瑞原唯子のひとりごと

「オレの愛しい王子様」第6話 心に決めたひと



「おい、創真!」
 ふと額のまんなかに鋭い痛みが走り、創真は我にかえった。
 反射的にそこを押さえて顔を上げると、翼があきれたような面持ちで片手を掲げながら立っていた。その隣では東條が苦笑している。額の痛みはどうやら翼のデコピンだったらしい。
「ぼーっとしてないで帰り支度しろよ」
「あ……ああ……」
 いつのまにかホームルームは終わっていたようだ。教壇に担任の姿はなく、あたりは生徒たちのおしゃべりで楽しげにざわめいており、翼も東條もすでにスクールバッグを肩にかけてそこにいる。
 創真はようやく状況を把握して、あわてて帰り支度を始めた。

「おまえ、文化祭が終わってからちょっとおかしくないか?」
 校門前で東條と別れ、翼とふたりで帰路についているときにそう指摘された。
 この一週間、いつのまにかぼんやりと考えをめぐらせてしまい、学校のみならず西園寺での勉強も集中できずにいたのだ。自分でもどうにかしなければと思っているのだが、なかなか難しい。
「悪い、もうすこしだけ待ってくれ」
「悩みがあるなら相談にのるぞ」
「いや……個人的なことだし……」
 創真くんが好きだから——綾音にそんなことを言われたなんて話せるはずもなく、後ろめたさに目を泳がせながら言いよどんでしまった。
「僕を信頼できないか?」
「…………」
 まっすぐに真摯なまなざしを向けられて、ますます罪悪感が募る。
 それでも話すという選択肢はない。創真自身が話したくないというのもあるが、そもそも綾音に断りもなく話すわけにはいかないだろう。目をそらしたままどう答えようか悩んでいると、翼が溜息をついた。
「まあいいさ。無理強いするんじゃ意味がないしな。だけどいつまでもこんな調子じゃ困る。とりあえず明日の勉強は休んで気持ちを整えろ。いいな?」
「……わかった」
 休みたくなくても、そんなわがままを言える立場ではなかった。
 西園寺の厚意で勉強に同席させてもらっているのだから、翼の足手まといになることだけは許されない。いつまでもこんな状態が続いたら見捨てられてしまう。翼の隣にいられなくなるのだ——。

「あした、ふたりだけで会って話ができないかな」
 その日の夜、悩んだすえに電話で綾音にそう持ちかけた。
 このところ気もそぞろなのは、彼女がどういうつもりかまるでわからないからだ。こればかりはいくら考えたところで答えは出ない。本人に聞くしかないという結論に至ったのである。
「文化祭でのこと?」
「ん……まあ……」
 ふたりだけで、という時点でだいたい想像がつくだろうと思っていたが、それでもいきなり臆面もなく言及されるのは予想外で、若干動揺してしまった。
「あしたは午前中なら大丈夫だよ」
「あ……じゃあ、十時にいつもの喫茶店で……」
「うん」
 一方で、綾音は話しぶりも声も普段とまったく変わらない。それだけに思考が読めず、漠然とした不安がじわじわと胸に広がっていく。
「それじゃあね」
「ああ」
 返事をすると、余韻もなくすぐに通話が切られた。
 創真はスマートフォンを下ろして、腰掛けていたベッドにそのまま仰向けになり、白い天井を眺めながら小さく息をついた。

 翌日、約束した時間の三十分前から喫茶店で待っていた。
 注文したコーヒーをちびちびと飲みながら、暇つぶしにスマートフォンでニュースを読むが、ほとんど頭に入ってこない。ただ文字を目で追いかけているだけである。
「創真くん、おはよう」
「ああ……おはよう」
 綾音は約束した時間の五分前に来た。
 いつもと変わらないほんわかとした笑顔を見せている。今日は私服で、ざっくりとしたオフホワイトのニットに、グリーンチェックのミニフレアスカート、小さめのリュックサックという出で立ちだ。
 創真がスマートフォンをポケットにしまいながら向かいのソファ席を示すと、綾音はリュックサックを下ろしてそこに座り、水とおしぼりを持ってきた店員にオレンジジュースを注文する。
「ごめんね、なんか言い逃げみたいになっちゃって」
 店員が戻っていくと、彼女は気まずげに肩をすくめてそう言った。
 創真はあわててふるふると首を振る。本人の口からきちんと真意を聞こうと思っただけで、謝ってもらいたかったわけではないし、そもそも言い逃げだなんて考えたこともなかった。
「あのあとすぐに翼が戻ってきたから仕方ないよ。オレも聞き返せなかったし。でもこの一週間ずっと気になっててさ」
「うん……」
 綾音が緊張したように表情を硬くするのを見て、創真もつられて緊張する。けれどここまで来たらもう引き下がれないし、引き下がるつもりもない。
「オレのことが好きって」
「うん」
「どういう意味で?」
「……わかってるくせに」
 綾音はぎこちない笑みを浮かべた。
 しかし、わかっていなかったからこんなに悩んでいたのだ。もちろんそういう意味だと考えなかったわけではないし、客観的にはそう考えるのが普通だということはわかっていたが——。
「なんでオレなんだ?」
 ちんちくりんだし、地味だし、根暗だし、勉強もスポーツも普通だし、どうしても男として好かれる要素があるとは思えない。訝しむ創真に、綾音はふっと表情をやわらかくして答え始める。
「気がついたらいつのまにかって感じだから、よくわからないけど」
「ああ……」
 そういえば創真もそんな感じだった。一緒にいるうちにいつのまにか翼を好きになっていたのだ。それも幼稚園のときに。どうして翼なのかと問われても正確には答えられそうにない。
「でも好きなところなら言えるよ。目立たないけど黙々と頑張るところとか、誰に対してもさりげなく優しいところとか、そういうのをアピールしない控えめなところとか、律儀で真面目な性格とか」
「…………」
 まっすぐな答えを返されて、自分で尋ねておきながら気恥ずかしくなってしまった。顔がじわりと熱を帯びていくのを感じる。良く言われることにも好意を示されることにも慣れていないのだ。
 しかし、ここまで言ってもらってもまだ納得しきれずにいた。頑張るといっても与えられた役割をこなしているだけだし、それほど優しくもない。もっといいひとがほかにいくらでもいるだろう。
 それでも綾音がこんなことで嘘をつくとは思えないので、いっときの勘違いでしかないのかもしれないが、少なくとも今現在において、創真のことが好きだという気持ちは信じるしかない。
「ありがとう」
 そう応じると、小さく吐息を落としてからゆっくりと顔を上げた。鼓動が次第に激しくなっていくのを感じながら、真剣なまなざしで彼女を見据える。
「でも、オレ、心に決めたひとがいるから」
「それって翼くん?」
 あっさりと言い当てられて息をのんだ。
 ただの当てずっぽうだったのか、ほかに思い当たるひとがいなかったのか、何か確証があったのかはわからないが、いまさらごまかす気はないのでこくりと頷く。
「やっぱりそうなんだね」
「オレの片思いだけどな」
「うん……」
 創真はあらためて表情を引きしめて、背筋を伸ばす。
「だからごめん。綾音ちゃんの気持ちはありがたいけど、つきあうとかそういうことはできない。でも綾音ちゃんさえよければ、いままでどおり幼なじみとして仲良くしたい」
「もちろん、私もそうしてくれるとうれしいよ」
 綾音はふわりと応えた。ふられたことなど微塵も感じさせない柔らかな笑顔で。無理をしているようには見えないが、本当のところはわからない。だからといって創真に詮索する資格はないだろう。
 会話が途切れたちょうどそのとき、注文していたオレンジジュースが運ばれてきた。彼女はストローで氷をつついてから飲み始める。つられるように、創真もだいぶぬるくなったコーヒーを口に運んだ。
「何だかままならないよね、私たち」
「ああ」
「完全一方通行の三角関係なんて」
「……えっ?」
 顔を上げると、彼女はストローをつまんだまま薄く苦笑していた。
 綾音は創真が好きで、創真は翼が好きで、翼は綾音が好きで——言われてみれば確かに完全一方通行の三角関係だが、綾音がそう認識しているということは、つまり。
「翼の気持ちを知ってたのか?」
「そうなんだろうなって思ってるだけ」
「ああ……」
 知らないあいだに翼が告白していたのかと思って驚いたが、どうやら言動から察しただけのようだ。それなら納得である。あれだけあからさまに好意を示していたのだから無理もない。
「創真くんは翼くんから聞いてたの?」
「いや、オレもただの推測なんだけど」
「やっぱり態度でわかっちゃうよね」
 そう言って肩をすくめる綾音につられて、創真も笑った。
 しかし、そのまま沈黙が落ちた。彼女は何か考え込むような面持ちでそっと目を伏せると、あらためてストローをつまみ、カランカランと音を立てながらオレンジジュースをかき混ぜる。
「でも、翼くんは告白とかするつもりはないんだと思う。私を困らせたくないっていうのもあるかもしれないけど、西園寺家の跡取りだし……翼くんならそこまで考えてるんじゃないかな」
「ああ……」
 言われてみればそうかもしれない。翼は小さいころからいつだって将来のことを考えてきたし、無責任な行動はしない気がする。ただ、それは自分のためというより綾音のためではないだろうか。
「だからね、どうせなら創真くんと翼くんが上手くいけばいいなぁって」
「えっ?」
 創真は思わずはじかれたように顔を上げる。
 正面の綾音はうっすらと曖昧な笑みを浮かべていた。突拍子もない発言のように思えたが、その表情を見て何となく気持ちがわかった気がした。同じ立場だったら創真もそう思っていたかもしれない。けれど——。
「そこまで夢は見られない」
 静かな声にはあきらめがにじんでいた。
 一瞬、綾音は何ともいえない微妙な顔つきになるが、すぐに気を取り直したようにさらりと話題を変える。その配慮に、創真は自分でも驚くくらいほっとしてしまった。





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