七代目蔵元日記

赤城山の自然や和太鼓のことそして日本酒のことを綴っています🏔🍶♬

赤城神社神傳之碑

2024年03月31日 20時43分17秒 | 赤城山
赤城山頂の大沼の小鳥ヶ島に鎮座する大洞赤城神社は元は大沼南湖畔に在りましたが約350年前に建てられた社殿が老築化したこともあり昭和45年(1970年)に遷座されました。


遷座される前の境内には鳥居や玉垣などが残されています。



以前前橋市赤城少年自然の家の利用者をガイドする時に境内に苔むした石碑があることを知りましたので詳しく調べてみました。
「赤城神社神傳之碑」
昭和8年(1933年)に建立されたもので、赤城講が主体となって境内の整備が行われた経緯や裏面には赤城講の賛同者の名前が刻まれていました。



苔むして一部判読し難い部分もありましたが全文を読み下し、現代語訳も試みました。


赤城神社神傳之碑

赤城山頂大洞鎮座赤城神社
祭神
磐筒男命(いわつつのおのみこと)
磐筒女命(いわつつめのみこと)
經津主命(ふっつぬしのみこと)
豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
外三十六柱

群馬県知事従四位勲三等金澤正雄が碑の題を篆書で書く

 当社は今からさかのぼること1127年前、平城天皇の御代である大同元年(806年)の創立と伝えられる。古来より上野国国内を初め近国各地にわたり大勢の人々が崇めて信仰すること極めて篤かった。歴代の厩橋(前橋)城主もまた崇敬が浅くなく、社殿を造営し上田(土地が肥えて作物が良く実る田)を寄進し参拝し奉幣等を捧げることなど度々行われた。

 そもそも赤城山は天下の名山であり山の姿は雄大で気高く雅やかである。しかも山頂は奥深く静かで神々しく厳かでその崇高な大自然の山霊とが重なり合って神の威光は輝いている。

 近年、山頂に登り参拝する人が絶え間なくあり、その数が益々増えている。さらに赤城大神の威大さと赤城山の姿がいよいよ高まっていることは誠に畏れ多いことである。

 ここにご神徳のおかげで祈願が成就したお礼に参拝する崇敬者が相談して赤城講を立ち上げ、玉垣・神橋・石の階段・参道の修営を計画し、赤城山の御料地から石材の払下げ受けて今ようやく工事が終わったので大いに神域の尊厳を保つことになった。

 ただ今より後、いよいよ赤城大神のご神徳を仰いで神ながらなる日本精神を高々と掲げることを心に決め併せて皇国の興隆と神社に参拝する人の開運招徳を祈念するものである。

昭和8年(1933年)11月 群馬県事務職大図軍之亟が文を作り萍洲新井八郎が書を書いた。

【石の階段】佐波郡玉村町の酒蔵瀬川喜兵衛の名前が刻まれている。


【軍艦赤城】


【前橋から姫路に移封された酒井家】


【神橋】



【玉垣】「青木旅館」「猪谷旅館」など寄進者の名前が刻まれている。




































































































































































地蔵ヶ岳の釜蓋地蔵尊はどこへ行った?

2024年03月28日 13時29分57秒 | 赤城山
赤城山のことをネットで調べていると地蔵岳山頂の不思議な画像がありました。それがこの写真です。今はどこにもこの地蔵尊は見当たりません。

ヤマップブログの平成13年(2001年)10月21日のブログに次の記述と画像があります。
「山頂部には地蔵岳というだけあって、石のお地蔵さんが立ち並んでいて、そのそばには釜蓋の上に真新しい釜蓋地蔵尊が立っていた。脇の「釜蓋地蔵尊復元記念之碑」由来書によれば、明治の廃仏毀釈で昔からの地蔵尊は壊されたらしいが、壊されたのは釜蓋とお地蔵さんだけだったようで、回りの三輪塔や水鉢等は古びていた。
 ≪釜蓋地蔵の由来≫:下記は説明板のまる写し
 地蔵ヶ嶽の山頂は、中世の頃より禅頂と云われ、先祖の霊の集合の地として麓の村一帯に信仰されておりました。応永十三年に鋳銅製の地蔵がこの地に奉納され、釜の蓋の上に安置されて、珍らしい行事が執り行なわれて来ました。この釜の中には、先祖の霊が封じ籠められていたと伝えられ、その頃より毎年盂蘭盆を間近に控えた旧暦七月一日になると釜蓋が開けられ、霊者は赤城山を下り、十三日の夕方に旦那寺の門を潜り、御本尊に挨拶を済ませ、迎えに来た人達に連れられて、生家の佛壇に納まりました。その日を麓では、迎え盆と云っております。盂蘭盆供養の済んだ十七日になると、叉生家の人達に見送られて赤城山の地蔵ヶ嶽に帰り、釜の中に封じ籠まれ、釜蓋の行事が終ります。
 この地蔵尊は、明治二年、廃仏毀釈により取り除かれましたが、私達は、地蔵ヶ嶽の古事を偲び、ここに石佛として釜蓋地蔵尊を復元いたしました。」




ヤマップの平成17年(2005年)8月10日のブログには次の記述と画像があります。
「地蔵岳は赤城山の中央火口丘で安山岩質溶岩からなる円頂丘です。またこの山は古くから祖霊の集まる山とされてきました。
 山頂に立つ釜蓋地蔵尊は今は石造りですが、昔は鋳銅製でお盆になると麓の人たちによって釜の蓋が開けられました。そして祖先の霊が各家庭に戻っていったのです。お盆が終わると再び蓋は閉じられました。
 今、山頂はマイクロ回線のアンテナ群が林立しています。以前はロープウエイに乗って簡単に登ることができ観光客で賑わいましたが今は運行が停止され以前の賑わいはうそのように静です。
 この日は朝から曇でしたが八丁峠から登り始めました。木の階段を登り、やがて林の中を抜けると草原の斜面になります。花が豊富で写真を撮りながら登っていくとやや荒れて草がはげた様になった頂上に着きました。登り始めて40分ほどです。頂上には8時10分に着きました。ここで朝食です。
 ところがそこで雨が降り出しました。ロープウエイの廃屋で雨宿りをしてみましたが雷も鳴り始め、合羽を出して着込み急ぎ下山をしました。20分で帰りましたが雨は止みません。結局、登山客には一人も会いませんでした。花の写真は上毛三山の赤城山にもあります。」


そしてヤマップの平成18年(2006年)8月11日のブログには次の記述と画像があります。
「この日は朝起きるとどんよりとした曇り空でした。でも予報では午前中は晴または曇なので山に出かけることにしました。目指すは赤城山の地蔵岳です。昨年は8月10日に八丁峠から登っているので今年は大洞口から登る事にしました。
 大洞駐車場に車を止めて8時にスタートしました。林の中の岩の多い道を登ること約30分で林が途切れ、視界が開けます。ここで赤城少年自然の家からの道と合流します。再度林の道になり、10分ほどいくと視界のよい平らなピークに出ます。
 一度少し下り、林の中の道を歩くこと10分、林は途切れロープウェイの駅の有ったところから地蔵岳の頂上に出ました。ここまで約50分でした。去年は見た釜蓋地蔵が今年は有りません。どうしたのでしょうか。」


つまり平成17年(2005年)8月に在った釜蓋地蔵尊が翌年には無かったということです。

「写楽爺の独り言」平成18年(2007年)08月07日のブログには 次の記述と画像があります。
「昔撮ったフィルムのデジタル化作業を行った。
その内夏場に相応しいものをアップしています。
群馬県のほぼ中央にある赤城山。
日本百名山にもなっている関東有数のカルデラを持つ複式火山。
「赤城の山も今宵かぎり・・・」の国定忠治の物語や「名月赤城山」の歌で有名。
山登りはしない私たちはリフト・ロープウエーで地蔵岳に登った。(現在は廃止されたらしい)
地蔵岳山頂には「釜蓋地蔵尊」が立っている。
昔は鋳銅製でお盆には蓋をあける慣わしがあったと言われるが、現在は石造で復元されたものである。」



ヤマノススメ巡礼マップの令和5年(2023年)7月20日のブログに次のような記述と画像がありました。
「赤城山の地名には三途の川、賽の河原、血の池、六道の辻など、冥界に因んだ地名が多く、古代では赤城山域を現世とあの世を繋ぐ聖域として信仰していた。 中世頃では地蔵岳信仰が盛んになり地蔵岳山頂に銅製地蔵尊が安置された。地蔵菩薩は地獄から亡者を救済する仏と信仰さており、毎年7月に足元の釜の蓋を開けると地獄の釜が開き亡者が家に帰れると言った信仰が見られた。 明治の廃仏毀釈で銅製地蔵尊は破壊されたが、近世になって石造の釜蓋地蔵尊を復元して、釜の蓋を開けるとご先祖さまが冥界から帰ってくるという行事を前橋の寿延寺と檀家で行われていた。が、それも10年くらい前に廃止となった。 現在の地蔵岳山頂には不動尊は居ないが、中世の五輪塔や板碑や六地蔵などが見られ、信仰の厚かった往時を忍ばせる。」

 

以上をまとめると応永十三年(1406年)に鋳銅製の地蔵尊が奉納され、祖霊信仰に基づく行事が行われてきたが、明治二年(1869年)の廃仏毀釈で取り壊された。現在残っている六地蔵の首が無いのはこの時に破壊されたものである。その後画像にあるような石仏が釜蓋地蔵尊として復元された。地蔵岳山頂へ登るロープウェイは平成10年(1998年)に廃止されたが、釜蓋地蔵尊は平成17年(2005年)までは山頂にあった。そして翌年にはどこかに移設されて無くなっていたということです。

前橋市六供町の寿延寺は大洞赤城神社の別当でした。

別当寺とは(以下WIKIPEDIAより引用)
別当とは、すなわち「別に当たる」であり、本来の意味は、「別に本職にあるものが他の職をも兼務する」という意味であり、「寺務を司る官職」である。
別当寺は、本地垂迹説により、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていた。神仏習合の時代から明治維新に至るまでは、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれた。
別当寺が置かれた背景には、戸籍制度が始まる以前の日本では、寺院の檀家帳が戸籍の役割を果たしたり、寺社領を保有し、通行手形を発行するなど寺院の権勢が今よりも強かったことがあげられる。一つの村に別当寺が置かれると、別当寺が、村内の他のいくつかの神社をも管理した。神仏にかかわらず、一つの宗教施設、信仰のよりどころとして一体のものとして保護したのである。
また、神道において、祭神は偶像ではない。神の拠代として、神器を奉ったり、自然の造形物を神に見立てて遥拝しているが、別当寺を置くことにより、神社の祭神を仏の権現(本地仏)とみなし、本地仏に手を合わせることで、神仏ともに崇拝することができた。
別当が置かれたからといって、その神社が仏式であったということではない。宮司は神式に則った祭祀を行い、別当は本地仏に対して仏式に則った勤行を行っていた。信徒は、神式での祭祀を行う一方で、仏式での勤行も行った。神仏習合の時代には普通に見られた形態である。
明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなっていった。

令和6年(2024年)3月11日に寿延寺を訪れ遂に釜蓋地蔵尊を見つけることができました。











釜蓋地蔵尊復元記念之碑

(裏面)
奉納
復元起案人 群馬県勢多郡東村花輪九六○の四番地
      星野 岑
同   右 群馬県沼田市下沼田町七三九番地
      西山 晴
昭和五十三年七月二十日 建立

釜蓋地蔵の由来

地蔵ヶ嶽の山頂は、中世の頃より禪頂と云われ、先祖の霊の集合の地として麓の村一帯に信仰されておりました。応永十三年(※1406年)に鋳銅製の地蔵がこの地に奉納され、釜の蓋の上に安置されて、珍しい行事が執り行われてきました。この窯の中には、先祖の霊が封じ籠められていたと伝えられ、その頃より毎年盂蘭盆会を間近に控えた十歴七月一日になると釜蓋が開けられ、霊者は赤城山を下り、十三日の夕方に檀那寺の門を潜り、ご本尊に挨拶を済ませ、迎えに来た人に連れられて、生家の佛壇に納まりました。その日は麓では、迎え盆と云っております。盂蘭盆会供養の済んだ十七日になると、又生家の人達に見送られて赤城山の地蔵ヶ嶽に帰り、釜の中に封じ籠まれ、釜蓋の行事が終わります。この地蔵尊は、明治二年、廃仏毀釈により取り除かれましたが、私達は、地蔵ヶ嶽の古事を偲び、ここに石佛として釜蓋地蔵尊として復元いたしました。

(裏面)
昭和五十三年○○○○
赤城山ロープウェイ株式会社
  ○○○○
  ○○○○
寿延寺
 寿延寺(群馬県前橋駅)のアクセス・お参りの情報 (天台宗)|ホトカミ (hotokami.jp) 
大洞赤城神社
赤城神社 (前橋市富士見町赤城山) - Wikipedia
















































昭和天皇御製

2024年03月13日 18時13分46秒 | 赤城山
第38回国民体育大会は昭和58年(1983年)群馬県で開催されました。テーマは「あかぎ国体」、スローガンは「風に向かって走ろう」でした。

秋季大会は10月15日から20日まで県営敷島陸上競技場(正田醤油スタジアム)を主会場に行われました。

昭和天皇は赤城山山頂の覚満淵に行幸され御製を詠まれました。



 御製  

「秋くれて木々の紅葉は枯れ残る 寂しくもあるか覚満淵は」
  
  侍従長 入江相政 謹書



この御製は 昭和五十八年十月群馬県に行幸になり 同月十四日 秋深まる覚満淵を御散策されたときの御印象を詠まれたものです
この地を訪れる人びとに 自然を愛し大切にする 陛下のお心を伝えるために建碑したものです
昭和五十九年八月
撰並書 群馬県知事 清水一郎
建立 群馬県

主会場となった敷島公園にももう一つ御製碑があります。





 御製

「薄青く 赤城そびえて 前橋の 廣場に人びと よろこびつどふ」
  
 侍従長 入江相政 謹書



天皇陛下は 昭和五十八年十月 群馬県に行幸になり 同月十五日 あかぎ国体の開会式に御臨席になりました
この御製はその時の御印象をお詠みになられたもので 行幸記念としてここに建碑したものです
昭和五十九年八月
撰並書 群馬県知事 清水一郎
建立 群馬県









赤城山観光道路

2024年03月08日 02時21分39秒 | 赤城山

赤城山山頂の新坂平駐車場に「赤城山観光道路開鑿記念碑」があります。

前橋市街地から赤城山山頂に至る県道4号線は大正9年(1920年)4月1日「前橋黒保根線」として群馬県道指定されたが指定経路自体は、勢多郡黒保根村水沼(現・桐生市黒保根町)から赤城山上に登り、勢多郡富士見村(現・前橋市富士見町)側へ下って前橋市街地に至るものでしたが、黒保根側中途から赤城山上までの区間は未開通でした。

昭和9年(1934年)昭和天皇の赤城山行幸の時は地蔵岳下の一杯清水から車を降りて徒歩で新坂平を越えて見晴山から大沼湖畔まで行かれました。これを契機に赤城山山頂域の御料地の払い下げを受け従来の県有地を併せて昭和10年(1935年)に群馬県立赤城公園が設置され赤城山の観光開発が進むことになりました。

自動車道路が開通したのが昭和30年(1955年)のことでした。その後県営の赤城山南面有料道路(愛称:赤城白樺ライン)として整備され、平成7年(1995年)無料化されました。

(表面)

赤城山 観光道路 開鑿記念碑 群馬縣知事 北野重雄書

(裏面)

昭和30年3月31日待望の赤城登山自動車道が新坂平まで開通しました これは北野知事が地蔵頂上の無電中継所建設を機會に各方面から寄附をつのって昭和29年9月1日に着工したものでこの仕事にたずさわったものはみんな奉仕的な努力をおしみませんでした この道路は関係者一同が心から協力し合って作りあげたところに大きな意味があると思いますのでここにそのことを記します

昭和30年4月15日

赤城登山自動車道路関係建設業者一同

一 建設協力者

群馬縣

前橋市

勢多郡富士見村

東武鉄道株式會社

東京電力株式會社

電源開発株式會社

ニ 企画設計工事監督者

群馬縣技師 佐藤久平

仝     飯塚利一

仝     星野春重

仝     石原定壽

仝     樋口保司

三 工事施工者

富士見土建工業株式會社

池下工業株式會社

荻野土木株式會社

橋元工業株式會社

稲村工業株式會社

塩原建設株式會社

大豊建設株式會社

阿部建設株式會社

前橋 大島石材店 刻


「前橋二尊」安井与左衛門政章

2024年03月06日 23時19分43秒 | 前橋

るなぱあく(前橋市中央児童遊園)の飛行塔の横に「安井与左衛門政章顕彰碑」があるのをご存じでしょうか?3年前に茅舎のある関根町から広瀬川をたどってウォーキングして訪れた際に初めて見つけその存在を知りました。

江戸幕府を開いた徳川家康が北関東の守りの要として厩橋(後の前橋)を重要視して譜代の重臣であった酒井重忠を「汝に関東の華を与える」といって厩橋城(後の前橋城)に移封させました。9代150年にわたり前橋の地を治めた酒井家は姫路に転封となり、松平家松平朝矩が藩主となります。しかし前橋城は酒井家時代から利根川の浸食で城域が崩され、松平家は川越に転封してしまい前橋の地は川越藩前橋陣屋支配となりました。

城郭は廃棄され家臣団も移り、約100年の間前橋のまちは寂れるばかりでした。しかし幕末の横浜開港を契機に生糸の輸出で力をつけた生糸商人たちが立ち上がり、後に下村善太郎をはじめとする「前橋25人衆」と呼ばれる民の力で前橋城を再建し藩主帰城が成し遂げられ、現在の前橋発展の礎となりました。

その時、官は何をしていたのか?前橋陣屋の安井与左衛門の功績を「安井与左衛門政章顕彰碑」を判読し読み解きました。以下にその白文と読み下し文そして口語訳を挙げましたのでご覧ください。

さらに、手島仁さんの「前橋25人衆」と「前橋二尊」も掲載してありますので併せてご覧ください。

安井与左衛門

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E6%94%BF%E7%AB%A0

『安井與左衛門功績碑』(白文)

安井與左衛門政章功績之碑     正四位勲四等伯爵松平直之篆額

安井與左衛門功績碑

識高一世而功著後代者眞爲偉丈夫安井君即其人歟君諱政章少稱珍平後更與左衛門川越藩主松平

侯臣渡邊玄郭之第三子天明七年十月某日生爲同藩安井久道所養冐其氏資性剛毅材兼文武最精寳

藏院流槍術爲其師範初爲組目附累進爲郡奉行遂擢寄合班兼郡奉行蓋出異數嘉永六年六月十九日

歿葬於川越榮林寺域川越城北川嶋四十三村之地河流繞三面築堤防水弘化二年會有洪水堤決闔郷

盧舍田疇悉沒水底惨害不可状郷民欲堅牢堤防以長除患害請之藩廳乃許令君當其事君先聴郷民所

欲衆密以爲求十得五則望足作計簿而進君見曰此工闔郷民命之所繫求之何其微也哉衆驚其言出意

表欣喜従命未十旬而工竣堅牢倍舊闔郷安堵後追慕其功徳建祠祀君先是寛延二年松平庚之移封前

橋也牙城近枕利根川頻年遭洪水城礎將危其害延及領内明和四年因従武州川越前橋城廢矣爾後殆

百年土荒民散君深慨之欲建議於藩廳以圖恢復藩議遲疑下決天保二年始有命宜察物情臨機處事君

臨發程告家人曰此行任重事大若不成則一死以有謝而己断勿歸葬到前橋之日遽會町村吏謀興復之

事衆疑其成否稍有難色君力説利弊衆遂服其理議乃決不仰藩帑頼民力以起工役興廢溝於漆原水道

於川井飯倉沼上三村以便灌漑又築堤於富田防荒口川之暴漲得田九十七町藩吏擧君於前橋取締掛

於是益傾心柘殖復良田七百五十町増民籍三百六十戸此間五閲年當時風呂川用水來於郭外而貫城

内再流於郭外而去水利所及廣且大上流岸壁爲利根川本流所衝突累次崩潰餘地僅二間危險不可言

君欲救之鑿新川於河中央長四百二十八間幅四十間深二間別築石堤百二十二間於大渡之南遮急流

而注新川於是川勢俄更方向岸壁崩潰頼以得免前後治水之功最著君又欲使郷民知利用厚生之道種

松於赤城山下不毛之原野以示範幾萬稚苗經年生育鬱乎成林後倣之種樹者漸多文久三年松平侯再

築城於前橋移而居焉自是戸口益増加現今爲群馬縣治所在市街致殷盛者蓋識由君治水之功矣大正

七年 主上閲武於關東之野追賞其遺功贈正五位眞可謂 聖恩及枯骨者吁戲偉也哉頃者前橋舊藩

領有志者相謀欲建碑傳其功徴余文乃據状誌梗概以貽

大正十一年十月一日    群馬縣知事從四位勲三等大芝惣吉撰

                              髙木繁書  針谷光年刻 

 

『安井與左衛門功績碑』(読み下し)

安井與左衛門政章功績之碑     正四位勲四等伯爵松平直之篆額

安井與左衛門功績碑

識は一世に高くして功は後代に著わるる者を、真に偉丈夫となす。安井君は即ちその人か。君、諱は政章、少(わか)くして珍平と称し後に與左衛門と更う。

川越藩主松平侯の臣渡邊玄郭の第三子なり。天明七年十月某日に生れ、同藩の安井久道の養う所となり、その氏を冐す(おかす・名乗る)。資性剛毅にして、材は文武を兼ね、最も寳藏院流槍術に精(すぐ)れ、その師範たり。初め組目付となり、累進して郡奉行となり、遂に寄合班に擢(ぬき)んでられ、郡奉行を兼ぬ。蓋(けだ)し異数に出ず。嘉永六年六月十九日に歿し、川越榮林寺に葬る。

川越城の北、川嶋四十三村の地は河流三面に繞(めぐ)り、堤を築いて水を防ぎたり。弘化二年会々(たまたま)洪水あり、堤決(ひら)き、闔郷(こうきょう・村中)盧舍(ろしゃ)田疇(でんちゅう)耕地悉(ことごと)く水底に没し、惨害状(じょう・表現)すべからず。郷民堤防を堅牢にして、以て長く患害を除かんと欲し、之を請う。藩庁乃(すなわ)ち許し、君をしてその事に当(あた)らしむ。君先ず郷民の欲する所を聴く。衆密(ひそか)に以爲(おもえ)らく、十を求めて五を得ば則ち望み足ると。計簿(帳簿)を作りて進む。君見て曰く。この工は闔郷(こうきょう・村中)民の命の繋がる所なり。これを求むる何ぞそれ微なるやと。衆その言の意表出ずるに驚き、欣喜して命に従う。未だ十旬ならずして工竣(おわ)る。堅牢旧に倍し、闔郷(こうきょう・村中)安堵す。後その功徳を追慕し、祠を建てて君を祀(まつ)れり。

是より先寛延二年、松平侯の封を前橋に移すや、牙城利根川に近ずき枕(のぞ)み、頻(しきり)に年ごとに洪水に遭い、城礎將に危く、その害延(ひ)いて領内に及ばんとす。明和四年、因って武州川越に従い、前橋城廃せらる。爾後殆(ほとん)ど百年、土荒れ民散る。君深くこれを慨(なげ)き藩庁に建議して以て恢復を図らんと欲せしも、藩議遲疑して決せず、天保二年、始めて命あり、宜しく物情を察し、機に臨みて事に処すべしと。

君程に発するに臨み、家人に告げて曰く、この行は任重く事大なり。若し成らずんば則ち一死を以って謝あるのみ、断じて帰葬するなかれと。

前橋の日遽(にわか)にして、町村吏に会い興復の事を謀るに、衆はその成否を疑いて稍(やや)難色あり、君利弊を力説して、衆遂にその理に服し、議乃ち決し、藩帑を仰がず民力に頼(よ)りて以って工役を起す。廃溝を漆原に、水道を川井・飯倉・沼上三村於いて興し、以って灌漑に便す。又、堤を富田に築き、荒口川の暴漲を防ぎ、田九十七町を得たり。藩吏君を前橋取締掛に挙(あ)ぐ。是に於て益々心を柘殖に傾け、良田七百五十町を復し、民籍三百六十戸を増したり。この間五たび年を閲(けみ)す。

当時風呂川用水は郭外より来りて城内を貫き、再び郭外に流れて去る。水利の及ぶ所広く且つ大なるも、上流の岸壁利根川本流のために衝突せられ、累次崩壊して余地僅に二間のみとなり、危險言うべからず。君これを救わんと欲し、新川を河の中央に鑿(うが)つこと長さ四百二十八間、幅四十間、深さ二間なり。別に石堤を築くこと百二十二間、大渡の南に於いて急流を遮りて新川に注ぐ。是に於て川勢は俄に方向を更え、岸壁の崩潰頼りて以て免るるを得。前後治水の功最も著わる。

君又郷民をして利用厚生の道を知らしめんと欲し、松を赤城山下の不毛の原野に種(う)えて以て範を示す。幾萬の稚苗年を経て生育し、鬱乎として林を成す。後之に倣いて樹を種うる者漸く多し。

文久三年、松平侯再び城を前橋に築き移りて焉(ここ)に居る。是より戸口益々増加し、現今群馬県治の所在となり、市街殷盛を致すは、蓋(けだ)し識として君が治水の功に由る。

大正七年、主上武を関東の野に閲(けみ)せしとき、その遺功を追賞して、正五位を贈らる。真に聖恩枯骨に及ぶ者と謂うべし。吁戲(ああ)偉なる哉。

頃者(このごろ)前橋旧藩領の有志の者相謀りて、碑を建てその功を伝えんと欲し、余に文を徴す。乃ち状に拠りて梗概を誌し以て貽る。

大正十一年十月一日    群馬縣知事從四位勲三等大芝惣吉撰

                      髙木繁書  針谷光年刻 

 

『安井與左衛門功績碑』 (口語訳)

安井與左衛門政章功績之碑     正四位勲四等伯爵松平直之篆額

物事の道理を知る見識は高く仕事をやり遂げ、その功績は後世において評価されるものを偉丈夫(いじょうふ・人格の高い人)というが安井君はまさにその通りである。君の諱は政章、幼い頃は珍平、後に與左衛門と称した。

川越藩主松平侯の家臣渡邊玄郭の第三子として天明七年(1787年)十月某日に生れ、同藩の安井久道の養子となりその姓氏を継いだ。生まれつき意志が固くて強い性格であり文武両道を兼ね備えていた。特に寳藏院流槍術を極め師範を務めていた。組目付から累進して郡奉行となり、遂に寄合班に抜擢され、郡奉行も兼任したことは異例のことであった。嘉永六年(1853年)六月十九日に歿し、川越榮林寺に葬られる。

川越城の北、川嶋(現川島町)の四十三村の土地は三面を河川に囲まれ、堤を築いて水を防いでいた。弘化二年(1845年)に洪水があった時には堤防が決壊し、村中の家屋や田畑などの耕作地は全て水没し、その惨状は記録に残しきれない程であった。村人は堤防を堅牢にして永くその災害を防いでほしいと願った。川越藩はこれを許して君を担当者にした。君は先ず村人の希望を聞いた。村人は内心では十のことを望んで五が達成できれば十分であると考え計画を立てていた。ところが君はそれを見てこの工事は村中の人々の命が懸っていることなのになぜこれほど少ないのだと言った。村人はその言葉が意外であったことに驚き、非常に喜んでその命に従った。その結果3ヵ月余りでその工事を成し遂げた。堤防は今までの倍の堅牢となり村中の人々は安堵した。後にその功徳を追慕し祠を建てて君を祀った。

是より百年前の寛延二年(1749年)に姫路藩主松平朝矩侯は前橋に移封されたが、守備堅固な城に利根川が近づき毎年洪水に遭い、城の土台を侵食し本丸が傾くほどであった。そのため松平家は明和四年(1767年)、武州川越に居城を移し、明和六年(1769年)前橋城は廃城となった。前橋陣屋支配となった以後の百年間、土地は荒れ村人は離散する状況であった。君は深くこれを嘆き藩庁に建議して恢復を謀ろうとしたが決済がなかなか降りず、天保二年(1831年)、ようやく世間の様子をよく調べて対処するようにとの命が下った。

君は前橋に赴任する時家人に次のように話した。「この任務はとても重大である。もし達成できなければ死をもって藩に詫びなければならない。その時屍は前橋に埋葬し断じて川越に持ち帰ってはならない。」

前橋に赴任するとすぐに前橋陣屋の役人や町村名主たちに会い田畑を復興させる灌漑工事を提案した。役人や名主たちはその工事の成果を疑って難色をしめしたが、君は工事の効果とそれによって得られるものを力説し遂に皆の同意を得て、藩の資金に頼らず民力だけで工事を行うことになった。廃溝であった漆原(現吉岡町漆原)の天狗岩用水を復旧させ、川井・飯倉・沼上三村(現玉村町の東南部)の水路を改修して灌漑に利用した。また堤防を富田村(現前橋市富田町)に築き、荒口川(荒砥川)が溢れて暴れるのを防いで、水田九十七町(約97㏊)を得た。川越藩は君を前橋陣屋の前橋取締掛に任命した。この成功によってさらに治水灌漑工事に力を発揮し、良田七百五十町(約750㏊)を復活させ、農家三百六十戸を増やした。これらに五年の歳月がかかった。

天保七年(一八三六年)当時、風呂川用水は旧前橋城の外より流れ来て城内を通って、再び城外に流れて去っていた。水利が及ぶ所は広くて広大であったが、上流の岸壁は利根川本流が衝突して、少しずつ崩壊して利根川との間は僅か二間のみとなり危険な状態であった。君はこれを救うため、長さ四百二十八間(770m)、幅四十間(72m)、深さ二間(3・6m)の新川を利根川の中央に掘った。これとは別に百二十二間(220m)の石の堤防も築き、大渡の南で急流を遮って新川に流した。その結果、川の勢いはにわかに方向を変え、岸壁の崩壊が免れることができた。これらの治水・灌漑の功績が最も顕著であった。

君はまた郷民に世の中を便利にし,人々の暮らしを豊かにすることを知らそうとして、赤城山麓の不毛の原野に松を植林した。幾万の稚苗は年月を経て生育し、鬱蒼とした松林になった。これにならって植樹をする者が多くなった。

文久三年(一八六三年)、川越藩主松平直克侯は幕府に願い出て前橋城の再築を開始した。慶応三年(一八六七年)に入城して前橋藩が再興した。それから前橋の人口が益々増加し、現在群馬県庁が置かれ、市街地が賑わっているのは君が高い見識を持って行った治水の功績・成果に由るものである。

大正七年(一九一八年)、陸軍特別大演習が関東の地(栃木)で行われ天皇陛下が統監したときに、君の遺した功績を追賞して、正五位が贈られた。天皇陛下のありがたい恩恵が今は亡き人に及んだということである。なんと立派なことであろうか。

この時に前橋旧藩領の有志が相談して、石碑を建立してその功績を伝えようとして、私に文章を起こすよう求めた。そのため以上の形を整え概略を誌した。

大正十一年十月一日    

群馬県知事從四位勲三等 大芝惣吉 撰

                    髙木繁書  針谷光年刻 

 

『連載企画 手島仁の前橋学講座~歴史×ビジネス×まちづくり~』

第5回前橋二尊④ 安井與左衛門政章

利根川との宿命

前橋の盛衰は利根川に左右されたと言っても過言ではない。 市内中央商店街は利根川の川底で、 「一里の渡し」と言われるくらい広々とした河原を利根川の本流が流れていた。

その本流が西遷し現在の流れになったのは 「享禄・天文年間の洪水」( 16世紀)と言われている。 その結果、かつての本流が広瀬川、 桃ノ木川として残るようになった。

広瀬川から端気川が分流し、 江戸時代には舟運として使われた。 しかし通船はうまく機能しなかった。両川は前橋城下の中心に直結するという特徴を持ったが、 農業用水としての側面が強く、 水運の利用が十分できなかったことは、 江戸時代前橋の発展にマイナスであった。

  明治時代以降になると、広瀬川の水流は製糸や撚糸の器械の動力として使われた。広瀬川と佐久間川に挟まれた一帯に製糸工場が密集するようになり、 地下水の豊富さと水質の良さにより、 日本を代表する製糸都市が形成された。

  前橋城が名城であったのは、 利根川を背後の防備に、 広瀬川を遠構えという地形を生かしたからであった。しかし、利根川の本流が本丸の後ろを迂回して流れていたのに、 たびたびの出水により本丸下の崖に打ち当たるようになり、 崖を崩し始め ( 「川欠け」 ) 、 本丸御殿が半壊されるようになり、 酒井氏は姫路に転封し、 替わって入封した松平氏の時代には本丸が崩され、松平氏も川越へ移ったのであるから、 利根川は前橋の発展にとって大きな障害であった。

 

安井與左衛門政章

しかし、利根川の治水に尽くし、藩主松平氏の帰城や新田開発など前橋復興=V字回復のもとを築いた人物 がいた。 安井與左衛門政章である。

  安井については、大正 11年(1922)に建碑された「安井與左衛門政章功績之碑」 が「るなぱあく」(前橋中央児童公園)内にある。それらによると次の通りであった。

 安井政章は天明7年 (1787) 10月、 川越藩士渡邉玄郭の第三子として生まれた。 藩儒・佐藤登に師事し俊秀と称され、安井久道の養子となった。宝蔵院流槍法を学び藩の師範となった。 安井は、藩主が去った後の前橋が「土荒れ民散れば、 君深くこれを 慨 なげ き藩庁に建議し以て恢復を図らん」とした。 ようやく天保2年(1831)に藩主・ 斉典の許可が下りた。安井は川越から前橋へ出発するにあたり、家族に覚悟を次のように言い渡した。 「この行は任重く事大にして、若し成らざれば即ち一死を以て謝すること有るのみ。 断じて帰葬する勿れと」 。 前橋復興を命がけで行う覚悟で前橋に到着した安井は、役人や有力者を集めて河川改修や新田開発のことなど、その計画を諮った。しかし、「衆その成否を疑ひ、稍(やや)難色有り。 君利弊を力説するに、衆遂にその理に服し、 議して乃(すなわ)ち藩帑を仰がず、民力に頼りて以て工役を起こさんことを決す」と、最初はその成否を疑っていた領民も、安井の説得により、藩の費用(藩帑)を当てにせず、民力で工事を行うことを決定した。

 その結果、「田を得ること九十七町」となった。そこで、安井は前橋取締役に任じられ、 さらに「良田を復すること七百五十町、民籍を増すこと三百六十戸」 と、安井の指導により前橋領は着実に復興していった。

 この5年間の実績を背景に、安井は利根川の改修に着手した。川筋をつくり流れを変え、 堤防(石堤)を築いたりした。その結果、前橋城再築の前提が整った。また、赤城山南麓の植林は船津伝次平のことと語り伝えられているが、それ以前に安井の手によって松樹の植林が行われた。 敷島公園の松林も安井の植林であった。

 安井は嘉永6年(1853)、前橋城再築を見ずして亡くなり、 栄林寺(川越市)に葬られた。大正7年(1918)に「正五位」が追賞されたのを機に、「安井與左衛門政章功績之碑」の建立が計画され、同11年に完成した。

前橋二十五人衆へ

藩主不在100年、城下町前橋は消滅した。しかし、前橋復興=V字回復のスタートは安井與左衛門政章と藩費(官)に頼らず安井に協力した領民の力であった。

 安政6年(1859)の横浜開港による生糸貿易が追い風となった。前橋復興の最終目標は前橋城の再築と藩主の帰城であった。前橋城は民力で再築され、藩主・直克は帰城した。 しかし、同年が大政奉還と王政復古の大号令で明治維新を迎え、明治4年(1871)に廃藩置県となり、前橋は城下町として発展することができなくなった。

 しかし、生糸業を経済力として高まった民力は、下村善太郎をはじめとする前橋二十五人衆らによって、「前橋復興」を県庁誘致運動に転換し、県都前橋を実現することで成し遂げた。

 自死に代えて前橋から姫路への転封に異を唱えた酒井家の川合勘解由左衛門定恒、死を覚悟で前橋復興を進た松平家の安井與左衛門政章は、「前橋二尊」と呼ぶにふさわしい前橋の恩人である。