瑞原唯子のひとりごと

「伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい」第2話 公爵家の騎士団長は一目惚れの少女と結婚したい (前編)



 俺って本当に信用ないな——。
 雲ひとつない穏やかな青空の下、ウィンザー公爵家の嫡男であり王都の騎士団長でもあるリチャードは、殊更美しい白馬に乗ったままチラリと後ろを振り返ると、その光景にあらためて嘆息した。
 二人の執事が、それぞれ栗毛の馬を駆って着いてきている。
 来なくていい、その必要はない、むしろ来るなと言い渡したにもかかわらず、二人は旦那様の命令ですからと聞く耳を持たなかった。雇い主は父であるウィンザー公爵なのだから致し方ない。
 この二人は腕が立つので、護衛としての役割を求められることも少なくないが、今回はお目付役としてついてきているのだろう。必ずリチャードを連れ帰るように厳命されたと聞いている。
 しかし、リチャードにはもとよりすっぽかす気などない。
 自身が十年ものあいだひそかに待ち望んでいたことなのだ。だからこそ待ちきれずにこうしてグレイ伯爵家へと向かっている。ここに至るまでの長い長い道のりに思いを馳せながら——。



「君はまたこんなところで寝ていたのか」
 どことなくあきれを含んだ声が上から降ってきて、リチャードは目を開けた。
 そこにいたのは同級生のアーサー・グレイだった。生真面目な性格を体現するかのように制服にはわずかな乱れもなく、木陰で仰向けに寝転んでいるリチャードを無表情で見下ろしている。
「別に構わないだろう。昼休みくらい」
 リチャードは起き上がりもせずにそう応じると、ふわぁ、とあくびをした。生徒も先生もほとんど通らないここは、ひとりになりたいときに訪れる安息の場所だ。それを知っているのはアーサーだけである。
「経済学の課題を提出するよう先生から言付かった。期限は今日だぞ」
「ああ、あれならもうとっくに出来上がってるから心配するな」
「君は……なぜいつも期限ギリギリに提出しようとするんだ」
「期限を守ってるんだからいいだろう。遅れたことは一度もないぜ」
「……忘れるなよ」
 そう言うと彼はすぐに身を翻して立ち去っていった。
 あいつ、このためだけに来たのか——。
 緊急ではないのだから次の授業のときでもいいのに。まあ、そういう融通がきかないところがあいつらしいけど。さらさらと風に揺れる枝葉を眺めながらそんなことを思い、口元を緩ませた。
 向こうはどうだか知らないが、リチャードは彼にけっこう好感を持っていた。
 貴族の子息が数多く通っているこのパブリックスクールでも、公爵家の嫡男というのは特別らしく、機嫌を損なわないよう気を遣われたりへつらわれたりする。生徒だけでなく先生にさえも。
 だが、彼だけは違う。説教めいたことも平然と言ってくるし、間違っていると思うときには真っ向から反論してくる。頭にくることもあるが、こそこそと陰で言われるよりはよほどよかった。
「さてと、せっかく来てくれたことだし提出してくるか」
 リチャードは起き上がり、まだらな白い木漏れ日を浴びながら大きく伸びをした。

 結局、卒業するまでアーサーとは友達未満のままだった。
 その後、リチャードは王都の騎士団に所属したが、彼はグレイ伯爵領に戻ったらしく顔を合わせることもなくなった。連絡も取り合っていない。彼が結婚したということも元同級生の噂で耳にしたくらいである。

「え、アーサー?!」
 卒業から七年ほど過ぎたある日。
 騎士団本部を歩いていると、前方から歩いてきた男がアーサーに似ていて思わず声を上げた。その声に反応して振り向いた彼もすこしだけ目を大きくしたが、すぐに冷静な表情に戻る。
「ウィンザー侯爵、お久しぶりです」
「いや、リチャードでいいよ」
「そういうわけにはまいりません」
「相変わらずだな」
 リチャードは苦笑する。
 ウィンザー公爵家の嫡男であるリチャードは、現在、従属爵位であるウィンザー侯爵を儀礼称号として名乗っている。もっとも畏まった場でないかぎりリチャードと呼んでも構わないのだが、堅物の彼には難しいようだ。
「おまえ領地に帰ったって聞いたけど」
「はい、ですが王宮に勤めることになりまして」
「なるほどな」
 このところ王宮の事務方が不足しているという話だったので、彼のところへ話が行ったのだろう。領地のほうは領主である彼の父親がいるので問題ないはずだ。
「奥方も王都に来ているのか?」
「妻だけでなく子供たちも一緒です」
「へぇ、おまえが父親とはな」
 詳しく聞くと、娘一人、息子二人がいるという。彼が結婚して家庭を持つというのは何か不思議な感じだった。子供たちにどう接しているのかあまり想像がつかない。
「あなたは……」
「ん? ああ、俺は先日婚約したところ」
「それは、おめでとうございます」
 いわゆる政略結婚なので個人的にはあまりめでたくないし、むしろ気が重いのだが、両家にとっては確かにめでたいことだといえるだろう。否定はせずに曖昧な笑みを浮かべて受け流した。
「すみません、失礼ですがグレイ卿でしょうか?」
 そのとき、騎士団本部の事務方が頃合いを見計らったように近づいてきて、なぜか部外者であるアーサーのほうに声をかけた。
「そうですが……」
「さきほど近所の子供がこれを持ってきまして。どうやら見知らぬ男から騎士団本部に届けるよう頼まれたらしいのですが」
 差し出された封筒には『グレイ卿』と宛名が記してあった。
 二人して怪訝な顔になる。
 アーサーはたまたま用事で騎士団本部に来ただけだという。封筒を裏返しても差出人の名前は見当たらない。ただ封蝋には紋章のようなものが刻印されていて——それを認識した瞬間、リチャードは冷たい手で心臓を掴まれたようにゾクッとする。
「アーサー! いますぐ開けろ!」
「えっ、どういうことでしょうか?」
「いいから開けろ!!!」
 血相を変えたリチャードに気押されて、アーサーは戸惑いながらも封蝋を破り、二つ折りになっていた紙を取り出して開く。その瞬間、彼の顔からサーッと血の気が引いた。
「貸せ!」
 リチャードはそう言ってひったくるように奪い、目を通す。
 やはりか——。
 それはいわゆる脅迫状と呼ばれるもので、娘のシャーロットを誘拐したこと、その身代金を要求する旨が端的に記されていた。期限は三日。要求に従わなければ娘の命はないとのことだ。
 この一年、同じような事件が王都で三件起こっている。
 一件目、二件目は身代金を払って子供は無事に戻ってきた。しかし三件目では子供が殺された。身代金の受け渡しに来た男を捕らえたが、彼が自害し、子供の監禁場所を突き止められなかったのだ。
 いずれの事件も封蝋の紋章などから同じ組織の犯行と思われた。そして今回も——封蝋に刻印されていたのは、過去三件と同じく月と刀をモチーフにした紋章である。手口からしても間違いないだろう。
 そうした詳しいことをリチャードが知っていたのは、その組織が身代金をもとに国家転覆を企てているかもしれないということで、王都の騎士団のひとりとして捜査に当たっていたからである。
「アーサー、おまえ身代金は用意できそうか?」
「領地に帰れば……ですが、三日で用意できるかは……」
「だったら俺が個人的に貸してやる」
「えっ」
 アーサーが驚きの声を上げて目を見開いた。その瞳が揺れる。
「いえ……それ、は、さすがに……」
「他に当てはあるのか?」
 平時の彼であれば絶対にこんな申し出は受けないだろう。けれどいまは娘の命がかかっている。グッと静かに奥歯を食いしめて逡巡していたかと思うと、深く頭を下げた。
「お言葉に甘えさせていただきます」
「おまえは家に帰って状況を確かめてこい」
「わかりました」
 アーサーが踵を返すと、リチャードもすぐさま隊長のところに赴いて報告する。ほどなくして自分たち一番隊が任務に就くことに決まった。二番隊、三番隊も必要に応じて支援につくという。
 ただ、騎士団はあくまで国家転覆を謀る組織を一網打尽にするために動く。一応、人質の命が最優先ということになっているが、それが建前であることは騎士団員なら誰しも理解しているだろう。
 それでも、絶対に娘は助ける——。
 見たこともないほど顔面蒼白になったアーサーの姿を思い浮かべながら、リチャードはグッとこぶしを握りしめた。

 戻ってきたアーサーによると、シャーロットはいつものように侍女の買い出しについていったが、侍女だけが路地裏でうつぶせに倒れているところを発見され、近くの病院に運ばれていたそうだ。
 意識を回復したばかりの侍女に話を聞いたところ、いきなり後ろから殴られたので顔は見ていないが、船乗りのような靴を履いていたとのことである。そしてかすかながら潮の匂いもしたという。
「やはり港だ」
 以前の事件で、無事に戻った子供たちは『ゆれた』と証言し、遺体で戻った子供からは潮の匂いがした。それらの情報から船が監禁場所ではないかと推測したが、手がかりはつかめなかった。
 しかし現在進行形で監禁が行われているのだとしたら、必ず何かしらの手がかりがつかめるはずだ。隊長の許可を得たうえで、リチャードは三人の後輩をつれて王都の外れにある港へと向かった。

「怪しいな」
「ええ」
 リチャードは隣の後輩とひっそり言葉をかわす。
 二手に分かれて港の様子を見ていると、小型船のひとつに複数の男が出入りしていることに気付いた。ずっと停泊したままで出港準備をする様子もないのに。ひとまず本部へ報告しておこうかと考えた、そのとき。
「たすけてぇええっ! おとうさまぁあああっ!!!」
 その小型船から、助けを求める子供の声がはっきりと聞こえた。
 おそらく誘拐された娘だろう。
 口をふさがれたのかすぐに聞こえなくなってしまったが、これまでの手口からして期限までは生かしておくはずだ。焦る気持ちを抑えつつ、このことを本部へ報告してくるよう隣の後輩に指示を出した。

 救出作戦は夜明け前に決行することになった。
 小型船の子供は、誘拐された娘のシャーロットでほぼ間違いないという結論に達している。念のためアーサーにはリチャードが用立てた金を身代金として貸してあるが、使うことはないだろう。
 救出作戦が完了すると、すぐさま別動隊が組織の拠点に突入する手筈になっている。小型船から出てきた男が街で連絡係らしき人物と接触しており、そこから組織の拠点が判明したのだ。
 本当は、素直に身代金を払ったほうが娘が助かる確率は高い。
 それでも騎士団としてはこの機を逃すわけにはいかなかった。これからの被害者をなくすためにも。もちろん人質の命を蔑ろにした作戦であれば全力で反対したが、そうではない。だから——。
 何がなんでもこの作戦を成功させる。
 いまのリチャードにできるのはそれだけだ。強く意気込みながらも決して冷静さを失うことのないよう心がけつつ、救出作戦実行部隊のリーダーとしてあらためて気を引きしめて、決行の時を待った。

 船には三人の男が乗っている。
 外で見張っているのが一人、中にいるのが二人だ。娘も中にいるのだろう。もしかすると他にも潜んでいる人物がいるかもしれないが、船の大きさからして可能性は低いという判断である。
 まずは騎士一人が泳いで沖のほうから船に侵入し、そっと見張りの背後に近づくと、口をふさいで首を絞めて一気に落とした。そして彼の合図で、リチャードを含めた騎士三人がひそやかに乗り込んだ。
 カーテンの隙間から中を覗くと、一人は長椅子で横になり、もう一人は椅子に座ってうつらうつらしていた。そして娘は奥のほうに転がされている。手足を縛られ、目隠しをされ、口をふさがれたままで。
 四人の騎士は打ち合わせどおり所定の位置につく。両側の窓にそれぞれ一人、入口の扉に二人。リチャードは扉のほうだ。合図を出すと全員無言でカウントを取り始める。五、四、三、二、一……。
 ドゴン! ガシャガシャン!!
 三方から同時に窓や扉をぶち破って四人の騎士が突入し、男たちを取り押さえた。二人とも夢うつつだったせいか抵抗らしき抵抗もなく、終わってみれば実にあっけない幕切れだった。
「…………っ!」
 息を飲む音に振り向くと、娘が床に転がったまま驚愕したように目を見開いていた。いつのまにか目隠しがすこしずれている。もしかすると一連の逮捕劇を見てしまったのかもしれない。
 リチャードは男たちを連行するよう部下に命じてから、しゃがんで娘を覗き込む。
「シャーロットだね?」
 そう尋ねると、彼女は怯えたように顔をこわばらせながら曖昧に頷いた。リチャードは意識的に表情をやわらかくして続ける。
「俺は騎士のリチャード。お父さんに頼まれて君を助けに来たんだ。いまから口のそれを外してロープをほどくけど、いいかな?」
 『お父さん』と聞くなり彼女はハッとして目を見開き、今度はしっかりと頷いた。
 下方にずれていた目隠しの布を外し、猿ぐつわを外し、手足を縛っているロープをほどくと、あたたかくてやわらかい小さな体をそっと起こす。そのとき、壊れた窓から差し込んでいた朝日が彼女を照らし出した。
 ——……っ!
 リチャードは言葉もなく息を飲む。
 潤んできらめく緑の瞳がまっすぐにリチャードを捉えていた。濡れたまつげはかすかに震え、小さな口はきゅっと結ばれ、目に涙をためながらも必死に泣くのを堪えていることが窺える。
「泣いてもいいんだぞ」
 そう告げても、彼女はふるふると首を横に振るだけだった。
 しかしそっと頭を抱き寄せると、おずおずと縋るようにリチャードの上着を掴んで顔を埋めてきた。簡単に壊れてしまいそうな幼気な体をわずかに震わせながら。

 早朝の朝靄の中を、リチャードは白馬に乗ってゆっくりと進む。
 自分のまえにはシャーロットを乗せていた。怯えることもなく思いのほかしっかりと危なげなく座っている。緩いウェーブを描くストロベリーブロンドはふわふわと揺れ、朝日を浴びて輝いていた。
「騎士さま」
 ふいに彼女が振り返り、リチャードはやわらかく微笑んで緑の瞳を見つめ返した。
「なんだい?」
「わたしも騎士さまみたいに強くなりたいです」
「そうだな、頑張ってたくさん訓練したらなれるかもな」
「……がんばります」
 幼子とは思えないほど真剣に答える彼女を見つめたまま、そっと頭に手を置く。
 それだけで胸がキュッと熱くなる。できることならもっと触れたいし、抱きしめたいし、手放したくない——そのときにはもう自分の感情を理解していたものの、目をそらすつもりはなかった。

「シャーロット!!!」
 騎士団本部のまえでアーサーが待ち構えていた。無事に救出した旨の連絡は受けていたと思うが、それでも居ても立ってもいられなかったのだろう。シャーロットの姿に気付くなり全力で駆け寄ってきた。
 リチャードは馬を止め、道中で眠りに落ちたシャーロットを片手で抱いて下りると、待ちきれずに両手を差し出しているアーサーに渡す。彼は泣きながら娘を抱きしめてその場に崩れ落ちた。
「ありがとうございます。本当になんとお礼を言ったらいいか……ああ……」
「俺は騎士として仕事をしただけだ」
 そう受け流し、じゃあなと軽く手を上げて仲間とともに騎士団本部に入っていく。まだ後処理などやらなければならないことが山積みなのだ。チラリと振り返ると、アーサーは娘を抱いたまま深く頭を下げて見送っていた。

「ロゼリア・クレランス嬢との婚約を解消したい」
 リチャードは父であるウィンザー公爵にそう告げて、書類を差し出した。
 それはクレランス侯爵家の調査報告書である。例の組織による誘拐事件が一段落したあと、リチャードが自ら調査してまとめたものだ。ウィンザー公爵はそれを怪訝な面持ちで手にとり、目を通す。
「……なるほど、限りなく黒に近いグレーだな。だが黒と証明するのは難しい」
 クレランス侯爵家には不透明な金の流れがあった。もはや黒としか考えられないような状況ではあるものの、決定的な証拠までは掴めていない。しかしながらそれも織り込み済みである。
「我々が証明する必要はありません。この件を告発すれば本格的な調査が入りますし、証拠も見つかるでしょう。そうなれば相手の瑕疵として婚約を破棄できます」
「そこまで追いつめては恨みを買うぞ」
「ええ、ですから告発するまえにクレランス侯爵に持ちかけるつもりです。この不正をすぐに是正して婚約解消に合意するのであれば、告発も公表もしないと」
「なるほど、おまえの計画はわかった」
 ウィンザー公爵は疲れたように重々しく溜息をついた。そして視線を上げると、奥底まで見透かすようなまなざしを向けて問いかける。
「どうしてそこまでロゼリア嬢との結婚を回避したい?」
 彼は気付いていた。クレランス侯爵家が不正を行っているから婚約を解消したいのではなく、婚約を解消するためにクレランス侯爵家の不正を突き止めたということに——それでもリチャードは動じることなく答える。
「他の女性と結婚したいからです」
 女性といっても、まだ当分は結婚できない少女だけれど。
 さすがに自分でもどうかと思わないでもなかったが、抗えないくらい惹かれてしまったのだから仕方がない。幼女趣味ではなく、運命の相手がたまたま自分より年若かっただけなのだ……多分。
「どこのご令嬢だ」
「わたしが一方的に考えているだけなのでまだ言えませんが、家柄にも本人にも問題のない未婚女性です。ただ、結婚の約束を取り付けるまでには少々時間がかかると思います」
 少々どころか十年くらいかかってしまいそうだが——まずはこの婚約を解消しないことには始まらないので、そこは曖昧に伏せておく。とりあえず嘘は言っていないのだから構わないだろう。
 ウィンザー公爵は難しい顔をして溜息をついた。
「おまえが何を考えているのか今ひとつ測りかねるが、クレランス侯爵家の不正を知ってしまった以上、どのみちこのまま婚姻を結ぶわけにはいかない。ロゼリア嬢との婚約は解消しよう」
「ありがとうございます」
 ほどなくしてロゼリア嬢との婚約は穏便に解消された。一方的な婚約破棄ではなく、双方の合意による婚約解消という形である。告発されるよりはとクレランス侯爵が素直に応じたのだ。
 そういう事情なので、当然ながら婚約解消の理由は公表していない。
 もともと政略結婚であることは知られていたので、ウィンザー公爵家側の都合によるものではないかというのが一般的な見方だが、一部ではリチャードが男色に目覚めたからだとまことしやかに囁かれていた。
 なんでだよ——!
 一体全体どうしてそうなるのかわけがわからず、頭を抱えたくなる。
 それでもあえて否定はしなかった。シャーロットが成人するまで結婚を回避しなければならない身としては、縁談を持ちかけられることも令嬢に言い寄られることも格段に減るので、都合がよかったのだ。

「よう、元気にしてるか?」
 あの日から、王宮で仕事をするアーサーのもとをたびたび訪れるようになった。
 シャーロットも含めて妻子は領地へ戻ったと聞いている。あんなことがあったのだから無理もない。落ち着いたら会いたいと思っていたので残念ではあるが、あきらめてはいなかった。
「おまえ十日ほど領地に帰るんだって?」
「そんなことまでよくご存知ですね」
「それさ、俺もついていっていいか?」
「……何か御用がおありなのでしょうか」
「シャーロットに会いたくなってな」
 冗談めかして軽く答えたが、それを聞いたアーサーはなぜか苦しげに目を伏せ、机の上で組み合わせていた両手にグッと静かに力をこめた。
「あなたがシャーロットを救ってくれたことには、本当に心から感謝をしています。ですが……こちら側の事情で非常に申し訳ないのですが、シャーロットには会わないでいただきたいのです」
「事情?」
「シャーロットはあの事件のことをあまり覚えていないようなのです。それだけショックが大きかったのでしょう。ですから、それを思い出させるようなことは避けたいと考えていまして」
「そうか……それなら仕方ないな……」
 事情は理解した。
 それなりの時間が経過しているならともかく、あれから一年も経っておらず、彼女もまだ幼いのだから、残念ではあるが気をつけてしかるべきである。
「じゃあ、せめて写真を撮ってきてくれないか」
「……わかりました」
 本来、写真は貴族でも特別なときにしか撮らないので、こんなに気軽に頼むようなものではないのだが、彼は拍子抜けするくらいあっさりと了承してくれた。きっとせめてもの誠意なのだろう。

「シャーロットの写真です」
 アーサーは領地から戻ってくると、騎士団本部のリチャードを訪ねてきて五枚の写真を机に並べた。肖像画のようだったり、立ち姿だったり、座り姿だったり、顔のアップだったりと様々な姿を捉えている。
「あのときよりもすこし大きくなってるよな」
「はい、元気にすくすくと育っております」
 写真からも成長が見てとれて微笑ましい気持ちになる。そして芯の強そうな凜としたまなざしには胸が熱くなり、聡明さを感じさせる表情には心を掴まれ、かわいい顔には愛おしさがあふれた。
「ありがとな。五枚ももらえるとは思ってなかったよ」
「……あの……差し上げるつもりはなかったのですが」
「えっ?」
 思わずきょとんとする。どういうことかわからず怪訝な顔になるが、彼のほうもまた困惑しているようだった。
「元気にしている姿をお目にかければいいだけかと」
「いや、せっかく撮ってきたんだからくれよ」
「ですが……よその子供の写真なんて要りますか?」
「俺とおまえの仲だろう!」
 写真が欲しいあまり不自然なくらい必死に言い募ってしまった。
 彼は困惑の色を深めていたが、それでもリチャードに恩義を感じているからか、気を取り直したようにわかりましたと首肯する。
「それでは一枚だけ差し上げますのでお選びください」
「ん、一枚だけ?」
「もともとわたしが眺めるために持参したものですから」
「なるほど、それで五枚も撮ってきたというわけか」
 なかなかの親馬鹿だ。王都と領地で離ればなれに暮らしているのだから、せめて写真だけでもという考えは納得できるのだが、あの堅物のアーサーがなぁと何か不思議な気持ちになる。
「んー……じゃあ、これをもらうよ」
 五枚の中から顔がアップになっているものを選んだ。まるでこちらを見つめているかのような緑の双眸が、印象的に捉えられている。リチャードが最初に惹かれたのはこの瞳だったのだ。
 アーサーは残りを回収し、脇に抱えていた仕事用のファイルに大事そうに挟んだ。
「あなたも早く結婚すればいい。我が子はかわいいですよ」
「そうはいっても当分のあいだは結婚できないんだよなぁ」
「それは、どうして……」
 聞いていいのか迷ったらしく遠慮がちに尋ねてきた。リチャードはふっと思わせぶりに口元を上げながら、彼に視線を流す。
「おまえのせいだ。責任は取ってもらうからな」
「えっ……わたしの……?」
 嘘は言っていない。彼の娘と出会ったせいでこうなってしまったのだから。いずれ結婚させてもらうから覚悟しておけ——動揺する彼を見て、胸の内でそんなことを思いながら悪戯っぽく笑った。

 以来、アーサーは帰郷のたびにシャーロットの写真を撮ってくるようになった。
 リチャードもそのたびに一枚もらっていた。そして、そのついでに彼からシャーロットの様子を聞くことを楽しみにしていた。義理堅いので何だかんだ言いつつもつきあってくれるのだ。
 本当は写真だけでなく実際に会いにいきたいと思っているのだが、アーサーには断られつづけている。いまでもまだ娘の記憶がよみがえることを恐れているらしい。気持ちはわからないでもないけれど。
「弱ったな……」
 これではシャーロットが成人するまでに親しくなるという正攻法がとれない。
 最終的には公爵家として正式に申し入れをするつもりだが、下位の伯爵家でも断れないわけではない。アーサーなら相手が公爵家でも命の恩人でも断るだろう。娘のためにならない縁談であれば。
 とりあえず縁談などまだまだ考えるつもりもないと言っていたので、いましばらくは安心だが、だからといっていつまでも手をこまねいているわけにはいかない。彼女が成人になるまでもう六年もないのだから。

 休日の昼下がり、リチャードは久しぶりに従兄弟のエドワードのもとを訪れた。
 子供のころは親戚としてときどき一緒に遊んだ仲だが、いまの彼は国王である。いかに従兄弟といえどふらりと訪れることはできず、たまには会いたいと時間を取ってもらった次第だ。
 彼の私室に通されて、用意されたお茶を飲みながら互いに近況を話し合う。私的な場ということで口調も砕けたものになっていた。そのうちに幼いころのいろいろな出来事にまで話が至り、盛り上がっていたのだが——。
「それで、本題は何だ?」
 一段落したところで、彼は不意打ちのようにそう切り込んできた。涼しい顔のまま見透かしたようなまなざしをこちらによこして。リチャードは思わず苦笑する。
「あいかわらず嫌になるくらい察しがいいですね」
「おまえがわかりやすいだけだ」
「そんなことを言うのはあなただけです」
 この九歳上の従兄弟には幼少のころからずっと敵わなかった。リチャードはあらためてすっと姿勢を正して彼を見つめると、用件を告げる。
「縁談の申し入れをする際、あなたに国王陛下として口添えをお願いしたいのです」
「口添えね……わかっているとは思うが、従兄弟だからといって特別扱いすることはできんよ。わたしを、そして皆を納得させられるだけの道理はあるのかい?」
「騎士団長に就任した際にいただける支度金の代わりであれば、前例があります」
「ほう」
 エドワードの目が興味深そうに輝いた。
 一般的には国益となる功績を挙げたときに褒美として口添えしてもらうのだが、いまは周辺国と和平を結んでおり、一介の騎士が国益となる功績を挙げることは現実的に不可能と言っていい。
 他に何か方法はないだろうかと必死に調べたところ、騎士団長就任の折に、支度金を辞退して口添えを求めた人物が過去にいた。異例ではあるが、前例があるのだから不可能ではないはずだ。
「おまえは騎士団長になるつもりなのかい?」
「はい、そのつもりです」
 昇進についてはこれまであまり積極的に考えてこなかった。だがシャーロットと結婚するためなら本気で騎士団長を目指す。動機は不純だが、職務はもちろん真面目にしっかりと果たすつもりだ。
「いいだろう……と言いたいところだが、女性側の意思を蔑ろにする口添えはいささか時代遅れでね。わたしもあまり気が進まない。相手の女性とすでに恋仲になっているというなら話は別だが」
「……俺は、必ず彼女を幸せにします」
 もちろん一点の曇りもない本心ではあるのだが、論点はそこではない。わかっていてもそう宣言することしかできなかった。いたたまれなさを感じて曖昧に目を伏せると、エドワードが軽く肩をすくめた。
「まあ、当主のウィンザー公爵に無断で進めるわけにもいかないからな。彼と相談して結論を出すことにしよう。騎士団長になるにはまだしばらく時間がかかるだろうし、それで構わないな?」
「はい」
 どのみち父であるウィンザー公爵に賛成してもらわなければ始まらない。リチャードは祈るような気持ちで深々と頭を下げた。

「おまえ、結婚したい女性なんて本当にいるのか?」
 後日、父であるウィンザー公爵に領地まで呼びつけられた。
 エドワードが縁談の口添えについて彼に相談すると言っていたので、その話だろうと予想はしていたが、まず大前提である結婚したい女性の存在を疑われるとは思わなかった。
「ロゼリアとの婚約解消を求めたときにそう言ったはずですが」
「あれから五年だぞ。男色を隠すための方便かと思っていたよ」
「あなたまでそんな噂を信じてたんですか……」
 新たに婚約する気配もなく、浮いた話もないことから、一部ではいまだに男色だの何だのと囁かれているようだが、まさか家族にまでそう思われていたなんて——さすがにげんなりしてしまう。
「では、相手がどこの令嬢なのか今度こそ教えてもらおう。陛下に口添えを頼む以上、素性を伏せたままというわけにはいかんからな。公爵家にふさわしい相手かどうかをまずこちらで見極める必要もある」
 できれば彼女がもうすこし大きくなるまで伏せておきたかったが、その言い分はもっともである。彼の意向に反してまで隠しつづけるのは得策でないと判断し、正直に答えることにした。
「グレイ伯爵家のシャーロット嬢です」
 それを聞いて、彼は考えをめぐらせるように首をひねる。
「グレイ伯爵家には確か息子しかいなかったと記憶しているが……おまえが親しくしている元同級生のアーサーが長男で、あとは次男、三男、四男だけではなかったか?」
「そのアーサーの娘です」
「ああ、そういうことか……ん?」
 納得しかけたところで混乱したように再び首をひねった。その顔は、だんだんと困惑をにじませた不安そうなものに変わっていく。
「その娘は何歳なのだ?」
「いま十歳ですね」
 予想はしていただろうが、予想以上の若さだったのかもしれない。
 彼は愕然として組んでいた両手のうえにうなだれかかった。そのまましばらく身じろぎもせず固まっていたかと思うと、やがて疲れたように深く溜息をついて顔を上げる。
「このことを他に誰が知っている?」
「父上にしか話していません」
「もう誰にも口外するんじゃないぞ」
「わかっています」
 彼に請われて、シャーロットとの出会いについてなど詳細を話していく。
 誘拐事件のときに出会ってどうしようもなく惹かれたこと、顔を合わせたのはそのときだけということ、アーサーにも気持ちを伝えていないこと、アーサーからたびたび写真をもらっていること——。
 ウィンザー公爵は何とも言えない複雑な顔をして聞いていたが、話が終わると椅子の背もたれにゆっくりと身を預け、しばらく思案をめぐらせるような素振りを見せたあと、静かに口を開く。
「このことは陛下にも話すが構わないな?」
「それは……ええ……」
「口添えについては陛下と相談のうえでどうするか決める。おまえは騎士団長になれるよう励め。騎士団長を拝命しないかぎり話は始まらないのだからな」
 リチャードはひとまず断られなかったことにほっとして、深く頭を下げた。
 可能性があるのなら口添えを得るための努力は惜しまない。だが、たとえ口添えを得られなかったとしても結婚をあきらめるつもりはない。そのときのために別の方法もすでに模索していた。

 三年後、アーサーが慌ただしく王宮の職を辞して領地に戻った。父親であるグレイ伯爵が急死したため爵位を継ぎ、当面は領地経営に専念するのだという。再び王宮勤めをするかは未定とのことだ。
 しばらくして、彼から挨拶と近況をしたためた手紙が届いた。律儀にもシャーロットの写真を添えて。愛らしく凜々しく聡明に成長しつつある彼女の姿を見て、ふっと頬が緩んでしまったが。
 俺が何を望んでいるかを知ったら、おまえは——。
 彼と親しくなるにつれて、騙して利用していることへの罪悪感が大きくなっていく。いつだって誠実に接してくれるからなおのこと。それでもこの望みだけはどうしても譲るつもりはなかった。

 さらに一年が過ぎ、リチャードはようやく騎士団長を拝命した。
 すぐさまグレイ伯爵家にシャーロットとの縁談を申し入れる。国王陛下の口添えとともに。こうなると余程の事情がないかぎり断ることはできないのだ。それでも承諾の返事が届くと大きく安堵した。
 あいつ、俺を軽蔑してるかもな——。
 形式的な文面からは彼がどう思っているかなどわかりようがない。それでもどんな気持ちで返事をしたかは想像がつく。もとより覚悟を決めたうえでこういう選択をしたはずなのに、胸が苦しかった。
「え、アーサーが?」
 そんな折、彼が騎士団本部を訪れてリチャードに面会を求めてきた。部下に通すよう命じると、ややあって彼が一礼して騎士団長の執務室に入ってくる。その表情はいつもより硬い。
「……久しぶりだな」
「はい」
 部下を下がらせると、二人きりで応接ソファに向かい合って座る。
「約束もなくお伺いして申し訳ありません。所用で王都まで来たので、失礼ながらついでに寄らせていただきました」
「来てくれてうれしいよ」
 リチャードが淡い微笑を浮かべてそう応じると、アーサーも頬を緩めた。縁談には触れないまま互いに近況などを話すものの、長くは続かず、やがて息の詰まるような気まずい沈黙が落ちる。
「……シャーロットは」
 そう切り出したのはアーサーだ。しかしながら目は曖昧に伏せられたままである。
「あの子は、わたしたち夫婦にとってかけがえのない大切な娘です。これまで愛情をもって大事に育ててきました。なので……こんなことを言える立場でないのは重々承知しておりますが……」
 彼はそこで意を決したように顔を上げるとリチャードを見据えて訴える。
「どうか、シャーロットを幸せにすると約束してください」
 その声にはどこか悲痛な響きがあった。
 本当は卑怯だと非難したかったのかもしれないし、最低だと侮蔑したかったのかもしれないし、裏切られたと怒鳴りたかったのかもしれない。けれど彼に言えるのはそれが精一杯だったのだろう。
「ああ……必ず幸せにすると約束する」
 リチャードはまっすぐ目をそらすことなく受け止めて、真摯に応じた。

 それから数か月、挨拶にも行けないまま婚儀の日が迫っていた。
 騎士団長に就任したばかりで思った以上に忙しかったのだ。王都で重要な行事がつづいたというのもある。何より婚儀のときに十日も休暇を取ることを考えると、それ以前にもというのは躊躇われた。
 アーサーは無理して来なくてもいいと言ってくれた。
 しかし直前になり結婚休暇を一日前倒しにできたので、急遽、連絡も入れないままグレイ伯爵家へ行くことにした。挨拶をして、その翌日に一緒にウィンザー公爵家へ向かえばいいと考えて。
 本音を言えば、挨拶より何より一刻も早くシャーロットに会いたい、顔を見たい、姿を見たい、声を聞きたい、できればほんのすこしでいいから触れたい。ただそれだけなのだけれど——。




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