魔導省での忙しかった二ヶ月が終わり、今は報告書を作るくらいで急ぎの仕事はない。腕時計で定時を過ぎていることを確認すると、書類をまとめて机の上を片付け始める。
レイチェルが身ごもっていることが発覚したあの日から二日が過ぎ、殴られた頬の腫れはだいぶ引いていたが、内出血による変色はまだ治っておらず、何らかの問題があったことは誰の目から見ても明らかだった。
休日明けの今朝、出勤早々に上司に尋ねられ、サイファは正直に理由を答えた。
サイファが口にしたのはそれ一度きりであるが、まわりで聞いていた人が多かったせいか、話は瞬く間に内局中に広がってしまったようだ。
隠すつもりはなかったので構わないが、その予想を超える速さにはただ驚くしかなかった。もう誰も自分には訊いてこない。ただ、触れてはならないという空気と、それでも止められない好奇の眼差しがあるだけである。陰ではさぞかしこの話題で盛り上がっていることだろう。サイファがラグランジェ本家の次期当主であるということが、必要以上に皆の関心を引いていることは想像に難くない。
あらかじめこうなることは覚悟していた。
それでもこの居心地の悪さは尋常ではなく、いずれ時間が解決してくれるのを待つしかないが、今日ばかりは一刻も早くここから離れたいと思わずにはいられなかった。
サイファが書類を机の引き出しにしまって立ち上がろうとした、そのとき――。
「よお、サイファ!」
野太いにもかかわらずよく通る声が、広いフロア中に響き渡った。
サイファを含めた皆が、一斉に振り向く。
そこにいたのは山のように大きな体躯のマックスだった。サイファがかつて配属されていた公安局一番隊第二班の班長である。彼は場違いともいえるタンクトップ姿のまま、軽く右手を上げ、何の躊躇いもなく豪快な足どりで内局に入ってきた。
その後ろには、部下であるエリックとティムが、ビクビクと身を縮こまらせて歩いていた。ティムはマックス以上に良い体格をしているが、マックスの陰に隠れるように背中を丸めて「班長~」と今にも泣き出しそうな情けない声で縋りついている。
現場の人間が内局に来ることはほとんどない。
入室を禁止する規則があるわけではないが、暗黙の了解のようなものがあり、普通は気軽に足を踏み入れることなどまずありえないのだ。それは一年目の新人でさえも知っていることである。魔導省で長く勤務するマックスが知らないはずはないだろう。知っていてあえて無視したに違いない。
サイファは椅子に座ったまま、自分の方へやってくるマックスに無表情で横目を向けた。マックスはそのすぐ前まで来て立ち止まると、両手を腰に当て、まるで少年のように邪気なくニカッと白い歯をこぼして笑う。
「おまえ、婚約者を孕ませちまったんだってな!」
その瞬間、フロアの空気が凍り付いた。内局の皆が固唾をのんで状況を見守っている。マックスの後ろのティムは頭を抱えてしゃがみ込み、エリックは申し訳なさそうに顔をしかめてサイファに両手を合わせて見せた。
「何か御用ですか」
サイファはピクリとも表情を動かさず、横目を向けたまま冷ややかに言った。しかし、マックスは臆することなく、明るく笑いながら非常識に大きな声を弾ませる。
「めでたいことだから祝いにきたんだよ。破談にならずに結婚も決まったんだろ? 久しぶりに俺たちで飲みに行こうじゃねぇか!」
「お気持ちだけいただいておきます」
サイファは丁寧な口調で突き放した。
「つれないこと言うなよ。おまえいつからそんなに可愛げがなくなったんだ?」
マックスは逞しい腕を机について、ぬっと身を乗り出し、正面からサイファの顔を覗き込む。その途端、彼の目は大きく見開かれた。
「うわっ、おまえこんなにひどく殴られたのか! くっ……綺麗な顔を台無しにするような奴は許せん! あの研究所の所長だったな? 待ってろ! 腕っぷしでは負けんぞ!!」
「班長! 落ち着いてください!!」
腕の筋肉を見せつけながら鼻息荒く捲し立てるマックスを、エリックとティムは後ろからタンクトップの裾を掴んで懸命に引き留める。食い込むくらいに引っ張られて、ようやくマックスは我にかえった。
「そうだ、まずサイファを祝ってやらねぇとな」
「そうそう、そうですよ、班長!」
サイファは騒々しい三人組を見て小さく溜息をつくと、一度は片付けた書類を引き出しから取り出し、机の上にパサリと置きながら言う。
「申し訳ありませんが、仕事が忙しいんです」
「それは嘘だろう」
間髪入れず横やりを入れたのは、隣に座る先輩のデニスだった。彼はサイファと同じチームで仕事をしており、今は互いにさほど忙しくないことを知っているのだ。それでもサイファは負けじと言い返す。
「探せばやるべきことはいくらでもあります」
「仕事は逃げ込むためにあるんじゃない。そんな理由で残業など迷惑だ」
デニスは淡々とした口調で、しかしきっぱりと言い放つ。
その正論に、サイファは何も言い返すことが出来なくなった。自分の方が間違っていることは初めからわかっていた。これ以上の反論は見苦しいだけである。
「いいこと言うな、兄ちゃん!」
マックスは白い歯をこぼしながら、奥のデニスに力強く親指を立てて見せると、いきなりサイファの体をひょいと荷物のように肩に担ぎ上げた。脚は太い腕でがっちりと抱え込まれ、頭は背中側に落とされて逆さになっている。今までずっと冷静を装っていたサイファも、これにはさすがにギョッとした表情を見せた。
「んじゃ、行くぞ、サイファ!」
「自分で歩きます! 逃げませんから下ろしてください!」
マックスの広くがっちりとした背中を叩きながら、サイファはめずらしく慌てふためいて訴えかけた。顔が火照っていたのは、逆さにされたせいなのか、恥ずかしさによるものなのか、自分でもわからなかった。
…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。
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