かれてしまった以上、そこにメルローズの身柄が拘束されていたとしても、すぐに別の場所へ移送される可能性が高いだろう。それでも貴重な手がかりであることには違いない。
「君は、なぜそんなに一生懸命なんだ?」
「えっ?」
思いもしなかったことを問われ、誠一は手帳を閉じながら顔を上げる。
「澪は恋人だから命懸けで取り戻したいと思うのも理解できる。だが、メルローズは君にはまったく無関係の存在だ。こんな危険なことにわざわざ首を突っ込むこともないだろう。それとも、君の意思ではなく父に利用されているだけなのか? 澪のことで関わってしまったから、抜けるに抜けられなくなったのか?」
「それもありますが……人命を守るのは警察の務めですし……」
「いや、あの子は『人間』ではないだろう?」
嫌味でもなく、挑発でもなく、悪意でもなく、ただ単に事実を確認しただけのような口調。だからこそ、その言葉は誠一の胸になおさら深く突き刺さった。メルローズは人間ではないと、人間以外の生物だと、大地は当然のように認識している。そして――。
「澪と遥のことも、そう思っているのですか」
「……なんだ、知っていたのか」
大地は目を見開いてそう言ったあと、小さくフッと笑った。
黒い手帳を握った誠一の手に力がこもる。
「今朝、親子鑑定であなたが父親ではないと判明しました。本当の父親は澪を攫った男です。彼はメルローズの叔父にあたる人物で、彼女を取り戻すためにこの国へ来たそうです。澪と遥のことは、彼の方も寝耳に水だったらしく動揺していました」
「へえ、それは不思議な縁だね」
その態度はまるきり他人事だった。ふざけるな、と怒鳴りたい衝動をグッと堪える。
「実験、だったんですよね」
「そうだよ。研究を進めるために公安の提案を受け入れた。僕も美咲も反対はしなかったよ。研究者の多くがそういうものだと思うが、道徳心より探求心の方が勝っていてね。通常は法律を犯さないように自制するが、国家機関が促しているなら遠慮はいらない。命を弄ぶような実験は許せないかい?」
そう尋ねた大地の顔には微笑が浮かんでいた。ついに、誠一は糾弾の言葉を抑えられなくなった。
「生まれてくる子供がどんな気持ちになるか、考えなかったのですか」
「そもそも真実を話す気はなかったからね」
「異種族交配による何らかの悪影響が出る可能性もあったんですよね」
「障害を持って生まれてくる子は大勢いるさ」
「自分の妻に他の男性との子供を身籠もらせるなんて常軌を逸してる」
「セックスしたわけじゃない。人工授精だよ」
何を訊いても彼は淀みなく答えを返す。そこからは罪悪感の欠片も感じられない。もし彼の本心だとすれば、理解しがたい思考である。むしろ理解などしたくない。彼に対する嫌悪感と拒絶感が沸々と湧き上がった。
「それでも、私なら絶対にさせません」
「ボーダーラインは人それぞれだろうな」
誠一から見れば、彼のボーダーラインは異常としか思えなかった。橘美咲が澪と遥を産んだのは16歳のときだと聞いている。たとえ本人が納得していたとしても、そんな年若い少女に、しかも自分の妻に、得体の知れない男との人工授精をさせるなど、あらゆる意味で考えられることではない。
「澪と遥のことは……」
「ああ、人間かどうかはともかくとして、ちゃんと可愛いとは思っているよ。愛する美咲の遺伝子を継いでいるんだから当然だろう? あまり良い父親とはいえなかっただろうが、それなりに可愛がってきたつもりだけどな。あの子たち、愛情が足りなかったとでも言っていたか?」
彼は少しも悪びれていない。
誠一は、腹立たしいというよりも、得体の知れない恐怖を覚えた。
「申し訳なさは感じていないんですか」
「澪も遥も生まれてきて良かったと思っているだろう。なのに、どうして申し訳なく感じなければならないんだ。それこそ二人に対して失礼じゃないのか。君は、澪が生まれて良かったと思っていないのか?」
いくら澪と出会えたことに感謝していても、二人が生まれて良かったと思っていても、それをここで認めてしまっては彼らの実験を肯定することになりかねない。大地の詭弁にすぎないとわかっていても――。
「澪を、見捨てるのか?」
「そんなことはしません!」
思わず、弾かれたように顔を上げて言い返す。
大地はにっこりと満足げに微笑んだ。
「じゃあ、これからも澪のことを大事にしてやってほしい。悠人にとられないよう気をつけるんだな。あいつ結構ずるくてしつこいぞ。まあ、僕としては悠人の方を応援してるんだけどね。長年尽くしてきたのにまったく報われてないし、12歳のときからずっと片思いばかりの可哀想なヤツだからな」
そう笑いながら頬杖をつくと、思い出したように付け加える。
「そうそう、ついでに遥も可愛がってくれるとありがたい。頭が良くてしっかりしているけど、甘えることを知らない子でね。どうにも危なっかしくて心配なんだよ」
「……わかりました」
父親面した彼には反発を覚えるが、言っていることは至極まともで、気持ちを鎮めて了承の返事をする。ずっと握り締めていた手帳を内ポケットにしまい、あらためてアクリル板の向こうの大地に目を向けた。
「今日はこれで失礼します。後日、また話をさせてください」
「南野君の取り調べなら大歓迎だよ。あ、そうだ悠人に伝えてくれるか」
そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべた彼に、小さくちょいちょいと手招きをされる。内密の話なのかもしれないが、いくら顔を近づけて声をひそめても、マイクに拾われてしまう可能性が高い。聞かれますよ、とやんわり断ったものの、わかってるから、と笑顔のまま軽くいなされ、仕方なく穴の空いたアクリル板に耳を寄せる。そこに囁かれた言葉は、一連の出来事とは無関係に思える私的なことだった。しかも――。
「……楠悠人さんに、ですか?」
「そう、楠悠人さんに」
「わかりました、伝えておきます」
ニコニコと微笑む大地に、誠一は事務的に一礼して立ち上がった。おそらく、いくら追究しても彼の思考は理解できないだろう。胸にわだかまる奇妙な思いを抱えたまま、振り返ることなく無機質な部屋をあとにする。背後で、彼が僅かに口の端を上げたことには、少しも気付いていなかった。
…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。
最新の画像もっと見る
最近の「小説」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事