陳泮嶺祖師について(1)
陳 泮嶺(ちん はんれい・Chen Pan Ling、1892年 - 1967年4月7日)は、中国の武術家、政治家、中国国民党幹部。字を俊峰。
河南省西平県城東郷陳庄村の出身。性格は誠実剛毅かつ義侠心に富み、聡明な頭脳に豪胆さを兼ね備えた、文武両道に秀でた武人であった。 孫禄堂と同じく内家三拳(太極拳・形意拳・八卦掌)の融合論を説き、後に多くの武術家に影響与えた双辺太極拳(雙邊太極拳)の創始者である。
陳の初学は幼少の頃より、父について家伝の少林拳を学んだことが最初であった。合わせて7歳の頃より私塾に通って勉学に努め、中学校(現代の高校にあたる。)に進学すると陳はそこで読書に学び、新しく西洋からやって来た科学と新文明に触れることで、中国の近代化と発展に貢献するという大志を抱いたという。
陳が20歳の頃、各地で清朝を廃する革命の動乱が起こるとその運動に積極的に身を投じ、官警と衝突して命からがらの目に合うが、開封の辛亥革命は無事成功を収め、革命後の翌年には陳は国民党に入党する。
民国3年(1914年)には北京大学に進学し、そこで土木建築学を学ぶ。この頃陳は武術の方も佟聯吉・劉彩臣・程海亭などから、形意拳・八卦掌を学び、続いて当時楊家からの独立前だった、後に呉式太極拳の創始者となる呉鑑泉、楊式太極拳の三世伝人であった楊少侯について太極拳を学ぶ。
民国6年(1917年)には天津の北洋大学に編入するが、そこで形意門の達人李存義との面識を得る。李は当初、既に閉門しており拝師門徒は誰も受け入れないことを決めていたが、陳の武術における類稀なる才能と熱意に触れ、 陳を自分の閉門弟子(最後の拝師門徒)と許すという、武林(武術界)の慣習においては異例の対応で受け入れることとなった。
民国8年(1919年)、全国の学生を中心に五四運動(日本から突きつけられた 対華21ヶ条要求を不当として発生した愛国運動。日本製品の不買などを主張した学生デモ隊と官警が衝突し多数の死傷者を出したが、後に中国においての代表的な愛国運動だったとされ、現代ではその記念日を祝う大学も多い。)が巻き起こると、陳は天津の学生を取りまとめ、その会長となってデモに参加するが、陳はこれによって負傷し逮捕される。
同年その後北京大学に戻り、紀(子修)、許禹生などから形意・八卦・太極拳を学ぶ。北京大学を卒業後は河南省に赴き 水利工程測量学校校長、河南省立第一中学校教務主任などを努め、教育者として積極的な活動にあたる。
民国14年(1925年)には河南省淇県の県長の職につき、そこで保安団員を募って匪賊(盗賊団)の撃退に活躍。同年4月には河南省党部を創設してその委員となり青年部の部長も担当。民国16年(1927年)には河南省の水利局局長に就任と、教育、政治の両面で激務にあたるなか、太極拳の発祥地である河南省陳家溝に赴き陳家太極拳の研究に四年間を費やした。後に出資者を募って陳品三(陳鑫)の陳氏太極拳図説(陳氏新架式拳譜)の出版にあたる。
民国17年(1928年)に中国武術の全国的統一組織である南京中央国術館が成立すると、 陳は有志を募って河南省国術館を設立させ館長の職につき、河南省での武術の普及と教育にあたる。民国19年(1930年)には豫省西路特務連隊(特務機関)隊長の職に就任。民国24年(1935年)には、国民党全国代表大会代表及び中央委員に当選。
盧溝橋事件後、日本軍の中国への本格的侵攻が始まると後方で抗日活動にあたりながらも、民国28年(1939年)には南京中央国術館副館長に就任。戦争が激化するにしたがい中央国術館は奥地の重慶に移転、重慶教育部と軍事訓練部は合同で国術編審委員会を編成し民国30年(1941年)、陳はその主任委員に選ばれる。
民国34年(1945年)、日本がポツダム宣言を受諾し敗戦すると、翌年の民国35年(1946年)に中原工学院を設立し、民国36年(1947年)には黄河水利工程総局局長に就任するが、民国38年(1949年)1月、中国人民解放軍が北京を陥落させ国民党は台湾まで撤退したことにより陳も渡台する。
台湾への移住直後は台中西效農場に仮住まいとなってしまうが、そこで以前友交のあった王樹金と再会して意気投合し、内家三拳のさらなる研鑽につとめる。その翌年には、第一期国民大会代表(台湾の国会議員にあたる)に当選。
民国49年(1960年)、「中国太極拳倶楽部(台湾政府直轄の太極拳団体である中華民國太極拳総會の前身。)」を設立、「中華国術進修会(台湾国立の武術組織である中華民國國術會の前身。)」を設立させるなど、その後も政治・教育・武術の面で華々しい活躍を見せるが、民国56年(1967年)4月7日、台中省立病院にてその生涯を終える。享年76であった。
陳はその技術書を後継した雷粛天・楊宗鼎・陳雲超など数多くの優秀な弟子たちを育てた。直系の弟子たちの他にも、外門の王樹金・韓慶堂両師は親交が深く、陳の教えを受けている。陳が内家三拳を融合昇華して創始した太極拳は俗に『双辺太極拳99式(Chen Pan Ling style 99 taichi)』と呼ばれ、台湾・日本・アメリカ・ドイツ・イギリス他で僅かながらも継承されている。
出典 ウイキペディアより引用
陳 泮嶺(ちん はんれい・Chen Pan Ling、1892年 - 1967年4月7日)は、中国の武術家、政治家、中国国民党幹部。字を俊峰。
河南省西平県城東郷陳庄村の出身。性格は誠実剛毅かつ義侠心に富み、聡明な頭脳に豪胆さを兼ね備えた、文武両道に秀でた武人であった。 孫禄堂と同じく内家三拳(太極拳・形意拳・八卦掌)の融合論を説き、後に多くの武術家に影響与えた双辺太極拳(雙邊太極拳)の創始者である。
陳の初学は幼少の頃より、父について家伝の少林拳を学んだことが最初であった。合わせて7歳の頃より私塾に通って勉学に努め、中学校(現代の高校にあたる。)に進学すると陳はそこで読書に学び、新しく西洋からやって来た科学と新文明に触れることで、中国の近代化と発展に貢献するという大志を抱いたという。
陳が20歳の頃、各地で清朝を廃する革命の動乱が起こるとその運動に積極的に身を投じ、官警と衝突して命からがらの目に合うが、開封の辛亥革命は無事成功を収め、革命後の翌年には陳は国民党に入党する。
民国3年(1914年)には北京大学に進学し、そこで土木建築学を学ぶ。この頃陳は武術の方も佟聯吉・劉彩臣・程海亭などから、形意拳・八卦掌を学び、続いて当時楊家からの独立前だった、後に呉式太極拳の創始者となる呉鑑泉、楊式太極拳の三世伝人であった楊少侯について太極拳を学ぶ。
民国6年(1917年)には天津の北洋大学に編入するが、そこで形意門の達人李存義との面識を得る。李は当初、既に閉門しており拝師門徒は誰も受け入れないことを決めていたが、陳の武術における類稀なる才能と熱意に触れ、 陳を自分の閉門弟子(最後の拝師門徒)と許すという、武林(武術界)の慣習においては異例の対応で受け入れることとなった。
民国8年(1919年)、全国の学生を中心に五四運動(日本から突きつけられた 対華21ヶ条要求を不当として発生した愛国運動。日本製品の不買などを主張した学生デモ隊と官警が衝突し多数の死傷者を出したが、後に中国においての代表的な愛国運動だったとされ、現代ではその記念日を祝う大学も多い。)が巻き起こると、陳は天津の学生を取りまとめ、その会長となってデモに参加するが、陳はこれによって負傷し逮捕される。
同年その後北京大学に戻り、紀(子修)、許禹生などから形意・八卦・太極拳を学ぶ。北京大学を卒業後は河南省に赴き 水利工程測量学校校長、河南省立第一中学校教務主任などを努め、教育者として積極的な活動にあたる。
民国14年(1925年)には河南省淇県の県長の職につき、そこで保安団員を募って匪賊(盗賊団)の撃退に活躍。同年4月には河南省党部を創設してその委員となり青年部の部長も担当。民国16年(1927年)には河南省の水利局局長に就任と、教育、政治の両面で激務にあたるなか、太極拳の発祥地である河南省陳家溝に赴き陳家太極拳の研究に四年間を費やした。後に出資者を募って陳品三(陳鑫)の陳氏太極拳図説(陳氏新架式拳譜)の出版にあたる。
民国17年(1928年)に中国武術の全国的統一組織である南京中央国術館が成立すると、 陳は有志を募って河南省国術館を設立させ館長の職につき、河南省での武術の普及と教育にあたる。民国19年(1930年)には豫省西路特務連隊(特務機関)隊長の職に就任。民国24年(1935年)には、国民党全国代表大会代表及び中央委員に当選。
盧溝橋事件後、日本軍の中国への本格的侵攻が始まると後方で抗日活動にあたりながらも、民国28年(1939年)には南京中央国術館副館長に就任。戦争が激化するにしたがい中央国術館は奥地の重慶に移転、重慶教育部と軍事訓練部は合同で国術編審委員会を編成し民国30年(1941年)、陳はその主任委員に選ばれる。
民国34年(1945年)、日本がポツダム宣言を受諾し敗戦すると、翌年の民国35年(1946年)に中原工学院を設立し、民国36年(1947年)には黄河水利工程総局局長に就任するが、民国38年(1949年)1月、中国人民解放軍が北京を陥落させ国民党は台湾まで撤退したことにより陳も渡台する。
台湾への移住直後は台中西效農場に仮住まいとなってしまうが、そこで以前友交のあった王樹金と再会して意気投合し、内家三拳のさらなる研鑽につとめる。その翌年には、第一期国民大会代表(台湾の国会議員にあたる)に当選。
民国49年(1960年)、「中国太極拳倶楽部(台湾政府直轄の太極拳団体である中華民國太極拳総會の前身。)」を設立、「中華国術進修会(台湾国立の武術組織である中華民國國術會の前身。)」を設立させるなど、その後も政治・教育・武術の面で華々しい活躍を見せるが、民国56年(1967年)4月7日、台中省立病院にてその生涯を終える。享年76であった。
陳はその技術書を後継した雷粛天・楊宗鼎・陳雲超など数多くの優秀な弟子たちを育てた。直系の弟子たちの他にも、外門の王樹金・韓慶堂両師は親交が深く、陳の教えを受けている。陳が内家三拳を融合昇華して創始した太極拳は俗に『双辺太極拳99式(Chen Pan Ling style 99 taichi)』と呼ばれ、台湾・日本・アメリカ・ドイツ・イギリス他で僅かながらも継承されている。
出典 ウイキペディアより引用
陳泮嶺著「太極拳教材」について
同書は中華民国三十年代(1941年~)に当時の中央政府の意向のもと、陳泮嶺祖師が編集委員長として陳式、楊式、呉式等各派の動きの長所と姿勢の優れたものを採用して編纂されました。陳泮嶺祖師は刀、剣その他武器についての優れた著作を残していますが、多くのものが国共内戦の混乱の中消失しており、完全な形で残っているものは少ないのが現状です。そのなかで本書は九十九式太極拳の教材として中国、台湾ほか一部の外国語版が発刊され現在に伝わっていますが、その正確な和訳はいまだ上梓されていませんでした。当協会では現在本書の和訳、解説に取り組んでいます。今後、随時本書の内容をご紹介していきたいと思います。
同書は中華民国三十年代(1941年~)に当時の中央政府の意向のもと、陳泮嶺祖師が編集委員長として陳式、楊式、呉式等各派の動きの長所と姿勢の優れたものを採用して編纂されました。陳泮嶺祖師は刀、剣その他武器についての優れた著作を残していますが、多くのものが国共内戦の混乱の中消失しており、完全な形で残っているものは少ないのが現状です。そのなかで本書は九十九式太極拳の教材として中国、台湾ほか一部の外国語版が発刊され現在に伝わっていますが、その正確な和訳はいまだ上梓されていませんでした。当協会では現在本書の和訳、解説に取り組んでいます。今後、随時本書の内容をご紹介していきたいと思います。