
赤城山大沼湖畔に昭和天皇の行幸記念碑があります。これは昭和9年11月陸軍特別大演習が群馬県で開催された折に、当時自動車道は一杯清水までしか開通していませんでした。そこから徒歩で新坂平、見晴山を越え青木旅館でご休憩された後、岩澤正作の案内で大沼湖畔を散策されました。季節は11月でしたので晴天から急に雪が舞う天気にもなりましたが、元気に散策される様子が当時の新聞に報じられています。青木旅館の山駕籠も用意されたそうですが、青木旅館の女将さんによれば「自分は大丈夫だから、年配の侍従に山駕籠に乗るように勧めた。」という逸話もあるそうです。
行幸記念碑の文字は侍従長の鈴木貫太郎が揮毫しています。その横に行幸記念碑を設置した趣旨が刻まれていますので、苔むした文字を判読し読み下しました。また当時の新聞記事も読み下しましたのでご覧ください。
『行幸記念ノ碑』
昭和九年秋 陸軍特別大演習が挙行せらるや 畏(おそれおお)くも天皇陛下には 大纛(たいとう)を本縣に進めて 六軍(りくぐん)を宸裁(しんさい)し給ふ 又更に縣下各所に行幸あらせられ無彊(むきょう)の鴻恩を垂れさせ給ふ 十一月十五日には群馬縣種畜場より新坂を經て赤城山に行幸あらせらる 洵(まこと)に未曽有の盛事にして縣民の齊(ひと)しく恐懼感激に堪えざる所なりと雖も 持に勢多郡に於ける無上の光譽(こうよ)にして感戴欣躍(かんたいきんやく)措く所を知らず 茲(ここ)に郡民至情(しじょう)の迸(ほとばしる)る所に従い 偕(とも)に胥(しょ)謀(はか)り祗(つつし)みて行幸記念碑を御駐蹕(ごちゅうひつ)址(あと)へ建て 以て聖蹟を萬世(ばんせい)に顯彰(けんしょう)し天恩を無窮に欽仰(きんぎょう)し奉らんことを期す
群馬縣町村長會勢多郡支部 勢多郡教育會 勢多郡小学校長會 帝国在郷軍人會勢多郡聯合分會 勢多郡聯合青年團 同處女會
昭和十一年十一月十三日建之 勲八等 原田龍雄 書 上田泰造 刻
大纛(たいとう:軍旗)
六軍(りくぐん:天子の統率した六個の軍)
宸裁(しんさい:天子が統率すること)
無彊(むきょう:限りがないこと)
鴻恩(こうおん:大きな恩恵)
洵(まことに:おそれつつしむ)
恐懼(きょうく:恐れおののく)
感戴(かんたい:ありがたく捧げ持つ)
欣躍(きんやく:躍り上がって喜ぶ)
迸(ほとばしる:溢れる)
偕(ともに:人々みなともに)
胥(しょ:お互いに)
祗(つつしむ:敬う)
駐蹕(ちゅうひつ:天子が行幸の途中、ある土地に滞留すること)
天恩(てんおん:天恩日;てんおんにち、天の恩恵をすべての人が受ける日)
無窮(むきゅう:果てしないこと)
欽仰(きんぎょう:敬い仰ぐ)


『赤城山行幸(昭和9年11月15日) 朝日新聞』
吹雪の赤城御登山 聖上常に御先頭 御健脚に側近は感激
【前橋電話】
地方御巡幸第1日の15日天皇陛下には吹雪く赤城山に御覚高遊ばされたが当時宸襟を漏れ承ればその御果敢な御気性、その御健脚拝するだに畏き極み、側近者一同感激した、
茶色の御背広、中折帽、ゴルフパンツの御軽装に御召替遊ばされた陛下には、種畜場から御料車にて山麓に御進み遊ばされた頃快晴の秋空急変してにわかに寒風吹きすさび始め富士見村箕輪付近にさしかかれる頃には粉雪ちらつき気温は急降した、
中腹の地蔵橋に着御遊ばされると、すさまじい吹雪となった、陛下にはこの荒天を少しも御厭ひあらせられずここから徒歩にて九十九折の急坂を御登山約十町、見晴山に達せられた頃吹雪はいよいよ猛烈、視界全くさへぎられた程であったが陛下には側近者をはげまされつつ御先頭に立たせられて三十余町、同二時十四分頂上の大沼湖畔青木旅館前の御休所に着御遊ばされた
赤城の連峰既に白一色、雪はなほ降りしきっていた、陛下にはその粉雪の中を付近の山林に分けいれらされ高山植物をいと御熱心に御覧遊ばされ同二時四十分御下山の途につかされた、
其時湯浅宮相を顧みさせられ山駕籠にて駕従を許させ給ひ御自らは侍従達の切なる御勧めを斥けられ山駕籠にも召されず、御靴は泥に塗れ御服は雪に濡れるも御厭ひなく御元気にて同三時二十八分地蔵橋に着御、ここから御料車にて種畜場に向はせられ御少憩の上同四時三十七分行在所に遷帰遊ばされた
なほこの夜前橋市主催の市内各學校、青年訓練所生等六千余の奉祝提灯行列が午後七時二十分行在所前に整列一同最敬礼を行ふや畏くも陛下には三階バルコニーに出御遊ばされ御会釈を賜はつたので一同恐懼感激した
【御写真は聖上陛下吹雪の大沼湖畔を御跋渉】(宮内省御貸下げ)