レイチェルの両手首の傷はすでに完治している。痕も残っていない。
そのことは、彼女自身よりも、彼女のまわりの人間を安堵させた。当然ながらラウルもそのひとりである。サイファやアルフォンスと違い、あまり言葉や態度には表さなかったが、彼らに負けないくらいに心配していたのだ。
それ以外では特に大きな出来事もなく、ただただ平和な日々が続いていた。ラウルが家庭教師としてレイチェルの家に向かい、彼女がお茶を飲みにラウルの部屋へ来るという、そんな穏やかでささやかな関係も、当たり前のように続いていた。
「今日はここまでだ」
ラウルが終了を告げると、レイチェルはいそいそと教本を片付け始めた。授業中はそうでもなかったが、今はすっかり落ち着きをなくしているように見える。きのう彼女から聞いた話では、このあと何かとても楽しみなことがあるらしい。そのためラウルの部屋には行けないとも告げられている。もう気持ちはそちらに向かっているのだろう。
「私はこれで帰る」
ラウルはそう言って立ち上がり、教本を脇に抱えて背を向けた。
思えば、彼女が部屋に来るようになってから、一人で帰るのは初めてではないだろうか。そのことが思いのほか寂しく感じられた。彼女と並んで歩くことが当たり前になりすぎていたのかもしれない。
「待って」
レイチェルの凛とした声が、去りゆくラウルの足を止めた。せっかく気持ちを振り切ろうとしていたのに、と少し恨めしく思いながら、彼女にしかめ面を振り向ける。
「何だ?」
「ラウルも用事があるのよ」
レイチェルはニコニコしながらそんなことを言う。だが、ラウルにはその意味するところがまるでわからなかった。少なくとも自分はその用事とやらに覚えはない。
「来て」
レイチェルは困惑しているラウルに駆けていくと、その大きな手を引いて、何の説明もないまま強引に部屋から連れ出した。
ラウルが連れて行かれた先は、階下の応接間だった。
レイチェルはラウルの手を引いたまま、その重みのある扉をゆっくりと押し開く。
広がる視界に飛び込んできたもの――。
それはホームパーティでも始めるかのような光景だった。気軽に食べられるような料理がテーブルの上にいくつも並び、その端にはグラスと取り皿が用意されている。いずれも手をつけられた形跡はない。
「あれ? ラウルも呼ばれていたのか?」
窓際のソファでひとり寛いでいたサイファは、読みかけの本を置きながらそう言うと、立ち上がって二人の方へと足を進めた。濃青色の制服を崩さずきっちりと身に着けている。休暇というわけではないようだ。
「……おまえ、仕事はどうした」
「家庭の事情で早退だよ」
サイファは悪びれもせず、あっけらかんと答えた。確か、以前もこんなことを言って早退していたことがある。そのときはレイチェルに勉強を教えるためだった。おそらく今回もたいした理由ではないのだろう。
「勝手なことばかりせず真面目に仕事をやれ」
「レイチェルの誕生日くらいいいだろう?」
サイファは両手を腰に当て、軽く肩を竦めながら言った。
「誕生日……?」
「聞いてなかったのか? これからレイチェルの誕生日パーティだよ」
それを聞いて、ラウルはようやく悟った。これはレイチェルの幼い策略なのだということを。前もって招待しても断られると思ったのだろう。だから何も教えることなく直接ここへ連れてきたのだ。
彼女がこの手を使ったのは何度目だろうか――。
確かに、以前は彼女に頼まれたことを何もかも断ろうとしていた。だが今は違う。出来るだけのことはしてやりたいと思っているのだ。しかし、それが伝わっていないのは自業自得なのだろう。ラウルは溜息をつきながら、ニコッと無邪気に笑う彼女を見下ろした。
「あ、ちょっと待っていてね」
サイファは急に何かを思い出したようにそう言うと、部屋の隅に駆けていき、そこに用意してあったものを取って戻った。
それは、十数本のピンクローズを中心とした花束だった。
強烈な派手さはないが、上品な華やかさがあり、なおかつ可憐な雰囲気も持ち合わせている。それは、花が完全に開ききっていないことに起因するのかもしれない。無垢な色の柔らかな花弁は、まだその奥を隠したままだ。まさにこれから咲き誇るところなのだろう。
「レイチェル、お誕生日おめでとう」
「わあ、ありがとう」
サイファが花束を差し出すと、レイチェルは嬉しそうに甘い笑みを浮かべて受け取った。そのピンクローズを胸いっぱいに抱え、ほのかな芳香を楽しむように、心地よさそうに目を閉じる。僅かに開いた窓からは、柔らかな風が滑り込み、淡いピンクの花弁と細い金の髪をささやかに揺らした。その姿はまるで絵に描いたように愛らしく、そして美しかった。
「ラウルはお誕生日いつなの?」
彼女はふいに顔を上げて尋ねた。それはたわいもない世間話のようなものである。特に深い意味はなかったのだろう。だが、ラウルはすぐに言葉を返せなかった。
「……知らん」
暫しの沈黙のあと、感情を抑えた低い声でぶっきらぼうに答える。
レイチェルはきょとんとして瞬きをすると、不思議そうに小さく首を傾げた。
「教えてくれないってこと?」
「知らないと言っている」
それは言い逃れなどではなく、紛れもない事実であり、ラウルの精一杯の答えだった。
レイチェルは急に真面目な顔になると、少し考えてから口を開く。
「じゃあ、ラウルも今日が誕生日ってことにすればいいわ」
あまりに簡単になされた突拍子もない提案。
ラウルは面食らって息をのんだ。
「……おまえは何を言っているのだ」
「私と一緒の日なら忘れないでしょう?」
レイチェルはくすりと笑って言う。そして、抱えていた花束から一輪のピンクローズを抜き取ると、ラウルの目の前に差し出した。
「お誕生日プレゼント」
彼女のペースに流され、ラウルは呆気に取られたままそれを受け取った。微かな甘い匂いが鼻を掠める。頭の芯が少し痺れるように感じた。
「私、花瓶に活けてくるわね」
レイチェルは二人に笑顔を見せてそう言うと、軽い足どりで応接間を後にする。後頭部の薄水色のリボンが、その足どりに合わせて小さく弾んだ。
…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。
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