チャイナMBAマネジメント協会

「CMMA: China MBA & Management Association)」

7/12(日) 第3回アジアMBA夏祭り開催!!!

2015-06-25 | その他
今年で第3回目になります『アジアMBA夏祭り』を7月12日(日)午後に渋谷で開催致します。
一昨年、昨年とこのイベントをきっかけにアジアへMBA留学を検討はじめ、
実際に留学を実現する方々が増えてきております!

アジアのMBA卒業生30名以上が一堂に会する日本で唯一のイベント。
海外で働く卒業生も各地からこのイベントのために駆けつけます!
一年に一度だけの開催となりますので、アジアへのMBA留学に興味のある方はこの機会をぜひお見逃しなく!

卒業生一同、心よりお待ちしております!

イベントの詳細・予約は共催しますアゴスジャパンのイベントページ



ジャック・マーを育てたビジネススクール、長江商学院の秘密

2015-05-26 | 長江商学院MBA
講談社「現代ビジネスオンライン」に長江商学院の記事が掲載されていますので、ぜひご覧ください。

ジャック・マーを育てたビジネススクール、長江商学院の秘密
【第1回】学院長インタビュー「これからのMBAは北京で取るべきです!」

【第2回】中国若手起業家たちのビジネスモデルは「安さ」から「品質」へ

【第3回】二人の名物教授、そして日本人OBが勧める「日本人だからこそ長江へ!」




第7回 Jean – 「中国」の「米国」企業で「日本」語で仕事をする

2015-01-26 | その他

(インタビューはたまに日本語を混ぜながら。写真は2014年12月、米国スタディトリップの際に立ち寄ったグランドキャニオンにて)

私は2014年9月から12月まで、香港の香港中文大学ビジネススクールに交換留学に出ていました。今回は特別編として、香港で出会った日本への留学経験があり留学後は中国に戻って米国企業に勤務するクラスメイトへのインタビューを実施しました。



<プロフィール>
1987年福建省生まれ。地元厦門大学で日本文学を専攻し、3年次には長崎外国語大学で1年間交換留学を経験。日本語の勉強と併せてアルバイトや旅行などを通して日本の文化に触れる。大学卒業後は、米系半導体製造会社に入社。2014年8月から香港・香港中文大学ビジネススクールのパートタイム(週末)コースに入学。普段は香港に隣接する広東省・深圳のオフィスに勤務して、週末だけ香港に授業を受けに来る生活を続けている。現在もiPhoneの表示を日本語にして、日本語の維持に努めている。




坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?

Jean(以下(J)) : 父と母の3人家族。だけど、祖父母、4組の叔父叔母もみな同じ街に住んでいた。車で2分くらいのところ。 父は警察官で、母は国営企業の会計士だった。両親は私にいろんなことに興味を持たせようとしてくれて、小さい頃は日本の水墨画に似た中国絵画と歌を2年習っていた。中国絵画は高校2年まで7年続けていたけれど、大学受験があったからそのときにやめちゃった。もちろん私に芸術家や画家になってくれとは思っていなくて、趣味を持たせようとしてくれて習い事をさせてくれた。大学には行って欲しいと思っていたけれど、かといってプレッシャーをかけるわけでもなく自由にやらせてくれたし、私がやりたいと思ったことを応援してくれていたよ。例えば私は絵を描くことは好きだったから、絵を教えるのがうまい先生を探してきてくれたりとか。全国の中国絵画の年少部門で3位に入ったことがあるし、大学の歌のコンテストで優勝したこともあるよ。働きはじめてからは機会がないけど、学生時代は英語、歌のコンテスト、中国絵画の展示会なんかにはよく参加していたね。




坪井(以下(坪)): これまで他のインタビューでは、多くの人が学生時代は大学に入るための勉強ばかりしていたと言っていたけれど、そこは同じかな?

(J):両親は成績も少しは気にしていたけれど、同じように私がやりたいことにも協力的だったから。だから高校時代も趣味に時間を割くことのほうが多かったかな。旅行も好きで、両親と一緒にあちこち回ったよ。父はドライブが好きだったから、郊外に出てりんご狩りをしたり。こんな経験をしたから自然が好きになって、今も時間を見つけてハイキングに出たりするよ。
母は授業に集中しなさい、とだけ言ってくれた。他のクラスメイトは授業が終わってからハードに勉強していたと思うけど、私は入試の前でも11時には寝てた。高校の先生も信じてはくれていなかったけど、実際授業に集中する方が効率いいと思うしね。英語のクラスだけは、先生に「授業のじゃまをしなければ何しててもいい」って言われていたので聞いていなかったけど。英語の勉強が好きだったし、もともと語学の勉強に向いていたんだと思う。高校1年のときに、文章を読んで録音してくる宿題があったんだけど、私の宿題を聞いた先生は「音源をコピーした」と思ったらしい。でも元の音源は男性と女性の会話だから、男性パートまで女性の声で録音されるわけないでしょ、って(笑)。最初英語の成績は特別よかったわけじゃないけど、その英語の先生に勧められて参加した英語のスピーチコンテストで優勝したの。それから私はネイティブの発音をマネるのが得意だってことに気づいたし、練習するのが苦ではなくなった。アメリカのテレビ番組を見たり、街にいた唯一のネイティブの先生と会話の練習をしたり。このころ英語づけになって基礎を作ったから、大学に入ってからはそんなに英語に時間を割くこともなかった。しばらく使わなくても少し話せば思い出せるし。




(坪): 大学は地元の名門・厦門大学に進学

(J): アモイは地名は英語で「Amoy」だけど、大学名は英語でも中国語読みの「Xiamen University」が正式な名前ね(笑)。日本文学・文化を専攻していた。最初は英語を専攻しようと思っていたけれど、英語の先生に「英語は自分で勉強できるでしょ」って言われて。それだったら、他の言語を学ぶべきだと思ったこと、大学入学当時(2005年)は、日系企業が積極的に中国に進出していた頃だったから、日本語専攻はすごくに人気があったのも選んだ理由の1つ。最初の1年は日本語を勉強。2年生からは文学、文法、それに日本のビジネスや社会についても勉強したよ。
私の大学生活は大きく2つに分けることができると思う。1つめは授業以外の活動に注力していたこと。1年生の頃は学生の自治会、2つのクラブ、雑誌の出版にも参加していた。とにかく時間が足りなかった。これらの活動に加えて英語スピーチのコンペにも参加していたしね。当たり前だけど学校の成績は良くなかった。だから2年生からは自治会の活動に集中することにした。ここで私は、自治会の活動資金を提供してくれる企業スポンサー探しの役割を担っていた。これは学生の間に実社会に触れることができる最高のチャンスだったと思う。ビジネスってどう行われているのかを知る機会であり、CEOやアントレプレナーに会うことができる機会でもあった。大変だったし、イベントをアレンジするのが最も華やかな仕事で学生の間で名前も知れ渡るけれど、それもスポンサー探しみたいな地道な活動があってこそだしね。やりがいはあったよ。他の課外活動を減らした成果もあって、成績も良くなって2年生の時には奨学金を得ることもできたし。タイムマネジメントをこの時に学べたのが学生生活での最大の収穫だと思う。




(坪): 2つめは交換留学だね。日本に交換留学に来たのはいつ?

(J): 3年生の時 。厦門大学は長崎外国語大学と提携していて、毎年学科の上位3名が交換留学に行ける権利を得られるので、私はそのプログラムを取った。長崎外国語大学は様々なトピックを提供してくれていて、社会学や日本経済、日本文化、それに古典文法もあったかな。
日本に来てわかったことは、日本人の先生が中国で教える場合には「中国人学生に教える」ように教え方を変えていたってこと。でも日本で教える場合には、「日本人と他の留学生に教える」スタイルのままだった。でもそれって日本人の考え方を理解する上でも役立ったと思う。何が違うかっていうと…日本人の先生が日本で教える場合には、「日本人の考え方」で話していると思う。 厦門大学では、日本文化を教えるにしても中国人が理解しやすいように、中国の例を出すなどのある種の「翻訳」が入っていたのかな。話し言葉にしても、中国人の日本語の発音は硬い気がするし、書く文章も漢字が多く入るからこれも堅苦しく感じる。私たちは漢字のほうが馴染みがあるし、中国人は熟語大好きだし。でも日本人はひらがな、カタカナを好む。たまに日本の先生が漢字が書けなかったりすることもあるしね(笑)。
留学中には日本国内の旅行もした。福岡とか、大阪とか。東京は行かなかったけどね。日本って古くからある風景を大切にしているでしょ。「ここは昔XXで…」みたいに。でも中国はそうじゃない。今は政府も注意しているけれど、中国では急速に開発が進んでしまって、歴史ある建物が次々と無くなってしまっている。新しいものがいいもののように思われている。文化大革命で多くの歴史的建造物が破壊されたこともあるけれど。この点は日本を見習うべきかな。
アルバイトを通じても、日本を知ることができた。やっていたのはファミレスのホール。何が大変だったって日本語のメニューを覚えること。数は多いし毎月メニューは変わるし。でも日本人のお客さんは優しいから、胸のネームカードを見て日本人じゃないってわかると、丁寧に対応してくれたよ。
あと中国に来てわかったと思うけど、日本と中国のレストランでは働き方が全く違うでしょ。例えばオーダーを取らない時には、掃除をしなきゃいけないとか。掃除しなくていい時はレジに行ったりしなきゃいけないとか。8時間の労働時間のときは休憩時間以外は常に仕事をしていなければならない。でも中国では役割がきっちり分かれていて、オーダー取る人は掃除しないから、空いているときは遊んでるでしょ。仕事の時間でも自分の仕事がなければ休んでいるのが普通だと思っていたから。とはいえ日本の働き方は優先順位が明確に決まっていて、私が一番下だったからかもしれないけど、考える間もなくロボットのように働かなければならないから、決して創造的ではないよね。そういう意味では中国のほうがフレキシブルかも、って思ったり。
当然、この1年間が日本を理解するための一番いい機会だった。




(坪): 大学卒業後は?

(J): 卒業した後は、米系の半導体企業に入社。選んだ理由は製造業に興味があったというよりは、アメリカの企業で働きたかったから。大学ではITと関係ない専攻だったけど、高校の時にはPCシステムを自分で組み立てたりしていたから、普通の女の子とは違ってITには馴染みがあった。それに英語と日本語が話せたことと、AMDは日本のクライアントを持っていたからことが決め手になった。入社後はITプロジェクトマネジメントやテクニカルサポートを担当していた。ITバックグラウンドがないから、最初は何にもわからなかった。特にトラブルシューティング。英語の文書を読んで、日本語で説明して…中国語を一切使わないから大変だったね。とはいえ、同僚のサポートもあって1年後には自分の仕事に必要な知識は習得して、指導員として新入社員の指導をしたり、採用の手伝いをしたりできるようになった。3年目からは自分でプロジェクトを回すようにもなって、社内表彰も受けた。この会社には色んな国の人が在籍していて、彼らとのコミュニケーションによって得られる情報が多いから、この会社で働くにあたっては、英語ができてよかったと思っている。
最近は似たプロジェクトが続いていて単調な気もするけれど、最近は面白そうなソーシャルメディア系のプロジェクトがいくつか上がってきている。是非挑戦してみたいんだけど、今の上司がもうすぐリタイアするので、彼はあまり新しいことに積極的ではなくってね(笑)。




(坪): MBAを取ろうと思った理由は? 欧米じゃなくて香港だった理由は? そしてなぜフルタイムではなくてパートタイム?

(J): 環境面で言うと、大陸のMBAは勉強よりもコネクション構築により重きを置いていること、政府系の人が多いと聞いていたこと、香港のMBAのほうがよりインテンシブで多国籍企業出身の学生が多くて、こちらのほうが私に合っていると思ったから。中文大学は香港のMBAで圧倒的に長い歴史を持っているから、学ぶこともたくさんあるだろうし、私の会社の香港の上司も勧めてくれた。欧米のMBAを取らなかったのは、コネクション。知ってのとおり、中国ビジネスでは今でもネットワークが大切で、2年間中国から離れると帰ってきた時にはギャップが生まれるでしょ。私はMBA取得後も中国で働きたいと考えていたから、欧米よりも中国に残るべきと判断した。日本に留学したときにできた友達とはやっぱり連絡が少なくなってる。それは物理的な距離の問題と生活スタイルが完全に違うからだと思う。そんな経験をしているから。
スキル面で言うと、これまでの経験からマネジメントスキルを身につける必要があると感じた。例えば、私がいたチームは、いわゆる「チーム」として働いていたというよりも個々人がそれぞれの仕事をこなすような集まりだった。お互いの仕事をシェアしたり一緒に取り組んだりっていうことはなかった。そのためにもダイバーシティの高い環境でのMBAが最適な選択だと思った。
フルタイムプログラムを取らなかったのは、今の会社でできることはまだありそうだし、会社自体が新しいことに挑戦しようとしているし、それに伴って私自身の役割も新しいになると思っている。あとは、パートタイムだとMBAで習った知識を実践でそのまま使えるでしょ?




(坪): MBAが終わったら何をしたい?

(J): 2つあって、1つは今の場所に留まること。中国のモバイルインターネット業界は今、ブームと言える盛り上がりを見せている。きっとまだまだ面白いことが起こりそうだから。もう1つはITに関係しつつもよりファイナンス寄りの仕事に就くこと。以前は、自分で小さいビジネスをやってみたいと思っていたけれど、私はアントレプレナー向きではないのかも知れない、って思いはじめた。でも、新しい挑戦には興味があるから、面白いことをしている人がいたら、是非とも一緒になって取り組んでいきたいね。



この記事はソーシャルウェブサイト「Billion Beats(10億の鼓動)‐日本人が見つけた13億分の1の中国人ストーリー‐」でも掲載しています。

中国を出る若者、戻る若者 -大陸で交差する夢-

北京大学MBAの他に、長江商学院MBA、清華大学MBAに在籍した日本人留学生による中国人クラスメイトインタビューもありますので、ぜひご覧になってください。

エリートバーリンホーのリアル

中国MBAリアルトーク ー WHAT’S NEXT IN CHINA

清華大MBAリアルトーク


第6回 Richard 現代の状元は静かに暮らしたい(?)

2014-12-25 | 清華大学MBA

(清華大学経済管理学院のサッカー大会にて優勝。写真左がRichard。)

<プロフィール>
1987年12月四川省成都生まれ。中学・高校と地元の名門校で学び、清華大学で電気工学を専攻。卒業後はSOE(政府系企業)で働いたのち、教育NPOである”Teach for China”で教師として2年間雲南省で恵まれない子供に教育サービスを提供。その後は投資会社を経て2013年9月清華大学経済管理学院に入学。2014年9月からは米国・マサチューセッツ工科大学スローン経営大学院に進学。クラスメートからは状元(科挙において各省で一番の成績の人)と呼ばれる天才肌。


坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?

Richard(以下(R)) : 父、母と一緒に住んでいた。僕が生まれたばっかりの頃は父と母は共に成都の小さな国営企業で働いていたけれど、2歳くらいのころから彼らは自分たちで事業を始めることにしたんだ。典型的な「个体工商户」だった(注: 改革開放後に条例により個人事業が許可され、行政の認可をとった個人営業者のこと)。その後10年くらいは建設関連の資材を売る仕事をしていて、幸いにも事業は順調に成長していった。また、祖父母は当時大学を卒業したばかりのおじの事業の手伝いをしていた。祖父母は改革開放前までは農業をしていたけど、多くの中国人がそうであるように開放後は農業を続けたいと思う人が少なかったし。それからしばらくして、父と母、それに祖父母もあ合わせておじが新しく始めた自動車部品の製造業を手伝うことになった。このような大家族的な事業運営もいかにも中国っぽいよね。

小学校は普通の学校だったけど、中学校は成都実験外国語学校(Chengdu Experimental Foreign Language School)に進んだ。この学校は英語教育に力点を置いている学校。英語の勉強はこの中学校に入ってから始めたけれど、ここでのトレーニングは間違いなく就職に役立ったよ。英語を流暢に話せる先生が教えてくれる上に英語だけはクラスを2つに分けて授業を行っていたので効率がよかった。それに加えて他の科目に比べて英語は授業数が多く、毎日宿題も課されていたし。
卒業後は成都第7中学(注:中国語では中学が英語のHigh School)という地域で一番の学校に成都市で一番の成績で入学した。

他の人よりも勉強ができる、ってことは小学校の時には気づいていた。他の人よりも早く理解できるからそんなに勉強しなくてもいい点取れていた。だからその分日本のアニメをたくさん見ることができたよ(笑)。とはいえ高校での勉強は少しハードになった。特に最初の学期はプレッシャーもそれなりに感じていたよ。なぜなら周りは僕が一番の成績で入学していることを知っているから。まあそれでも次の学期からは周りを気にせずリラックスして過ごすことができたけどね。

中学校、高校の進学先は自分で選んだ。家族の理解にも恵まれていたと思う。両親は僕がやりたくないことは無理にやらせようとはしなかった。学校を選ぶときだって、彼らは選択肢を示すだけでどこの学校に行け、と強制しなかった。おじは大学で英語を専攻していたこともあって、英語の重要性についてアドバイスをくれたのが決め手となって選んだんだ。



(坪): 大学は当然のように清華大学に進学

(R): 大学は清華大学の電気工学専攻に入学した。勉強に関して言えば多くの努力をしなくても割とスムーズに物ごとは進んできた。地域で一番の学校に進み、清華大学に入学するのだって特別なチャレンジではなく、当然の選択だった。電気工学を専攻したのは、入学が一番難しい専攻だったことと、両親が工学を専攻するのはロジカルシンキングを育むのにも役に立つだろう、とアドバイスをくれたから。だから別に電気工学に興味があったから選んだわけじゃないし当時は電気については何も知らなかった。高校を卒業してしまえば、もう大学入学に対するプレッシャーとか大勢のクラスの中で勉強することとか、勉強以外何もしない日々から解放される。だからもともと理科系の科目が得意だったけど、大学では勉強だけをしていたわけではない。卒業するのが唯一の目標だったし。クラスメートはほとんどの時間勉強してたけど、僕はガールフレンドと一緒に過ごしたり、エンジニアリングとは関係無い本を読んだり、映画を見たり、ゲームしたり… あとは歌うのが好きで、大学の歌のコンテストに参加して優勝したことが自慢だね。

海外の大学という選択肢は、その当時は一般的じゃなかったから。実際、香港科技大学からもオファーをもらったけど行かなかった。小さい頃から清華大学と北京大学が中国で一番の大学だって言われていたし、自分もそこに行くものだ、と思っていたから。それにハーバード、スタンフォードなどの欧米の大学が当時中国の高校生にオファーを出すことはなかったし。今は多くの学生が学部から直接海外に出て行くけど。



(坪): 大学を卒業後は何をしていた?

(R): 学部論文が研究室の教授に評価されて、彼に研究室に残るように言われたんだけど、そこまで研究に興味がなかったからその選択はしなかった。

当時インターンシップでSEOで働いていて、そこでオファーを得たので働くことにしたけれど、仕事は非効率的で退屈だった。全体の仕事のほんの一部しか携わることができないし、チャレンジングなことは何一つできない。だから別の機会を外に求めたんだ。それが”Teach for China (美麗中国)”というスタートアップだった。

このスタートアップは、地方の教育サービスを受けられない子どもたちのために教育を届けることを目的としたNPO。このNPOについてはウェブサイトで知ったんだけど、創設者やスタッフと話をして、彼らのミッション、モデルにぞっこんになった。短期的にだけでなく長期的にも意義のある仕事だと感じたし、そのミッションは実現可能だと思った。だから、せっかく SOEに就職したけれどTeach for Chinaで働くことを両親に納得してもらうよう試みた。とはいえ、彼らは僕のやることに対して反対することはなく、やりたいようにやらせてもらえたから大きな障害となることはなかった。

自分の経験も参画への決断に影響している。中学のときに大きな影響を受けた若い先生がいて、なぜかというと彼は事あるごとに将来の目標とか情熱とかについて熱く語ってくれたからなんだ。教師というのは子どもたちに多くの影響を与えることができる仕事であるってことを体感した。それと同じ仕事を地方の恵まれない子どもたちを相手にできることに大きなやりがいを感じる。研究室に残ることや、同じ仕事を繰り返すことよりよっぽど意味があるだろう? 僕は雲南省を担当して2年間そこで先生として働いた。当時の生徒は今でも毎週連絡をくれて、僕がMITに行くことを知って応援してくれるのを聞くと、うれしくなるね。彼らといつかどこかで一緒に働ける日を楽しみにしている。

その後北京の本社に戻って採用担当をした。SOEのような大組織では僕一人がいようがいまいが業務に支障は出ないけれど、ここでは僕がいないと生徒にとっては大きく違う。さらに、ここで働いているスタッフはアメリカと中国の一流大学を卒業した人たちばかりで、みんな違うバックグラウンドを持っている。以前の僕は何をしたいか、何のために働くかをあまりわかっていなかったけれど、彼らからそういったことを学ぶこともできる。

そういった環境にいたせいなのか、このままずっとここで働いていくことが果たして本当にやりたいことなんだろうか、と考えるようになり、それは少し違うような気もしてきた。最終的には自分で事業をしたい、というのは早い段階で思っていたこともあって、Teach for Chinaを退職して成都に戻って投資会社で働くことにした。投資候補となる企業を訪問して、デューデリジェンスをするのは、これまで研究や教育などいわゆる「ビジネス」から遠い仕事をしていた自分にとってとても面白かった。



(坪): なぜ清華大学MBAを選んだ? アメリカに直接行こうとは思わなかった?

(R): MBAはTeach for Chinaに入る頃から意識していた。その後で自分の事業を立ち上げたいと思っていたけど、僕にはコミュニケーションスキルが不足しているとわかっていたから。リーダーシップや他の人との共同作業、自分のビジョンを示すことなど、ビジネスに必要な要素が特に。これまでの業務経験ではこれらのスキルを伸ばす経験を積んで来なかったから。アメリカのMBAに直接行くことも考えていたよ。だけどMITとプログラム提携していること、デュアルティグリープログラムを選択すれば2年間で2つの学位を取得できることと、最初の1年間で僕より中国について多くを知っていて、多くを経験している中国大陸の学生と会えること、さらにインターナショナルクラスを選べば中国で他国の学生との交流が可能なことが清華大学MBAを選んだ理由だね。中国でビジネスをするためには、やはり人脈が必要だから。僕の両親もビジネスを営んでいるからインサイトを提供してくれるけれど、それだけでは十分ではない。違った産業、違った都市、違ったスタイルについて学ぶ必要がある。



(坪): 卒業後は何をしたい? 将来の夢は?

(R): MIT卒業後はアメリカに残りたいと思っている。現時点では不透明だけど可能であれば、自分で事業を始めたいね。しばらく働けばアメリカの永住権も得られるわけだし。ただ、永住権が欲しいと思っているのは便利だからってだけで、それ以上でも以下でもない。いずれにしてもいつかは中国に戻って自分のビジネスを展開するつもりだよ。中国は次の10年で最も影響力を持つ国であることに疑いはないし、今後ますます開放が進み、他国との協業もますます増えていくだろう。とはいえ、それにはまだまだ時間がかかるだろうから、アメリカの永住権を得ることはビジネスの場所を問わないためにも持っていて損はないと思うよ。

僕は大きな仕事に携わっていくよりも小さなビジネス、例えば海外の優れた製品などを中国に輸入する貿易業とかを営みながら、家族や友人と人生を楽しみたいと思っている。だいぶ前に清華インターナショナルMBAを卒業した先輩が、日本のエアコンメーカーの輸入エージェントをしているんだけど、それなんかいいよね。

将来の夢は…特に野望はないけれど、健康な人生と家族。健康、健康、健康。のんびりとした時間を家族と多く過ごしたい。それだけだよ(笑)。旅も好きじゃないけど、時間があればできると思う。家族と多くの時間を過ごしたいだけなんだ。


この記事はソーシャルウェブサイト「Billion Beats(10億の鼓動)‐日本人が見つけた13億分の1の中国人ストーリー‐」でも掲載しています。

中国を出る若者、戻る若者 -大陸で交差する夢-

北京大学MBAの他に、長江商学院MBA、清華大学MBAに在籍した日本人留学生による中国人クラスメイトインタビューもありますので、ぜひご覧になってください。

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中国MBAリアルトーク ー WHAT’S NEXT IN CHINA

清華大MBAリアルトーク

第5回 Carly 入試制度変更で香港へ!! 金融のど真ん中を歩む才女が中国金融を変える??

2014-11-09 | 北京大学MBA

(2014年7月、アメリカ・マサチューセッツ州ケンブリッジにて)

<プロフィール>
1987年江蘇省南京生まれ。その後高校卒業まで北京で育つ。大学はその年から始まった入試制度の変更を活用して香港・香港中文大学へ進学。卒業後台湾系銀行の香港支社でマネジメントプログラムに参画。金融マーケット等を担当したのち、2013年9月清華大学経済管理学院に入学。2014年9月からは米国・マサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学院に進学。


坪井(以下(坪)): どんな家庭で育った?

Carly(以下(C)) : 両親と住んでいたけれど、父の仕事(航空系の国有企業)の関係で両親は私が3歳のときと10歳から12歳のときにイギリス、アメリカに駐在していた期間があって、その間は南京にいる祖父母に育てられた。学校が休みの間には、両親を訪ねて一緒にディスニーランドに行ったりしていた。
父は私の教育に熱心だった。これが中国の一般的な親のあり方かどうかわからないけれど、例えば私が中学校のころ、市共通の学力テストで高得点を取ったときに父は地域の有名な高校に「私の娘がこのテストでこんなに高得点を取った」と連絡したりしていた。そういったのが影響したのかはわからないけれど、市内のトップ校から早い段階で入学許可を得ることができた(注:中国では、高校入試の前に各省・直轄都市が管轄している統一試験が定期的に行われている)。
英語の勉強を始めたのは、小学校3年生のころ。でも、別に勉強したくなかったし、海外で働きたいとも考えてなかったけれど、両親に勉強しろって言われたからしかたなく勉強していたと思う。



(坪): 大学は多くの有名大学がある地元北京ではなく香港へ。

(C): 私がラッキーだったと思うのは、2005年に大学入試制度が変わって、中国本土の学生も中国の大学入試の成績を使って香港の大学を受験できるようになったこと。 その前までは、香港の大学を受験するためには個別に出願して別の試験を受ける必要があったから。それと新しい制度が導入された年だったから、受験者側に情報が無かったので挑戦する学生が少なかったんだと思う。その結果、香港の名門である香港中文大学に合格して幸いにも全額授業料免除に加えて生活費、住居費のサポートも得ることができた。同級生はみんな、そんな珍しい選択をした私に対して「なんで香港に行くの??」って聞いてきた。北京の人は普通外に出たがらないから。たくさんいい大学あるし、いい大学を出れば中国では職に困らないし。だから高校の同級生は9割方今でも北京に残っていると思う。
でも私は家から遠くに行きたい、とずっと思っていた。香港に行くことになるは私も予想しなかったけれど(笑)、父は「アメリカに行ったら、100%外国人として扱われる。だから社会に適応するのは難しいだろう。でも香港はまだ中国文化圏だし」といつも言っていた。今思えば、両親は私を香港に行かせたかったのだと思う。北京の大学を選ぶことも一度は考えたけど、違った環境での生活を経験してみたかった。
大学時代はとにかくいろんな活動に参加していて、Mainland AssociationのVice Presidentを勤めていた。これは大陸から来ている学生のほとんどが参加している大きな団体で、11日間続く入学オリエンテーションをはじめとして様々なイベントを企画したことが一番大きな仕事だったかな。夏休みの間もほとんど何かの活動に参加していて、杭州やカナダなどのサマープログラム、1セメスター使って、香港の投資銀行でインターンシップをしていた。大学の成績にはまったく関心がなかったね(笑)。



(坪): 香港での生活で何か変わった?

(C): 北京にいる間は、両親が私の生活のほとんどを管理していたけれど、香港に行ったあとはもちろんサポートは得られない。だから全てを自分で管理することを学んだかな。あとは適応能力。これは今の私のひとつのアドバンテージでもあるけれど。香港は北京とは環境が異なる。人のマインドセットも異なる。でも違った環境に適応することは私にとって難しいことではないということがわかった。
香港の人は、よりリアリスティックで自ら目標を定めてそれに向かって行動することができると思う。例えば学生の行動もそうで、彼らは「なぜ大学でいい成績を取らなければならないか?」を知っている。それは就職に影響するし、交換留学の条件の1つにもなっているから、いい成績を取らなければいけないから。けど、大陸の学生は、なぜいい成績をとらなければいけないかわかっていなかったと思う。「昔から勉強ができたから」、「いい成績をとることが当然だから勉強する」、「みんなが勉強するから勉強する」とか。だけどその先にある目的は全く理解していない。その影響は多少受けたかな。



(坪): 大学を卒業した後は?

(C): 卒業後は台湾系の銀行に入行した。大学では会計を専攻していたし、最初に内定をもらったのは会計事務所だったけれど、監査業務には就きたくなかった。数字だけを扱うのではなく、もっと人と取引をするような仕事をしたかったから。入行した銀行ではマネジメントトレーニングプログラムを受けていた。マネジメントトレーニングプログラムは銀行の各部門を数年ずつ経験していくローテーションみたいなもので、最初は金融マーケットのディーラーをしていた。例えば、銀行の香港ドルが不足しているときには、どこかから不足分を調達してくるとか、そんな仕事。それに加えて、私の上司は多くのプロジェクトを私に与えてくれ、銀行の預金構成や資産構成の分析、資産の最適な分配方法の提案など、金融マーケット部門以外の仕事もやらせてもらえた。上司は銀行のエグゼクティブディレクターだったので、部門をまたいだ仕事をつくることができて、そのおかげで違う部門の人と仕事をする機会があり、彼らといい関係をつくることができた。毎年昇進し続けていた「デキる」上司でとても厳しかったけれど、彼からたくさんのことを学んだ。
この銀行では多くのことを学んだけれど、小さい銀行でできることには限界があって、特に情報量の差は埋めがたいものがあった。メガバンクでは今業界で何が起こっているかをすぐに知ることができたけれど、その情報が回ってこなかったりとか遅かったりとか。だから商品開発にもおのずと限界がある。交渉力もない。他のメガバンクの人や投資銀行の人と話をすることでわかったその違いは、思っていたよりも大きかった。
それで私はこの銀行で学ぶことはなくなったかな、と感じるようになり、次のステップに進もうと考えるようになった。これは上司の勧めでもあって、私が持つ言語、文化などのバックグラウンドから、自分の強みを活かすためには大陸に戻った方がいいと。それで清華大学のMBAプログラムをとろう、と思った。



(坪): なぜ清華大学を選んだ? そしてアメリカにも行こうと思ったのは?

(C): 単純に清華MBAプログラムを見ていいな、って思ったことと、私は北京で育ったにも関わらず北京を知らなすぎたこと。同僚に「北京ではどこで遊べばいい?」と聞かれても答えられなかったり。実務面で言うと、香港の金融市場が大陸と密接につながっていることが関係している。香港の金融市場については実務を通じて学んだけど、大陸側の情報は制限されていて、香港からでもアクセスがしにくくて。私が仮に大陸に戻って仕事をする場合、このマーケットについて知っておくことは私に取ってプラスになるだろうと。他のMBAプログラムについて検討する余裕はなかったな。
海外、特にアメリカには子どものころからいつも住んでみたいと思っていた。それは子どもの頃に行ったことがあったことも少しは関係あるかもしれない。だけど若いうちに海外を多く経験しておきたかっただけ、というのが正直なところ。幸いにもMITからオファーをもらえたけれど、もらえなかったらフランスの別のMBAに交換留学に挑戦するつもりだった。とにかくこのMBAという機会を使って海外に住む、という経験ができるのはありがたいことだね。



(坪): 卒業後は何をする?

(C): MITのプログラムが始まったらすぐに仕事探しをするつもり。場所はもちろんアメリカも含まれるけど香港、大陸も視野に入れている。周りの人は数年アメリカに留まるべきだ、というけれど、まだわからない。投資関連業務においてはアメリカは最高の場所だし、先日上司と話をする機会があったけれど、アメリカ、特にニューヨークに留まることを強く勧められた(笑)。
将来の夢は…幸せな家族(爆笑)。最終的には生まれた国である中国に帰ってきたい。中国は特に金融分野においてまだまだ他の先進国から遅れている。プロフェッショナルと呼べる人材がまだまだ不足しているからだと思う。私がもっとキャリアを積んだらこの分野の発展に貢献していきたいと思っている。ディーリングは私にとってとてもエキサイティグな仕事だから、当分はこの仕事に関わっていきたい。



(坪): 日本や日本人についての印象は?

(C): まず日本人については、あなたたちを除いて日本人に会ったことがなく、知らなすぎる、というのが正直なところ。次に日本という国について、また日中間の政治的な問題についてどう思うかだけど、誰が間違っているかと言うのは非常に難しいね。私は他の中国人と比べてオープンな性格だと思っているし、香港に長くいるから多くの情報に接してきていると思っている。そうだとしても、この問題について個人的な見解を語るのは難しい。私は中国を愛しているし、この国がもっと大きく強くなり、人々がよりよい生活を送れるようになることを望んでいる。ただ、今は社会的な問題の方が政治的な問題よりも大きくなってきていると感じている。今起こっていることは、中国の社会的な問題が表面化して、それを見直している過程なんじゃないかと思っている。



(坪): 海外から来た中国系学生との違いを感じることはある?

(C): クラスメイトの移民との違いは、彼らには「余裕」を感じることができる。いろいろな違いについて理解を示すことができるし、受け入れることができるのだと思う。彼らとの関係は、中国人よりももっとシンプルかな。中国人はウラで動くのが好きなんだと思うし、それに中国人同士はハイコンテクストな関係。だから全てを言わなくてもわかる関係だったり、表面上すごく仲よくみえても実際はそうでもなかったり、その逆のパターンもしかり。そういった中国独特の文化というべきか文脈みたいなものがあるのかな。
クラスメイトの移民に限って言えば、彼らは「中国人」だと思う。たぶん中国語を話すからだと思うし、アジア人は比較的近い文化背景を持っているから。言葉が違うと、自分の思っていることが正しく伝わらなかったりするでしょ?
大陸育ちの中国人クラスメイトは、中国人同士で固まるのが好きだし、あまり留学生に話しかけてこない。中国語で話す方が楽だっていうのと、 同年代が抱えている問題など、価値を共有しているから楽だっていうのが理由かな。あとは人をカテゴライズするのが好きだと思う。「この人はこういう人で、こういう長所/短所を持っている」とか。彼らと話していると、そんな話ばっかり聞こえてくるよ(笑)。


この記事はソーシャルウェブサイト「Billion Beats(10億の鼓動)‐日本人が見つけた13億分の1の中国人ストーリー‐」でも掲載しています。

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北京大学MBAの他に、長江商学院MBA、清華大学MBAに在籍した日本人留学生による中国人クラスメイトインタビューもありますので、ぜひご覧になってください。

エリートバーリンホーのリアル

中国MBAリアルトーク ー WHAT’S NEXT IN CHINA

清華大MBAリアルトーク