こんにちは。
ちふです。
エネルギーなんぞと書いたものの、私はゴリゴリ文系のですので、専門的なことはテンでわからんわけです。
イメージの話です。
ちょっと逆説的な表現をしてみたいです。
不殺生は、倫理的な問題を解決するために生まれた戒律ではなく、単に自他のエネルギーについて省察した結果、自ずと殺生する必要がないから、不殺生になっただけなのではないかと。
何いってんだ?っていう話だと思います。
まあ戯言、ぽっと出のアイデア程度の話です。
一般的に、より正確に言えば現代社会における一般にとっては、戒律が先にあるように、感じられる気がするのです。
「〇〇教は不殺生だから」「〇〇は禁止されているから」と。
まあ当然禁止されるには禁止されるだけの理由があって、仏教における不殺生は、五戒(十戒)の第一に当たるわけですが、これは「してはいけない」から生まれたのか。
私にはそもそも「する必要がない」が人間は落ち流れやすいため戒律という形にで「してはいけない」となっているだけではないかと。
「する必要がない」ってどういうことかといえば、殺す必要がないってことです。
食うために殺すとしましょう。なぜ食うか。生きるためです。生きるためになぜ食うか。「エネルギー」が必要です。生物基礎を昔習ったときはATPがどうのこうのなど言っていた気がします。
まあ要は食ってるものから、エネルギーを取得しているわけですよね。で、その取得したエネルギーは結局どうなるのかといえば、生きるため消費・浪費されていくわけですよね。
で、まあ要は「省エネ」で生きたらええんちゃう?ということのような気がするんです。
省エネって少し表現がせこいので、私なりの感覚ですと、自分から出ていくエネルギーを可能な限り減らしていくってことです。エネルギーを他所へ「発散・浪費」しない。
まあそう書くと、そりゃそうでしょ。となりそうなんですが、意外と難しいことじゃないかなって思っています。特に私のような人種は。
他人の評価が気になったり、他人の何かが気になったり、そんなことでイライラしたり。もやもやしたり。
イライラとか一番わかりやすくエネルギーを浪費しますよね。
むちゃくちゃ無駄だなあって思うけど、他にエネルギーを発散させるのってちょっと気持ちよさもあるんですよね。いやむしろそのほうが生来・自然的なのかもしれない。
アルコールを摂取して、なおも自分の中にエネルギーを循環させ続けられる人なんていないでしょう。
なんだかんだ、くだを巻いたり、不平不満、楽しいことも含めて、そういう普段溜め込んでるエネルギー、溜め込む力を緩めるのがアルコールでしょ。
「必要ないよね」だから「不飲酒」。
性行為もそう。特に一人の場合は、わかりやすく発散行為だと思う。
二人の場合は、特にそれがより密接であればあるほど、互いが発するエネルギーがうまく中和するような気がする。このへんは「道教」とか「神仙思想」とかそのあたりが近いような気がするけどどうなのだろうか。。
まあ、とにかくエネルギーの浪費には違いない。「必要無いよね」だから「不邪淫」
他人を気にしている時点で無駄なエネルギーだから他人を盗む「必要もない」「不偸盗」。
嘘をつくことに関しては、エネルギーで説明しづらいけど、少し言えることといえば、
真実を真実のまま言う方が創作エネルギーが必要無い。嘘を自覚してつくということは、真実とは別に何か不必要なものを創作するわけだから、エネルギーの浪費と言えるかな。「不妄語」。
結局、順序が元々は逆だったんでは?ということが言いたい。
「しちゃいけない」じゃなくて、「する必要無い」→「しちゃいけない」になったというね。
まあ独り言です。