瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第51話・いつか素敵な

 澪はベッドで目を覚ました。
 カーテンの隙間から淡い光が差し込んでいる。明らかに自分の部屋ではないその場所に、どういうことなのかと混乱したが、ぐるりとあたりを見まわして思い出した。思い出したくなかったこともすべて――いっそ記憶喪失になってしまえば良かったのに、と眉を寄せながら、布団の中に潜り込んで子猫のように小さく背を丸める。
 ここは、誠一のアパートである。
 昨夜、悠人に助け出されたあと、風呂で体を洗われ、部屋で服を着せられ、怪我の手当てをされ、何かの薬を飲まされ、それから車でここまで連れてこられたのだ。ベッドに横たえられてすぐ眠りに落ちてしまったので、その後、誠一や悠人がどうしていたのかまではわからない。
 微かに、隣の居間から物音が聞こえる。
 誠一が起きているのだろう。澪も他人の家でいつまでも寝ているわけにはいかないと思い、鉛のように重たい体を引きずるようにして起こす。着ているのは武術の訓練で使っているジャージの上下だ。着替えを持ってきているのか気になって探してみたが、澪の荷物はベッドのそばに置かれたスクールバッグだけで、中には財布と携帯電話くらいしか入っていなかった。
 仕方なく、その格好のままで居間への扉をそろりと開く。そこには眩しいくらいの白い光が満ちていた。思わず目を細めたが、身支度を調えた誠一が窓際に立っているのはわかった。
「澪、もう起きたのか。ゆっくり寝てていいんだぞ」
「うん……」
 曖昧に頷きつつも、そこにいたもうひとりの人物に気付いて戸惑う。きのう出かけたときと同じ衣服を身につけ、丸テーブル前のクッションに座り、飾り気のないマグカップに手を掛けているのは――。
「遥……も、ここに泊まったの?」
「僕はさっき来たところ」
 そう答えてマグカップを口に運ぶ。そこまで親しくない誠一のところにわざわざ来たということは、澪の身に起こったことについてすでに聞き及んでいるのだろう。それでも、目の前にいる彼の態度はいつもと変わらないぶっきらぼうなものだった。
「座れば?」
「……うん」
 澪は捻挫を庇いつつ丸テーブルの方へ足を進める。その様子を痛ましそうに見つめる誠一に、遥は無表情のまま振り向いて声を掛ける。
「誠一、そろそろ仕事へ行かなきゃ」
「……やっぱり、今日は休むよ」
「澪には僕がついてるから大丈夫」
 二人の会話を聞きながら、澪は遥の隣にクッションを寄せて腰を下ろす。遠慮がちに視線を上げた先には、窓ガラスに寄りかかったまま、うつむき加減で考え込む誠一がいた。その表情は次第に険しくなっていく。
「ちょっといいか?」
 誠一は玄関の方を指さしながら遥を呼んだ。最初はじとりとした目で訝しんでいた遥も、誠一が玄関の方へ歩いて行くと、腰を上げて促されるままついていく。やがてガシャンと重い扉の閉まる音が聞こえた。何をするつもりなのかと不安に思っていると、ほんの数分ほどで二人一緒に戻ってきた。遥は先ほど座っていた場所に腰を下ろしたが、誠一は居間に一歩足を踏み入れただけで、立ち尽くしたまま硬い面持ちで澪を見つめている。
「澪、不安なら仕事を休むけど……」
「私は大丈夫。お仕事してきて」
「無理しなくてもいいんだぞ?」
「遥がいてくれるみたいだから」
「……わかった」
 澪が微かに笑みを浮かべると、誠一は納得いかないような渋い顔をしながらもそう頷いた。そして、未練がましい気持ちを断ち切るように深呼吸してから、なるべく早く帰れるようにすると伝え、それでもなお心配そうにチラチラと様子を覗いつつ出かけていった。

「トーストくらいしかないけどいい?」
 台所に向かった遥から投げかけられたその質問に、澪は反射的に頷いてしまったが、勝手に食べていいのだろうかと少し心配になる。しかし、遥は何の遠慮もなく戸棚を開けて、食パンを焼いたり、ヤカンを火に掛けたりし始めた。
「……きのうの話、聞いてるよね?」
「ざっくりとだけどね」
 彼はインスタントコーヒーの瓶を手に取って答えた。その蓋を回し開けながら続ける。
「僕も危険だから家に帰るなって言われて、しばらく武蔵のところに泊めてもらうことになってる。確かに僕も母さんの子供だけどさ……おかしいよね。僕は男だよ? 師匠にも言ったんだけど聞き入れてくれないし」
「男とか女とか関係ないかも……お父さまにとっては……」
 大地にとって重要なのは美咲の半分ということだけだ。その意味でいえば澪も遥も何ら変わりはない。確信があるわけではないが、どう暴走するか想像もつかないのだから、ひとまず遠ざけておくのは正しい判断だと思う。襲いかかってきた彼の狂気を孕んだ瞳を思い出し、澪はゾクリと背筋を震わせた。
 チン、とオーブントースターが高い音を立てた。
 香ばしい匂いの立ちのぼる厚切りトーストにマーガリンを塗り、インスタントコーヒーの入ったマグカップに熱湯を注いで、遥はかいがいしく丸テーブルまで運んできた。澪はありがとうと礼を言ってトーストを少しかじる。パンのほのかな甘みとマーガリンの塩気が口の中に広がり、そのとき、自分が随分と空腹だったことに初めて気が付いた。

「今さらだけど、大丈夫?」
 用意してもらったトーストをすべて平らげ、少しぬるくなったコーヒーを飲んでいると、遥が何気ない口調でそう尋ねてきた。曖昧な尋ね方ではあるが、大地に乱暴された件についてだということはすぐにわかった。
「うん……思ったより平気、かな?」
 澪はそう答えて少し笑ってみせる。しかし、遥は不満そうにつと眉を寄せた。
「無理しない方がいいと思うけど」
「無理してるわけじゃないよ」
 澪は静かに言い返し、マグカップを置いて淡々と言葉を紡ぐ。
「お父さまにとって、橘美咲の娘でしかなかったことは悲しいし、お父さまにあんなことされたって思うとショックだけど……別に初めてってわけじゃないし……今になって冷静に考えてみたら、そんなにたいしたことじゃないのかなぁって……」
 そう話す声が次第に力を失っていった。遥にじっと視線を注がれ、逃げるように膝を抱えて顔を埋める。
「本当にそう思ってる?」
「……よくわからない」
 つい先ほどまでは本当にそう思っているつもりだった。けれど、それを言葉にして口に上すと胸がズキズキと痛む。自分の気持ちがどうなっているのか自分でもよくわからない。薄く閉じた瞼はまるで痙攣するかのように震えていた。

 ピンポーン――。
 重々しい沈黙にのしかかられて息苦しさを感じていたところに、軽快なチャイムの音が鳴り響いた。来客だろうが、ここは自分たちの家ではなく誠一の住まいだ。出るべきなのか無視した方がいいのか迷い、澪は顔を上げて遥に尋ねる。
「どうしよう?」
「心当たりはある」
「え?」
 遥は無表情のまま立ち上がった。待ってて、と言い残して玄関の方へ行くと、すぐに客人を連れて戻ってきた。
「お久しぶりね、澪ちゃん」
「涼風さん?!」
 客人は、怪盗ファントム唯一の依頼人として面識のある日比野涼風だった。タイトスカートのスーツをきっちりと着込み、肩から大きなカバンを提げ、さらに両手いっぱいに手提げの紙袋を持っている。衣服関係のショップ紙袋が多いようだ。彼女はにっこりときれいに微笑みながら、その紙袋を掲げて見せる。
「悠人さんに頼まれたの。着替えや日用品をいろいろ買ってきたわ」
「あ……ありがとうございます……」
 いったい悠人は何をどう頼んだのだろうか。その量の多さに圧倒されて、澪は困惑を滲ませながらぎこちなく頭を下げた。涼風は何の遠慮もなく正面に腰を下ろすと、丸テーブルに腕をついて前のめりになり、ぱっちりとした目を興味津々に輝かせて言う。
「さっそく着替えましょうか? ……あら、怪我してるの?」
「たいしたことはないです」
 手に巻いた包帯に気付かれ、澪はジャージの袖を伸ばしながら笑顔を取り繕った。涼風は少し不思議そうな顔をしていたが、しつこく追及してくることはなかった。にっこりと微笑んで頷き、ぐるりと一通り見回してから寝室への扉を指さして言う。
「そこの部屋、使っていいかしら?」
「あ、はい、大丈夫だと思います」
「じゃあ、行きましょう!」
 涼風は声を弾ませてそう言うと、再び大荷物を手に持って立ち上がり、案内を待たず勝手に寝室へ入っていく。その後ろから、澪はなるべく足を引きずらないように歩いていった。

「これなんか春っぽくていいんじゃない?」
 涼風は見るからに楽しそうな弾んだ様子で、次々と紙袋を開けて中を覗き込んでいくと、そのうちの一つ、襟まわりにレースのあしらわれた花柄のチュニックワンピースに目をつけた。ビニール袋から取り出して全体を眺めながら、満足げに何度も頷いている。
 澪はベッドに腰掛けたまま、目を伏せた。
「すみません……あの、私、持ち合わせがあんまりなくて……」
「気にしなくていいのよ。あとで悠人さんにしっかり請求するから」
 涼風は悪戯っぽくそう言って魅惑的にウィンクする。本当に請求するつもりなのかはわからないが、そう言われてはもう何も言えなくなってしまう。どちらにしても、澪が負担を感じることのないようにという気遣いなのだろう。
「これでいいかしら」
 澪が考え込んでいる間に、涼風は選んだ衣装をベッドの上に広げていた。先ほどのチュニックワンピースとレギンス、それに下着の上下までもが置いてある。どれも自分では選ばないようなデザインだが、決して嫌いなものではない。はい、と素直にこくりと頷いて立ち上がった。
「着替え、手伝いましょうか?」
「いえ、ひとりで大丈夫です」
 手の怪我を気遣ってくれたのだろうが、指は普通に使えるので問題はない。それに――。
「あの……着替え、見られたくないので……その……」
 どう伝えればいいのかわからずしどろもどろになるが、涼風は何かを察してくれたようで、ただ「わかったわ」とだけ答えてベッドから離れた。背中を向けてしゃがみ、紙袋から出した他の服や荷物を片付け始める。
 澪は安堵の息をつき、涼風に背を向けてジャージを脱いだ。
 胸元にも、腕にも、内腿にも、無数の赤い痣のようなものが残っている。武蔵との情事のあとにも同じような痣がいくつかついていたが、そのときはまだどういうものなのか全くわかっていなかった。しかし、今はもう理解している。あれだけしつこくやられたのだから気付かないわけがない。思わずそのときの感触がリアルによみがえり、ぞわりと肌が粟立った。
「私のこと、どこまで聞いてます?」
 背を向けたまま、下着に手を伸ばしてそう尋ねると、涼風は少しの間をおいてから答える。
「家に置いておけない事情があって、しばらく知人のところに預けることになった、とだけ。その事情については何も聞いていないわ。ただ、つらい目に遭ってるから力になってほしいって……」
「そうですか……」
 大地の凶行を知られていなかったことに少し安堵する。遥や誠一は仕方ないにしても、やはりあまり多くの人には知られたくない。自分自身が恥ずかしくてつらいというのもあるが、こんなことが噂にでもなれば、橘の名前に大きな傷がつくのではないかと思ったのだ。もっとも、橘の今後がどうなるのか想像もつかない状態ではあるが――。
「悠人さんと何かあったの?」
 考え込んでいると、涼風は怪訝にそんなことを尋ねてきた。澪は驚きのあまり大きく目を見開く。
「いえっ、師匠は全然関係ないですから!」
「でも悠人さん、澪ちゃんのそばにいる資格がない、みたいなことを言っていたけど……」
 事前に助けられなかったことを悔やんでいるのだろうか。いや、それより過去のことを気にしているのかもしれない。澪の唇を無理やり奪ったことを、そして強引な方法で結婚を迫ったことを。父親ではないが、父親同然の保護者代理という立場でありながら――。
「あ、ごめんなさいね。つい詮索しちゃって」
「いえ……」
 澪はうつむいたまま、手にした下着を握り締める。
「でも、もし聞いてほしくなったり相談したくなっりしたら、いつでもいいから遠慮なく話してちょうだいね。これでも口は堅い方なんだから。口外するなって言われたら絶対に他で話さないわよ」
「ありがとうございます」
 言われてみれば確かに涼風の口は堅い。怪盗ファントムのことを二十年以上もずっと秘密にしてきたくらいだ。とはいえ、今はまだ自分の口からあの出来事を話すことなど出来そうにない。話そうとしても、きっと感情だけが先走って上手く伝えられないに違いない。もう少し落ち着いて、そのときに相談したいことがあれば甘えようと心に決める。
 ずっと手に持ったままだった下着を身につけ、手早く衣服も着て、長い黒髪を揺らしながら涼風に振り返る。もう荷物の片付けは終わっていたようだが、きちんと約束を守ってくれていたらしく、背を向けたままちょこんと座っていた。
「着替え終わりました」
「……あ、やっぱり似合う!」
 彼女は振り向くなりパッと顔を輝かせ、両手を組み合わせて大きく頷いた。やっぱり私の見立ては間違いないわね、と満足げに声を弾ませて立ち上がると、足元に置かれているたくさんの紙袋を示しながら言う。
「他の服もきっと似合うと思うから、ぜひ着てちょうだいね」
「ありがとうございます。……涼風さん……あの……」
 澪は口ごもりながらそう切り出した。不思議そうに小首を傾げた涼風を見つめ、言葉を繋ぐ。
「多分、師匠もまいってると思うから、力になってあげてください」
 先ほどまでは彼のことを考える余裕もなかったが、涼風から話を聞いて、きっと彼もつらい思いをしているのだと確信した。美咲が亡くなり、大地が壊れかけ、澪がその餌食になり――明確な怒りのやり場もなく、彼の性格からすると自身を責めている可能性が高い。
 涼風は虚をつかれたようにきょとんとしたあと、曖昧な微笑を浮かべて肩をすくめた。
「私じゃ、悠人さんの力になれないと思うけど……」
「そんなことないです。師匠は涼風さんのこと信頼してますよ」
 澪の力になるよう頼むくらいだから、そのことについては間違いないと思う。そして、涼風ならきっと悠人の力になれると信じている。しかし、涼風は相変わらず自信のなさそうな顔で、だといいんだけど、と困惑ぎみに小さく呟くだけだった。

 涼風は仕事で外せない用事があるということで、また来るわね、とにっこりと微笑を浮かべながら帰っていった。再び遥と二人きりになり小さな丸テーブルの前に座る。澪は何もすることがなくぼんやりと膝を抱えていたが、遥は近くに落ちていた今朝の新聞を手にとって読み始めた。

「いつまでここにいればいいのかなぁ」
 澪は膝を抱えたまま気の抜けた声で呟いた。遥は新聞を折り畳みながら答える。
「一時的な避難だしそう長くないと思うよ。師匠がこれからのことを考えてるはずだから、その準備が整うまでだろうね。新学期が始まるまでにはどうにかしてくれるんじゃないかな。学校に通うのもちょっと不便だし」
 その推測は論理的で納得のいくものだった。しかし、新学期までといってもまだ十日近くある。
「何日もここにいたら迷惑だよね」
「誠一はそんなこと思ってないよ」
 遥はそう言うが、澪には同意できなかった。抱えた膝をさらに引き寄せる。
「誠一は優しいから思っていても言わないだろうけど……私のこと、もう持て余してるんじゃないかな。私のせいでどれだけ迷惑を掛けたかわからない。誠一から刑事の仕事を取り上げることになったし、何度も危ないことに巻き込んじゃったし、大変なこともさせられたみたいだし……それに……」
 次第に声が震えていく。自分で言葉にしながらあらためて思い知ったような気持ちだった。目の奥がじわりと熱くなり、膝に顔を伏せて目を閉じる。そのまましばらく息の詰まるような重苦しい沈黙が続いたが、遥がそれを破って切り出した。
「今朝、僕、誠一に呼ばれて外に出たけど、そのとき何て言われたと思う?」
「…………?」
 澪は少しだけ顔を上げ、隣の彼に訝しむような視線を流した。何て言われたかなんて想像もつかない。そもそも、なぜ今こんな話をするのかもわからない。答えを求めるようにじっと見つめていると、彼は前を向いたまま口を開いた。
「君を信用していいのか、って」
「えっ?」
「僕と澪を二人きりにして、きのうの二の舞になることを懸念してたみたいだね。僕はこれまでもこれからもずっと澪の家族だって答えておいた。そんなふうに疑われるなんて心外だし頭にくるけど、それだけ誠一は本気で澪を心配してるってことだよ」
 澪は目を伏せ、気持ちを抑えるように膝の上でこぶしを握り締める。
「誠一は責任感が強いし、警察の人間だから……」
「僕は、誠一のこと信じていいと思うよ」
 誠一が澪のことを本気で心配してくれているのは事実だろう。だが、今後も澪と付き合いたいと思っているかどうかは別だ。たとえ嫌気がさしていたとしても、後悔していたとしても、彼が自ら口にする可能性は低いように思う。だとすれば、私は――澪は唇を引き結び、握ったこぶしを震わせながら目を閉じた。

 今朝の言葉どおり、誠一は定時で仕事を切り上げて大急ぎで帰ってきた。ジャージではない澪の格好を見て少し驚いたようだったが、女性の知人が着替えを持ってきてくれたことを話すと、安堵したように小さく息をついて頬を緩ませた。
 二人の話が終わったのを見計らって、遥は立ち上がる。
「誠一が戻ってきたことだし、僕はもう帰るよ」
「うん……ありがとう、ずっといてくれて」
 帰るといっても、橘の屋敷ではなく武蔵のところである。あまり歓迎されていないのではないかという気はするが、武蔵なら何だかんだ云いつつも面倒を見てくれるだろう。澪としては遥にあともう少し一緒にいてほしかったが、自分も居候の身であり、引き留めるなどという図々しいことはさすがに出来なかった。

 誠一と二人きりになると、澪は幾何かの緊張を覚えて無意識にうつむいた。誠一の方も澪のいる丸テーブルには近づこうとはせず、まっすぐ台所へ行き、グラスに水道から水を注いで一気に飲み干した。そして、その場に立ったまま軽く振り向いて尋ねる。
「夜ごはんはどうする? 外に食べに出てもいいし、何か買ってきてもいいし、出前を取るのもありかな」
 彼は明るかった。だが、澪には無理してそう振る舞っているようにしか見えなかった。そして漠然と感じていた不安の正体にも気付いてしまう。彼が遠いのだと――誠一はいつもと変わらず優しい言葉を掛けてくれるが、澪に触れるどころか近づこうとさえしない。今朝からずっと。彼が自分を持て余しているのではないか、という憶測は確信へと変わっていく。
「……ごめんなさい」
「えっ?」
「迷惑ばかりかけて」
「そんなことないって」
 うつむいて声を沈ませる澪を、誠一は軽く笑い飛ばす。
「実は、俺、警察庁への出向と同時に昇進しててさ。それも二階級。だから澪ひとりくらい十分に養えるし、何も心配することなんてないんだ。俺、そんなに甲斐性なしに見えるか?」
 冗談めかしたのも澪を気遣ってのことだろう。そんな優しい彼だから好きになったのだが、今はその優しさがつらい。警察庁への出向も、こんな形での昇進も、彼自身は望んでいなかったはずである。すべて澪と関わったせいで起こったことなのだ。
「私、出て行くね。どこかホテルにでも泊まるから心配しないで」
「え、ちょっ……」
 一方的に告げて彼の反応を見ることもなく寝室に駆け込むと、財布と携帯電話の入ったスクールバッグだけを取って出て行こうとする。が、廊下へ続く扉の前で、誠一が通せんぼのように両手を広げて立ちふさがっていた。その顔には困惑と焦燥が浮かんでいる。
「急にどうしたんだ。俺は本当に迷惑だなんて思ってないぞ?」
「ここに泊めてもらうことだけじゃなくて、その……もういいよ……」
「何がいいんだよ。行かせられるわけないだろう」
「師匠には私から説明しておくから。誠一は悪くないって……どいて」
 澪は努めて冷静に言う。彼を恨んでなどいないし、むしろ感謝しているので、不利益にならないよう最大限の配慮はするつもりだ。それでも言葉足らずで上手く伝わらなかったのか、あるいは納得しなかったのか、誠一は扉に立ちはだかったまま動こうとしなかった。緊張した面持ちで、額に汗を滲ませながらじっと澪を見つめている。
「……頼む。せめて理由だけでも説明してくれないか」
 静かながら思い詰めたような声音で懇願する。言うとおりにしなければ通してもらえないだろう。無理やり突破することも出来なくはないが、誠一を痛い目に遭わせるのは気が進まない。澪は暫しの逡巡のあと、僅かに眉を寄せて口を開く。
「誠一、ずっと私に近づこうとしなかった。言葉は優しいけど避けてた。こうやって私の面倒を見ているのは、義務感とか、責任感とか、そんなもののために仕方なくやってるだけで、本当は私のことなんて、もう……私のせいで人生めちゃくちゃになったし、要らない苦労も背負い込まされたし、割に合わなさすぎだよね……おまけに、私……お父さまとあんなことになっちゃったし……触りたくないとか、守る価値もないとか、もういらないとか……思われても仕方ない……わかってるから……」
 堰を切ったように気持ちが溢れていき、言うつもりのなかったことまで口にしてしまう。声が震え、唇が震え、開いたままの目からぽろりと涙が零れ落ちた。その涙を見て、唖然としていた誠一はハッと我にかえった。
「違う!」
「違わない!」
 澪は思わず小さな子供のように言い返した。涙目でキッと睨み、一歩踏み込んで挑発的に顔を近づける。
「今だって扉に張り付いたまま、私の肩にさえ触れようとしないじゃない!」
「いや、その、近づかなかったのは……そうなんだけど……」
 誠一はしどろもどろになりながら答える。やっぱり、と澪は非難の目つきでじとりと睨んだ。
「そうじゃない、違うんだ。決して澪の考えてるような理由じゃなくてな……その、あんな酷い目に遭ったすぐあとだし、昨夜は随分ショックを受けてるみたいだったし、さすがに男性を怖がっているんじゃないかと思ったからで……楠さんにも釘を刺されたし……」
 口から出任せの言い訳には聞こえない。言われてみれば確かにそういう考えもありうるだろう。そして、傷ついている澪に触れないようにと釘を刺すのも、悠人ならいかにもやりそうなことである。彼自身でさえそばにいる資格がないと考えていたくらいなのだ。
 じゃあ、誠一は本当に私のことを気遣って――?
 不意に、ふわりと柔らかく彼の胸に抱きしめられた。スーツ越しにほんのりとぬくもりが伝わってくる。触れていなかった時間はそう長くないはずなのに、なぜだか懐かしくさえ感じた。それだけ切望していたということなのかもしれない。
「怖くないか?」
「怖いわけないよ……」
 それどころか包まれるような安心感を覚える。乾いた心に水が染み込んでいくようだった。ただでさえつらい目に遭っていたところへ、追い打ちを掛けるように誠一に避けられ、寂しくて、不安で、怖くてたまらなかったのだということに、ぬくもりを与えられて落ち着いた今ようやく気付くことができた。
「ごめんな、不安にさせて」
「本当に嫌じゃないの? 責任感や義務感だけなら、私……」
「絶対に逃がすつもりはないよ。誰に何を言われても」
 誠一は小さく笑ってそう答える。澪としては、面倒に思われるくらいなら別れた方がいいと本気で考えているのだが、彼にその気持ちが伝わっているかどうかは今ひとつ定かでない。微妙に顔を曇らせて考え込んでいると――。
「澪、結婚しよう」
「……え? ええぇっ?!」
 あまりにも唐突すぎて、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。驚きのあまり腕をつっぱって体を離し、まじまじと彼の顔を見つめる。何かの冗談ではないかと思ったのだが、彼はいたって真剣な面持ちをしていた。どうやら聞き違いというわけでもなさそうだ。
「そうすれば俺が家族として澪を守ってやれる。澪の父親は認めないかもしれないが、橘会長なら何とかしてくれるはずだ。澪さえ良ければ今すぐにでも頼んでくる。だから、俺と結婚することを了承してくれ」
 まっすぐ瞳を覗き込んで真摯に訴えてくる。澪は胸が熱くなるのを感じて目を細めた。
「嬉しい……すごく嬉しいけど……でも……」
 顔をうつむけて奥歯に物が挟まったように言い淀む。それでも誠一は急かすことなく次の言葉を待っていた。こんなふうに待たれると余計に言いづらいが、だからといっていつまでも押し黙っているわけにもいかず、申し訳なさを感じながらおずおずと上目遣いで言葉を継ぐ。
「それじゃあ、夫婦っていうより親子みたいだし……」
「え、いや、もちろん澪が好きだからってのが大前提だぞ?!」
 誠一は大慌てでそう釈明すると、澪の肩を強めに掴んでグイッと前のめりになった。
「守りたいってのもあるけど、ずっと一緒に生きていきたいからで……」
「やっぱりやめよう? 問題をぜんぶ解決してから考えようよ」
 澪は淡々と告げた。途中で遮ったのは熱い訴えに流されることを怖れたからで、冷たくあしらったつもりはないがそう聞こえたかもしれない。彼は眉を寄せてつらそうな顔を見せながらも、澪の肩にのせていた手を下ろし、気持ちを落ち着けるように小さく息をつく。
「これも問題を解決するひとつの方法だけどな」
「だって、素敵じゃないんだもん……」
 理想を求めてしまうのは自分が子供だからだろうか。もちろん彼の気持ちはとてもありがたいし、そういう結婚を否定するつもりもないが、自分としては何かの手段であってほしくない。ましてや、守られるための結婚というのでは少し情けない。それでは本当の意味で夫婦になれない気がするのだ。
「怒ってる? 呆れてる?」
「いや、澪の気持ちを尊重するよ」
 そう言うと、誠一はあらためて優しく澪を抱きしめ、ゆっくり慈しむように長い黒髪を撫でた。澪は安堵の吐息を落としながらそっと目を閉じ、彼の首元に顔を埋めると、ふいに耳元に落とされた言葉にこくりと頷く。いつか、その夢物語が現実になることを祈りながら――。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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