ラウルがいつものようにそう言うと、隣のレイチェルはにっこりと微笑み、小さな手で分厚い教本を閉じた。バタンという重みのある音とともに、小さな風が起こり、彼女の細い金髪を微かに揺らす。
今日はいつもより早くに授業を終えた。
特にこれといった理由はない。ただ、朝からずっと気もそぞろで、授業どころではなかったのだ。それゆえ、ちょうど区切りがついたからと自分に言い訳をしつつ、少し早めに切り上げることに決めたのである。
ラウルは焦る気持ちを抑えながら、その原因となっていたことを切り出す。
「きのうのパーティはどうだった」
「なんとか大丈夫だったわ。心配を掛けてごめんなさい」
レイチェルは何事もなかったかのように、屈託のない明るい笑顔で答える。
一見、問題はなさそうに見えた。
しかし、ラウルはその言い方に引っかかりを感じた。何もなかった、とは言わなかった。やはり何かはあったのだと思う。これ以上の心配を掛けまいとして隠しているのだろう。大丈夫という言葉も信じていいものか疑問である。
笑顔の向こう側では傷ついているのかもしれない。
彼女の脆い部分を目の当たりにしてしまったから、そして、それを他人にあまり見せないことを知ってしまったから、些細なことでも過剰なまでに心配になる。せめて自分にだけは気を遣わないでほしい、あのときのように本心を見せて頼ってほしい――ラウルはそう願った。
「星空がすごくきれいだったの」
彼女の小さな口から不意にそんな言葉が紡がれた。
ラウルは何のことだかわからず、訝しげに眉をひそめる。
「パーティが終わってから、サイファと一緒に外に出て夜空を眺めたの。数え切れないくらい星が出ていて、眩しいくらいにキラキラしていて、たくさん降るように流れて……宝石よりもずっときれいだったわ」
彼女は膝の上で両手を組み合わせ、嬉しそうに声を弾ませた。
「星くらいこれまでにも見たことがあるだろう」
「あんなにきれいなのは初めてだったの。私、あまり夜は外出しないし、早く寝てしまうから、星空ってそれほど見たことがなくて。きっと今までたくさん見逃してきたのね。きのうがパーティの日で本当に良かったわ」
ラウルは軽く溜息をついて腕を組んだ。
彼女が何を伝えたかったのかがようやく理解できた。要するに、つらいことが霞んでしまうくらいの楽しい出来事があった、だからパーティも大丈夫だった、ということが言いたかったのだろう。これほど嬉しそうに話されては信じざるをえない。そのことに関しては、心から良かったと思う。
だが、複雑な気持ちがあったのも事実だった。
結局、彼女を守ったのはサイファである。自分はただ気を揉んでいただけで、行動を起こすことはなかった。パーティに出席していない自分には、彼女を守ることは出来ないと諦めていたが、何かしら出来ることはあったのかもしれない。
「ねぇ、ラウルは星空って好き?」
「さあな、好きでも嫌いでもない」
投げやりな答えだが、はぐらかしたつもりはない。昔は好きだったが、嫌いになり、今はどちらなのか自分でもわからないのだ。
星空を背に優しく微笑む少女が、ラウルの脳裏に浮かぶ。
彼女を守れなかったあのときから幾星霜が過ぎただろう。それでもまだラウルは自分を責めている。彼女のことを忘れることは決してない。だが最近は、思い出すことは少なくなっていた。
自分は薄情なのだろうか。
今はレイチェルに頭が占められている。少女とよく似た面影を持っているが、二人を重ねて見ているわけではない。確かにきっかけはそうだった。しかし今は違う。どちらも大切な存在ではあるが、その意味合いは違っているのだ。
だからこそあらためて思う。
レイチェルには彼女のような運命を辿らせてはならない。そうならないように守っていかなければならない。救えなかった彼女の代わりではなく、レイチェル自身の幸せのために――。
「今度はラウルと一緒に見られたらいいなって思っているんだけど」
レイチェルの可憐な声で、思考の海から現実に引き戻される。
「……ああ、そうだな」
ラウルは僅かに目を細めて答えた。
だが、それが実現することはないだろうと思う。満天の星が見られる時間まで彼女といられる機会があるとは思えない。簡単なようで難しいことなのだ。ラウルはただ彼女がそう願ってくれただけで十分だった。
「じゃあ、約束ね」
レイチェルは声を弾ませてそう言うと、軽い足どりで立ち上がり、急いで教本やノートを片付け始めた。手を伸ばして本棚にしまう。
そのとき――。
ラウルはハッとして彼女の腕を掴んだ。自分の方へ引き寄せ、長い袖を少しだけ引き上げる。そこから白い物が覗いた。すべては見えなかったが、それが何なのか医者のラウルにはすぐにわかった。いや、医者でなくともわかるだろう。
彼女の手首には包帯が巻かれていた。
彼女はきまりが悪そうに目を伏せる。
今にして思えば、授業中も何か気にしている様子だったし、いつもに比べて動きが大人しかった。おそらくこれを隠すためだったのだろう。なぜもっと早くに気づかなかったのかと思う。
「これは何だ。きのうのパーティで何かあったのか?」
「……少し怪我をしただけ。たいしたことはないの」
レイチェルはそっと手を引き戻すと、袖を捲り、自ら包帯を外してガーゼを取った。
そこには赤く擦れたような傷が幾重にも走っていた。縄で強く縛られたのだろうか。彼女の言うように重傷ではなさそうだ。しかし、白く細い手首にこれだけの傷がついていると、目を背けたくなるくらい痛々しく見える。
「どうしたのだ。誰かにやられたのか」
「……ええ」
嘘はつけないと思ったのか、彼女は困惑した顔を見せながらも肯定する。
「誰だ。前に言っていたユリアとかいう奴か」
心当たりとして思い浮かぶのはその名前だけだった。レイチェルを出来損ないなどと罵っているラグランジェ家の女である。一度も会ったことはないが、そういう話を聞いたことを覚えていたのだ。
レイチェルは驚いたように目を見開いた。しかし、すぐに視線を落として考え込むと、戸惑いがちに瞳を揺らしながら小さく頷いた。
まさか、ここまでやるとは――。
ラウルは奥歯を噛みしめた。嫌味を言われたり冷たい目を向けられたりするだけだと聞いていたが、それどころの話ではなかった。これはすでに立派な犯罪である。魔導を使って故意にやったのであれば、禁錮刑に処せられてもおかしくないくらいだ。
「サイファは何をやっていた!」
「サイファは何も悪くないわ」
レイチェルはラウルを見つめて冷静に答えた。それでもラウルは納得できなかった。むしろ、彼女が庇い立てをしたことで、なおさら腹立たしさが増していた。
「あいつにはおまえを守る義務があるはずだ」
「ユリアにはもう二度としないように言ってくれたみたい」
「事が起こってからでは遅いだろう」
「それは私がいけなかったの。私がサイファに何も言わなかったから……」
レイチェルはほどいた包帯を無造作に絡ませた手で、胸元をぎゅっと押さえる。
ラウルは眉根を寄せて目を細めた。
「なぜ、そんなに必死に庇う」
「本当のことを言っているだけよ」
確かに本当のことなのだろう。だが、それでも庇っていることには違いない。彼女に自覚のないことが、ラウルになおのことやりきれなさを募らせる。
「……座れ」
小さく溜息をついてそう言い、彼女を椅子に座らせた。ここは医務室ではないため、新しいガーゼも薬もない。剥がされたガーゼをそっと手首に戻すと、丁寧に包帯を巻いていく。
「医務室に着いたらきちんと診てやる」
「うん……」
レイチェルは神妙な顔つきで、小さくこくりと頷いた。
「怪我はここだけか」
「こっちも……」
彼女は左手を軽く上げた。袖口から白い物がちらりと覗いている。右手と同じように手首に包帯が巻かれているようだ。両手を拘束されていたということだろう。そうなると、それだけで終わったとは考えづらい。自由を奪った上で何かをしたと考えるのが自然だ。
まさか――。
…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。
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