カーディフの街に到着したのは予定どおり夜だった。
ここからほど近いグレイ伯爵家にはあした向かうつもりである。今日のところは馬を預けて大通りの宿に泊まった。執事二人は隣の部屋だが、寝るとき以外はリチャードの部屋に居座った。
「本当にグレイ伯爵家に行くんですか?」
「あたりまえだろう」
翌朝、宿の近くにあるカフェで執事二人と朝食をとった。
彼らはいまだにグレイ伯爵家に行くことに難色を示している。失礼になるとか迷惑になるとかで。ここに来るまでの道中でもさんざん引き留められたのだが、気持ちは変わらなかった。
「さあ、そろそろ準備をして行くぞ……ん?」
カフェを出て、着替えるためにいったん宿に戻ろうとしたそのとき——向かいを軽やかに歩く少女が目に留まった。すこし距離があり顔もはっきりとは見えなかったが、それでも見紛うはずがない。
「あの子はシャーロットだ」
「えっ……?!」
特徴的なストロベリーブロンドからしても間違いない。
だが、彼女はグレイ伯爵家の敷地外に出ることが許されていないはずだ。もしかしたら今現在は変わっているのかもしれないが、さすがにひとりで街をうろつくことが許されているとは思えない。
執事二人とこっそりあとをつける。
彼女は大通りにある最も店構えのいい宝飾店に入った。窓から覗くと、どうやら手持ちのネックレスを売ろうとして断られたようだ。未成年で身分証も持っていないのだから当然の結果である。
沈んだ顔をして彼女が出てきた。声をかけようかどうしようか迷っていると、そそくさと近づいてきた怪しい男にあっさりと騙されている。こうなってはもう静観などしていられない。
「おまえらは出てくるんじゃないぞ。いいな?」
「あ、ちょっと……!」
執事二人に言い含めると、そろりと背後から男に近づいて汚い手をひねり上げる。
「イテテテテテテ!」
男は苦痛に顔を歪ませながら悲鳴を上げた。逃れようともがいているが力はすこぶる弱い。雑魚だ。リチャードは無表情のまま冷たく吐き捨てるように言う。
「いますぐ失せろ」
「わかったわかった!」
手を離すと、男はその反動でよろけて蹴躓いてひとり地面に転がった。よろよろと起き上がり、リチャードから距離を取ったまま恨めしげに睨みつける。
「チッ、護衛がいたのかよ」
失敗したとばかりにそんな捨て台詞を吐いて、路地裏へと走り去った。
シャーロットは唖然としていた。
そんな表情もかわいい。現実の彼女は写真とは比べものにならないほど色鮮やかで、みずみずしくて、やわらかそうで、あたたかそうで、いい匂いもして、こうやってただ見ているだけでドキドキする。
しかし彼女の後方で呆れたような顔をしている執事が目に入り、我にかえった。さほど表情には出ていなかったのではないかと思うが、あらためて真面目な顔を装ってから彼女に声をかける。
「ここで客引きをするのは大抵ロクなやつじゃない。君のような世間知らずな子はいいカモだ。二束三文で買いたたかれるくらいならまだマシで、取り返しのつかない悲惨な目に遭うこともある」
「……助けてくださってありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
ようやく彼女も我にかえり、美しく可憐な声でそう応じて深々と一礼した。しかし急に不安そうに顔を曇らせたかと思うと——。
「お金……どうしましょう……」
「…………」
意に沿わない結婚を目前に控えているときにひとりで街に来て、手持ちのネックレスを売ってまで金を得ようとするなんて、嫌な予感しかしない。
「どうしてそこまで現金がほしいんだ?」
「わたし、結婚のために明日この地を離れる予定で」
「まさか結婚が嫌で逃亡とかじゃ……ない、よな?」
「最後に街で遊びたかっただけです」
彼女がそう無邪気に笑いながら答えるのを聞いて、安堵の息をついた。
とりあえず結婚から逃げ出すつもりはないようだ。しかし一日だけとはいえこうやって前日に逃亡しているのだから、嫌ではあるのかもしれない。たとえそうでも結婚をあきらめてやることはできない。だから——。
「それなら俺が協力するよ」
せめて、このささやかな願いくらいは叶えてやりたいと思ったのだ。
さきほどの宝飾店で、リチャードが騎士団長の身分を明かして頼んだところ、すぐに態度を翻してネックレスを買い取ってくれた。断られたら公爵家の身分証を見せるつもりでいたが、その必要はなかった。
「ありがとうございました」
店を出るとシャーロットは深々と頭を下げる。
あのネックレスは未成年が持つにしてはなかなかの品だったらしく、かなり高値で売れたが、本当に売ってしまってよかったのかはいささか心配になる。まあ、いざとなれば買い戻せばいいだろう。
「俺のことはリックと呼んでくれ。君は?」
「……ロッテと」
ありのままの彼女をもうすこし見てみたいという出来心で、ひとまず素性を隠すことにした。リチャードという名前だけで気付かれるとは思えないが、念のため短縮形を告げる。彼女も素性を隠そうとしているのか短縮形を名乗った。
「ロッテ、君はこれからどうするんだ?」
「まずカフェに行って、それからお芝居を観に行くつもりです。そのあとのことはまだ決めていませんが、いろいろとお店をまわってみようかなって」
わくわくと心躍らせながら話す彼女はとてもかわいらしかった。ただただ楽しみで仕方がないという気持ちが伝わってくる。だからこそ危なっかしくてとてもひとりにはしておけない。
「それさ、もしよかったら俺も同行させてもらえないか?」
「えっ、でもこれ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
「いや、ちょうどひとりで寂しいと思ってたところなんだ」
「それでしたら、ぜひ」
彼女は愛らしい笑顔でそう答えた。
もちろんリチャードとしてはありがたいのだが、あまりにもあっさりと承諾されたことについては何とも言えない気持ちになる。ますますひとりにはしておけないと思ってしまった。
これは、いわゆるデートなのでは——?
カフェの窓際の席でシャーロットと向かい合わせに座っていたところ、ふとそんなことを考えてしまい、だらしなく顔が緩みそうになるのをこらえて努めて何気ない表情を装った。
窓の外では執事二人がじとりとした視線をこちらに送っている。いいかげんにしてくださいという声が聞こえてくるかのようだ。それでも出てくるなという命令には従ってくれるらしい。
幸いにも彼女はそんな二人に気付いていない。初めて見るカフェにきらきらと目を輝かせたり、まわりの視線に落ち着かなさそうにそわそわしたり、いちいち初々しい反応をしている。けれど——。
「騎士?!」
王都の騎士団に所属していると話したらすごい勢いで食いついてきた。驚いて思わずのけぞりがちに目を瞬かせると、彼女は我にかえり、恥ずかしそうに頬を染めながら居住まいを正す。
「わたし、王都で誘拐されたことがあるんですけど、そのとき騎士の方に助けていただいて。まだ五歳だったので、当時のことはうっすらとしか記憶にありませんが、それでもわたしにとって騎士は憧れの存在になったんです」
「そう、か……」
誘拐のことは記憶から消え失せているという認識だったが、そうではなかった。しかもそのときの自分たちを見て騎士に憧れてくれたなんて——くすぐったくて、うれしくて、思わず口元が緩みそうになってしまった。
「なあ、君の婚約者ってどういうひとなんだ?」
結婚の話が出たついでに、緊張しつつもさりげなくそんな質問を振ってみる。どう思っているのか彼女の本音を聞いてみたかったのだ。
「まだ会ったことがないのでわからないんです」
シャーロットは肩をすくめる。
「急に決められた結婚なので。相手は父と同じ年齢の侯爵様だと聞いています。悪い奴ではないと父は言っていましたが……その……ここだけの話にしてもらえます?」
「ああ」
流れからしてどうやらあまりいい話ではなさそうだ。不安を感じながらも素知らぬ顔をしたまま頷くと、彼女は小さな口の横に小さな手を添えて身を乗り出し、こそっと小声で言う。
「その方、どうやら男色家らしくて」
「えっ……」
「十年前、それに目覚めて一度婚約を破棄しているんだそうです。でも嫡男なので、家存続のために仕方なく結婚することにしたんだろうって。両親がこっそり書斎でそう話しているのを聞いてしまって」
まさかアーサーにそう認識されていたなんて——。
確かに男色の噂はあったが、彼はずっと変わりなく普通に接してくれていたので、てっきり知らないものとばかり思っていた。たとえ知っていても、そもそも軽率に噂を鵜呑みにする人間ではないはずだ。怪訝に思いながら、渇いた喉を潤そうとティーカップを手にとる。
「それってただの噂だったりはしないのか?」
「いえ、父は実際その方に懸想されているらしいです」
「ブフッ」
思わず飲みかけていた紅茶を吹いた。どうやら彼女にはかからなかったようだが、それでもハンカチで口元を拭いながらすまないと謝罪する。彼女はあまり気にしてなさそうでほっとした。
それにしても……懸想って、俺が、あいつに?!
一体全体どうしてアーサーはそんな突拍子もない勘違いをしたのだろう。あまりにもわけがわからなくてクラクラする。それならわざわざ娘のシャーロットを結婚相手に選んだりはしないはず——いや。
「まさか、父上の身代わりとして君が望まれたとかいうんじゃ……」
「父はおそらくそうではないかと推測していました。先方がこの結婚を強く希望したらしくて。父としては断りたかったけれど、事情があって受け入れるしかなかったそうです」
おまえなぁ!!!
頭を抱えながらうなだれる。これではまるで歪んだ執着心をもった危ない奴だ。いますぐ釈明したい衝動に駆られたものの、グッと堪える。ここで感情的に行動するのは得策ではないだろう。
「君は、嫌じゃないのか?」
「心配ではありますけど、わたしと向き合ってくださるのならそれで十分です。せっかく家族になるのですから仲良くしたいですし、そのためにはこちらが心を閉ざしていてはいけませんよね」
気負いのない様子からしても本心だろう。
前向きに受け入れる心づもりがあることにはとりあえず安心した。だがそれは相手がリチャードだからというわけではない。顔合わせもしていないのに望みようのないことだとはわかっていても、それでも——。
「よし、今日は思いっきり楽しもう!」
「え……あ、はい」
リチャードは気持ちを切り替えた。
誤解はあれど、彼女に結婚から逃げる意思がないのなら焦る必要はない。ここでどうにもならないことをモヤモヤと考えているより、いまは彼女の希望を叶えることだけに注力しよう、そう心に決めた。
まずは観劇だ。
現在公演中の演目は大人気らしくほぼ満席だったが、運良く二つ並びの席が取れた。ただし角度がついていて見づらいバルコニー席だ。それでも彼女は食い入るように舞台だけを見つめていた。
一方でリチャードはそんな彼女の横顔ばかり見つめていた。それだけで幸せな気持ちになる。もちろん大事な場面では舞台にもチラチラと目を向けたし、歌やセリフはそれなりに聞いていたけれど。
よりによってこんな話とは——。
ヒロインが政略結婚の前夜に身分違いの恋人と駆け落ちするが、最終的にはまわりにも認めてもらい、正式に結婚を許されてめでたしめでたしという話だった。よくある王道のラブロマンスである。
けれども何となく彼女には見せたくないと思ってしまった。これに感化されて駆け落ちすることはさすがにないだろうが、ヒロインに自己を投影して見るかもしれない。そう考えるだけでモヤモヤする。
「君は……その……好きなひとがいたりしないのか?」
「いませんよ」
どうしても気になり、劇場を出てからおそるおそる尋ねてみたところ、彼女は動じる素振りもなくさらりとそう答えた。そして劇場前の広い階段を軽やかに駆け下りると、ふわりと身を翻して笑った。
リチャードはつられたように軽い笑顔を見せながら、内心ほっとしていた。
観劇のあと、昼食にしようと中央広場で移動販売のサンドイッチを買った。
レストランに行くという手もあったが、せっかくなので彼女には縁遠いものを経験させてやりたいと思ったのだ。移動販売も、立ち食いも、バゲットにかぶりつくのも初めてに違いない。
もちろん嫌がれば無理をさせないつもりだったが、彼女は慣れないながらもそれを楽しんでいるようだった。その一生懸命な姿がかわいくて、ニコニコと満面の笑みを浮かべたまま見つめてしまう。
その後ろで執事二人がそろって呆れた顔をしているのが見えたが、素知らぬふりをして、彼女に見つからないようこっそりと追い払うような仕草をする。それでも彼らは動かなかった。
「これ、とてもおいしかったです」
ひそかな攻防には気付かないまま、彼女はきれいに完食するとそう声をはずませる。どうやら他の移動販売にも興味を持ったようだが、もうおなかいっぱいだからと残念そうにしていた。
「またいつか来ればいいさ」
結婚したら、たびたびこんなふうに二人で街に繰り出そう。王都ならもっといろいろなものを見せてやれる。リチャードは青く晴れわたった空を見上げながら、遠くはない未来に思いを馳せた。
そのあと大通りの店をいろいろと見て歩き、おみやげを買った。
紅茶店では紅茶選びに困っていたようなので助言をした。アーサーの好みはだいたい把握しているので、勧めたものはどれも彼に気に入ってもらえるはずだ。そのことはまだ言えないけれど。
「自分のものは買わなくていいのか?」
そう水を向けると、彼女はすこし迷いつつも雑貨店に入った。
特に目当てはないのか店内をのんびりと見て歩いていたが、ふいに動きが止まった。その視線の先にあったのは銀の指輪だ。細い流線型のリングに紫色の小さな宝石が埋め込まれている。
ただ、アクセサリというよりほとんどおもちゃのようなものだ。見たところ貴金属としての価値は低そうだし、埋め込まれた紫色の小さな宝石もたいしたものではないだろう。それでも——。
「それ、気に入ったのか?」
「ええ……買いませんけどね」
「だったら俺に贈らせてくれ」
「えっ?」
緑色の瞳をきらきらと輝かせながら見ていたのだから、気に入ったことは明白だ。さっと手にとり店員のところへ持っていこうとしたが、腕をつかんで引き留められた。
「いけません!」
「高いものじゃない」
「そうではなくて」
そこであらためて強く真剣なまなざしを向けられて、リチャードは息を飲んだ。
「わたし、あしたには嫁ぎ先に向かうんです。そこに他の男性からの贈り物なんて持っていけません。それも指輪だなんて……自分で買わないのも変に誤解されたくなかったからです」
当然だが、彼女はここにいるリックが結婚相手だとは知らない。
だからといってそこまで深く考えているとは思わなかった。黙っていればわからないのに。父親譲りのそういう誠実なところを好ましく思うと同時に、軽率な自分に落ち込みもした。
「悪い、今日の記念にと思ったんだ」
「わかっていただければ……」
彼女はどこか申し訳なさげにそう応じたが、次の瞬間、急にパッと表情を明るくして両手を合わせる。
「そうだわ! わたしのほうからリック様に何か贈らせてください。今日の記念とお礼をかねて。リック様のおかげで街を楽しむことができましたし、お父さまへのおみやげも買えました」
彼女が、俺に——?
予想もしなかった申し出に驚いたが、落ち着くにつれてじわじわと喜びが湧き上がってくる。そしてその気持ちのまま素直に表情を緩ませてしまう。
「じゃあ、遠慮なくいただこうかな」
「はい!」
シャーロットは溌剌とした笑顔でそう返事をした。
「贈り物、カフリンクスはいかがですか?」
ひとまず店をあとにして大通りを歩いていたところ、彼女にそう提案された。
これか——と自分のカフリンクスを見る。いまつけているものは細かな傷があちこちにあってだいぶ古びていた。実はきれいなものもいくつか持っていたりするのだが、それは言わないことにする。
「そろそろ買い換えたいと思ってたところだし、ロッテが贈ってくれるならうれしいよ」
シャーロットからもらえるのならきっと何でもうれしいが、カフリンクスは長く使えそうだし、何より仕事中でもさりげなく身につけていられるのがいい。想像するだけで胸が躍った。
さっそくカフリンクスを取り扱っていそうな店を探して入ると、彼女はすぐさま目当ての品を吟味し始めた。時折リチャードを見つめて似合うものを考えているようで、何かくすぐったくなる。
「リック様、これはいかがですか?」
「いいね」
興奮ぎみに尋ねられて、リチャードも同調するようにそう声をはずませた。
彼女が選んだからではなく本当に気に入ったのだ。シンプルで洗練されたデザイン、邪魔にならないサイズ、気品が感じられる上質な輝き——どれも自分の好みに合っていて文句のつけようがない。
即座に彼女は購入を決めた。思いのほか高かったらしく値段を聞いて焦っていたが、どうにか足りたようだ。申し訳なく思いつつも、謝罪は求めていないだろうとあえて気付かないふりをした。
「これ、わたしの気持ちです」
中央広場に誘われ、そこであらためてカフリンクスの入った手提げ袋を渡される。
思いがけずシャーロットと出会って街を楽しんだうえ、一生の宝物になるであろう贈り物までもらえるなんて、僥倖としか言いようがない。けれど、いまはまだ知り合いとも呼べないような間柄でしかなく。
「ロッテ……今日、ここで君に出会えてよかった」
「はい……」
“リック”に言えるのはここまでだ。
彼女も何か言いたいことがありそうな様子に見えたが、そっと口をつぐむと、気を取り直したように顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「あっ!」
直後、見知らぬ若い男がリチャードにぶつかった。
その拍子に、彼が持っていたカップからジュースらしきものがこぼれて、リチャードの衣服にかかった。白いシャツの袖からはオレンジ色の液体が滴り落ちている。
「ああっ、すみません!!」
「いいよ、仕方ない」
勢いよく謝罪する若い男に、リチャードは苦笑しながら軽く手を上げてそう応じた。故意でないならこれしきのことで責めるつもりはない。しかしながら若い男はなぜか必死に食らいついてくる。
「そのシャツ僕に洗わせてください!」
「え、洗う……?」
「泊まってる宿がすぐそこなので」
「いや、そこまでしてくれなくていい」
「それじゃあ僕の気がすみません!」
「だが、連れもいるし……」
「できるだけ急いでやりますので!」
こちらが困惑するのも構わず、上目遣いで見つめたままグイグイと距離を詰めてくる。
何か、意図があるのかもしれないな——。
リチャードは王都では騎士団長としてそこそこ顔が知られているし、公爵家嫡男であることも隠していない。その正体に気付き、何らかの目的で事を起こそうとしている可能性は十分に考えられる。
それなら、ここで誘いに乗ったふりをして探ってみるべきだろう。
ただシャーロットが問題だ。あまりこちらの都合に巻き込みたくないが、万一のときは近くにいてもらったほうが守りやすい。迷ったものの、やはりこのまま一緒に連れて行くことにした。
「……わかった」
あえて仕方ないとばかりに大きく溜息をついて、承諾する。
さっそく若い男の案内でシャーロットととも宿に向かう。その途中、遠巻きに窺っていた執事二人にこっそりと目配せすると、彼らは委細承知しているような面持ちでうっすらと頷いた。
連れてこられたのは、リチャードが昨晩から執事二人と泊まっている宿だった。
大通りの宿は二つしかないので同じでも不思議ではない。執事二人がひそかについてきていることを確認してから、若い男——ジョンという——に促されてシャーロットと中に入った。
「お嬢さんはこちらでお待ちくださいね」
ジョンは振り返ってそう告げた。
客室に行くなら、未婚女性のシャーロットは置いていかざるを得ない。いささか不安だが、そもそも彼女が狙われているわけではないし、宿の主人も執事二人も近くにいるのだから大丈夫だろう。
「なるべく早く戻るよ」
どこか心細そうな彼女にやわらかく微笑んでそう告げると、念のため宿の主人に彼女のことを気にかけてくれるよう頼んでから、ジョンにつづいて階段を上っていく。
「ここです、どうぞ」
案内されたのは二階に上がってすぐの部屋だった。
警戒しつつ足を踏み入れるが、取り立てて変わったところのない簡素な客室で、他の人物がひそんでいるような気配もなかった。それでも何があるかわからないので警戒は怠らない。
「シャツ、洗いますので脱いでくださいね」
「ああ……」
シャツを脱ごうとするが、ジョンはじっとこちらを見たまま目をそらそうとしない。どことなく緊張しているようにも見える。やはり脱ぐところを狙って何か仕掛けてくるつもりだろうか——。
「なあ、悪いんだけど向こうを向いててくれるか? 同じ男とはいえ、そんなに熱心に見つめられると落ち着かない」
「あっ、すみません」
彼は素直に背を向けた。
気のせいだったか——その動きからも体格からも訓練を受けた人間とは思えない。だから彼自身が仕掛けるとすれば隙を狙うはずである。シャツを脱ぐというのはその絶好の機会だと思ったのに。
部屋の中で唯一隠れられそうなベッドの下を確認してみるが、やはり誰もいない。部屋の外にもこちらを窺うような人影や気配はない。神経を張り詰めたまま素早くシャツを脱いで上半身裸になる。
「脱いだぞ」
そう言うと、振り返った彼にシャツを投げるようにして渡した。すぐそばにまで来る必要がないように。彼は落としそうになりながらもどうにか受け取り、人懐こい笑みを浮かべる。
「では、洗ってきますね」
そう言い置き、そそくさと扉のほうへ向かっていった。
入れ違いに刺客がやってくる手筈になっているのか、シャツに何らかの細工をするつもりなのか、あるいは本当にシャツを洗うだけのつもりなのか。リチャードは彼を目で追いながら思案をめぐらせていたが——。
「やめてください!! 許してくださいっ!! ああーーーッ!!!」
彼は扉のまえで動きを止めたかと思うと、悲鳴を上げながら自分の着ているシャツを力任せに破り、何度も扉に体当たりした。そして叩きつけるように勢いよく扉を開けて飛び出し、階段を下りていく。
「えっ……」
何が起こったのか即座には理解できなかった。
これは罠だ——一呼吸遅れてようやくそのことに思い至ると、上半身裸のまま全速力でジョンを追って階段を駆け下りていく。一階に着くと、彼はもうすでに宿の主人の背中に縋り付いていた。
「助けてください! あのひとの服を洗ってあげようと脱いでもらったら、いきなりベッドに押し倒されてシャツを破かれて、もうすこしで襲われるところだったんです!」
「俺は何もしていない。こいつが急に一人芝居を始めたんだ」
「嘘です! 嫌だって言ったのに、押さえつけてキスして体をまさぐってきたじゃないですか! 僕が隙をついて逃げ出さなかったら強姦されてました!」
二人のほかに誰もいない密室内でのことであり、どちらも証明はできない。
ただ状況的にはこちらが不利である。シャツを破かれたまま逃げる彼を半裸で追っていたのだ。おまけに彼の露わになった肌は白く、体は細く、顔はかわいく、男に襲われるというのにも妙な説得力がある。
もっともこちらには公爵家の地位があるので、彼の証言しかないのなら最終的にはどうとでもできるだろう。それでも多くのひとにこの状況を見られるとやっかいだ。できるだけ早急に手を打たなければ——。
「それはおかしいですね」
ふと涼やかな声が上がった。
シャーロットだ。彼女はジョンのいるところからそう遠くない席に座っていた。怪訝に振り返った彼を、意志の強そうなまなざしで見据えたまますっと立ち上がる。
「わたしがここで待っていることも、宿の方がここにいらっしゃることも、リック様はご存知でした。それなのに軽率に襲ったりするでしょうか。悲鳴も物音も丸聞こえなくらい近い部屋なのに」
「それはっ……あのひとが男色のケダモノだからです! 我慢できなかったんです!」
ジョンは後ろのリチャードを指差しながら必死に言い募る。それでどうにか反論したつもりだろうが——。
「リック様が男色かどうかは存じ上げません。ですが、いずれにしてもそのような無体を働く方ではないと、わたしは信じています」
「ぐっ……」
シャーロットは動じることなく粛々と追い込んだ。
その凜とした緑色の瞳にリチャードはゾクッと身を震わせる。そう、幼かったあのころから確かにその片鱗があった。聡明で、まっすぐで、凜として、勇気があって——彼女に惹かれたのは間違いではなかったのだ。そう胸を熱くしていると。
「ジョン! プランBよ!!!」
突如、静寂を切り裂くような甲高い声がどこからか響いた。
リチャードは思考の海から引き戻されて、反射的に声の聞こえた入口のほうに振り返ろうとしたが、そのときジョンが全力でシャーロットに突進し始めたのを目にして、ハッと息を飲む。
「ロッテ!!!」
床を蹴るが、いまからではもう間に合わない。
大きく伸ばされたジョンの右手がシャーロットにかかり——。
ドタドタガシャン!!!
リチャードは動きを止めて呆然とした。なぜか襲いかかったジョンのほうが吹っ飛んでいたのだ。テーブルや椅子を派手になぎ倒し、その上に仰向けに横たわったまま苦痛に顔をゆがめている。
「えっ、と……」
何が起こったのか理解しきれない。
その様子に気付いたのか、シャーロットは乱れたドレスの裾を直して姿勢を正すと、リチャードのほうに目を向けてにっこりと微笑む。
「わたし、武術を少々たしなんでおります。主に身を守るためのものですけど」
彼女がジョンを軽く投げ飛ばしたように見えたのは、現実だったのだ。
そういえば誘拐事件のときに「騎士さまみたいに強くなりたい」と言っていたが、まさか本当に強くなるとは思わなかった。ようやくふっと息をついて気を緩めると、彼女に微笑み返す。
「痛っ! 乱暴にしないで!!」
そのあいだに執事二人がジョンと女性を拘束していた。
ジョンはもうあきらめたように憔悴した顔でおとなしくしている。しかし、女性のほうは髪を振り乱してヒステリックに喚き散らしていた。声からして「プランB」の指示を出した人物のようだ。
ん、彼女は——。
リチャードは遠目ながらその顔に既視感を覚えた。怪訝に眉をひそめ、そのまま近づいていくと身をかがめて覗き込む。
「おまえには見覚えがある。ロゼリアの侍女だな。俺を陥れるよう命じられたか」
「…………」
彼女は顔をそむけた。表情からも、顔色からも、図星を指されて焦っていることが見てとれる。リチャードはさらに追及しようと口を開きかけたが、その寸前に衛兵らしき二人組が踏み込んできた。
「何があった?」
騒ぎを聞きつけたのか、混沌とした光景を見まわして誰にともなく高圧的に尋ねる。だがリチャードが騎士団長の身分を示す白銀の懐中時計を見せると、はじかれたように敬礼した。
「この件はこちらで預かりたい。拘束する場所だけ貸してもらえないか?」
「承知しました」
彼らがそこまで先導してくれることになり、執事たちはさっそく連行しようとそれぞれ二人を引っ立てた。リチャードはジョンを拘束しているほうの執事に近づくと、そっと小声で話す。
「こいつらは別々に拘束しておいてくれ」
「承知しております……あなたは?」
「シャーロットを家まで送ったら行く」
「まさか挨拶なさるんですか?」
「いや、そんな時間はないだろうしな」
できればアーサーに挨拶したかったが、ここにきてすべきことが増えてしまったので仕方がない。急がなければ結婚式に間に合わなくなってしまう。リチャードは一行を見送りながらひっそりと溜息をついた。
「ロッテ、すまないが少しここで待っていてくれ。服を着てくる」
いつまでも上半身裸のままというわけにはいかないので、そう言って階段に向かおうとしたところ、シャーロットがふと心配そうな顔になり声をかけてきた。
「そういえばまだシャツを洗っていないのではありませんか?」
「大丈夫だ。俺もここに泊まっているから部屋に着替えがある」
「そうだったんですね」
リチャードは彼女に見送られながら階段を上がる。二階でジョンの部屋に寄り、置き去りになっていた手提げ袋とシャツを回収すると、自分が宿泊している最上階の部屋で新しいシャツを着た。
そうだ、どうせならこれも——。
手提げ袋を開け、彼女からの贈り物であるカフリンクスをつけてみる。グレイ伯爵家へ挨拶に行くときに着るつもりだった新しい上質なシャツに、その新しい上質なカフリンクスはよく合っていた。
いろいろな角度から姿見に映しては見え方を確認する。袖口の小さな白銀が視界に入るだけで口元が緩んでしまうが、いまは浮かれている場合ではないと引き締め直し、彼女の待つ一階へ下りていった。
「すまない、君を巻き込んでしまって」
カウンターからほど近い席で向かい合わせに座ると、彼女にそう謝罪する。
「おそらく俺の元婚約者ロゼリアの仕業だ。彼女とはいわゆる政略結婚をすることになっていたが、彼女の家が不正を働いていたことが発覚して婚約を解消した。それを恨んでのことだろう」
「そうでしたか……彼女もおつらかったのでしょうね」
「しかし、まさか十年も経ってこんなことを仕掛けてくるとはな。不正は内々に処理したから公にはならなかったし、それもあって彼女は他家に嫁ぐことができたと聞いていたんだが」
詳しくは知らないが、ポートランド侯爵家から望まれての婚姻だと聞いている。年齢も家格もつりあいがとれていて相手も実直な人らしいので、嫁ぎ先としては悪くなかったはずだ。だからといって上手くいっているとは限らないのだけれど。
「連行していった方たちとはお知り合いなのですか?」
「あー……なんていうか……まあ、お目付役みたいなもんだな。来るなと言ったが勝手についてきた。いつもついてくるわけじゃないんだが、今回は特別で……」
いい年をした大人なのに過保護すぎると思われたくなくて、嘘をついているわけではないのにしどろもどろになってしまった。そんなリチャードをどう思ったのか彼女はくすっと笑う。
「来てくださって助かりましたね」
「まあ、結果的にはな」
二人を素早く拘束してもらえて助かったのは確かだ。
本当は彼女に矛先が向く前にどうにかしてほしかったが、自分にそれを言う資格はないだろう。そもそも彼らの本職は執事であって護衛ではないのだから。
「さて……君はもう帰ったほうがいい。送るよ」
「はい」
リチャードが立ち上がって手を差し出すと、彼女はどことなく寂しそうにしながらも素直にその手をとった。
「わぁ、白馬なんですね!」
そのほうが早いと思い、グレイ伯爵邸までリチャードの愛馬で送ることにした。街外れの厩舎に預けていた馬をとってくると、目を輝かせているシャーロットを前に乗せて、後ろで手綱を握る。
これは、思った以上に——。
図らずも密着した彼女のやわらかさとぬくもりに鼓動が速くなり、ほのかな甘い匂いに正気をなくしそうになる。しかしその華奢な体がふとこわばったことに気付くと、すこし冷静になった。
「ロッテ、怖いなら無理しなくていいからな」
「大丈夫です」
本当に大丈夫なのだろうかと顔色を窺おうとしたところ、急に彼女が振り返った。ぶつかりそうなほどの至近距離に二人とも大きく目を見開き、そのまま時が止まったかのように見つめ合う。
「……わたし、いま思い出しました」
やがて彼女はぎこちなく前に向きなおってそう告げた。そのかすかに震えた声からは少なくない緊張が見てとれる。それでも冷静さを失うことなく慎重に話をつづけていく。
「誘拐されたとき、とある騎士様に助けていただきましたが、あのときもこうやって白馬に乗せていただいて……わたしを見つめる騎士様の瞳は、アメジストのようにきれいな紫色でした」
そこで再び振り返り、まっすぐにリチャードの双眸を見つめて言う。
「リック様も同じですね」
すでにほぼ確信しているのだろう。まさか乗馬がきっかけで記憶を取り戻すとは思わなかったが、こちらとしては別に隠したいわけではない。シャーロットと初めて出会った日の大切な思い出なのだから。
「騎士様みたいに強くなりたいと言っていたが、本当に強くなったんだな」
「……がんばりました」
彼女の目にはうっすらと涙がにじんだ。
しかしすぐに前を向いてしまって表情が見えなくなる。話をつづけようにも何を言ったらいいかわからなくなり、揺れるストロベリーブロンドの後頭部を間近で眺めながら、ただ静かに馬を走らせた。
「お嬢さまーーー! どこですかぁーーー!!!」
敷地の近くまで来ると、使用人と思われる若い女性の大きな声が聞こえてきた。シャーロットがいないことに気付かれてしまったのだろう。それでも彼女はあまり動じていないようだった。
「ここからはひとりで帰ります」
「わかった」
騒ぎになっているようなのでいささか心配ではあったが、アーサーなら叱ることはあっても悪いようにはしないはずだ。一本道の端のほうに馬を止めて彼女を下ろすと、預かっていた荷物を手渡す。
「わたし、今日のことは一生忘れません」
彼女はまっすぐリチャードを見つめてそう言い、淑女の礼をとった。
これきりもう二度と会えないと思っているに違いない。どう応じればいいかわからず口をつぐんでいるうちに、彼女はパッと身を翻し、ただの一度も振り返ることなく走り去っていった。
カーディフの街に戻ると、衛兵の詰所に拘束しておいた例の二人組を取り調べた。
男性のほうはポートランド侯爵家の従僕でジョンといい、女性のほうはポートランド侯爵家のロゼリア付き侍女でアンナという。アンナのほうがジョンより年上で、先輩で、使用人としての立場も上のようだ。
アンナはすべて自分が企てたことでロゼリアは一切関与していないという。しかしジョンはロゼリアがリチャードの結婚を潰すよう命じたのだと証言した。どちらにしてもロゼリアに原因があるのは間違いない。
「俺はあしたポートランド侯爵家へ行く」
「ちょっ……結婚式はどうするんですか?!」
「大丈夫だ。式までには間に合わせる」
執事は渋い顔をしたが、こちらが折れなければ従うしかないわけで。
翌日、リチャードは執事のひとりをウィンザー家へ向かわせて、帰郷が遅れる旨の伝言を頼むと、もうひとりの執事を連れてポートランド家へ向かった。
ポートランド侯爵夫妻は使用人の起こしたことを知ると驚愕し、真摯に謝罪した。
特に夫人のロゼリアは真っ青だった。リチャードの婚約を知って感情的になったのは事実だが、命令のつもりはなく、本当に行動に移すとは思いもしなかったという。その動揺した様子はとても演技とは思えなかった。
「それでは、後ほど二人を送りますのでよろしくお願いします」
侯爵が責任を持って身柄を引き受けると約束してくれたので、あとは彼に任せることにした。主人から命令を受けたと思い込んでのことであり、結果的にたいした被害もなかったので、処罰までする必要はないだろうという判断である。
「明日、早朝に出発すれば間に合いますね」
カーディフの街に戻り、例の二人をポートランド家へ送る手配をすませると、執事がようやく安堵したように息をついてそう言った。しかし——。
「悪いが、ちょっと用事があって早朝には出られない。昼過ぎに出よう」
「え、それでは日没までに着けませんよ? 夜に走らせるんですか?」
「そこまでしなくていい。途中で宿をとって早朝に出れば間に合うだろう」
「間に合うって……本当にギリギリじゃないですか……」
執事はあからさまにげんなりしていた。
けれどリチャードにはどうしても譲れない用事があった。ここであきらめたら後悔してしまう。執事に気苦労をかけていることについては申し訳なく思うが、取り下げる気はさらさらなかった。
「まさか用事ってそれですか?」
翌日、大通りの雑貨屋が開くのを待って指輪をひとつ買うと、執事が信じられないとばかりに声を上げた。おもちゃのような指輪だからなおのこと驚いたのだろう。
「俺にとっては大事なんだよ」
「はぁ……」
あのとき贈らせてもらえなかったこの可愛らしい指輪を、ぜひとも夫として贈りたい。どうせなら結婚式のときに。にやけるリチャードを見て、執事は半眼になりながら疲れたように溜息をついた。
ウィンザー家には予定どおり結婚式当日の午前中に着いた。
両親はリチャードの姿を視界に映すなり安堵して崩れ落ちた。その顔色は悪く、ずいぶんと気を揉んでいたであろうことが窺えた。さすがにこんな姿を目の当たりにすると心苦しくなる。
しかし、謝罪する間もなく教会に追いやられて大急ぎで支度が始められる。シャーロットもとっくに教会に来ているらしいが、互いに準備があるので会いに行く暇はないと言われてしまった。
おおよその支度が終わったところでコンコンと扉が叩かれた。おそらく両親だろうと何の気なしに「どうぞ」と応じると、静かに扉が開いた。しかし、そこにいたのは両親でも従者でもなく——。
「アーサー!」
思わず椅子から立ち上がる。リチャードの髪を整えていた従者が驚いていたが、構ってなどいられない。アーサーは当然のようにすっかり支度を終えていて、こちらの姿を見るとほっと息をつく。
「どうやら間に合いそうですね」
「ああ……おまえにも心配かけたな」
「あなたは昔からいつもギリギリだ」
「それでも遅れたことはないよ」
パブリックスクール時代のようなやりとりをすこし懐かしく思いながら、リチャードは肩をすくめる。もっともあのころのアーサーはいまよりずっと厳しい口調だったけれど。
「ところで何の用だ?」
「いえ、あなたが結婚式に間に合うのか確認に来ただけです。気が気でなくて……シャーロットに惨めな思いはさせたくありませんから」
そうだ——!
アーサーが切なそうに微笑んだ瞬間、言うべきことを思い出して頭に血がのぼった。彼とのあいだを一気に詰めると、背後の扉にドンと手をついて覗き込む。息がふれあうくらいの至近距離で。
「じょっ、冗談にしても……あまりこのようなことをなさるのは……」
「おまえさ、俺がおまえに懸想してるだなんて本気で思ってるのか?」
「えっ……ぁ……えっ……?」
アーサーはしどろもどろになりながら目を瞬かせる。驚くというより、思いもしなかったことを言われて混乱しているようだ。
「どうしてそれを……いえ、あの…………違うのですか?」
「おまえのことは友人としか思ったことがないし、そもそも俺は男色じゃない」
「……本当に?」
はぁ、とリチャードは盛大な溜息をついて体を起こした。シャーロットに話を聞いたときからわかっていたことだが、あらためてこうして本人の反応を目の当たりにすると、何とも言えない気持ちになる。
「なあ、俺がおまえに懸想してるだなんてどうして思ったんだ?」
「同僚がそうではないかと……いえ、すぐにそれを信じたわけではなかったのですが、あなたが……結婚しないのはおまえのせいだ責任を取れなどと言うので、やはりそういうことなのかと……」
アーサーは困惑したような顔をしながらそう話すが、リチャードも困惑した。
「そんなこと言ったか?」
「言いました」
もちろん彼が嘘をつくような人間でないことはわかっている。
言ったのなら、おまえの娘と出会ったせいだから結婚を認めろという意味だろうか。あのときはまだそう明言するわけにはいかなかったので、思わせぶりな言いまわしをしたのかもしれない。
「まあ、何にせよおまえに懸想してるってのは完全な誤解だ」
「でしたらシャーロットとの結婚を望んだのはなぜですか?」
「ああ……」
もっともな疑問である。ウィンザー公爵家がグレイ伯爵家と姻戚関係を結んでも特に利はないのだ。リチャードはかすかな緊張を覚えながらすっと姿勢を正すと、真摯に彼を見つめて告げる。
「シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだからで、他意は一切ない。おまえが心配しなくても彼女のことは大事にするし、二人で幸せになるつもりだ。何せ十年も待ったんだからな」
「えっ?」
彼が目を見開くと、リチャードはうっすらと口元を上げて肩を押した。
「ほら、時間だぞ」
「ですが……」
「またあとでな」
やや強引に追い出し、素早く扉を閉めてそこに背中からもたれかかる。そのまま身じろぎもせずに耳を澄ませていると、やがて靴音が響き、どことなく躊躇いがちに遠ざかっていくのが聞こえた。
「…………」
気のせいか従者たちから生温い視線を向けられているのを感じて、きまりが悪い。しかしそんな素振りを見せることなく何食わぬ顔で椅子に座ると、すこし乱れてしまった髪を整えてもらう。
「リチャード様、そろそろ礼拝堂に向かうお時間です」
「ああ」
執事は懐中時計を確認して事務的に告げると、控え室の扉を開いた。
その先はまばゆいくらいの白い光に包まれている。リチャードはそこから目をそらすことなく静かに呼吸をすると、ポケットに忍ばせた指輪の存在をあらためて確認し、挑むような笑みを浮かべて足を踏み出した。
ここからほど近いグレイ伯爵家にはあした向かうつもりである。今日のところは馬を預けて大通りの宿に泊まった。執事二人は隣の部屋だが、寝るとき以外はリチャードの部屋に居座った。
「本当にグレイ伯爵家に行くんですか?」
「あたりまえだろう」
翌朝、宿の近くにあるカフェで執事二人と朝食をとった。
彼らはいまだにグレイ伯爵家に行くことに難色を示している。失礼になるとか迷惑になるとかで。ここに来るまでの道中でもさんざん引き留められたのだが、気持ちは変わらなかった。
「さあ、そろそろ準備をして行くぞ……ん?」
カフェを出て、着替えるためにいったん宿に戻ろうとしたそのとき——向かいを軽やかに歩く少女が目に留まった。すこし距離があり顔もはっきりとは見えなかったが、それでも見紛うはずがない。
「あの子はシャーロットだ」
「えっ……?!」
特徴的なストロベリーブロンドからしても間違いない。
だが、彼女はグレイ伯爵家の敷地外に出ることが許されていないはずだ。もしかしたら今現在は変わっているのかもしれないが、さすがにひとりで街をうろつくことが許されているとは思えない。
執事二人とこっそりあとをつける。
彼女は大通りにある最も店構えのいい宝飾店に入った。窓から覗くと、どうやら手持ちのネックレスを売ろうとして断られたようだ。未成年で身分証も持っていないのだから当然の結果である。
沈んだ顔をして彼女が出てきた。声をかけようかどうしようか迷っていると、そそくさと近づいてきた怪しい男にあっさりと騙されている。こうなってはもう静観などしていられない。
「おまえらは出てくるんじゃないぞ。いいな?」
「あ、ちょっと……!」
執事二人に言い含めると、そろりと背後から男に近づいて汚い手をひねり上げる。
「イテテテテテテ!」
男は苦痛に顔を歪ませながら悲鳴を上げた。逃れようともがいているが力はすこぶる弱い。雑魚だ。リチャードは無表情のまま冷たく吐き捨てるように言う。
「いますぐ失せろ」
「わかったわかった!」
手を離すと、男はその反動でよろけて蹴躓いてひとり地面に転がった。よろよろと起き上がり、リチャードから距離を取ったまま恨めしげに睨みつける。
「チッ、護衛がいたのかよ」
失敗したとばかりにそんな捨て台詞を吐いて、路地裏へと走り去った。
シャーロットは唖然としていた。
そんな表情もかわいい。現実の彼女は写真とは比べものにならないほど色鮮やかで、みずみずしくて、やわらかそうで、あたたかそうで、いい匂いもして、こうやってただ見ているだけでドキドキする。
しかし彼女の後方で呆れたような顔をしている執事が目に入り、我にかえった。さほど表情には出ていなかったのではないかと思うが、あらためて真面目な顔を装ってから彼女に声をかける。
「ここで客引きをするのは大抵ロクなやつじゃない。君のような世間知らずな子はいいカモだ。二束三文で買いたたかれるくらいならまだマシで、取り返しのつかない悲惨な目に遭うこともある」
「……助けてくださってありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
ようやく彼女も我にかえり、美しく可憐な声でそう応じて深々と一礼した。しかし急に不安そうに顔を曇らせたかと思うと——。
「お金……どうしましょう……」
「…………」
意に沿わない結婚を目前に控えているときにひとりで街に来て、手持ちのネックレスを売ってまで金を得ようとするなんて、嫌な予感しかしない。
「どうしてそこまで現金がほしいんだ?」
「わたし、結婚のために明日この地を離れる予定で」
「まさか結婚が嫌で逃亡とかじゃ……ない、よな?」
「最後に街で遊びたかっただけです」
彼女がそう無邪気に笑いながら答えるのを聞いて、安堵の息をついた。
とりあえず結婚から逃げ出すつもりはないようだ。しかし一日だけとはいえこうやって前日に逃亡しているのだから、嫌ではあるのかもしれない。たとえそうでも結婚をあきらめてやることはできない。だから——。
「それなら俺が協力するよ」
せめて、このささやかな願いくらいは叶えてやりたいと思ったのだ。
さきほどの宝飾店で、リチャードが騎士団長の身分を明かして頼んだところ、すぐに態度を翻してネックレスを買い取ってくれた。断られたら公爵家の身分証を見せるつもりでいたが、その必要はなかった。
「ありがとうございました」
店を出るとシャーロットは深々と頭を下げる。
あのネックレスは未成年が持つにしてはなかなかの品だったらしく、かなり高値で売れたが、本当に売ってしまってよかったのかはいささか心配になる。まあ、いざとなれば買い戻せばいいだろう。
「俺のことはリックと呼んでくれ。君は?」
「……ロッテと」
ありのままの彼女をもうすこし見てみたいという出来心で、ひとまず素性を隠すことにした。リチャードという名前だけで気付かれるとは思えないが、念のため短縮形を告げる。彼女も素性を隠そうとしているのか短縮形を名乗った。
「ロッテ、君はこれからどうするんだ?」
「まずカフェに行って、それからお芝居を観に行くつもりです。そのあとのことはまだ決めていませんが、いろいろとお店をまわってみようかなって」
わくわくと心躍らせながら話す彼女はとてもかわいらしかった。ただただ楽しみで仕方がないという気持ちが伝わってくる。だからこそ危なっかしくてとてもひとりにはしておけない。
「それさ、もしよかったら俺も同行させてもらえないか?」
「えっ、でもこれ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
「いや、ちょうどひとりで寂しいと思ってたところなんだ」
「それでしたら、ぜひ」
彼女は愛らしい笑顔でそう答えた。
もちろんリチャードとしてはありがたいのだが、あまりにもあっさりと承諾されたことについては何とも言えない気持ちになる。ますますひとりにはしておけないと思ってしまった。
これは、いわゆるデートなのでは——?
カフェの窓際の席でシャーロットと向かい合わせに座っていたところ、ふとそんなことを考えてしまい、だらしなく顔が緩みそうになるのをこらえて努めて何気ない表情を装った。
窓の外では執事二人がじとりとした視線をこちらに送っている。いいかげんにしてくださいという声が聞こえてくるかのようだ。それでも出てくるなという命令には従ってくれるらしい。
幸いにも彼女はそんな二人に気付いていない。初めて見るカフェにきらきらと目を輝かせたり、まわりの視線に落ち着かなさそうにそわそわしたり、いちいち初々しい反応をしている。けれど——。
「騎士?!」
王都の騎士団に所属していると話したらすごい勢いで食いついてきた。驚いて思わずのけぞりがちに目を瞬かせると、彼女は我にかえり、恥ずかしそうに頬を染めながら居住まいを正す。
「わたし、王都で誘拐されたことがあるんですけど、そのとき騎士の方に助けていただいて。まだ五歳だったので、当時のことはうっすらとしか記憶にありませんが、それでもわたしにとって騎士は憧れの存在になったんです」
「そう、か……」
誘拐のことは記憶から消え失せているという認識だったが、そうではなかった。しかもそのときの自分たちを見て騎士に憧れてくれたなんて——くすぐったくて、うれしくて、思わず口元が緩みそうになってしまった。
「なあ、君の婚約者ってどういうひとなんだ?」
結婚の話が出たついでに、緊張しつつもさりげなくそんな質問を振ってみる。どう思っているのか彼女の本音を聞いてみたかったのだ。
「まだ会ったことがないのでわからないんです」
シャーロットは肩をすくめる。
「急に決められた結婚なので。相手は父と同じ年齢の侯爵様だと聞いています。悪い奴ではないと父は言っていましたが……その……ここだけの話にしてもらえます?」
「ああ」
流れからしてどうやらあまりいい話ではなさそうだ。不安を感じながらも素知らぬ顔をしたまま頷くと、彼女は小さな口の横に小さな手を添えて身を乗り出し、こそっと小声で言う。
「その方、どうやら男色家らしくて」
「えっ……」
「十年前、それに目覚めて一度婚約を破棄しているんだそうです。でも嫡男なので、家存続のために仕方なく結婚することにしたんだろうって。両親がこっそり書斎でそう話しているのを聞いてしまって」
まさかアーサーにそう認識されていたなんて——。
確かに男色の噂はあったが、彼はずっと変わりなく普通に接してくれていたので、てっきり知らないものとばかり思っていた。たとえ知っていても、そもそも軽率に噂を鵜呑みにする人間ではないはずだ。怪訝に思いながら、渇いた喉を潤そうとティーカップを手にとる。
「それってただの噂だったりはしないのか?」
「いえ、父は実際その方に懸想されているらしいです」
「ブフッ」
思わず飲みかけていた紅茶を吹いた。どうやら彼女にはかからなかったようだが、それでもハンカチで口元を拭いながらすまないと謝罪する。彼女はあまり気にしてなさそうでほっとした。
それにしても……懸想って、俺が、あいつに?!
一体全体どうしてアーサーはそんな突拍子もない勘違いをしたのだろう。あまりにもわけがわからなくてクラクラする。それならわざわざ娘のシャーロットを結婚相手に選んだりはしないはず——いや。
「まさか、父上の身代わりとして君が望まれたとかいうんじゃ……」
「父はおそらくそうではないかと推測していました。先方がこの結婚を強く希望したらしくて。父としては断りたかったけれど、事情があって受け入れるしかなかったそうです」
おまえなぁ!!!
頭を抱えながらうなだれる。これではまるで歪んだ執着心をもった危ない奴だ。いますぐ釈明したい衝動に駆られたものの、グッと堪える。ここで感情的に行動するのは得策ではないだろう。
「君は、嫌じゃないのか?」
「心配ではありますけど、わたしと向き合ってくださるのならそれで十分です。せっかく家族になるのですから仲良くしたいですし、そのためにはこちらが心を閉ざしていてはいけませんよね」
気負いのない様子からしても本心だろう。
前向きに受け入れる心づもりがあることにはとりあえず安心した。だがそれは相手がリチャードだからというわけではない。顔合わせもしていないのに望みようのないことだとはわかっていても、それでも——。
「よし、今日は思いっきり楽しもう!」
「え……あ、はい」
リチャードは気持ちを切り替えた。
誤解はあれど、彼女に結婚から逃げる意思がないのなら焦る必要はない。ここでどうにもならないことをモヤモヤと考えているより、いまは彼女の希望を叶えることだけに注力しよう、そう心に決めた。
まずは観劇だ。
現在公演中の演目は大人気らしくほぼ満席だったが、運良く二つ並びの席が取れた。ただし角度がついていて見づらいバルコニー席だ。それでも彼女は食い入るように舞台だけを見つめていた。
一方でリチャードはそんな彼女の横顔ばかり見つめていた。それだけで幸せな気持ちになる。もちろん大事な場面では舞台にもチラチラと目を向けたし、歌やセリフはそれなりに聞いていたけれど。
よりによってこんな話とは——。
ヒロインが政略結婚の前夜に身分違いの恋人と駆け落ちするが、最終的にはまわりにも認めてもらい、正式に結婚を許されてめでたしめでたしという話だった。よくある王道のラブロマンスである。
けれども何となく彼女には見せたくないと思ってしまった。これに感化されて駆け落ちすることはさすがにないだろうが、ヒロインに自己を投影して見るかもしれない。そう考えるだけでモヤモヤする。
「君は……その……好きなひとがいたりしないのか?」
「いませんよ」
どうしても気になり、劇場を出てからおそるおそる尋ねてみたところ、彼女は動じる素振りもなくさらりとそう答えた。そして劇場前の広い階段を軽やかに駆け下りると、ふわりと身を翻して笑った。
リチャードはつられたように軽い笑顔を見せながら、内心ほっとしていた。
観劇のあと、昼食にしようと中央広場で移動販売のサンドイッチを買った。
レストランに行くという手もあったが、せっかくなので彼女には縁遠いものを経験させてやりたいと思ったのだ。移動販売も、立ち食いも、バゲットにかぶりつくのも初めてに違いない。
もちろん嫌がれば無理をさせないつもりだったが、彼女は慣れないながらもそれを楽しんでいるようだった。その一生懸命な姿がかわいくて、ニコニコと満面の笑みを浮かべたまま見つめてしまう。
その後ろで執事二人がそろって呆れた顔をしているのが見えたが、素知らぬふりをして、彼女に見つからないようこっそりと追い払うような仕草をする。それでも彼らは動かなかった。
「これ、とてもおいしかったです」
ひそかな攻防には気付かないまま、彼女はきれいに完食するとそう声をはずませる。どうやら他の移動販売にも興味を持ったようだが、もうおなかいっぱいだからと残念そうにしていた。
「またいつか来ればいいさ」
結婚したら、たびたびこんなふうに二人で街に繰り出そう。王都ならもっといろいろなものを見せてやれる。リチャードは青く晴れわたった空を見上げながら、遠くはない未来に思いを馳せた。
そのあと大通りの店をいろいろと見て歩き、おみやげを買った。
紅茶店では紅茶選びに困っていたようなので助言をした。アーサーの好みはだいたい把握しているので、勧めたものはどれも彼に気に入ってもらえるはずだ。そのことはまだ言えないけれど。
「自分のものは買わなくていいのか?」
そう水を向けると、彼女はすこし迷いつつも雑貨店に入った。
特に目当てはないのか店内をのんびりと見て歩いていたが、ふいに動きが止まった。その視線の先にあったのは銀の指輪だ。細い流線型のリングに紫色の小さな宝石が埋め込まれている。
ただ、アクセサリというよりほとんどおもちゃのようなものだ。見たところ貴金属としての価値は低そうだし、埋め込まれた紫色の小さな宝石もたいしたものではないだろう。それでも——。
「それ、気に入ったのか?」
「ええ……買いませんけどね」
「だったら俺に贈らせてくれ」
「えっ?」
緑色の瞳をきらきらと輝かせながら見ていたのだから、気に入ったことは明白だ。さっと手にとり店員のところへ持っていこうとしたが、腕をつかんで引き留められた。
「いけません!」
「高いものじゃない」
「そうではなくて」
そこであらためて強く真剣なまなざしを向けられて、リチャードは息を飲んだ。
「わたし、あしたには嫁ぎ先に向かうんです。そこに他の男性からの贈り物なんて持っていけません。それも指輪だなんて……自分で買わないのも変に誤解されたくなかったからです」
当然だが、彼女はここにいるリックが結婚相手だとは知らない。
だからといってそこまで深く考えているとは思わなかった。黙っていればわからないのに。父親譲りのそういう誠実なところを好ましく思うと同時に、軽率な自分に落ち込みもした。
「悪い、今日の記念にと思ったんだ」
「わかっていただければ……」
彼女はどこか申し訳なさげにそう応じたが、次の瞬間、急にパッと表情を明るくして両手を合わせる。
「そうだわ! わたしのほうからリック様に何か贈らせてください。今日の記念とお礼をかねて。リック様のおかげで街を楽しむことができましたし、お父さまへのおみやげも買えました」
彼女が、俺に——?
予想もしなかった申し出に驚いたが、落ち着くにつれてじわじわと喜びが湧き上がってくる。そしてその気持ちのまま素直に表情を緩ませてしまう。
「じゃあ、遠慮なくいただこうかな」
「はい!」
シャーロットは溌剌とした笑顔でそう返事をした。
「贈り物、カフリンクスはいかがですか?」
ひとまず店をあとにして大通りを歩いていたところ、彼女にそう提案された。
これか——と自分のカフリンクスを見る。いまつけているものは細かな傷があちこちにあってだいぶ古びていた。実はきれいなものもいくつか持っていたりするのだが、それは言わないことにする。
「そろそろ買い換えたいと思ってたところだし、ロッテが贈ってくれるならうれしいよ」
シャーロットからもらえるのならきっと何でもうれしいが、カフリンクスは長く使えそうだし、何より仕事中でもさりげなく身につけていられるのがいい。想像するだけで胸が躍った。
さっそくカフリンクスを取り扱っていそうな店を探して入ると、彼女はすぐさま目当ての品を吟味し始めた。時折リチャードを見つめて似合うものを考えているようで、何かくすぐったくなる。
「リック様、これはいかがですか?」
「いいね」
興奮ぎみに尋ねられて、リチャードも同調するようにそう声をはずませた。
彼女が選んだからではなく本当に気に入ったのだ。シンプルで洗練されたデザイン、邪魔にならないサイズ、気品が感じられる上質な輝き——どれも自分の好みに合っていて文句のつけようがない。
即座に彼女は購入を決めた。思いのほか高かったらしく値段を聞いて焦っていたが、どうにか足りたようだ。申し訳なく思いつつも、謝罪は求めていないだろうとあえて気付かないふりをした。
「これ、わたしの気持ちです」
中央広場に誘われ、そこであらためてカフリンクスの入った手提げ袋を渡される。
思いがけずシャーロットと出会って街を楽しんだうえ、一生の宝物になるであろう贈り物までもらえるなんて、僥倖としか言いようがない。けれど、いまはまだ知り合いとも呼べないような間柄でしかなく。
「ロッテ……今日、ここで君に出会えてよかった」
「はい……」
“リック”に言えるのはここまでだ。
彼女も何か言いたいことがありそうな様子に見えたが、そっと口をつぐむと、気を取り直したように顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「あっ!」
直後、見知らぬ若い男がリチャードにぶつかった。
その拍子に、彼が持っていたカップからジュースらしきものがこぼれて、リチャードの衣服にかかった。白いシャツの袖からはオレンジ色の液体が滴り落ちている。
「ああっ、すみません!!」
「いいよ、仕方ない」
勢いよく謝罪する若い男に、リチャードは苦笑しながら軽く手を上げてそう応じた。故意でないならこれしきのことで責めるつもりはない。しかしながら若い男はなぜか必死に食らいついてくる。
「そのシャツ僕に洗わせてください!」
「え、洗う……?」
「泊まってる宿がすぐそこなので」
「いや、そこまでしてくれなくていい」
「それじゃあ僕の気がすみません!」
「だが、連れもいるし……」
「できるだけ急いでやりますので!」
こちらが困惑するのも構わず、上目遣いで見つめたままグイグイと距離を詰めてくる。
何か、意図があるのかもしれないな——。
リチャードは王都では騎士団長としてそこそこ顔が知られているし、公爵家嫡男であることも隠していない。その正体に気付き、何らかの目的で事を起こそうとしている可能性は十分に考えられる。
それなら、ここで誘いに乗ったふりをして探ってみるべきだろう。
ただシャーロットが問題だ。あまりこちらの都合に巻き込みたくないが、万一のときは近くにいてもらったほうが守りやすい。迷ったものの、やはりこのまま一緒に連れて行くことにした。
「……わかった」
あえて仕方ないとばかりに大きく溜息をついて、承諾する。
さっそく若い男の案内でシャーロットととも宿に向かう。その途中、遠巻きに窺っていた執事二人にこっそりと目配せすると、彼らは委細承知しているような面持ちでうっすらと頷いた。
連れてこられたのは、リチャードが昨晩から執事二人と泊まっている宿だった。
大通りの宿は二つしかないので同じでも不思議ではない。執事二人がひそかについてきていることを確認してから、若い男——ジョンという——に促されてシャーロットと中に入った。
「お嬢さんはこちらでお待ちくださいね」
ジョンは振り返ってそう告げた。
客室に行くなら、未婚女性のシャーロットは置いていかざるを得ない。いささか不安だが、そもそも彼女が狙われているわけではないし、宿の主人も執事二人も近くにいるのだから大丈夫だろう。
「なるべく早く戻るよ」
どこか心細そうな彼女にやわらかく微笑んでそう告げると、念のため宿の主人に彼女のことを気にかけてくれるよう頼んでから、ジョンにつづいて階段を上っていく。
「ここです、どうぞ」
案内されたのは二階に上がってすぐの部屋だった。
警戒しつつ足を踏み入れるが、取り立てて変わったところのない簡素な客室で、他の人物がひそんでいるような気配もなかった。それでも何があるかわからないので警戒は怠らない。
「シャツ、洗いますので脱いでくださいね」
「ああ……」
シャツを脱ごうとするが、ジョンはじっとこちらを見たまま目をそらそうとしない。どことなく緊張しているようにも見える。やはり脱ぐところを狙って何か仕掛けてくるつもりだろうか——。
「なあ、悪いんだけど向こうを向いててくれるか? 同じ男とはいえ、そんなに熱心に見つめられると落ち着かない」
「あっ、すみません」
彼は素直に背を向けた。
気のせいだったか——その動きからも体格からも訓練を受けた人間とは思えない。だから彼自身が仕掛けるとすれば隙を狙うはずである。シャツを脱ぐというのはその絶好の機会だと思ったのに。
部屋の中で唯一隠れられそうなベッドの下を確認してみるが、やはり誰もいない。部屋の外にもこちらを窺うような人影や気配はない。神経を張り詰めたまま素早くシャツを脱いで上半身裸になる。
「脱いだぞ」
そう言うと、振り返った彼にシャツを投げるようにして渡した。すぐそばにまで来る必要がないように。彼は落としそうになりながらもどうにか受け取り、人懐こい笑みを浮かべる。
「では、洗ってきますね」
そう言い置き、そそくさと扉のほうへ向かっていった。
入れ違いに刺客がやってくる手筈になっているのか、シャツに何らかの細工をするつもりなのか、あるいは本当にシャツを洗うだけのつもりなのか。リチャードは彼を目で追いながら思案をめぐらせていたが——。
「やめてください!! 許してくださいっ!! ああーーーッ!!!」
彼は扉のまえで動きを止めたかと思うと、悲鳴を上げながら自分の着ているシャツを力任せに破り、何度も扉に体当たりした。そして叩きつけるように勢いよく扉を開けて飛び出し、階段を下りていく。
「えっ……」
何が起こったのか即座には理解できなかった。
これは罠だ——一呼吸遅れてようやくそのことに思い至ると、上半身裸のまま全速力でジョンを追って階段を駆け下りていく。一階に着くと、彼はもうすでに宿の主人の背中に縋り付いていた。
「助けてください! あのひとの服を洗ってあげようと脱いでもらったら、いきなりベッドに押し倒されてシャツを破かれて、もうすこしで襲われるところだったんです!」
「俺は何もしていない。こいつが急に一人芝居を始めたんだ」
「嘘です! 嫌だって言ったのに、押さえつけてキスして体をまさぐってきたじゃないですか! 僕が隙をついて逃げ出さなかったら強姦されてました!」
二人のほかに誰もいない密室内でのことであり、どちらも証明はできない。
ただ状況的にはこちらが不利である。シャツを破かれたまま逃げる彼を半裸で追っていたのだ。おまけに彼の露わになった肌は白く、体は細く、顔はかわいく、男に襲われるというのにも妙な説得力がある。
もっともこちらには公爵家の地位があるので、彼の証言しかないのなら最終的にはどうとでもできるだろう。それでも多くのひとにこの状況を見られるとやっかいだ。できるだけ早急に手を打たなければ——。
「それはおかしいですね」
ふと涼やかな声が上がった。
シャーロットだ。彼女はジョンのいるところからそう遠くない席に座っていた。怪訝に振り返った彼を、意志の強そうなまなざしで見据えたまますっと立ち上がる。
「わたしがここで待っていることも、宿の方がここにいらっしゃることも、リック様はご存知でした。それなのに軽率に襲ったりするでしょうか。悲鳴も物音も丸聞こえなくらい近い部屋なのに」
「それはっ……あのひとが男色のケダモノだからです! 我慢できなかったんです!」
ジョンは後ろのリチャードを指差しながら必死に言い募る。それでどうにか反論したつもりだろうが——。
「リック様が男色かどうかは存じ上げません。ですが、いずれにしてもそのような無体を働く方ではないと、わたしは信じています」
「ぐっ……」
シャーロットは動じることなく粛々と追い込んだ。
その凜とした緑色の瞳にリチャードはゾクッと身を震わせる。そう、幼かったあのころから確かにその片鱗があった。聡明で、まっすぐで、凜として、勇気があって——彼女に惹かれたのは間違いではなかったのだ。そう胸を熱くしていると。
「ジョン! プランBよ!!!」
突如、静寂を切り裂くような甲高い声がどこからか響いた。
リチャードは思考の海から引き戻されて、反射的に声の聞こえた入口のほうに振り返ろうとしたが、そのときジョンが全力でシャーロットに突進し始めたのを目にして、ハッと息を飲む。
「ロッテ!!!」
床を蹴るが、いまからではもう間に合わない。
大きく伸ばされたジョンの右手がシャーロットにかかり——。
ドタドタガシャン!!!
リチャードは動きを止めて呆然とした。なぜか襲いかかったジョンのほうが吹っ飛んでいたのだ。テーブルや椅子を派手になぎ倒し、その上に仰向けに横たわったまま苦痛に顔をゆがめている。
「えっ、と……」
何が起こったのか理解しきれない。
その様子に気付いたのか、シャーロットは乱れたドレスの裾を直して姿勢を正すと、リチャードのほうに目を向けてにっこりと微笑む。
「わたし、武術を少々たしなんでおります。主に身を守るためのものですけど」
彼女がジョンを軽く投げ飛ばしたように見えたのは、現実だったのだ。
そういえば誘拐事件のときに「騎士さまみたいに強くなりたい」と言っていたが、まさか本当に強くなるとは思わなかった。ようやくふっと息をついて気を緩めると、彼女に微笑み返す。
「痛っ! 乱暴にしないで!!」
そのあいだに執事二人がジョンと女性を拘束していた。
ジョンはもうあきらめたように憔悴した顔でおとなしくしている。しかし、女性のほうは髪を振り乱してヒステリックに喚き散らしていた。声からして「プランB」の指示を出した人物のようだ。
ん、彼女は——。
リチャードは遠目ながらその顔に既視感を覚えた。怪訝に眉をひそめ、そのまま近づいていくと身をかがめて覗き込む。
「おまえには見覚えがある。ロゼリアの侍女だな。俺を陥れるよう命じられたか」
「…………」
彼女は顔をそむけた。表情からも、顔色からも、図星を指されて焦っていることが見てとれる。リチャードはさらに追及しようと口を開きかけたが、その寸前に衛兵らしき二人組が踏み込んできた。
「何があった?」
騒ぎを聞きつけたのか、混沌とした光景を見まわして誰にともなく高圧的に尋ねる。だがリチャードが騎士団長の身分を示す白銀の懐中時計を見せると、はじかれたように敬礼した。
「この件はこちらで預かりたい。拘束する場所だけ貸してもらえないか?」
「承知しました」
彼らがそこまで先導してくれることになり、執事たちはさっそく連行しようとそれぞれ二人を引っ立てた。リチャードはジョンを拘束しているほうの執事に近づくと、そっと小声で話す。
「こいつらは別々に拘束しておいてくれ」
「承知しております……あなたは?」
「シャーロットを家まで送ったら行く」
「まさか挨拶なさるんですか?」
「いや、そんな時間はないだろうしな」
できればアーサーに挨拶したかったが、ここにきてすべきことが増えてしまったので仕方がない。急がなければ結婚式に間に合わなくなってしまう。リチャードは一行を見送りながらひっそりと溜息をついた。
「ロッテ、すまないが少しここで待っていてくれ。服を着てくる」
いつまでも上半身裸のままというわけにはいかないので、そう言って階段に向かおうとしたところ、シャーロットがふと心配そうな顔になり声をかけてきた。
「そういえばまだシャツを洗っていないのではありませんか?」
「大丈夫だ。俺もここに泊まっているから部屋に着替えがある」
「そうだったんですね」
リチャードは彼女に見送られながら階段を上がる。二階でジョンの部屋に寄り、置き去りになっていた手提げ袋とシャツを回収すると、自分が宿泊している最上階の部屋で新しいシャツを着た。
そうだ、どうせならこれも——。
手提げ袋を開け、彼女からの贈り物であるカフリンクスをつけてみる。グレイ伯爵家へ挨拶に行くときに着るつもりだった新しい上質なシャツに、その新しい上質なカフリンクスはよく合っていた。
いろいろな角度から姿見に映しては見え方を確認する。袖口の小さな白銀が視界に入るだけで口元が緩んでしまうが、いまは浮かれている場合ではないと引き締め直し、彼女の待つ一階へ下りていった。
「すまない、君を巻き込んでしまって」
カウンターからほど近い席で向かい合わせに座ると、彼女にそう謝罪する。
「おそらく俺の元婚約者ロゼリアの仕業だ。彼女とはいわゆる政略結婚をすることになっていたが、彼女の家が不正を働いていたことが発覚して婚約を解消した。それを恨んでのことだろう」
「そうでしたか……彼女もおつらかったのでしょうね」
「しかし、まさか十年も経ってこんなことを仕掛けてくるとはな。不正は内々に処理したから公にはならなかったし、それもあって彼女は他家に嫁ぐことができたと聞いていたんだが」
詳しくは知らないが、ポートランド侯爵家から望まれての婚姻だと聞いている。年齢も家格もつりあいがとれていて相手も実直な人らしいので、嫁ぎ先としては悪くなかったはずだ。だからといって上手くいっているとは限らないのだけれど。
「連行していった方たちとはお知り合いなのですか?」
「あー……なんていうか……まあ、お目付役みたいなもんだな。来るなと言ったが勝手についてきた。いつもついてくるわけじゃないんだが、今回は特別で……」
いい年をした大人なのに過保護すぎると思われたくなくて、嘘をついているわけではないのにしどろもどろになってしまった。そんなリチャードをどう思ったのか彼女はくすっと笑う。
「来てくださって助かりましたね」
「まあ、結果的にはな」
二人を素早く拘束してもらえて助かったのは確かだ。
本当は彼女に矛先が向く前にどうにかしてほしかったが、自分にそれを言う資格はないだろう。そもそも彼らの本職は執事であって護衛ではないのだから。
「さて……君はもう帰ったほうがいい。送るよ」
「はい」
リチャードが立ち上がって手を差し出すと、彼女はどことなく寂しそうにしながらも素直にその手をとった。
「わぁ、白馬なんですね!」
そのほうが早いと思い、グレイ伯爵邸までリチャードの愛馬で送ることにした。街外れの厩舎に預けていた馬をとってくると、目を輝かせているシャーロットを前に乗せて、後ろで手綱を握る。
これは、思った以上に——。
図らずも密着した彼女のやわらかさとぬくもりに鼓動が速くなり、ほのかな甘い匂いに正気をなくしそうになる。しかしその華奢な体がふとこわばったことに気付くと、すこし冷静になった。
「ロッテ、怖いなら無理しなくていいからな」
「大丈夫です」
本当に大丈夫なのだろうかと顔色を窺おうとしたところ、急に彼女が振り返った。ぶつかりそうなほどの至近距離に二人とも大きく目を見開き、そのまま時が止まったかのように見つめ合う。
「……わたし、いま思い出しました」
やがて彼女はぎこちなく前に向きなおってそう告げた。そのかすかに震えた声からは少なくない緊張が見てとれる。それでも冷静さを失うことなく慎重に話をつづけていく。
「誘拐されたとき、とある騎士様に助けていただきましたが、あのときもこうやって白馬に乗せていただいて……わたしを見つめる騎士様の瞳は、アメジストのようにきれいな紫色でした」
そこで再び振り返り、まっすぐにリチャードの双眸を見つめて言う。
「リック様も同じですね」
すでにほぼ確信しているのだろう。まさか乗馬がきっかけで記憶を取り戻すとは思わなかったが、こちらとしては別に隠したいわけではない。シャーロットと初めて出会った日の大切な思い出なのだから。
「騎士様みたいに強くなりたいと言っていたが、本当に強くなったんだな」
「……がんばりました」
彼女の目にはうっすらと涙がにじんだ。
しかしすぐに前を向いてしまって表情が見えなくなる。話をつづけようにも何を言ったらいいかわからなくなり、揺れるストロベリーブロンドの後頭部を間近で眺めながら、ただ静かに馬を走らせた。
「お嬢さまーーー! どこですかぁーーー!!!」
敷地の近くまで来ると、使用人と思われる若い女性の大きな声が聞こえてきた。シャーロットがいないことに気付かれてしまったのだろう。それでも彼女はあまり動じていないようだった。
「ここからはひとりで帰ります」
「わかった」
騒ぎになっているようなのでいささか心配ではあったが、アーサーなら叱ることはあっても悪いようにはしないはずだ。一本道の端のほうに馬を止めて彼女を下ろすと、預かっていた荷物を手渡す。
「わたし、今日のことは一生忘れません」
彼女はまっすぐリチャードを見つめてそう言い、淑女の礼をとった。
これきりもう二度と会えないと思っているに違いない。どう応じればいいかわからず口をつぐんでいるうちに、彼女はパッと身を翻し、ただの一度も振り返ることなく走り去っていった。
カーディフの街に戻ると、衛兵の詰所に拘束しておいた例の二人組を取り調べた。
男性のほうはポートランド侯爵家の従僕でジョンといい、女性のほうはポートランド侯爵家のロゼリア付き侍女でアンナという。アンナのほうがジョンより年上で、先輩で、使用人としての立場も上のようだ。
アンナはすべて自分が企てたことでロゼリアは一切関与していないという。しかしジョンはロゼリアがリチャードの結婚を潰すよう命じたのだと証言した。どちらにしてもロゼリアに原因があるのは間違いない。
「俺はあしたポートランド侯爵家へ行く」
「ちょっ……結婚式はどうするんですか?!」
「大丈夫だ。式までには間に合わせる」
執事は渋い顔をしたが、こちらが折れなければ従うしかないわけで。
翌日、リチャードは執事のひとりをウィンザー家へ向かわせて、帰郷が遅れる旨の伝言を頼むと、もうひとりの執事を連れてポートランド家へ向かった。
ポートランド侯爵夫妻は使用人の起こしたことを知ると驚愕し、真摯に謝罪した。
特に夫人のロゼリアは真っ青だった。リチャードの婚約を知って感情的になったのは事実だが、命令のつもりはなく、本当に行動に移すとは思いもしなかったという。その動揺した様子はとても演技とは思えなかった。
「それでは、後ほど二人を送りますのでよろしくお願いします」
侯爵が責任を持って身柄を引き受けると約束してくれたので、あとは彼に任せることにした。主人から命令を受けたと思い込んでのことであり、結果的にたいした被害もなかったので、処罰までする必要はないだろうという判断である。
「明日、早朝に出発すれば間に合いますね」
カーディフの街に戻り、例の二人をポートランド家へ送る手配をすませると、執事がようやく安堵したように息をついてそう言った。しかし——。
「悪いが、ちょっと用事があって早朝には出られない。昼過ぎに出よう」
「え、それでは日没までに着けませんよ? 夜に走らせるんですか?」
「そこまでしなくていい。途中で宿をとって早朝に出れば間に合うだろう」
「間に合うって……本当にギリギリじゃないですか……」
執事はあからさまにげんなりしていた。
けれどリチャードにはどうしても譲れない用事があった。ここであきらめたら後悔してしまう。執事に気苦労をかけていることについては申し訳なく思うが、取り下げる気はさらさらなかった。
「まさか用事ってそれですか?」
翌日、大通りの雑貨屋が開くのを待って指輪をひとつ買うと、執事が信じられないとばかりに声を上げた。おもちゃのような指輪だからなおのこと驚いたのだろう。
「俺にとっては大事なんだよ」
「はぁ……」
あのとき贈らせてもらえなかったこの可愛らしい指輪を、ぜひとも夫として贈りたい。どうせなら結婚式のときに。にやけるリチャードを見て、執事は半眼になりながら疲れたように溜息をついた。
ウィンザー家には予定どおり結婚式当日の午前中に着いた。
両親はリチャードの姿を視界に映すなり安堵して崩れ落ちた。その顔色は悪く、ずいぶんと気を揉んでいたであろうことが窺えた。さすがにこんな姿を目の当たりにすると心苦しくなる。
しかし、謝罪する間もなく教会に追いやられて大急ぎで支度が始められる。シャーロットもとっくに教会に来ているらしいが、互いに準備があるので会いに行く暇はないと言われてしまった。
おおよその支度が終わったところでコンコンと扉が叩かれた。おそらく両親だろうと何の気なしに「どうぞ」と応じると、静かに扉が開いた。しかし、そこにいたのは両親でも従者でもなく——。
「アーサー!」
思わず椅子から立ち上がる。リチャードの髪を整えていた従者が驚いていたが、構ってなどいられない。アーサーは当然のようにすっかり支度を終えていて、こちらの姿を見るとほっと息をつく。
「どうやら間に合いそうですね」
「ああ……おまえにも心配かけたな」
「あなたは昔からいつもギリギリだ」
「それでも遅れたことはないよ」
パブリックスクール時代のようなやりとりをすこし懐かしく思いながら、リチャードは肩をすくめる。もっともあのころのアーサーはいまよりずっと厳しい口調だったけれど。
「ところで何の用だ?」
「いえ、あなたが結婚式に間に合うのか確認に来ただけです。気が気でなくて……シャーロットに惨めな思いはさせたくありませんから」
そうだ——!
アーサーが切なそうに微笑んだ瞬間、言うべきことを思い出して頭に血がのぼった。彼とのあいだを一気に詰めると、背後の扉にドンと手をついて覗き込む。息がふれあうくらいの至近距離で。
「じょっ、冗談にしても……あまりこのようなことをなさるのは……」
「おまえさ、俺がおまえに懸想してるだなんて本気で思ってるのか?」
「えっ……ぁ……えっ……?」
アーサーはしどろもどろになりながら目を瞬かせる。驚くというより、思いもしなかったことを言われて混乱しているようだ。
「どうしてそれを……いえ、あの…………違うのですか?」
「おまえのことは友人としか思ったことがないし、そもそも俺は男色じゃない」
「……本当に?」
はぁ、とリチャードは盛大な溜息をついて体を起こした。シャーロットに話を聞いたときからわかっていたことだが、あらためてこうして本人の反応を目の当たりにすると、何とも言えない気持ちになる。
「なあ、俺がおまえに懸想してるだなんてどうして思ったんだ?」
「同僚がそうではないかと……いえ、すぐにそれを信じたわけではなかったのですが、あなたが……結婚しないのはおまえのせいだ責任を取れなどと言うので、やはりそういうことなのかと……」
アーサーは困惑したような顔をしながらそう話すが、リチャードも困惑した。
「そんなこと言ったか?」
「言いました」
もちろん彼が嘘をつくような人間でないことはわかっている。
言ったのなら、おまえの娘と出会ったせいだから結婚を認めろという意味だろうか。あのときはまだそう明言するわけにはいかなかったので、思わせぶりな言いまわしをしたのかもしれない。
「まあ、何にせよおまえに懸想してるってのは完全な誤解だ」
「でしたらシャーロットとの結婚を望んだのはなぜですか?」
「ああ……」
もっともな疑問である。ウィンザー公爵家がグレイ伯爵家と姻戚関係を結んでも特に利はないのだ。リチャードはかすかな緊張を覚えながらすっと姿勢を正すと、真摯に彼を見つめて告げる。
「シャーロットとの結婚を望んだのはシャーロットが好きだからで、他意は一切ない。おまえが心配しなくても彼女のことは大事にするし、二人で幸せになるつもりだ。何せ十年も待ったんだからな」
「えっ?」
彼が目を見開くと、リチャードはうっすらと口元を上げて肩を押した。
「ほら、時間だぞ」
「ですが……」
「またあとでな」
やや強引に追い出し、素早く扉を閉めてそこに背中からもたれかかる。そのまま身じろぎもせずに耳を澄ませていると、やがて靴音が響き、どことなく躊躇いがちに遠ざかっていくのが聞こえた。
「…………」
気のせいか従者たちから生温い視線を向けられているのを感じて、きまりが悪い。しかしそんな素振りを見せることなく何食わぬ顔で椅子に座ると、すこし乱れてしまった髪を整えてもらう。
「リチャード様、そろそろ礼拝堂に向かうお時間です」
「ああ」
執事は懐中時計を確認して事務的に告げると、控え室の扉を開いた。
その先はまばゆいくらいの白い光に包まれている。リチャードはそこから目をそらすことなく静かに呼吸をすると、ポケットに忍ばせた指輪の存在をあらためて確認し、挑むような笑みを浮かべて足を踏み出した。