強力な結界を張り、外界との交流を絶っているこの国に、どのようにして入り込んだのかは謎である。そもそも、彼が外界からやってきたこと自体、表立って語ることは禁忌とされていた。その事実は、この国の防衛に穴があると認めることになるからだ。だが、人の口に戸は立てられない。王宮内という狭い範囲でだが、密やかに語り継がれていた。
この国にやってきて以来、彼は王宮医師としてここに居着いていた。誰とどういう話し合いがなされそうなったのか、そのいきさつはごく一部の者にしか知らされていない。
王宮医師とは、国に雇われ王宮内に医務室を抱える医師のことだ。王宮内やその関連施設で働く人々を診察するのが主な仕事である。ラウルの他にも数人の医師が、それぞれ医務室を持ち常駐していた。
初めのうちは、彼の医務室を訪れる人間が後を絶たなかった。診察など不必要にもかかわらず、何かと理由をつけて訪問し、様々な話を持ちかけるのだ。彼の持つ強大な魔導力を利用するため、自分の側へ引き込もうとしていたのである。
だが、徐々にその数は減少していった。彼は決して誰にもなびくことはない、ということが知れ渡ったからである。いくら金や地位をちらつかせても、関心を示すことはまるでないのだ。また、情熱や使命感に訴えても無駄であった。そういう類の感情を、彼は持ち合わせていないようだった。
そしてもうひとつ。
年月が過ぎるにしたがって、彼のことを気味悪がる者が増えていったのだ。彼の外見は、この国に来たときのまま、まったく変わることがなかった。幾星霜を経ても衰えることなく、青年の姿を維持していたのである。人間ではなく化け物だ――そう思うものも少なくなかった。
今では、彼の医務室には、ほとんど誰も寄りつかなくなっていた。いつも閑散としている。彼の冷たい目と無愛想な態度も、それに拍車をかけていた。好きこのんでここに来る者は滅多にいない。他の医師が手一杯のときなどに、ちらほらとやってくるくらいである。その数少ない患者を、彼はただ淡々と診察していた。
その日も、ラウルはいつものように医務室にいた。広くはない机に向かい、発表されたばかりの論文を読んでいる。患者がいないときは、医学関係の書物や論文を読んで過ごすことが多かった。だが、勉強になることはほとんどない。すでに彼が知っていることばかりである。
――コンコン。
扉をノックする音が聞こえた。
「入れ」
ラウルは論文を片付けながら、短く声を張った。
すぐにガラガラと扉が開き、紺色の制服を身に着けた男性がひとり入ってきた。人なつこい柔和な笑みを浮かべながら、軽く右手を上げる。
「やあ、ラウル。久しぶり。ここはいつも空いていていいな」
「何をしに来た」
ラウルは睨みつけるような鋭い視線を流し、冷たく突き放すように言った。
だが、彼は少しも動じた様子を見せず、笑顔を保ったまま答える。
「診察してもらいに来たんだよ」
「座れ」
ラウルは顎をしゃくって、隣の丸椅子を示した。
男性は上着を脱いで籠に入れると、示された椅子に素直に座った。
彼の名前はリカルド=キース=ラグランジェ。王家と同等、いや、実質はそれ以上の権力を握っていると云われるラグランジェ家の当主である。先代から当主の座を引き継ぎ、そろそろ5年になる。だが、とてもそうは見えなかった。良くいえば優しく気さくであり、悪くいえば威厳がないということになる。
彼は、好きこのんでこの医務室に来る、数少ない人間のひとりだった。
他のところでは、医師に特別扱いされたり、他の患者に順番を譲られたりして、居心地が悪いということが理由のようだった。その点、ここならいつも閑散としているので、他の患者に遠慮する必要がない。そして、ラウルは相手が誰であれ特別扱いすることはない。そのため、ここがいちばん気が楽なのだ、とリカルドは言っていた。
「どんな症状だ」
ラウルはまっすぐに彼を見て問いかける。
「少し喉が痛くて熱っぽいな」
リカルドは喉に手を添え、僅かに首を傾げながら答えた。声におかしなところはないが、違和感を感じているのだろう。顔は少し火照っているようだった。
ラウルは体温計を渡して熱を測らせた。その数値を一瞥すると、口の中を覗き込んだり、胸と背中に聴診器を当てたりしながら、淡々と診察をしていく。
「風邪だな」
聴診器を外して首に掛けると、そう診断を下した。立ち上がって棚からいくつか薬を取り出し、袋に入れて机に置く。そして、再び椅子に座って机に向かうと、カルテにさらさらとペンを走らせた。
「ラウルは風邪をひいたことはあるのか?」
リカルドは上着の袖に腕を通しながら尋ねた。
「なぜそんなことを訊く」
ラウルはカルテに向かったまま聞き返した。
リカルドはにっこりと微笑んだ。
「単なる好奇心だよ」
「ある。最近はひいていない」
ラウルは手を止めず、ぶっきらぼうに答えた。
「へぇ、ラウルでも病気になることがあるんだな」
「おまえも私を化け物だと思っているのか」
リカルドは動きを止め、目を大きくしてラウルを見た。そして、ふっと表情を緩めると、ゆっくりとした口調でなだめるように言う。
「変わっているのは確かだが、そんなふうには思っていないよ」
ラウルはムッとして横目で睨みつけたが、リカルドは意に介さず、軽い笑顔で続ける。
「だいいち化け物だと思っていたら、わざわざここを選んで来たりはしないさ。ラウルのことは好きだよ」
「おまえがどう思おうと、私には関係ない」
ラウルはペンを置き、無表情でリカルドに振り向いた。机の上の袋を手に取り、押しつけるようにして渡す。
「三日分の薬だ。毎食後に忘れず飲め」
「ありがとう」
リカルドはにっこりと笑って受け取った。そして、まだ開いたままだった上着の前を留めながら、急に思い出したように言う。
「あ、そうだ。おまえに頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
「内容を言わずに了承を取ろうとするのは卑怯だ」
「ああ、そうだね」
リカルドは軽く笑った。
「今度、改めて頼みに来るよ。話くらいは聞いてくれるよな?」
ラウルは睨みつけるように、じっと彼を見つめた。そして、ゆっくりと腕を組むと、小さく息をついて言う。
「いいだろう。受けるかどうかは、内容を聞いてから決める」
「わかった」
リカルドは真面目な顔で頷いた。鮮やかな金色の前髪がさらりと揺れた。
…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。
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